グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2010年05月31日

反対闘争の真相語るダム原稿、預かってきました

 どうしたのでしょうか。
 この拙いブログへの本日の訪問者の皆さんの数が、朝のうちに900人を超えたのです。
 こんなことは、昨年秋の華々しい報道の期間、以来の現象なのです。
 参考までに同じく八ッ場ダム関連の人気サイトを拝見したら、何と本日に限ってみれば、本欄の方が上回っているのです。何か問題になることでも、記したのかと心配になってしまいます。

 さて、昨日、八ッ場現地の方から、原稿を預かってきました。午後、何もかもうっちゃって、熟読させてもらいました。 
 実は「こんだ、本を出すんだい」と伺ったのは、昨年の11月頃だったでしょうか。この間ずっと、筆まめな方なので、ご自分で執筆なされるものと思い込んでました。
 ですので、年賀状には「今年は、ライバル同士ですね」と書き添えた次第です。
  
 ところが、過日、ちょっと拝見させて戴くと、現地の生き証人的なこの方が発奮されて語られた事実を、当時のオルグ関係者のお一人の筆のたつ方が、丹念に聞き取りし、物語風にまとめられるという体裁でした。
 確かに「本を出す」とはおっしゃったけれど、「書く」とも言われなかった。でも、仮にたどたどしくてもご自分で書かれればよかったのに…… 、力はないけれど、まとめたり校正するくらいのことは喜んで、みんなでお手伝いさせてもらったのに……と、その点がちょっぴり残念。
 で、当たり前のことですが、当初は執筆者の方のみのお名前だけだったのでした。が、プレミアムをつける意味で、その水没地の方のお名前も併記するようにはできないかと、あちこち出版関係者のお知恵もお借りして、当のご本人には、「いいよ」とうとまれながらも、はたらきかけた次第です。
 ご執筆者の〇〇様、本当に快く受け入れてくださいましてにありがとうございました。やはり、質の高いかつての第1級の活動家の方は違います。

 本日は、朝9時までに、先週末、突然送られてきていたゲラがあったのでしたが、今朝まで手がつけられずにいたのでした。自分で八ページ分のレイアウトから図表やイラストを作って入れる規定だったので、何とも往生した原稿でした。でも、必要に急かれて必死で習得したために。パソコン技術が飛躍的に進歩しました。
 このゲラを入稿すれば、一段落。
 あとは、今週中に、短いけれど神経をつかうある問題に切り込む予定です。そんなこんなの まだやることはつまっているのに、疲労の極でなにもする気になれず、先の八ッ場の方の原稿を、じっくりと拝読できた次第です。

 かねてより、「出来あがったら、〇〇ってところへ送ってみてくれい」と依頼されていたのでした。で、あちこち附箋をつけたりして、下読みの作業をさせてもらいました。明日は当方のつてのある、その希望出版社に、まずは送らせてもらうつもりで、昼のうちに電話で、出版部長に依頼しておきました。
 ですが、この厳しい出版状況のなかで、うまくこの方の希望とおり、スムースに行くか懸念もありますが……
 皆さまの中で、出版関係の方がいらっしゃいましたら、どうぞ、お力を貸してやってくださいませんか。
 
 例えば、樋田町長誕生に至る経過や私たちにはなじみのない、遠い昔の料亭政治として騒がれた、1974年1月の前橋市内の料亭での「「松し満」事件の場面など、極めてリアルに描かれています。
 それだけに価値があるものと期待しています。

 生き証人として、貴重な秘話や証言などがちりばめられた、この原稿の幸先の良い、スタートを期してやみません。   


Posted by やんばちゃん at 21:47Comments(0)八ッ場だより

2010年05月30日

初の田植え“成功”。後の食事会の盛り上がり

 他は快晴なのに、なぜか関東地方のみ雨とのこと。
 榛名山中は濃霧。
 ライトを遠目にして上っていったのに、無燈火で降りてきた対抗車とあわや接触寸前のところで、停止。
 道々、幾度となく何とか晴れていてくれないかなと思った。
 民話話の沈む夕日を扇で呼び戻した長者のことがしきりに浮かび、祈りたいような思いだった。
 ところがなのである。榛名湖畔は雨がやんでいた。榛名山を降り切ると、道路が渇いている。
 松谷トンネルを出て、川原畑に入るとさわやかに澄んだ空で、道路は少しも濡れていない。
 やんば館に着くと篠原さんが、頬かむりした恰好で、待っていてくださった。わが家の近所の3人の方たちはもう着いていた。互いの第一声は「良かったんねぇ。雨降らなくて」。
 二人ドタキャンだったけれど、何とか人員は勢ぞろいした。

 「え~い」とばかりに裸足になる。
 「水田の生ぬるい水がなつかしい」とのFAXを呉れたのは、東京のSさん。そうだったけな、と約40年間も前の確かな記憶がよみがえってきていた。産地直送の物品のノウハウを6年ほど前に教えてくださった方なのだ。「ようやく、ここまでこぎつけました」との手紙を送ると、来た返事の「残念ながら、今回は行けません」の文面によれば、この方も今頃は、山梨県の水田の中にいるはず。



 篠原さんが、カラータオルを持ってみえ、皆に配って、カラフルに装わさせて、田植えムードを盛り上げようとなされた。
 一枚の田を、途中で投げ出すことなく、一時間以上かかって、皆で植え終えた。
 完遂感にみなぎらせて、それぞれ、久森沢で泥足を洗う。
 新聞社やアマチュアカメラマンも撮影にみえたし、途中、やんば館に行ったスタッフの一人が、やんば館を訪れた人たちのほとんどが、「田植えをやっているよ!」と、歓声をあげていたとか。そして、カメラを向けていた由。
 まぁ、初めてにしては、成功の部類に入るのでしょう。

 
  それから、「すみやきの里」で大鍋いっぱいのシシ汁のふるまいが待っていた。
 しかも、炭がカカッとほこっている長テープルの特製コタツ。
 大振りのおにぎりも。ヒールもジュースもあり。
 イノシシの固い固い部分を4時間以上も煮たという実だくさんの汁ものは、汁を飲むと、冷えた身体がホカポカとあったまった。
 採った獲物は、部位ごとに等分に分けるのが、昔からの林地区の決まりとのこと。つまり、足が四本しかない足の場合、メンバーが5人ならば、次回にまわさず、それを5つにわけて、その場で処理するとのこと。すかさず、何年か前の草刈り後のバーへへキューの折に、同席した方から、「前に鈴木さんに食べないってやったんは足のところだったんだよ」との声がとんだ。そうそう、「ここ,やるよ」と押しやってくださったのは、その貴重な4本の一本だったわけなのである。何かで読んだが、客人をもてなす際の村や部族特有の儀式とかがある由。なると、あの時は、私は好ましいお客さん格だっのである。今回は果たして、どんな位置づけになるのだろう。

 現在、この地域の方たちは、来年とかの「道の駅」用の商品開発を行っている。
 参考意見として、私たち町場の者たちにとっては、山里の山菜類やこのイノシシなどの都会には無いものが魅力なのだということ。そして、現地の方たちには、魚や肉類が食べたいのではないだろうか。でも、観光客は求めてはいない。そんな基本的なそのことをお伝えした。
 紀伊国屋文左衛門がなせ゛廻船業で、財をなしたかといえば、北国にないミカンを運んだからであり、“有り余るものを無い処に運べば、高く売れる”。
 これが流通の極意と聞いたのは、ある小説講座であった。若い日に、ある党のオルグ活動をしていたという、その作家は、青森のリンゴを九州で販売。党の活動資金にしようとしたことがあるらしい。その時のヒントが先の紀伊国屋の手法だったとか。他には、スープの熱さが決めてのラーメン店で、よりうまく食べる極意とは調理場の近くに座ることだとかの、私は枝葉のこういうことはよく覚えているのだ。
 この手法にて、今朝、5時起きして私も二皿作った。
 寝起きに何をつくろうかと考えた。でも、すぐ後ろの実家の店を冷蔵庫がわりにしているので、買い置きということをあまりしない。あるもので間に合わせるしかない。
 一つは現地の方用にまだタケノコがないと思うので、タケノコが浮かぶ。次に冷蔵庫にある素材としてチーズ。
 タケノコのチーズ焼きは、私のお得意料理なのだ。まだ小さかった甥と姪たちは、これが大好き。食べたくなると「おばちゃん」と不断は大嫌いなオバちゃん宅にも、幼い彼らの精一杯の処世術の技術ともいうべき、あまえ声とにこっとした笑顔でやってきた。もう大学を卒業する年となった。
 でも、これだけでは芸がない。そこで、山里の方には、魚類だとひらめく。マグロのアラ煮をほぐして、フレーク状にして、自家製シーチキンを作りおきしているのがあった。それを解凍して、濃く味付けした。
 そこに今年の最後となった、茹で孟宗竹を大振りにきって煮てあったのを敷きつめ、火を通した。
 でも、この配色では、色合いが悪い。
 さやいんげん等の青みのものがない。あるのは藪の真竹だ。だが、時間的に竹藪までは行けない。また。、数日間訪れていないので、どんなに生えてきてしまっているのか、行くのも怖い。で、庭先の黒竹を折って、そのまま割って、青味にもちいた。
 次にとろけるチーズを載せ、溶かす。
 
 鍋のままもっていって、現地で大皿にうつすことにした。
 冷めるのを待って、摘んだばかりの庭のサンショウをたっぷりと散らす。
 下に敷く色どり用に、栽培している販売用の鉢植えのサラダ菜も摘んで、洗ってビニール袋にいれた。容器はそれらが映えるものがないかと物色したら、大きな寿司容器が目に入った。これなら、底が黒いし、欠ける心配もなし。

 この間に用意したもう一品は、参加してくださる長野原町以外の町場の方たちにとっては、たぶん珍しいハズである、ワサビの茎の醤油漬け。
 折れた茎を自家用にと思って採っておいたが、この間、調理に費やす時間がなく、大型冷蔵庫の中で保管してきた。出してみたら、鮮度は落ちていない。でも、束のまま切りそろえるのと異なり、切るのに手間かかった。時間を気にしながら、小一時間かかった。中鍋一つ分もあった。それを密封容器に二つに分け、めんつゆをかけたのと三倍酢との2種類作った。
 これも現地で深めの大皿に写すことにした。

 料理番組でもないのに長々と記したが、絶対にダム推進でないと、村八部的な雰囲気の強い農村型の地域社会の、時に険悪な空気を和らげるのは、やはり、一つ釜の飯なのだ。
 その意味で、無添加だがちょっと風がわりな味だったらしい持参した千葉県の酒造元・寺田本家の一升びんが、カラになる頃には、打ちとけた空気が流れて、適当に酒の肴にされながら、呉越同舟、四方山話にもりあがった。
  


Posted by やんばちゃん at 22:50Comments(3)八ッ場だより

2010年05月29日

東京市政調査会シンポジウム

 
 【左手より、新藤宗幸千葉大教授、森民夫長岡市長(全国市長会長)、鈴木、片山虎之助前総務大臣、池上岳彦立教大教授】
 ーー6/2 東京市政調査会 月刊『都市問題』編集部から送信して頂いた当時の写真です。

 いよいよ、シンポジウムの本番。
 日本プレスセンターのゆかしさ漂う建物に本日は堂々と。案内によればまず12時半までに9階の貴賓室にとあった。部屋の入り口にかかるとものものしい感じ、一瞬ひるむ。
 「会場は10階ホールですよ」と言われて、「あの、でも9階のと、あるんですが……」。若いスタッフが「〇〇さんですか」と気がついてくれた。総支配人さんらしき方がしきりに「失礼しましたと言う。
 無理はない。常日頃は髪ふりみだして長靴で野山をかけずり回っているオバさんだ。今日だって、長袖で隠しているが、両方の手首は傷だらけ。サンショウの青い実を採る際に、昨晩、暗がりの中で、手っ甲もせずに行ったので付いてしまったのだ。
 
 後で、聞くと「丁度、大臣のSPが、会場の点検をしていた」とのこと。
 大臣というのは、仙谷さんだろう。
 この方には、小さく瑣末なことながら、私にとっては縁がある。
 約20年前のほんの3カ月間ほどであったが、あるアルバイトで国会のなかで、回ってきた委員会や国会質問の議事録のなかから、関連事項の主要部分を切り抜き纏める作業があった。その時以来、まだ若手のホープ的存在だった仙谷由人さんのお名前は脳裏に刻まれた。その論調の切れ味の良さは、「こういう議員さんたちもいるんだ。こういう方たちの時代が、そのうちにやってくるんだ」とのそこはかとない期待感があった。
 
 おそらく、もう2度と入れないだろう、貴賓室。
 定刻、30分前。1番のりだった。大体、どの会でもそうであるが、どうでもよい立場の者が、早々にかけつけるものである。
 西尾勝理事長さんがみえた。
 その輝かしいご経歴を知るゆえに臆するもの大。
 本日の識者の方たちと、八ッ場の現実がどのように交われるのか、極めて心元ないことをお伝えした。
 この西尾理事長さんが、拙著をお読み下さり、今般のうれしいご縁となったこともわかった。
  
 程なく次々と現れた他の、まさに錚々たる方たちと不慣れな名刺交換をする。結局、当日の朝になるまで時間がとれず、出がけに急いで作成した手づくり名刺だ。元来、名刺というのは嫌であったが、最近はなれた。誰でも名刺を配る、“田舎のおじさん議員”なる揶揄的俗語が浸透しているからだ。なお、「田舎」が悪いわけではない。
  
 昼食の会場の窓辺に拡がる、界隈一帯ののしたたるような緑と特徴のある建物の屋根の部分。日比谷公会堂かなとも想った。まさに田舎者の私は、窓辺によって、100年になんなんとするという東京市政調査会等の全容を見降ろしてみたかったが、大臣の席を超えて、窓辺にしがみつく勇気はなかった。
 さて、そんなこんなで迎えた本番。

 ※(シンポジウムの内容は後日、『都市問題』編集部から刊行予定ですので、控えさせ戴きます)  


Posted by やんばちゃん at 23:53Comments(0)報告

2010年05月28日

八ッ場ダム「中止」の前に、倉渕ダムの成果あり(二)

『土と健康』~、大塚さんのインタビュー、昨日の続きです。

市民団体が結集、県レベルの反対運動へ 
問 2002年7月には「倉渕ダム建設凍結をめざす市民の会」が発足、8月にはそれまでの市民団体などが結集して「倉渕ダム建設凍結を求める県民会議」ができて、運動の方向性も倉渕ダム問題を広く市民に知らせる広報活動にも力が入って、運動が幅広くなり、かつ政治的な面にも及んでいきます。それまでに大方の論点は出されていたということですか。
大塚 当初の運動を担ったのは「高崎の水を考える会」で、私は事務局長をしていました。会としてダム問題の専門家が集まっている「国土問題研究会」に依頼し、「倉渕ダム調査団」を組んでもらい、2002年3月と5月に、合同で現地調査を実施しました。そしてその結果を「群馬県倉渕ダム計画の問題点と烏川総合治水対策」という報告書にとりまとめました。倉渕ダムの主な論点はここで明らかになっていたと思います。イヌワシの生息についてはこの後のことですが……。
問 「県民会議」の設立総会(2002年8月31日)には、400人の参加者があり、政治的に保守系も含めて大同団結の様相を強めました。その後の運動の方向は、ビラをつくったり、各地で校区ごとに住民説明会を開いたりして倉渕ダム問題を知ってもらう広報的な活動に力を入れたとのことですが、同時に、専門家による「倉渕ダム再評価委員会」もできましたね。
大塚 住民のあいだに倉渕ダム問題が広まるにつれ、推進側と反対側と、どちらの意見が正しいのかという声が出てきたのは当然のことです。そこで、県民会議が第三者機関としてNPO法人「地域シンクタンク高崎国際センター」に依頼し、民間の学識研究者や専門家による「倉渕ダム再評価委員会」が組織されました。
 委員長には環境問題の大御所で東京大学名誉教授の宇沢弘文氏、委員には、河川工学の大熊孝氏(新潟大学教授)、国際政治学の多賀秀敏氏(早稲田大学教授)、水源問題全国連絡会代表の嶋津暉之(てるゆき)氏、そのほか鳥類研究者、ジャーナリストなどの第一人者による強力な委員会ができました。その明晰な報告書は、県知事に提出されました。
 2003年2月9日には、その再評価委員会による市民公聴会が開かれ、それに対し、県土木部河川課は出席を拒否するという事も起こりました。専門家にたちうちできないことを自ら示したようなものです。
市長選で住民の意識を問う
問 そうこうするうちに、高崎市長選が2003年4月にあります。
大塚 政治的な様相になっていましたからね。ダムに反対する団体のうち3団体が中心になって高崎活性化委員会をつくり、民主党で衆議院議員をねらっていた中島政希さんを離党させて市長選を闘ったのです。彼は鳩山由紀夫さんの陣営なので、これは後に民主党のマニフェストの八ッ場ダム問題にもつながっていくことになります(現在、中島さんは民主党の衆議院議員)。
 倉渕ダム問題は、市長選を通してますます市民たちに知れ渡るようになりました。結局、市長選には負けましたが、もう一人の候補も倉渕ダム問題では同じような反対の立場をとったことから、現職で当選した票よりも二人の得票数を足すと、反対側の方が上回ったということになります。当選した市長といえども、この事実を無視できなくなったのです。
 高崎市長は、「高崎市としては、積極的にダム建設推進はしていない」という立場をとるようになりました。2003年8月、高崎市長が県の予算についての要望書にも昨年まではあった「倉渕ダム建設促進」という項目をなくした。このことは各紙県版が報道し、皆の知るところとなりました。
公開討論会が実現
大塚 他方、市民団体からの働きかけで、県としても、市民への説明責任を果たさねばならないということになり、これも画期的なものですが、県と市民団体「群馬の自然を守るネットワーク」との共催による公開討論会が実現したのは、2003年8月9日のことです。どっちが言っていることが正しいか、住民が自ら考える機会が設けられたのです。
 倉渕ダム再評価委員会で問題点を熟知していた大熊孝氏、嶋津暉之氏が住民側からの意見を述べ、推進側からの意見は生彩を欠くもので、誰の目にも勝敗は明らかでした。
 第2回目の公開討論会を待たず、知事は、これは止めようということになりました。財政的にも厳しいし、倉渕ダムを建設しても、県が主張しているほど治水及び利水についての効果はないという理由です。そうして、2003年の12月の県議会で、倉渕ダム建設は「凍結」するという判断が下されたのです。
八ッ場ダムはどうなのか 
問 県営ダムだから、知事の判断で取りやめることができたのですね。それに対し八ッ場ダムは、治水、利水などで首都圏の都県全体に関わってきますね。大塚さんは、八ッ場ダムの問題についてはどのようにお考えですか。
大塚 ダムそのものは、経済成長する過程で、水源や電源としての役割を果たしてきたのは事実でしょう。ですが、ダム政策は多目的ダムとして治水とか利水に深く係わる中で、国が補助金を出すことから、余計なダムがたくさんできたと思います。洪水の危険度を余計に見積もって、それでダムが必要なんだという展開でどんどんダムが造られていく。おそらく八ッ場ダムについても、基本高水流量そのものの考えを再検証していくのではないかと思います。
 水利権の問題もむずかしい問題です。埼玉県も千葉県も言っていますが、「渇水になった時に困る」と。
倉渕ダムの場合も、高崎市は農業用水を一部転用して水道水にしています。ですから、水そのものは物理的には間に合っているのです。ですが、水利権ということになると、圧倒的に多いのは農業用水です。その農業用水っていうのは、田んぼが少なくなっていく中で使用量は少なくなってきている。ただ、実際に転用が許可されているかというとそうではない。きちんとした水利権を取るためにはダムを造らないと得られないという口実で、河川行政がすすめられてきた。水利権というのは非常に大事な権利なので、これを簡単に水道水に転換させるというのは難しい部分もあると思いますが、農業用水等の転換も含め、今後政治や行政が取り組むべき課題なのです。
問 お金の使い方とかの問題はどうですか。
大塚 ダム建設の経済効果の面では、一部のゼネコンが潤うくらいなのです。しかも一時だけです。それから、もう一つ、マスコミも言っていない問題ですが、公共事業というのは必ず地元の有力者といわれる人たちが見返りを求めるということです。それが問題を非常にややこしくしています。ダム建設に絡めていろいろ事業を持ってくることで結果的に地元の土建会社等も潤うことになる。そういう人たちにとっては、反対運動があると、自分たちは反対運動とは違って行政側の協力者なのだという構図で出てくるのです。そしてそれが地元の意見だ、みたいなになってくると、ややこしくなってきます。
 八ッ場ダム問題でも、住民の声には、そうまでして進めなくてもよいという考えも実はかなりあるのではと思うのですが、ややもすると、そういう声はかき消されてしまいがちだ、ということです。
ダムで壊される自然の循環
問 ダムと農業などの関連はどう考えますか。
大塚 日本全国津々浦々、ほとんどの川がダムで遮断されてしまっています。烏川は、唯一ダムのない川ですが、これが遮断されてしまうと、上流の森の中から流れてくる腐植とか養分とかがダムに貯められてしまいます。砂防ダムも相当ありますからダムに堰き止められて、ちょろちょろとしか来ない。海もそれによって影響を受けます。
 砂が流れないから、海岸が少なくなってしまうのです。砂で埋まったダムは、その砂の上を川が流れるようになるのです。また、漁業にも影響があります。富山県の黒部ダムでは、堰き止めているゲートを開けて、溜まった砂を流しましたが(1991年)、堆積物は腐敗してヘドロ状になっている。そのため、海一面に異臭がし、刺し網漁の魚も7割が死ぬという被害が起きました。
 八ッ場ダムが計画されている吾妻川の上流には全国有数のキャベツ産地嬬恋村があります。化学肥料とりわけ窒素分の多投入による地下水汚染が全国的に問題になっていますが、嬬恋村も例外ではないはず。窒素肥料は硝酸態窒素に変化し大量に吾妻川に流れ出ていると思われます。ダムができれば堰きとめられたダム湖は、川の浄化作用がなくなるため、コケ類の異常繁殖を引き起すなど水質の悪化が避けられないでしょう。ダムにより流域全体の生態系は大きく崩れてしまいます。
問 どうもありがとうございました。これからもがんばってください。私たちも今後の八ッ場ダムの行方に関心をもっていきたいと思います。                 (2009年11月9日)

参考資料 
『倉渕ダム白書―倉渕ダム再評価委員会最終報告書』 倉渕ダム再評価委員会平成16年4月4日
宮原田綾香著中島政希監修『ダム建設による地域コミュニティの変容 ― 八ッ場ダム建設計画の進行過程から見える現状と課題』NPO法人公共政策研究所、平成21年1月
ホームページ 
倉渕ダム建設に関する様々な問題点 http://t-mizu.hp.infoseek.co.jp/
八ッ場あしたの会 http://www.yamba-net.org/   


Posted by やんばちゃん at 15:28Comments(0)八ッ場に願う

2010年05月27日

八ッ場ダム「中止」の前に、倉渕ダムの成果あり(一)

 倉渕ダムの大塚一吉さんから送って頂いた記事です。
 『土と健康』~ 二回にわったって、転載させて戴きます。元原稿は冊子のページそのままのレイアウトでカラー。頂いた当初は「わぁ」と喜んだものでしたが、その後、そのままでは転載できないことに気がつき、なんとも意気消沈。
 その後の記事多発の最中、長文でもありますし、どうしようかなと思っているうちに、思わぬ日数を経てしまいました。
 イベント続きで、錯綜としてしまった27、28日分に穴が開いてました。そこで、穴埋め記事として使わさせて頂くのは何とも失礼なのですが、転載させていただく次第です。大塚さん、どうぞ、ご寛容のほどを。《6月1日に転載》

八ッ場ダム「中止」の前に、倉渕ダムの成果あり有機農家/「倉渕ダム研究会」主宰/群馬県高崎市在住
大塚一吉さんに聞く 聞き手 久保田裕子

群馬県北を水源とする利根川は延長332キロメートルで、日本で2番目に長い川であり、その流域は関東平野全域に及ぶ。農業用水・工業用水はもとより、首都圏の水がめ(飲用水)としても、また、水力発電の電源開発としても重要視されてきた。
 今、利根川水系の主要河川の一つ吾妻川(あがつまがわ)に計画中の八ッ場ダムの建設事業中止案が政治問題化している。やはり利根川水系の一つ、烏川には、1979年、倉渕村川浦に「倉渕ダム」が計画されて建設事業が進められていた。1980年から83年にかけて予備調査、84年に国庫補助による群馬県の事業として総貯水量1160万?の多目的ダムの建設計画が決まり、1991年から総事業費275億円ということで本格的に建設工事が始まった(2002年、総事業費は400億円に変更)。
 山間のダム建設には、他地域と異なり、当初、さしたる反対運動は起きなかったが、自然生態系を破壊し、巨額な建設費のかかるダム建設計画に疑問の声をあげたのは、高崎市に飲料水をもたらすとされた当の高崎市に住む市民たちだった。2001年6月、「高崎の水を考える会」が発足した。高崎市郊外で有機農業を営む大塚一吉さんもその一人(その後、2002年に「倉渕ダム研究会」主宰)。土木工学を学び、土木設計コンサルタント会社にいた経験からの活動が功を奏して、2003年12月、ダム建設計画は事実上終結した。
 全国のダム建設反対運動のなかでも比較的短期間に中止に至った数少ない例である。その立役者大塚さんに、その反対運動を振り返っていただいた。
根拠となる数字に疑問
問 八ッ場ダムの場合、計画はかなり前に立てられており、すでに着工されて建設が進んでいます。東京、埼玉などの利根川流域でカスリーン台風による広範囲にわたる水害が起きたのは1947年(昭和22年)。そうした水害が起きないよう、多目的ダムを造ろうという計画は、1949年、当時の経済安定本部時代とのことです。その後、1952年に建設省が利根川水系のダム群建設の計画を立て、八ッ場ダムの建設が進められました。倉渕ダムの場合は、まったく手つかずの計画のうちに中止になったのですか。
大塚 そうではないです。やはり倉渕ダムについても、計画の立案は早く、県の調査は1955年から始まっていました。反対運動は2000年頃からですから、その頃までに全体の工事費400億円のうちの162億円はすでに使われていた。水没道路に変わる付け替え県道ももう完了していて、本体工事着工の直前だったのです。
問 そこまで進められていたのに、中止というのはすごいですね。
大塚 これは、住民の力ですね。そして、これには有機農業の生産者、消費者のつながりが大きな力になりました。後に出てきますが、「倉渕ダム凍結をめざす市民の会」の代表をして運動の中心的なところを担ったのは歯科医師の武井謙司さんで、うちの提携野菜の消費者ですし、県の職員を刑事告発した時にお世話になった梓澤和幸弁護士もまたそうです。記事を書いてくれた記者は、NHKの番組改編の問題を書いた朝日の本田雅和記者です。
 また、有機の生産者である「烏川を大事にする会」の田島三夫さん、「倉渕つばさの会」の山際義隆さん、それと民主党の中島政希さんをはじめとしてたくさんの人たちが協力し合ってきました。そうしたいろんな人の有機的なつながりで運動が展開していって、それで2003年12月に、知事が県議会で「凍結」を宣言したわけです。

問 ダム建設反対の論点といいますか、反対運動の経過はどのようなものでしたか。
大塚 私は、有機農業をやる前は土木設計コンサルタント会社に勤めていたので、ある程度水問題についての知識があったのです。倉渕ダムは治水、利水の多目的ダムですが、その建設の根拠になっている数字などが非常におかしいのではないかという疑問から始まりました。
 一つは、治水面ですが、この計画は、100年に1回起きるであろう大洪水を防ぐ目的で立てられていました。カスリーン台風のようなものを想定しているわけです。ところが、最大洪水流量、専門用語でいうと基本高水流量という、洪水が来た時に、毎秒どのくらいの水が川に流れるかという指標があるのですが、それを県は2800?/秒と出していますが、これは国の治水計画でいう2000?/秒と比べても、かなり高く見積もられている。
 この根拠となる実際の基準地点における洪水時の流量観測データはなく、他の地点の洪水時の雨量データ10回分を用いた雨量確率法という手法で推計したものです。ところが県は、用いた河口の流量のデータに相当な幅があるのに、その最大値だけを採用するなど、推計で補填した数字や係数の設定に恣意性があるし、短時間の雨量が引き伸ばされて大きくなるので結果として過大な流量になっていました。
 また、ダムによる洪水削減効果が計算されていましたが、治水基準点でのピークカット効果はたかだか200?/秒で、水位にして20cmの低下効果でしかない。これは下流の堤防を20cmかさ上げすれば済むことです。倉渕ダムは、守るべき市街地から遠く離れている場所に計画されているため、洪水削減効果が低いのです。ダム地点より上流の流域面積は、全体の流域面積の8%と、ごくわずかです。
ダム建設か、河川改修か
大塚 二つめは、ダム建設か、河川改修かという論点です。県の当初の計画では、ダム建設案349億円に対し、河川改修単独案では411億円と計上していた。ダム建設のほうが安上がりだというわけです。ところが、この数字も根拠に乏しいものだった。
 02年3月に、県が約1600万円をかけてコンサルタント会社に作成させた倉渕ダム建設の設計書と代替案(河川改修)の比較を含む資料を情報公開の手続きをとって県に請求したのですが、それによりダム建設の細目にわたる資料が出てきました。ところが、その直後に、県のほうから「間違ったものが入っていたので差し替えてほしい」と、その日のうちに私の家までやってきたのです。私が家に着いた時には彼らがもう先についていて待ち構えているという状況でした。しかしすでに、会のメンバーが機転をきかせてコピーをとっていました。
 コピーを見ると、河川改修単独案よりもダム建設案の方が安上がりだという結論ありきで、その論拠とされたダムを建設しない場合の河川改修に係る用地の買収費が宅地20万円/㎡、田畑5万円/?と、私たちが調査した価格に比べ数倍から十数倍と、実勢からかけ離れた高い数字になっていたのです。  


Posted by やんばちゃん at 15:20Comments(0)八ッ場に願う

2010年05月26日

?都会の人には壇上から、八ッ場の人とは現場で田植え

 朝から、メールと格闘。
 一昨日からは、習い覚えたばかりのPDFファイルと格闘。ついに入らずで、断念。
 ついに準備不足のまま、30日に迫った「八ッ場で田植え」のイベントのチラシを送信する時間が、ようやく採れたからだ。
 しかし、今からでは遅すぎることは、本日もあちこち歩いて、痛感している。
 で、考えたら、一部のメーリングリストでは「添付ファイルは不可」としているから、仕方なく、PDFファイルに゜しただけで、何も制限のついてない、とりわけ個人メールに対しては、何も苦心して「PDFファイルにしました」などとすることはないのだ。
 頭が、膠着化していた。
 
 で、そんな添付メールで、本日はひさしぶりに交信し、旧交を温めた方が、幾人もいた。その中の返信の一つ。

   八ッ場ダムに対する、〇〇さんの姿勢がでている
   行事の連続ですね。

   都会の人には壇上から、八ッ場の人とは、現場で田植え
   これが〇〇さんだよね。

 かなりのかいかぶりの言葉ではある。
 でも、端的にこういうとらえ方もあるということで、面映ゆさをこらえて紹介させて戴く。
 たまたま、当方にとって関連するイベントが二日間続くので、八ッ場での田植えの案内に添えて、前日のシンポジウムも記しただけだけれど、対比法的な文だ。
 自省するのは、当ブログのように、読み手泣かせの長々しい駄文は、かえって分りにくいということだ。、
 
 なお、「都会の人には壇上から」とは、ストレートにとれば、何とも居丈高で偉そうに見下げたようなニュアンスにもなる。が、申すまでもなく、たまたま場所が東京都内。シンポジウム会場が壇上のあるそういうしつらえだけであると言うことだけの意味なので、念のため、補足させて頂く。
 そして、この表現には、当方とほぼ同年輩だが、はるかに深遠で切れ味の良い〇〇子さんが、日々の生活の中で多年、培ってきた“生きること”や社会体制への哲学的感性がにじみ出ているのだということも付け加えさせて戴きたい。
 その視点からの、私などは思いもしなかった切り口が゜、ジンワリとまるで、水涸れの慈雨のように全身に降り注いでくれる。
 彼女は、ものごとの視点がぐらつかない人だ。だから、優柔不断でグラ付きやすい当方は行き詰まると電話して、軌道修正してもらう。


................................
 追伸
 こういう時は、〇〇子さん並みに下手な蛇足ごとは記さず、アッサリとピリオド打つのにかぎるのだが、冒頭りPDFファイルのことで、やはり、ヒトこと多すぎる者としてはも記憶力の失せないうちに、備忘録に記してしまう次第。
 
 少し、頭の晴れた今も、わからないのは、ある処にやっきになって、PDFで送ろうとしたら、「携帯等は不可」とともに「1MB以上はうけつけない規則になっています」と出たので、携帯番号を普通電話に直したり、容量を小さく出来るかSOSを出したりした後、ようやく自力で、プロパティを見ることが出来た。「1.3MB」とあったのだ。
 それに加えて、うまく接合してメール添付になってくれないので、ついにあきらめた。
 で、本日、添付で知人達の処に送る際にも、最初は「容量が1.3MBもあってご迷惑をおかけしますが」と一言記した次第。
 ところが、後半、気がついたら、添付の際のその同じファイルの表示は「164KB」になっているではないか。久しぶりの知人たちに、何も容量の大きさにて迷惑感をあたえることもなかったのに……
 本当にオバさん組を困惑させる、新兵器的パソコン機能だ。  


Posted by やんばちゃん at 22:11Comments(0)八ッ場だより

2010年05月25日

三度目の、5/30の田植えについて

 前にも、ご案内してありますが、5/30(日)の八ッ場現地での、地元の方たちと一緒の、田植えのイベントの件です。
 昼に、現地実行委員長の篠原さんに連絡をとりましたら、ただ今、地元民の参加者と市民側の人数がほぼ同数となって参りました。
 もし、水田に入られるのがお嫌いなら、田の両端で、綱を張る役や応援団も必要なので、ご安心ください。

 八ッ場では月末の田植えが、ほぼ最後となります。
 確か篠原さんのお宅には、本日辺り、苗が届く予定に伺ってます。正業を他にお持ちなので、遅い部類にはいられます。
 ですので、先に機械の田植えをされ、当日のために残してくださっている田は、狭いので大丈夫です。男性陣の若い方たちに張りきって植えてもらいましょう。

 なお、現地では23日の日曜日にも、村おこし的イベントとして、「花を観て歩く会」的な」(ずっと以前に聞いたので、やはり実行委員の篠原さんから伺っていたのでしたが、失念して正式名称わからず)催しがありました。やはり、雨で、大変だったことと思います。
 これは日本生態系協会のスポンサー付きとかで開催とのことでした。土曜日に八ッ場で様子を聞くと、第1回なので一般参加者は少なく人員集めに苦慮。役員クラスにも出てもらって、20人くらいで行う予定とかのことでした。
  
 が、今回のイベントは、全くの自主的な企画です。
 昔ながらの手植えによる田植えを通じて、地元の方との交流と将来の村おこしの活路を見出すことにあり、参加者の皆様のご示唆やご意見も承りたいようです。
 どうぞ、お力添えをお願いいたします。   


Posted by やんばちゃん at 21:10Comments(0)八ッ場だより

2010年05月24日

一気に三日間の偽装記述です、お許しを

 一気にこの三日間のを記しました。
 ここのところは、一分でも惜しくて、新聞さえも開けなかったのです。
 必然的に、その当日の日付けに“偽装”せざるをえませんでした。どうぞ、ご理解のほどを。

 ところが、小一時間もかけて、微にいり細にいり、記した朝一番21日のを、6時21分頃、最終的に「公開」にしようとしたら、なんと消えてしまったのです。
 この間。幾度となく経験しているので、慎重になって、途中まで何度か「下書き」にして入れておいたのにです。それごとなのです。
 朝から、やることいっぱいだったのに。「どうして」と悔しくて……
 おかしくなる直前には、普通に打っているのに、変換できなくなったりかと思うと妙な文字もむ小文字やカタカナになってしまったり、確かに妙な予兆はありました。ものすごい誤植だらけでなのですが、当方のそそっかしさもありますが、? このブログのワード機能はあまり、頭がよくないのではないかと思います。思いもかけない変換になっているのですから。

 でも、あきらめを知らぬ、しかも、やろうとしたことが完了しないと、スッキリと次に進めないこの性質は、また気を取り直して書きなおし。
 ところがです、またも次の昨日22日分も、後半部を記し終えて、「確認」を入れた途端、これまた霧散。幸い、前半の半量は保存できていたので、これも気を取り直して思いだしつつ記述。
 
 しかも、思わぬハプニングにて、この間に一昨日、残ったセリを茹でようとして、お湯ヲ貸していた鍋を2回とも空だき。
 確かに、何もないはずの台所から「プスッ」と音がしたので、いぶかしく思ったけれど、無我夢中。考えてみたら、お湯がなくなって、自動的にガスが切れたサインであった。そうでなかったら、火事になっていたはず……
 コレも性懲りなく、三度目の正直にて、セリを茹であげた。
 従って、予定よりかなり遅くなった朝食は、たきあがったばかりでスイッチを切った八ッ場米も、焼きあがったアジの干物も冷めてしまった
 グリーンの色も冴え冴えシコシコしていて、小憎らしいほど旨かった。
 これで、五月になっても八ッ場の水田の塗り土かにら芽生えたセリは、食べられることが実証された。

 さして、意味のあるブログでもないけれど、こうなったら、意地だ。
 23日、月曜日の昨日分を記している。
 本当は「今朝」と書きたい。
 昨日早朝は、5時起きして、昨夜来閃いていた、市場へ昨日の残りのあるものや、今朝摘み取ったものを加えて、小袋に詰めて持って行った。
 ここは7時の競り開始時間までに並べるのが決まりなのだが、ついたのは7時15分。かろうじて、山菜類の競りに間があって受け付けてもらえた。
 何しろ、30日の日曜日には、昼食をふるまうことになっている。少しでも ?頑張らなければ……
 是非、大勢の皆さんにおいで戴きたい。

 さて、今朝以来、ブログ打ちに加えて打ち直しも、4時間を超えた。
 またも、カタカナにばかり、変換してしまう。
 わが 備忘録的にも幾つかの予期せぬ八ッ場関連の発展的な事柄もあるが、複数回の失敗を経験したここだけは、アウトにならないうちに、時間内に止める。  


Posted by やんばちゃん at 23:53Comments(0)八ッ場だより

2010年05月23日

人情市は露天商泣かせの、雨だった

 人情市の朝です。
 結局、昨日はある場所で手間取った。
 その上、思いぬかけぬ新芽の瑞々しさに惹かれて摘み取り、「これなら売っても大丈夫」とひらめいたセリなど、野のものを、家に持っていっても、洗うのに往生するのは目にみえている。
 で、きれいな流れの八ッ場の川の中で洗って行こうと、川筋を思いえがく。
 昨日の土曜日、久森沢は道からみたら、恰好の田植え日和らしく幾軒かの耕作主が出ていた。いくら、公認で採ったセリでも、何となくためらうものがある。従って断念。ある水口の流れに行ったら、やはり田の整理をしているご家族がいらして、そっと引き返す。
 結局、最も人目につく村内の滔々と流れ去る用水で土を落とさせてもらった。しかし、川とはことなり、ゴミは採れない。
 でも、こうしたきれいな清水に恵まれた山里の暮らしは、つくづく羨ましい。
 
 そんなこんなで、帰宅できたのは、7時半。8時閉店の実家から、販売に必要なラべラーや結束機など道具一式と小銭などを、借り受けるのが、やっと。
 明日の朝、サンショウの実とフキとタケノコを採り、摘みこまざるを得なくなった。
 すでにヘトヘト状態。

 翌朝、めが覚めたらなんと2時半。つまり3時間睡眠だなと得心。でも、まだ寝ておかないとどんなしくじりをやるか分からないから、もうひと眠り。
 4時に起きて、かけずり回った。
 しかも、近所のもて余し気味のあるものまで、昨年から採って販売してあげている。
 今年は体力から考えても,出来るかどうか分らなかったから、断りに行く時間とてもなかったから、してなかった。が、少しでも売れれば喜ぶだろうと考えて、その季節ものまで、ついに竹藪への帰途、立ち寄った。断る時間も無いが、早朝のことゆえ、無断で採った。
 起きた時から降っていた小雨の雨脚が、強くなってきたが、かまってはいられない。汗まみれになるので出がけ前には着替えなければならないのは毎度のことである。
 そういえば、昨晩、実家で明日は雨だと利いたけれど、フル回転で意に介している時間などなかった。天気予報など聞いている間がなかった。

 車の座席を倒して平面にし、箱類に山菜類を入れて摘みこみ、その上に板を敷き、鉢ものを並べる。花や植木類は日頃より用意してきたが、大きさや高さがあるから、その配分がむずかしい。
 結局、到着したのは、8時~なので、遅くともそれまでにと言われているのに、8時過ぎ。
 降ろす際から、次々と寄ってきて、「幾ら」と聞かれる。、「すみません。まだ来たばかりで、申し訳ありません」と謝る。決まっているものは応えるが、丁寧に対応しても、大半はいつもの顔見知りの方たち、つまり同業者の値段の確認だけなのはわかっている。
 
 小一時間たって、ほぼ体裁が整って、気がついてみたらずぶぬれだった。
 考えたらあいにく合羽類をみんな車から降ろしてしまっていた。傘をさしていたら、近場のテナントの方が、レインコートを余分にあるからと持ってきてくださった。
 私は間に合う自分の範囲でどうにか処す主義だし、人さまから借りるのは気持ちの負担になってしまう。一度はご辞退したけれども、でも、素直にご厚意に甘えることにした。
 そんなことにも頭が回らないほどの極限状況だった。

 そして、あらためて周囲を見間ますと、客数もテナント数も過去、最低と言うほど少なかった。
 それでも、楽天的というより、どっかの神経が抜け落ちているこのオバさんは、天気予報を知らないが故の強みで、午後になれば、止むだろうくらいに考えていた。
 周辺の主に衣類関係のテナントが見切りをつけて帰って行くなかで、定刻の3時までいようと思っていた。
 ついに、帰途もしんがりであった。

 会場で30日の「八ッ場で田植え」のチラシを近くのテナントの若者たちのグループにお渡しした。さらに、事務局の方にもお配りしたら、本部テントに置いて下さるとのこと。忙しくてマスコミへの対策だけは採ったが、その後、配布できなかった。
 そのうちのお独りゲット。ただし、現地の実行委員さんの心づもりの食堂に頼むおにぎり二個くらいでは、足りなそうな若さだったので、それとなく周辺のことを口にしてみた。
 仲間のとさらに屈強な若者が「オバさん、彼は6~7個くらい食べるよ」口を添えた。
 これ一つでも、策の練り直しに迫られる。
 私は何とか八ッ場米の炊き出しをしたいものと考えている。その為にも、雨の中でも燃えているが、ともかく、雨脚はどんどん強くなってきた。昼過ぎにはTシャツなど仲間3人で販売していた彼らも、見切りをつけて退散していった。
 
 同時刻には、八ッ場現地の林地域でも、「花を観る会」(スポンサーは日本生態系協会。正式名称、失念)とやらが、実施されているはずです。たぶん、今日は山間ではことさらに難儀したことでしょう。
 なんで、こんな日に大雨が降るのよ!!   


Posted by やんばちゃん at 23:56Comments(0)八ッ場だより

2010年05月22日

八ッ場の田植え風景、無事に収録

 詰まった時間帯の中で、八ッ場へ行ってきました。 
 本来ならば、20日に行く心づもりをしていました。Bさん宅の田植えでしたので、?“撮影”をしなければと思っていたのでしたが、なにやかやとあって、次々と押せ押せとなった時間の中で、締め切りのあることもあり、こちらは後の行程もあり、期日が送れるとご迷惑をかけてしまうので、八ッ場行きは断念。
 なお、“撮影”と大上段に申してみても、撮ることだけで、それが実際、安ビデオに映っているかどうかも不明。録画状態を確かめている時間もないのです。しかも、買う際に聞いた録画可能時間がきたら、その後の処置は全くお手あげ。
 
 それに、Bさんはいつもの反語と心得ていますが、「何も来なくたっていいよ。来られりゃかえって邪魔だい」と、のたもうてくれたのです。
 でも、その言葉とは裏腹に、田植えと言う農家にとって最大のハイライト。80歳すぎながら、未だ現役のその時のご自分の雄姿を映像にとどめておきたい気持ちが、そこはかとなくあることも読み取れるのでしたけれど……
 てすので、雑務を兼ねた仕事をこなしている間にも、たぶ坂道を下って久森水田に入っていく私の車を待ちあぐねているかもしれない、Bさんの姿が、しきりにちらついた次第です。
 
 そして、一昨日20日、完了。
 となると、今月は1週間後に迫ったイベントが二つあるし、なにやかやとあるからと止めていた、恒例の高崎人情市への出店が頭をもたげました。
 というのは、屋敷うちのサンショウの実が日ごとに膨らんできてしまっていたのです。どういうわけか、半世紀も殆ど手入れをしない荒れ屋敷の中で、サンショウだけは約20本を超えるのです。その内、実のなるのが半数。新芽の時の採取は断念しましたが、もったいなやがりの私は、このまま落としてしまうのは、惜しい。
 このフリーマーケットで、少しでも販売するのが、ここ何年かのことでした。昨年は思い切って、市場へ持っていったものでした。でも、この時期は、農家ならずとも超多忙時期にかさなるので、その忙しさは並みではありません。
 ちりめん山椒にするのには、最も最初の柔らかいうちに摘みとらなければならないのです。
  もし、スペースに余地なければ、断念するのですが、21日、事務局を兼ねてくださっている「たかさきやるき堂」さんに電話したら、0K。

 となると、次は販売品目の品ぞろえ。
 そして、一仕事終わった解放感から、色濃く迫ったのは、Bさん宅の田植えのこと。
 でも、八ッ場へいっても、この時期は原木しいたけはなし。
 サンショウの実採りだけでも、残された土曜日1日はかかるのですが、そんなにさばけるものでもなし。
 それにその周りに嫌というほど生えているフキ。真竹には間があり、黒竹は少量。花物もいつもながらの地味なもので決めてはなし。急な出店だから、出店料の3000円がクリアできれば良しとせざるを得ないことはわかっても、何事も最大限のことをしたのが性癖のヒト。

 前日にルス電にいれさせて頂いていたあることの問い合わせもあって、Bさんに電話してみると、最後に「田植えは、はぁ終わったい」とポツリのひと言。
 ……ともかく、八ッ場へ行って、陽のあるうちに帰っきて、急いで自宅周辺のものでの品揃えをすることに。
 榛名山中を突っ走っている間にも、この小型ダンプと呼ばれてきたわが身もまたガタが出始めているのだから、Bさんか゜、来年もまたお独りで田植えが出来るとはの保証は定かではなく、秋の収穫期よりも田植えの方が清々しい映像になることは決まっていたのにと、やや自責の念と悔いに覆われてました。

 道々、耕作地などを目で追いながら、自宅周辺にさしかかると、めったに人の姿を見たことのないその一帯の田に、農家の方たちの姿があり、活況を呈していました。後にご近所のCさん宅がご家族総出の田植えと分った次第。
 そして、なんとその先の田でBさんが、田植え機にまたがって、植えているではありませんか。
 一瞬、「全くモウ」と思いましたが、うれしさがこみ上げてきました。「終わった」というのは、メインのやんば館前の久森と田の場所で、自宅前は今日なのでした。
 で、「良かったぁ!! 間に合って」と。
  
 Bさんの年間を通して、最も? 大変できぐろうだけれど、反面晴れがましいご雄姿をビデオと壊れかかったカメラに納めながら、合間に、畔の塗り土の間から、芽吹いたばかりのセリの新芽を摘み取りました。
 つまり、休み休みなされるので、その待つ間も惜しいヒトなのです。その上、セリの若芽は本当に吸引力がありました。
 Cさんのお宅には、「背景に少し、映ってしまいますけれど、皆さんのお顔はわかりませんのりで」と申し上げると、「な~に、いいよ」とのこと。で、「じゃ、むしろ、写させていただきますけれど」とお断り。
 とりわけ、機械植えの後の補修の手植えに余念のない物腰の若いお嫁さんの姿は、場面に絵を添えてくれそうです。
  
 そのCさんご一家が、昼食に引き上げた後、道端の日陰で休んでいる、しかしご本人は「休んでるんじゃねぇよ。これからどういう段どりでするか、考えている」とおっしゃる、その長いこと考えていられる処へ、時間に急かれながら作った弁当類を運んで、「お昼にしましょうよ」と。
 「アンタの作ったもので俺の口に合うものは無いから、持ってこないで頂戴」と常日頃、何回となく言われているのに、性懲りもなく、これもまたもむいつもの「反語」とみなして、堂々と持っていくのです。
 この日のメニューは時鮭とタケノコの簡単炊き込み。
 それに孟宗竹はこの地域には一カ所しかなく、なんでもかんでもあるらしい昔からの農家のBさん宅にも、どうやら無いらしいとわかってきたタケノコの煮ものと炒め物。色どりのスナップエンドウもたっぷりと詰めて、「お味は後で好みの味に煮直して」と伝えました。
 二人で野良弁当を食べて、まだ二枚の田が残っているのですが、明朝までにフル回転の身なので、時間に迫られてこの日の収録は無事に修了ということに。
 車に戻った際、Bさん宅の伸び放題のコゴミの草むらの辺りに目をやった私の姿を見ていたのか、車の窓から「それじゃ」と言うと。「そこにワラビが生えているから、採ってけゃ」とおっしゃる。「あぁ、でももうバックするの大変だから、後で来る」と言うと、「後でまた、来られたら面倒だ」との声が飛ぶ。が、これもまた「反語」と勝手解釈して、次の場所へ。
 でも、Bさんの今年の田植えの場面が無事に撮れて、本当に良かった。  


Posted by やんばちゃん at 23:56Comments(0)八ッ場だより

2010年05月21日

5/30 「八ッ場で田植え」だよ!!

 これも村おこしです。
  先にお伝えした「5/30 八ッ場で田植え」いよいよ、来週に迫りました。
 参加募集の件、もういちど、本欄で皆様にお願いしたいと思います。
 チラシをご覧いただければよいのですが、ブログには添付もPDFファイル(ある方がメールで懇切に教えてくださったので、何とかできたのです)、できないので、以下のべた打ちしかできないのですが……
  なお、その後、きちんと決まった細部のことは、
  ①小雨でも結構。大雨の場合は中止。その場合は耕作主のS・Sさんが機械植え。  
  ②作業は一時間程度
  ③昼食は実行委で用意します。
    おにぎりとS・Sさん提供のイノシシ汁です。楽しみにしていてください。
  ④希望者による入浴代は、個人持ちでお願いします。 水没地内4カ所(長野原地区を除く)にそれぞれ泉質の異なる入浴施設があり、どこも300円・川原湯「聖天の湯」は100円(但し露天・混浴)で入れます。

八ッ場のたんぼで□田□植○えだよ!!
日時  5/30(日)11時~※小雨決行 
集合  やんば館 10時45分頃 ※電車の方には送迎あり 
    場所は2号橋直下の久森水田 
費用:なし

昼は、野良弁 食べちゃおう
 汗をかいても、温泉があるよ


 ※申込期限: 5月25日くらいまで
 ※水田に入るので、汚れても差支えない身支度、又は着替え等をお持ち下さい

※連絡先:「八ッ場・田植え実行委員会」
?090-8722-8326(現地・篠原)
?090-2910-4722(鈴木)  spq272s9@rondo.ocn.ne.jp      
 
  お気軽に、ご参加を!! お待ちしています。  


Posted by やんばちゃん at 23:54Comments(0)八ッ場だより

2010年05月20日

僭越ながら、川原湯温泉おこし作戦

 昨日の続き。
 勝手に大上段に掲げれば、僭越な“川原湯温泉繁盛作戦”的な“村おこしならぬ温泉街おこし策”。
 おおきなお世話と言う声が、耳元まで聞えてまいりますが……

 海辺の市場に行くと、そこで買った魚類をさばいて、お刺身や煮ものにしてくれます。
 それと同じように周辺の農家の方にタラの芽、コゴミや田ゼリ、山ウド。ワラビは翌朝は食べられるけれど、ゼンマイはちょっと手間はかかるからムリかもしれないけれど、そういう山菜類を栽培してもらっておく。ここで地場産業一つ成立。ただし、畑めいた場所よりも、自然の野山の風情のある場所の方がベター。
 お客は好きなものを採集してきて、旅館で調理してもらって、夕食や朝食で出してもらう。余分に採ってしまったのは、お土産として量に応じて販売。
 そんなシステムはいかがてしょうか?
 
 何しろ、山菜採りは「自分の手で摘む醍醐味にあるのですから」
 それと川原湯温泉の売りは、温泉卵。草津温泉だってどこだって出来ないし、何しろ下手なお菓子類よりずっと実用的で喜ばれ、しかも格安なおみやげ品となります。しかも、「私が作ったのよ」のプレミアムがつきます。

 でも、これも、ダイエットパレー構想、エクササイズセンター並みの実現不可能な、夢物語でしょうか。でも、それよりもずっと安価で、すぐにも実践できるんですけれどね。
 川原湯温泉の観光組合さんにでも、お伝えしたくらいです。
   


Posted by やんばちゃん at 23:52Comments(0)八ッ場だより

2010年05月19日

月夜のセリ採り顛末記ー川原湯でマグロは?

 さて、いよいよお尻に火がついてきて、時間がなくなりました。
 以前、4月半ばに記してはみたものの、長過ぎてカット。ゴミ箱にお蔵入りになっていた駄文が目にとまりました。「さて、毎度の蛇足」とあるように、自分でもちやんと承知しているので、ご寛容のほどを。
 今年は、4回しかできなかったせり採りのうち、2回が夕方の手探りでした。
 今では多少明るくなりましたが、4月半ばはもう、夜と言ってよい時間帯でした。ですので、「神経を疑われかねないな」という、それへのためらいもあっての削除でした。
 もう、田植えのはじまった八ッ場の田んぼではせり採りはできません。せめて、今年最後のセリへの愛着をこめて。

 末尾の山の中の温泉場での、マグロの話。
 考えさせられませんか?
 先日も、川原湯温泉に泊まられたある海辺の方が、「マグロの刺身がでましたよ」と言ってましたっけ。
 それよりも、セリのおひたしで十分なのに…… 野カンゾウの酢みそ和えだって、立派な懐石料理の一品になるんです。
 そこで、温泉関係者の方たちに、ご提案。
 無難な線から、海と山の代表的な素材をえらぶのでしょうが、あらかじめ宿泊客に料理のお好みコースを伺ってはいかがでしょうか?
   ①一般、ありきたり宴会コース
   ②山里の味・山もり満喫コース   など
 材料にことかけば、それこそ近隣の農村部との提携にて栽培してもらうなど、村おこしになるじゃありませんか。
 川原湯に泊まれば、「あのタラの芽やコシアブラがいっぱいでるんだ。それにも田んぼのセリがどんぶりいっぱいだよ。なつかしかったねぇ」。
 このヒト言の口コミって大きいですよ。

///////////////// 
 さて、毎度の蛇足。
 出がけに、またセリを採ってきて、鮮度の良いのを都会の方に送ろうと心づもりしていたのに、採っている時間がなくなってしまった。でもやっぱりと、欲深オバさんはあきらめきれない。で、暗くなった7時過ぎ、久森水田に向かった。
 対岸の今は転居し、無くなってしまった方の宅地跡の方が下るのに緩やかだから、そこに止め、久森沢の流れを渡った。
 夜間は2号橋がより近くにみえて、田の見当もくるってしまう。覚えのある畔を手探りしたが、夜目にすかすと、草ばかり。静まり返った田は、やはり怖くなってくる。
 あきらめて、帰り路、泥だらけの手を沢水であらおうと川べりに降りると、澄んだ流れからは石床がみえた。本当は容器に一杯とって、この流れで収穫物のセリを洗うはずだったのに。
 もし、月が出ていれば、セリと雑草との判別がついた、その口惜しさもあってか、あることを伺いたかくて次に立ち寄ったNさんはルス。帰り際に「ずいぶん、遅いじゃねぇ」と言われ、N夫人に(いつも、奥さんで読んでいるのでこの方のお名前わからず。失礼なので今度は誰かに聞いてみよう)、口から出た言葉は「月夜を頼りにセリをとっていた」的なことを言ってしまった。「やだょ、こんな暗くなれば、イノシシが出るよ」と言われた。 
 で、帰途の道すがら、小一時間ほどして、Nさん宅に電話すると、ようやく戻られたらしいNさんに「今頃まで、何してんだい」と問われた。「今ね、温泉たまごゆでて来た処。今日は温泉も時間外でダメだし、セリも採る時間なくて、先っきまで月夜を頼りにセリを採ってたん」と伝えると、「今日は月夜カィ」と揶揄されて、わが頭の暗さを再認識した次第。
 
 そうなのです。私の頭は終日、なぜかおめでたいくらい、一点の曇りもない月夜の輝きです。
 明日、宅急便で送るつもりだったので、この春のセリを採りたくて、ウズウズなのです。
 次に訪れる頃には、田をおこされてしまっているだろうし、それに虫もつくかもしれない。
 
 夕暮れに立ち寄った旅館街のあるオーナーに、「都会のものには、この田セリだって魅力なんですよ」と、セリ採りツァーの夢構想を。
 私がもし旅館の女将だったなら、ここでしか食べられないもの。
 春はこの採れたて茹でたてセリのおひたしをどんぶりいっぱい出す。それにコゴミのてんぷら。葉ワサビの醤油漬けも添える。山の中で色の落ちたマグロは要らない。  


Posted by やんばちゃん at 23:57Comments(0)八ッ場だより

2010年05月18日

黒い事実を白く演出し続けてきた、この国の公務員さん達よ

 よくぞ、寝るに寝たり。
 なんと、11時間ほども寝てしまいました。
 一昨日の17日、月曜日は真夏日。 土木事務所へ地域の草刈り作戦の提出書類を届けに行った帰りの車の中は、暑くて暑くておもわず、長袖の上に羽織っていたのを脱いでしまって、下は半そでだったにもかかわらず、そのまま、終日すごしてしまったほどでした。
 二日間の強行軍の疲労感と脱力感で、急ぎの八ッ場関連のしあげなければならないことも少しも進まず、朦朧状態。
 
 夕方ちょっとミツ葉を摘みにでた庭先でまたもやってしまった草むしりの後の汗を流し、とりこんだばかりの布団に、「エェ~イ、ちょっと休んでからにしよう」とばかりに横になったのだから、無理はありません。そのまま朝の五時。
 もしかしたらまだ夜中?  ダメでも2~3時頃だろうなと期待して起きたのに……
 でも人間、寝過ぎると、またダメなようです。
 結局、あちこち電話ばかりでことは進まず。焦り気味に。
 
 しかし、八ッ場では着々と付帯工事が進んでしまっているのです。できあがった道路網や代替え地の景観に、「やる」となったら、近代工法の粋、進むのは速いとみこんだのはあたってしまってました。
 高台にあがると、眼下には赤茶けた大パノラマが広がって「ウ~ん」と思うしかありません。最近はあまり訪れなかった場所の高台に行くと、また新たな視点を発見。
 そんな中、まだ確証がとれず記せないのですけれど、個人の欲の際限のなさに改めて歯ぎしりする出来ごとに遭遇しました。こういう公共事業の中では誰が旨みを吸うか、突出した役得を得るかですが……
 ある時のある役職の公務員さんが、ひょんな時にひょんな会話の中で、思わず腹の底から飛び出したといったニュアンスで「でもね、世の中には、あきれて嫌になるほど欲の深いヤツもいるもんですよ」のようなことを嘆息気味につぶやいていた言葉か゜、不意に生々しく輪郭をもって浮かんできました。
 もしかしたら、あの嘆息語はこれを指すのかなぉとも思いだされた次第です。
 (……たぶんあれは、あの人物の最低限、まだ失われていなかった良心の吐露だったのでしょう。だがもし、今あらためて問えば、とぼけるに相違ありません)

 全部とは言わないが、大方の公務員は、黒すぎる事実経過は百も承知で、「白い」とシラを通し切り、さらにその糊塗役を見事に演じてくれるのだから始末が悪く、処置なし。
 例えば、書類なんて作図なんて、後から書くなんてオチャノコサイサイだろう。
 品木ダムの汚泥の土捨て場に、ビニールシートもないのに、「管理型処分場」の許可を与えたのも、まぎれもなく県と国の公務員さん達。
 在任中の公務員の仕事に対しての職責を問われないそうだが、法改正をして、退職後も「現職中の犯罪行為」への責務を課したら、誰しも本来は持っているという性善説に従って、本ものの職責を果たすだろうになぉと、夢物語を本日も朦朧状態の中で考えてみる次第です。
 極めて、当たり前のことながら、「公務員さんよ、あなたの税金も、一部の有力者の資産倍増計画に使われているんですよ!! 」 とたたきつけたい新境なり。

  さ~て、今夜は何時間、寝ようかな。  


Posted by やんばちゃん at 23:56Comments(0)八ッ場だより

2010年05月17日

温泉卵、?? 茹で時間の実験をしてみました

 いよいよ佳境に入り行く、わが老化現象の実績報告を。
 
 まず一つは、気にいっていた帽子を落してしまいました。
 昨日の夕方、気がついて慌てて、心あたりのコースを戻ってみましたが、あるはずもありません。陽ざしが強いので、二日目はいかついウオーキング用のタレのついたのも持参。そちらを主にかむっていましたのが、ひとなかに出る時は、かぶり代えてました。
 そんなことで、本日は気持ちが滅入っています。
 同じものは手に入らないだろうし、ましてあの素材で縁にワイヤーの入ったのなどはと。そのワイヤーに時にはてこずっていたのに、無くしてみると、便利だったなと惜しくなるから不思議です。去年の夏、探し回って、パッと眼に飛び込んできた落ち着きのある柄物で、値段からみても満足品だったのでした。
 帽子ひとつでこんなに落胆するのは、品物への執着心もあるけれど、根底にはまぎれもなくやってきた己の老化現象のおののきがあります。そして、これがもし親族ならば……、飼っている犬ならとしみじみ思って気休めをしました。
 普段は邪険に扱う、わが家の犬。
 何年か前、骨と皮ばかりに痩せて迷ってきて、首輪をしていたので誰がいるのだろうと仕方なく餌をあげ、結局、飼った犬だけれど、もう捨て犬とは呼べずにれっきとした飼い犬と呼ばざるを得ないのですが…… 出かける朝の散歩や疲れ切った朝などは、「あ~あ。こんな犬いなければ」と思うことしきりです。
 ましてや、家族ならひとしお。

 ところで、昨日15日の夕刻、宿にお送りするため川原湯温泉を上って行きましたら、故・樋田元町長のご葬儀のマイクロバスが着いた処で、黒づくめのご一行がいらっしゃいました。顔見知りの旅館街の方たちでした。
 帰途、川原湯駅前から中之条近くまで、ずっとこのマイクロの後を走ってきました。
 なお、この日、長野原町内の方に「ご葬儀、行かなくていいんですか」と問うと、「今日は密葬だから」とのこと。この町では密葬の場合にはご遠慮するのが通例なのだと認識していた次第なのでした。
 で、帰宅したばかりの旅館関係者のある方に「密葬だけれど、皆さんはやはり行かれたんですね」と問うと、「参列者もいるかもしれないと思って」とお手伝いに行かれた由。中之条周辺に移転された方たちは、参列されたようでした。総勢約百名くらいだった由。

 もうひとつは温泉たまごをなんと、老化現象の健忘症で5時間も茹でてしまった、傑作です。
 それでも、白身はかたまらないのだから不思議です。
 草津温泉でも近隣の温泉でも、観光客に温泉卵を茹でさせてくれる施設はなく、買えば結構、お高いです。ですので、川原湯温泉ではこれを売りにすればよいのにと思います。

 お荷物にならなかったらおみやげにと、帰られる二日目も新たにゆでたのでした。
 茹で時間は15分となってますが、ここ何か月が、倍の時間ゆでてもダメ。4月頃、通りがかった旅館のオーナーさんも「時間は長くゆでなければダメだよ」とぶっきらぼうながらも、老婆心的に教えてくださいました。
 また、15日にも良く茹でに来るというご常連さんから、「今は15分どころか、1時間でもダメだからね」と言われていたばかり。その日は40分であげましたが、まだトロトロ。
 で、吾妻渓谷をご案内して、帰途に立ち寄って、引き揚げる心づもりでいたのでした。ところが、他の道を通って、長野原地区方向へまっしぐら。
 お昼になって弁当を使う際に、気がついて、結局、お別れ間際の駅への道すがらに引き上げたという次第。
 もう、誰かにもって行かれたかも知れないなとも思いましたが、ありました。足湯を使っていられた一団の方たちに「朝から入れっぱなしなの」と言うと、大笑いされました。
 
 お味を見る時間的余裕もないので、先にホームに入っていてもらっていたのでしたが、もし食すにあたいしない代物だったらと憂えて、おみやげの数は数個にとどめ、つぶれても汚れないようビール袋等で包み、走ってホームを駆け上がりお届けした次第です。
 
 無事電車を見送りした後、つぶれたのを食すと、黄身は完全に固まってました。、もしかしたら、効能が濃いかも。 「温泉卵はあったかくなくちゃ」というある方におやつがわりに持っていこうと閃きました。今日はまだ姿を見ていないけれど、多分野良仕事だろう。数はたっぷりあるから、いつものお手伝いの方のもあるしと。
 この方の耕作地を探しつつ走りました。家には軽トラックがあるけれど、自宅前のたんぼにもいられず、となると、トラクターで行ったのだと推量。残るはあの田んぼとそこへ行ってみました。
 長野原町で親しくさせて戴いてきたお宅の耕作地は大体、頭に入っています。ましてこのお宅では、農作業をお手伝いしたことがあるので、良くわかります。
 幸い吾妻川沿いの谷底のとってもすばらしい景観の田んぼで、今日は独りで農作業の最中でした。私はこの田んぼの方が、久森水田とはまた違った昔の心なつかしい田んぼの風情があるので大好き。

 細い草道をかきわけて、「お茶にしませんか」と田植え前の作業に余念のない、このZさんに声をかけ、コーヒーを入れました。
 早朝、忙しい思いをして、大型魔法瓶にいっぱいにしたのに、いい加減な置き方で突っ走たものだから、八ッ場へついたら、あらかた車の中でこぼれてしまっていて、昼のお茶も心配気味だったのでした。
 でも、かろうじて、Zさんのは足りて、最後に私も少し飲めました。草の上に足を投げ出すととっても良い感触。
 「ここは本当に良い処ね」と言うと、「夕方、水見にくるんはおっかねぇよ」という程の場所なのです。
 何しろ、左は絶壁。右は谷底の急坂の細い道を急降下しなければ到着せず、自分でも、よくぞこんな道が走れるようになれたと思う次第です。
 「くたびれたい。年とったいなぁ」とおっしゃるので、「これ、本物の黒酢の飴だから」と疲れとりの飴も薦めながら、心の中で(
でも、もう80歳を超えているんじゃないですか、息子さんた達が遠くにいられることもあるけれど、こうして現役で耕運機をこなしているだけでも、驚異ものなんですよ)と。

 ただし、思い出したのは以前、田植えだったか稲刈りだったかの際、半年前の耕運機の使い方の手順を、度忘れしたとか聞いたことがありました。
 もちろん、本番の刈り入れや田植え時には息子さんや娘さんご一家が、援軍に見えます。
 前の日の土曜日に、やんば館近くを走っていて久森の田を見降ろしましたら、Zさんの田の辺りで耕運機で作業している男性の姿が小さくとらえられました。
 で、こんな場面はないから、シャッターチャンスとばかりに、お客さんにはやんば館で展示物をみてもらっていて、ビデオを持って急坂を急いで下りていったのでした。 でも、途中で、妙にトラクターの勢いが良いのに気がつきました。何年か前の「動かし方を忘れた頃」の運転は、ノロノロ状態でした。
 まるで、若者のように回転が速いのです。しかも、若々しい赤目の洋服。で、息子さんがやっているのかなとも考えました。が、それならお孫さんたちも総出なハズです。それともご近所の誰かに頼んだのかと思ったほどでした。時間がないから、近くまで行かないで、ここで撮ろうかと思って、望遠レンズを廻しましたら、どうもやはりZさんらしいのですが、定かでなく、結局、確認しにどんどん近づいてしまった次第です。
 ですので、むしろ心配なのです。
 もしかしたら、あの機敏な速さも逆に“老化現象” の一種では? もしかしたら、制御の感覚が利かなくなってしまったのかなとも、他人ごとながら、心配になります。

 さて、その老化現象のまだトバ口だと自分では思いたい私が、「あのね、5時間以上、ゆでちゃったん」と卵を差しだすと、またたく間に2個たいらげられたこの方、(普段はいつも、なんだかんだケチをつけられるのに)、いわく「俺はね、卵の黄身が半熟なのは、嫌いなんだよ」とさ。そうだったんですか……、今まで半熟の温泉卵を我慢して、何回も食べて頂いてゴクロウサマ!!

 ほどなく、作業にとりかかったその姿をビデオに映していたら、隣接する田の耕作者の方が軽トラックで降りてみえました。
 八ッ場は、これから田植えの真っ盛りです。
 どうやら今年もご高齢のZさんの田が、進み具合から観て、一番乗りのようです。でも、昨日の久森の田んぼでも、帰りしなに近場の休耕田を借りて耕作中の、壮年期のAさんが息子さんと一緒に見えてましたから、ゴール直前で競り合って、Aさん親子が一番乗りになるかも知れません。

 どうでもいいことだけれど、何年後かには、私もZさんも「もはや処置なし」状態の老化現象に突入してしまうことでしょう。記憶を手繰り寄せるよすがの一助として、相も変わらずの駄文を、細部までことさらに記してみる次第です。
 ここまで、お読みくださった方に感謝です。  


Posted by やんばちゃん at 23:10Comments(0)八ッ場だより

2010年05月16日

ガイド役、二日目

 帰宅後、メーターをみましたら、二日間で412.5㌔でした。ということは、本日は188㌔の走行でした。
 
 ところでどういうことなのか、行くたびに道が変わっているのが横壁です。
 舗装し終わって完成した道路の直ぐ上に、また、新しい道路が建設し始められるのです。そして今度こちらが完成。するとほどなく完成したばかりで間もないのになのに、舗装面が砕かれ、痕跡をとどめなかったり。ために、地域のシンボルだった元の諏訪神社の辺りなんて、これだけ通っている私にだって、定かでなく、今日も土地の方に確認した次第。
 
 昨日、ある光景に怒り心頭となって、進んでいったら、交通止め。しかたなくバックした次第。そこはメイン道路的として、これから反永久的に残るこの村の道路とばかりに考えていた道なのでした。
 ともかく、横壁の道路工事は不可思議です。
 なんで、こんなに変更し入り乱れなければならないのて゜しょうか。
 なのに全くの個人的な道を各幅する大規模工事があったり、果てはその方の自宅を壊していたりするのです。ということは道路にひっかけたれっきとした公共事業となるのです。
 月に数度、通ってもあちこち立ち寄ったり、本日のように早朝、出発ではありませんから、頻度の少ない私たちだけでなく、土地の方たちも時々、めんくらうようです。
 一種の“めくらまし戦術”にも感じられてしまいます。
 何でこのように路線変更ばかりしなければ、ならないのか、そのうちにわかるかもしれません。 

 今回のご案内は、この間、ひとつひとつ自分の足で確かめた現場の変遷、妙な税金の投入の仕方などをお伝えしたつもりです。十二分とは言えなくとも、私のなかではむしろそれ以上のご提供。身体も頭の中も、空っぽ状態です。
 天引きで税金をかなりとられているらしいその方は、私の怒り口調が映ってか、「ひどいなぁ、ダムってなんですか」的な疑問語を投げかけられてました。
 今日は、長野原地区の墓地には驚嘆して、奥まで進まれてなかなか車に戻ってきてくれないほどでした。  


Posted by やんばちゃん at 23:51Comments(0)八ッ場だより

2010年05月15日

約220㌔のガイドでした

 ガイド役の終日でした。
 八ッ場全域、東長野原町はもちろん、品木ダム関連施設の草津町・六合村も無論、奥地の群馬鉄山。
 さらに群馬は初めてという遠方からの方に、草津温泉の湯畑付近。ここで止しておけば良いのに谷沢川上流から香草中和工場へ行こうとして、なんとさらに志賀草津高原火山ルートを長野県境までひた走り。「雪の回廊」で名高い四月末、開通したばかりの国道です。まだ山々には根雪が残っていて、2000㍍クラスの山々はま近く迫り、雄大な景色でしたというより、途中怖くなられたようでした。無理はありません。湯釜の周辺は「危険」「危険」の立て札ばかり。途中、。硫化水素の匂いきつく「駐車禁止」の立て札があれば、誰しも怖くなるのはムリはありません。おまけに満タンにしていかなかったガソリン欠で「ピカピカ」点滅状態。50㌔近くは走れると聞いていたので、私は慣れっこですが、乗ってられる方には不安感が募る一方だったようです。
 さて、本日の走行距離、224㌔でした。

 明日は、川原湯温泉へ9時です。
 本日のホーローを行いたいと思います。  


Posted by やんばちゃん at 23:33Comments(0)八ッ場だより

2010年05月14日

樋田元町長、死去ー跫音、残して静かに

 図らずも、昨日、高山町長のインタヴュー記事から、ダム反対期成同盟から押し出されて初当選の樋田元町長の、1985年の推進方向への展開時の水面下での動きについて、ふれてしまいました。が、なんと、その樋田富治郎さんが、昨日の朝、ご自宅で、急に亡くなられていたのでした。
 早朝の「未確認情報ですか゛」とのメールで知り、現地に電話して確認した次第です。昨晩電話した情報通の方がルスでなければ、すでに温泉街では周知のことですから、たぶん、昨夜のうちに知っていたものをと思いました。
 苦渋の選択といわれる、1985年のダム受け入れの調印式に臨まれるまでの4期16年間の執政中には、きつい場面もあったことでしょうが、最後まで、黙して語らず、86歳のご生涯を貫かれたようでした。ご存じのように、山木館の前ご当主でもありました。
 
 前に聞いた話です。
 老化現象も進まれた頃のことですが、カバンを持って温泉街を歩かれていたとか。執務時代のものでしょうか、思わず、突き上げてくるものがありました。
 最晩年は、おみかけすることもなくなりましたが、7年くらい前までは、旅館真向かいの山際の花壇の手入れなどをしていらっしゃるのを拝見しました。
 政治の世界のアクめくものを漂わさせない清廉で穏やかなご風貌の方でした。たぶん、沈黙を守られるために広く世間にでて交わられるのを好まず、ご自分を誇示されるタイプでもなく、引き込みがちな晩年ではなかったでしょうか。
 私は八年前の町長選の際、ダム反対を掲げた候補者宅に泊まりこませてもらい、お手伝いをしていた席で、陣中見舞いにこられた樋田さんのお顔に、アッと思い至りました。
 お茶を出しながら思い切って「お話聞かせて戴けますか」とおそるおそるきりだしてみました。そうしたら、「いいですよ」言っていてくださっていたのに…… 、あの時に臆せずに、すぐに伺っていればと以後、何度か悔いてました。そして、今は突き上げてくる悔恨の思いが塊となって固まってます。
 というのは、その後、しばらくの間は旅館の前などでおみかけしていたのに、体調を壊されたとかで程なく、おみかけしなくなってしまったのでした。
 その場には、県議時代の山本龍さんも同席され、話が八ッ場ダムのことに及んでました。山本さんの「知らなかった。そうなんですか!!」の繰り返し語が切れ切れに耳にとどきました。まだダム問題に入って日が浅全容も分らないながら、県議って地元なのにあんな認識しかなんいのかしらと率直に思いました。

 昨日の続きをどこまで記そうかなとも心づもりしていましたが、しばし、私も沈黙。
 今は八ッ場へ出入りさせて戴いている者の一人として、ひたすらご冥福を祈るのみです。

 以下に報道記事を。上毛と読売の二紙は、何とも予定稿的、脚色気味な筆づかいを覚えます。
 上毛新聞と読売には現町長の談話があって、複雑。 両家は双方の選挙での義理関係で密接な間柄なのですけれど……、
 それにしても亡くなられても、八ッ場ダム推進の具に活用されたのでは、ほんの幾ばくかのご縁ながら、樋田元町長さんが痛ましい感じがしてなりません。しかし、樋田さんに似あわぬと瞬間的に感じた“政治家”の語ながら、その政治の世界に身を置いた者の宿命でしょうか。
 上毛新聞のは無料サイトにないので、割愛。
/////////////////////////////
 【2010年5月14日 朝日新聞群馬版】
 http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000581005140002
  ダムで過ぎた人生 元長野原町長が死去
 /////////////////////////
 【2010年5月14日 読売新聞群馬版】
 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20100514-OYT8T00063.htm
  樋田元長野原町長が86歳で死去
   八ッ場受け入れ決断
  


Posted by やんばちゃん at 22:55Comments(0)八ッ場だより

2010年05月13日

ダム騒動記ー刻みの跫音

 本日も手っ取り早い報道記事にて。
 まず、再選を果たしたばかりの長野原町長 高山欣也のインタヴュー記事が上毛新聞に。
 /////////////////////////
  【2010年5月13日(木) 上毛新聞 19面地域 写真あり】 
    わが町のビジョン  長野原 高山欣也町長
      「八ッ場 生活再建めどを」
  
  写真のキャプションには、「最重要課題は八ッ場ダム問題」と語る高山町長となっています。
  残念ながら無料サイトにアップされてません。
  打つのも……で、思案してます。
   で、パッと書きだせる関連話題を少々。
  高山町長の父親、高山要吉さんは、例の関東建設弘済会の懐柔政策として、刊行された自分史10人の執筆者のお一人です。 題は『閑雲草庵雑記』。
 「はじめに」での出だしは前橋市内のホテルで盛大に行われた孫の結婚式の場にての回想シーンから始まり、郵便局長を務めたことなど、全編成功ストーリィー的な色あの濃い内容です。才覚と力量に恵まれ、太く生きられたご生涯のようでした。2~3年前にお亡くなりになられています。
 なお、親と息子とは別個の人格ですから、言及はこれまで避けてまりました。
 が、最近、刊行された書籍の中では親子関係をはっきりと記述。また、近々、出される予定のある書籍の中でも、かなり具体的に高山要吉さんのなされた動きが記されてます。
 なお私も、昨年末、刊行の拙著『八ッ場ダムー計画に振り回された57年』末尾の年表の中で、追いこまれ行く、樋田元町長町長下の動きを以下のごとく記しました。でも、親子関係のことは、関係ないので付記はしませんでした。
 
    川原湯温泉高山旅館主の高山要吉氏も、小寺弘之秘書課長(当時)の再三の仲介にて清水知事に前橋市内の待合で会い推進の手伝いを約束。8/21の懇談会などの下準備を水面下で行う (※事実経過は「関東建設弘済会」刊の自分史にあり)
  当時、事実に基づくこれだけの記述でも、細心の注意で記しました。これに対して、複数の長野原町の方に声を聞くと、
 「町の者なら、皆~んな知っていることだから、大丈夫よ」
  「な~に、もっと書きゃ、良かったんだ」
  「樋田さんだって、知っているよ」
   本当に、もっといろんなことがあったことを、この間、取材して参りました。
  
 さて、この位にして、本職の新聞記者が取材してきた、もうひとつの深刻な記事を転載して、脱線気味の本日の欄を閉じます。実際の紙面では写真ニ葉とも白黒です。
  ///////////////////////////////
 【2010年05月13日(木) 朝日新聞群馬版 紙面全体の7割方閉める大記事】  
    http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000001005130002
     遠のく再建 募る不安
         


Posted by やんばちゃん at 23:53Comments(0)紹介

2010年05月13日

参議院選 八ッ場ダム争点

  間近く迫った、参院選。
  ついに、八ッ場は争点となってしまいました。
  もしも、自民・中曽根さんが勝ってしまえば、八ッ場ダムは公然と造られちゃうことになります。そんなことにならないよう、富岡さんにはまなじり決してもらって、同時に私たちも臨戦態勢下の必死の構えですね。
 でも、保守王国・群馬です。怖い限りです。
 大阪城の堀が埋められ、残るは本丸のみとされたように、仮排水トンネル、一号橋と造られた準備万端の今、残すはダム堤のみの状況下にあり、推進派はそれを口にしているのですから。

  /////////////////////////
  【2010年5月12日(水) 毎日新聞群馬版 写真あり  http://mainichi.jp/area/gunma/archive/news/2010/05/12/20100512ddlk10010178000c.html
参院選’10群馬:富岡氏と中曽根氏、県建設業協の質問に八ッ場ダムで回答 /群馬
 ◇富岡氏「住民納得で中止」/中曽根氏「着工すべきだ」

/////////////////////////
  【2010年5月12日(水) 読売新聞群馬版 対比表あり 
 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20100511-OYT8T01262.htm
  八ッ場ダム、政策割れる
  建設業協会 富岡、中曽根両氏質問状に回答
 
 /////////////////////////
  【2010年5月12日(水) 朝日新聞群馬版 /strong> 
 http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000431005120001
  2010参院選@群馬
  八ツ場、違い鮮明 県建設業協会が回答公表

 /////////////////////////
  【2010年5月11日(火) 上毛新聞一面トップ /strong> 
 断面1 迫る参院選
   「八ッ場」が争点に 支持層のねじれも 
 二大政党対決
   民主 逆風回避に苦戦
   自民 頼みの組織陰り

/////////////////////////
  【2010年5月12日(水) 上毛新聞 
 現職2人の回答公開 
  公開質問状 八ッ場 公共事業で対立  


Posted by やんばちゃん at 13:43Comments(0)紹介