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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2009年09月12日

お願い! 教えてください

   ブログの先達者の皆様、お教えください!
 
 ようやく朝から打ち上げたブログの拙文を、またもうっかり完成間際に消去してしまったのです。
 原因は、
 ① 懲りずに、ブログ投稿欄に直打ちしてしまったことにあります。
 ② しかも夢中で記しているうちに、一度も保存をしなかったのです。
 ③ 直接の原因は、なぜか突然削除されてしまった箇所を、「戻る」マークのボタン機能がついて無いので、マウスを右クリックして「元にもどす」を出してしまったのです。
  「あぁ」と悲鳴を上げた時には、ミゴトに何時間か費やしたものが、一瞬にして水泡に。

 そこで、ご存じの方にお願いです。

 ① ブログの文章を記す時には、直接、投稿欄の画面で打つ行為は、絶対に避けるべき基本中のことなのでしょうか。
  
 ② 何か、今回のような全面削除を防ぐ、防止対策はありますか。

 ③ 何か、ブログ作成上の妙案はありますでしょうか。

  ご示唆、いただけましたら、幸いです。
  よろしくお願いいたします。

 
 返礼の長引いてしまったことへのおわびごとめく文章ですので、昼食後、予定を変更。気を取り直して、思い出しつつ打ちなおすこと、またも数時間。
 もちろん、打ちなおし文、はワードで別に打って、投稿画面にコピーを。
 けれど、どうしても、何やら消えた文章の方が、迫力があったように思えて無念でなりません。
 何しろ、時間のロスは甚だしいものがあります。
 指も痛くなってしまってきました。


   


Posted by やんばちゃん at 17:44Comments(4)お願いごと

2009年09月12日

(二)お返事にかえて、経過を

 前述したように、ご質問の真意を読み違え、的はずれになっていることを憂えつつ、

 「地元の反対運動を黙殺」=「今頃になって」の解釈にての、個人的な経緯をお応えに代えさせて戴きます。
 お応えというより、むしろ言い訳ともとられなくないであろうし、そんなこと聞きたくもないとのご批判をも覚悟の上で、私の運動の経過を記させていただく次第なのです。よろしく、おつきあいくださいな。

 私が初めて、八ッ場現地を訪れたのは10年前の1999年11月3日と記憶しております。
 川原湯温泉を訪れた文人墨客の取材でした。
 終了して、見上げた対岸の三つ堂のおく深い景観に瞬時にして魅了されてしまいました。思わずまだあった河原畑地域の小道というか、野道に足を踏み入れてしまいました。
 そして、「ダムって何なの?」の疑問に突き動かされ、ダムのダの字も覚束なかった中年おばさんの今に続く、八ッ場通いが始まったのわけです。
 当時は現地の反対運動の旗は降ろされ、火は表面上は消えかかってました。
 始まったばかりの画期的な情報公開が、現在ほど開かれておらず、ダムの全容は部外者には殆どわからず、手探り状態でした。
 たた゜、ひたすら、八ッ場の底光りする自然界の癒しに惹かされて、お邪魔させて戴き、見聞の領域を広げさせて参りました。

 幸いにして、当時出入りしていた県内誌が、大型公共事業のムダをつく観点からの「ダムもの」を書くと掲載してくれたので、夢中で学びました。
 加えて、編集長が「旧・八ッ場ダムを考える会」の発起人の一人として設立準備会に奔走。その事務所的な部屋がそこにあり、吾妻郡出身の女性が短期間ながら事務局として働いていたこともあり、事務所のお手伝いも兼ねて、発足時からの会員となりました(※水問題の市民運動の砦、「水源開発問題全国連絡会=水源連」の存在は、まだ残念なことに知りえず、遠い存在でした。現在は団体加入しています)。

 うれしいことに、終世、ダム反対を貫かれた豊田嘉雄さんもまだお元気で、「遅かったよぅ」と嘆息されながらも積年の積もった思いを語ってくださいました。
 さらに、現地のし烈な運動を語る象徴とされている、1967年12月の総決起集会。
 その当時の若手メンバーの方々が、まだご存命だとの情報に小躍りしつつ、大喜びでお訪ねすると、時すでに遅く、明らかに推進の側に回った方もいましたが、反対運動の余燼をくすぶらせつつも、時代の変遷の中で余儀なくたたずまれていらっしっゃたのでした。    
 その際、異口同音に吐かれ、聞かされた言葉。
――あんた、来るんが遅すぎたい。もうちょっと早けりゃ、どうにかなったかもしれねぇけれどなぁ。はぁなあ、どうにもならねぇやいーーー
 ……ですが私は、なぜか、子供心に父親が繰り返していたので染み付いてしまった感の、例の2・26事件時のセリフを自己アレンジしてしまって、「今からでも遅くない」式のヒトなのです。諦めて、過ぎ去らせ黙認してしまえば、次の時点ではもっと遅くなってしまう。だから、気がついた時にガンバルしかないものと。
 こちらは、その年齢に合わない若いくて青臭い一途な思いに燃えてしまってました。が、今にして思えば、現地の皆さんの困惑は意にも介さなかったのかもしれませんでした。本当にご迷惑をかけ続けてきた、困ったおばさんです。

 その矢先、程なくやってきた、忘れもしない2001年6月14日の「保償基準調印式」。
 哀しいことにその時まで、「補償基準」の意味も正確には判らないほどの幼さでした。愚かさでした。
 調印式の取材からの帰り道、部外者の身にもことの重大さがひしひしと伝わりきて、想定される先々の工程と大きな節目に、その夜、消沈しながら関係者たちに電話した際には、思わず涙声になってしまってました。翌朝、新聞の「事実上のダム着工」の決定的な文字に打ちのめされたことが、今でも浮かび上がります。
 それでも、スカーレット・オハラ並みに、絶望の底でも、まだ「明日」があると思ってました(もちろん、類似点はこの気性の荒さのこの一点のみだけですが)。
  「まだ、完成したわけじゃない。明日がある」と言いきかせつつも、節目節目の苦しかった時には、悔いたものでした。
 「あの頃、今みたいにダムのことが分かっていたら」「まだ地目認定の段階だったら。せめて、補償基準前なら」と、悔いても仕方ない、後の祭りのことを。

  そして時に身勝手にも、全国活動の一端に触れて視野が広まった時に、ちょっぴり、己の無恥・非力を脇において、次のようなことがよぎりもしましたよ。
  全国の市民運動iはダム工程に精通している先駆者たちもいられたのだから、八ッ場のことだってご存じなかったはずもなかったろうにとも……、なぜ、もっと以前、地元に反対運動の余熱があった時に、援軍にかけ走ってくださらなかっかとも。
 (……で、もしかしたら、ここがご質問の隠された設問なのかとも、推察してもみますが……)
 でも、考えてみれば現に、かほど怠ったわけではないのに私もまた、この10年間もの歳月に、脱ダムの動きや理念を現地につなぎ、現地の状況を社会に拡げることの他には、出来なかったわけなのですから……。
 恥じて、愕然としています、
 
 誰も誰もが、仕事として日々着々とことを成し遂げられる公務員に対して、生活の資たる仕事をこなしつつそれぞれの持ち場のダム闘争を支えることで手一杯だったことでしょう。
 市民運動の限界ともよべましょうか。
 ほんのしばしとはいえ、身勝手な責任転嫁はまさしく暴論になるかもしれませんね。


 次に、当然、「生半可なことなら、迷惑だから、最初からやるな!」というお叱りの声が聞こえてまいります。
 捨身になって、職をなげうってでも、邁進すべきでしょう。命を懸けるくらいの覚悟がなければ、趣味で市民運動やボランティアはすべきではありません。

  
   
未完ながら、中断

 先ほど、何時間かかかって夢中で打ち上げましたこの拙文を、完成間際にうっかりミスにて消去してしまったのです。
 気を取り直して、昼食もそこそこに打ちなおしを始めてから、すでに数時間。なんと夕方の6時になりました。
 もう手が痛くて……限界です。
 中断します。ご寛容のほどを。
 





    


Posted by やんばちゃん at 17:25Comments(0)報告

2009年09月12日

(一)9/5のコメントへのお返事

 去る9/5の午前1時頃に、下記に転載のコメントをお寄せくださいました方、お返事が遅れてしまいまして申し訳ございません。(メール先をお知らせくださいましたら)もっと早くお返事できたのですが、ご連絡のとりようがわからなかったのです。
 しかたなく、外出前の9/6の深夜に、最新ブログの頭に、以下の言葉添えを記させて頂き、気がかりながらも出かけた次第です。
....................................
コメントをお寄せくださいました方へ (※9/63アップ、現在は削除)
 本日、コメントに気がついたのですが、お恥ずかしいのですが返信の仕方がよくわかりません。
 (なお、明朝というより、深夜に出かける予定の電車の時間も迫っており)恐れ入りますが、帰宅後に お返事させていただきます。 どうぞ、ご寛容のほどを。
  ....................................

 帰宅後に、ブログの管理画面をあちこち動かしてみましたが、やはり返信は不可能で、往生。
 さきほど、ようやくパソコンに精通している方に伺うことができたのですが、メール番号がないと返礼方法がなく、本欄で書くしかないとの由。
 そこで、本欄にて以下の、貴コメントへのご返答をさせていただく次第です。が、不特定多数の目にさらされることゆえ、ある程度の制約がつきまとうことは、ご理解くださいませ。
 願わくば、もう一度、お便りくださいませんか。仮にご連絡先が判っても、決してご迷惑はおかけいたしませんので。

..........................................................
 【お寄せくださったコメント全文】 
 ダム本体が出来ようが出来まいが地元のコミュニティはすでに破壊し尽くされていて手遅れです。私も近いうちに吾妻を出ることになると思いますし、 現在反対運動をしておられる方々はことごとく地元の反対運動を黙殺してこられた方ばかりなのはなぜなのでしょうか。その理由をご存じなら教えていただきたいと思います。私には理解できません。
※[句読点は、当方が添付]

...........................................................................
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【返信 その一】 

 さて、ご文面から、どうやら水没地内もしくはご関連の方かとご拝察致しております。お辛い立場から、つたなく私見に充ちた本ブログに、勇気をもつてお便りくださいましたこと、改めてお礼を申し上げます。うれしく拝読いたしました。

 最初に、次のお断りと確認をさせていただきます。
(いざ記そうとしまして、再度ご文面を熟読いたしましたら、迷ってしまったのです)。

 地元の反対運動を黙殺反対運動とは、(現在のダム推進の運動ではなく)かつての地元のダム反対運動と受け止めてよろしいのですよね。
 「反対」の語の位置づけ、思いもつかぬ「黙殺」の語の意味あいの関連性。それらが、短いセンテンスの中で微妙な箇所となり、判断に苦しんでおります。

 そこで、過日一読後に直感した文意、私たち市民運動に対しての批判、「地元が反対に燃えていた時に、市民運動の面々は手を出さなかった。今頃になって遅すぎる」との常日頃言われておりますご批判。そのように受け止めさせて戴き、以下のお尋ねの件に、見当違いの答えにならないか憂えつつ、誠意をもって記させていただきます。
 なお、あくまでも、私個人の見解で、市民運動総体を代表しているわけではないことは申すまでもありませんことはご承知ください。


① 〉現在反対運動をしておられる方々はことごとく地元の反対運動を黙殺してこられた方ばかりなのはなぜなのでしょうか。
② 〉の理由をご存じなら教えていただきたいと思います。私には理解できません。

①について、
 「ことごとく」とお書きになられたように、確かに私も微力ながら、反対運動の一員には相違ありません。但し、この10年間、断じて皆さま方の「地元の反対運動を黙殺」した覚えはありません。
※理由として、個人的理由と経過を、別記させていただきます。

 ですので、「なぜなのか」と問われましても、これまたお応えしようがないことをご理解くださいませ。

※また仮に(現在のダム推進運動)を意味されているとしても、地元の皆さんの運動を、これまた「黙殺」した覚えはありません。いかなる運動も国民に許された抵抗手段として、自由です。
 ただし結果的に、ダム推進派と反対派とでは、立つ足場が180度異なり、途中裁判闘争という場面も加わったことゆえ、「黙殺」ということではなく、もはや、好むと好まざるにかかわらず、「対立の構造」に位置づけられたのは、致し仕方のなかったことと考えます。
 お互いに国家権力に踊らされている同じ弱者の立場なのですから、むしろ、切なかったです。歩みよりが叶うなら話し合ってみたかったです。しかし、詳しくは記すこと控えますが、この間、私の動きに対してはなぜか、内外から不本意な制約がつきまとい、手痛い目にあって参りました。?現に本日もあり。

②について
 ここもまた、「理由をご存じなら教えて」と問われましても、同様にしてお応えしようがありませんこと、心ならずもお許しください。

 
 長くなりましたので一挙掲載はムリな上に、読みにくいので、二回に分けてアップさせていただきます。



























  


Posted by やんばちゃん at 16:16Comments(0)報告