2010年03月30日
八ッ場に、春の訪れ
10時 県情報公開室に行き、コピーで8枚の資料をもらった。
担当者の方とも特定ダム対策課の窓口の方とも、すでに顔なじみ。
その帰途、郵便局で印紙を6920円分買ってきて、半月ほど延び延びになっていた6通の開示請求の申込み手続きを、ようやく関東地方整備局へ送付した。
資料の開示請求を送付したのは去る1月初旬。再度、文書名を特定して1通に300円の印紙を貼って送付。以来、丸3カ月以上。こちらのご担当の方とも、すでに声なじみ。関東地整では、CDでの要望の方が手間がかからないとのこと。
これだけ期日のかかる開示請求は必要になってからでは、間に合わない。事前に採っておかなければならないとは思っても、どこが核心なのか漠然としてしてしまうのはいなめない。しかも、今回もおそらく墨塗りデーターであろう。
それにしても、6文書で合計約一万円という経費も痛い。しかもこれだけではまだ終わらない。
今回、3/9付の申込み書が届いてから、実際にまだ先でいいやと忘れてしまったこともあるが、直ちに手続きできずに、うっちゃっておいたのは、恥ずかしながら今月はなにやかやともの入りで、印紙代金の不如意にあった。ようやく、昨日、振り込まれたものがあって、本日、求められたのが真相である。
でも、一つのことを終えた安ど感から、気持ちがスッキリ。
同じくあるネックになっていたことも、事のついでに全て片づけてしまいたいが、次は、すでに3時過ぎ。でも、明日は葬儀ごとがほぼ同一時間帯に二つある。思い切って渋川市へ飛ぶ。それにまたも八ッ場にいきたくて、気持ちがウズウズ。
ここでで4時近い。八ッ場へ行こうかどうか、迷う。
では吾妻町まで行って、気がかりな同種の雑用をクリアしてしまおう。でも吾妻町まで行けば、長野原町までは約40分弱。
結局、5時ちょっと過ぎに八ッ場着。
実はXさん家のお米が欲しかったのだ。何度も記すが、清水に近い沢水で育ち、ハンデェで乾した米は、下手なこしひかりよりもうまい上に、安価だ。
Xさんにはここの処、電話して頼んであっても、三度続けて会えない。
今日も途中で電話。効果がないことはわかっていたが、三度目にルス電に入れた。
ところが、夕方5時を回っているのに、直売所に車が2台あって、いたいた。リンゴ畑には煙があがっている。
「いた、良かった~」と車を降りると、疲れ切った表情で大儀そうに、正面の建物からヨタヨタと何かを運んでくるXさんの姿が見えた。しばらく会わない間に、かなり年をとられた。
「いた、いた」と言うだけで、まずは一発放たれる。「俺はねぇ、アンタのためにいるんじゃないからね。自分が来る時にいつも俺がいると思ったら、大間違いだよ」と繰り出されることがしばしば。
慌てて、度数いっぱいのカメラの何枚かを消去して、両の手にバケツを下げたXさんの後を追ってリンゴ畑に入っていくと、手伝いのYさんが畑で火を燃やしていて、消火のための水を運んでいたらしい。無理はない。XさんもYさんも、二人とも80歳を超えているのだ。
「良かった、今日はあえて。お米がなくて、もう」と言うと、Xさんは疲れているのだろうが「米なんか、ついてねえよ。アンタねぇ、そんなこと急に言われたってねえよ」とにべもない。
「いいましたよ。もう、2週間も前にそろそろお願いしますって電話に入れておきましたよ」と言うが、「ねえもんはねえ」式にモゾモゾと言って、また水くみらしく建物の方に行ってしまった。
火のそばに近づくと、あったかい。焚き木の温もりが心の中まで入ってくるようなあっかさであった。
「うわぁ、あったかいですねぇ。でも、こんなにたくさんのオキ、風が吹くとあぶないですね」と思わず言うと、火もし役らしいYさんは「はぁ、水をかけるんだい」と言う。「今日はここんとこ、きれいにして、みんな燃やしたんだい」とおっしゃる。みると畑の中が
スッキリと片付いていて、何カ所か火を燃やした形跡があった。
「それにしても、今年は寒いですね」と目の前の雪の山なみを目で追いながら、「去年の4/1にはあの高ジョッキに上ろうとしてしていたんですけれど、結局。雨もよいでダメだったけれど、確か雪はなかったですもの」と言うと、「夕べも雪がふった」とYさんは教えてくれた。
いつまでも、火にあたっていたかった。が、暮色が迫っていた。Xさんのいる方に歩きかけ、「ジュ」という音に、後ろを振り返ると、Yさんはもう水をかけ出していた。もったいない気持ちがした。
納屋に近づくと、米びつの底をはたいていた。どうやら、あるだけ分けてくださるらしい。この方の最初の否定語には慣れてきている。でも、いつも何とか、とりあえずの処置はしてくださる方なのだ。
「少しでもいいですよ。また、後できますから。だって私、ここ何日か、お米食べてないんだもの」と言うと、初めて笑みを浮かべた。事実ここ数日間は、麺類やパンでしのいできたのである。今日は朝も昼食も、先月、Zさん宅で貰った米の粉=上新粉をたべていた。
Zさんはくださる時に、「ご飯が無い時や間に合わない時には、これに熱湯をかけて、かき回すと飯の代わりになって便利だよ」と教えてくださった。
で過去のある時の初体験で、お湯でとくのを知らずに水で溶いてしまって往生した苦い体験のある、その苦手な上新粉だけれど、最近はそうやって食べている。
結局、2㌔だけ、分けてもらった。残りの少量はXさんが「俺もねえんだい」と言って袋に詰めて自分の車に入れた。「それで足ります」と言うと、「な~に、すぐに搗かい」と言う。
ちょっぴり、拙著、新版『八ッ場ダムー計画に振り回された57年』のうれしい反響を伝えると「そりゃ、良かった」と満面、相好をくずして喜んでくださった。
「悪いことや張りの悪い話は聞かせねえでくれよ。ハァ、たくさんだい」と母と同じセリフを吐くこの方への、最大のおミヤゲはこういう朗報。一種のきつけ薬なのだ。
「そのうちにまたくるから、用意しておいてね」と頼み、疲労感の漂うXさんの顔色に、早く辞去した方が良いとふんで、「じゃ」と車に乗った。
暮色のなか、「もう、誰かに採られてしまってないかな」と心急きながら、人家の途絶えた山間のフキのトウが自生している、とっておきの穴場、2カ所へ。長靴などの用意もせず、よそいきのはきものだったけれど、怖いなどとはおもわずに茂みに入ってみました。
あった。あった、生まれたばかりの黄緑色のあえかな緑の何ともいえないフキのとうが芽吹いていました。もう開き切ったのもあれば、まだ固いつぼみのも。
それにしても、ここ数年、私以外には誰も採らないのかしらねと。最初に目にした時は、伸びきってほうけてしまっていた。河川敷のような処だから、所有者は国? ともかく、個人の所有地でないことは明らかなので、罪の意識はないのだけれど……
やっぱり、思い切って来てよかったと。
フキのトウが芽吹いて、今年も八ッ場の春は動き出してくれる。
今日はどこにもよらず、そのまま、帰途へ。
今夜は気持ちが、晴れ晴れするほどの満月の晩。
まん丸の月は、長野原町を出る頃はもやがかかってとっても風情がありました。そして、少女期の淡々とした夢も潰えた中年女、ならず初老期の女性のちょっびりもの哀しさにも似てしんみり。古典に例えれば「更科日記」の世界のような感覚にしみじみ包まれてしまいました。
この月は、帰路の道々、右手前方に輝き、時にはどうしてか左手になったりして、ずっとつきまとってくれて一緒。東村から伊香保温泉街に入った頃には、フロントガラスの真正面に煌々と。
そうだ、阿仏尼の『十六夜日記』なるものあった。結局、10代の頃の夢の叶わなかった私は、題名だけでまともに学んだこともなく、このまま終わるのだろうなと思うと、胸につきあげてくるものがあった。
担当者の方とも特定ダム対策課の窓口の方とも、すでに顔なじみ。
その帰途、郵便局で印紙を6920円分買ってきて、半月ほど延び延びになっていた6通の開示請求の申込み手続きを、ようやく関東地方整備局へ送付した。
資料の開示請求を送付したのは去る1月初旬。再度、文書名を特定して1通に300円の印紙を貼って送付。以来、丸3カ月以上。こちらのご担当の方とも、すでに声なじみ。関東地整では、CDでの要望の方が手間がかからないとのこと。
これだけ期日のかかる開示請求は必要になってからでは、間に合わない。事前に採っておかなければならないとは思っても、どこが核心なのか漠然としてしてしまうのはいなめない。しかも、今回もおそらく墨塗りデーターであろう。
それにしても、6文書で合計約一万円という経費も痛い。しかもこれだけではまだ終わらない。
今回、3/9付の申込み書が届いてから、実際にまだ先でいいやと忘れてしまったこともあるが、直ちに手続きできずに、うっちゃっておいたのは、恥ずかしながら今月はなにやかやともの入りで、印紙代金の不如意にあった。ようやく、昨日、振り込まれたものがあって、本日、求められたのが真相である。
でも、一つのことを終えた安ど感から、気持ちがスッキリ。
同じくあるネックになっていたことも、事のついでに全て片づけてしまいたいが、次は、すでに3時過ぎ。でも、明日は葬儀ごとがほぼ同一時間帯に二つある。思い切って渋川市へ飛ぶ。それにまたも八ッ場にいきたくて、気持ちがウズウズ。
ここでで4時近い。八ッ場へ行こうかどうか、迷う。
では吾妻町まで行って、気がかりな同種の雑用をクリアしてしまおう。でも吾妻町まで行けば、長野原町までは約40分弱。
結局、5時ちょっと過ぎに八ッ場着。
実はXさん家のお米が欲しかったのだ。何度も記すが、清水に近い沢水で育ち、ハンデェで乾した米は、下手なこしひかりよりもうまい上に、安価だ。
Xさんにはここの処、電話して頼んであっても、三度続けて会えない。
今日も途中で電話。効果がないことはわかっていたが、三度目にルス電に入れた。
ところが、夕方5時を回っているのに、直売所に車が2台あって、いたいた。リンゴ畑には煙があがっている。
「いた、良かった~」と車を降りると、疲れ切った表情で大儀そうに、正面の建物からヨタヨタと何かを運んでくるXさんの姿が見えた。しばらく会わない間に、かなり年をとられた。
「いた、いた」と言うだけで、まずは一発放たれる。「俺はねぇ、アンタのためにいるんじゃないからね。自分が来る時にいつも俺がいると思ったら、大間違いだよ」と繰り出されることがしばしば。
慌てて、度数いっぱいのカメラの何枚かを消去して、両の手にバケツを下げたXさんの後を追ってリンゴ畑に入っていくと、手伝いのYさんが畑で火を燃やしていて、消火のための水を運んでいたらしい。無理はない。XさんもYさんも、二人とも80歳を超えているのだ。
「良かった、今日はあえて。お米がなくて、もう」と言うと、Xさんは疲れているのだろうが「米なんか、ついてねえよ。アンタねぇ、そんなこと急に言われたってねえよ」とにべもない。
「いいましたよ。もう、2週間も前にそろそろお願いしますって電話に入れておきましたよ」と言うが、「ねえもんはねえ」式にモゾモゾと言って、また水くみらしく建物の方に行ってしまった。
火のそばに近づくと、あったかい。焚き木の温もりが心の中まで入ってくるようなあっかさであった。
「うわぁ、あったかいですねぇ。でも、こんなにたくさんのオキ、風が吹くとあぶないですね」と思わず言うと、火もし役らしいYさんは「はぁ、水をかけるんだい」と言う。「今日はここんとこ、きれいにして、みんな燃やしたんだい」とおっしゃる。みると畑の中が
スッキリと片付いていて、何カ所か火を燃やした形跡があった。
「それにしても、今年は寒いですね」と目の前の雪の山なみを目で追いながら、「去年の4/1にはあの高ジョッキに上ろうとしてしていたんですけれど、結局。雨もよいでダメだったけれど、確か雪はなかったですもの」と言うと、「夕べも雪がふった」とYさんは教えてくれた。
いつまでも、火にあたっていたかった。が、暮色が迫っていた。Xさんのいる方に歩きかけ、「ジュ」という音に、後ろを振り返ると、Yさんはもう水をかけ出していた。もったいない気持ちがした。
納屋に近づくと、米びつの底をはたいていた。どうやら、あるだけ分けてくださるらしい。この方の最初の否定語には慣れてきている。でも、いつも何とか、とりあえずの処置はしてくださる方なのだ。
「少しでもいいですよ。また、後できますから。だって私、ここ何日か、お米食べてないんだもの」と言うと、初めて笑みを浮かべた。事実ここ数日間は、麺類やパンでしのいできたのである。今日は朝も昼食も、先月、Zさん宅で貰った米の粉=上新粉をたべていた。
Zさんはくださる時に、「ご飯が無い時や間に合わない時には、これに熱湯をかけて、かき回すと飯の代わりになって便利だよ」と教えてくださった。
で過去のある時の初体験で、お湯でとくのを知らずに水で溶いてしまって往生した苦い体験のある、その苦手な上新粉だけれど、最近はそうやって食べている。
結局、2㌔だけ、分けてもらった。残りの少量はXさんが「俺もねえんだい」と言って袋に詰めて自分の車に入れた。「それで足ります」と言うと、「な~に、すぐに搗かい」と言う。
ちょっぴり、拙著、新版『八ッ場ダムー計画に振り回された57年』のうれしい反響を伝えると「そりゃ、良かった」と満面、相好をくずして喜んでくださった。
「悪いことや張りの悪い話は聞かせねえでくれよ。ハァ、たくさんだい」と母と同じセリフを吐くこの方への、最大のおミヤゲはこういう朗報。一種のきつけ薬なのだ。
「そのうちにまたくるから、用意しておいてね」と頼み、疲労感の漂うXさんの顔色に、早く辞去した方が良いとふんで、「じゃ」と車に乗った。
暮色のなか、「もう、誰かに採られてしまってないかな」と心急きながら、人家の途絶えた山間のフキのトウが自生している、とっておきの穴場、2カ所へ。長靴などの用意もせず、よそいきのはきものだったけれど、怖いなどとはおもわずに茂みに入ってみました。
あった。あった、生まれたばかりの黄緑色のあえかな緑の何ともいえないフキのとうが芽吹いていました。もう開き切ったのもあれば、まだ固いつぼみのも。
それにしても、ここ数年、私以外には誰も採らないのかしらねと。最初に目にした時は、伸びきってほうけてしまっていた。河川敷のような処だから、所有者は国? ともかく、個人の所有地でないことは明らかなので、罪の意識はないのだけれど……
やっぱり、思い切って来てよかったと。
フキのトウが芽吹いて、今年も八ッ場の春は動き出してくれる。
今日はどこにもよらず、そのまま、帰途へ。
今夜は気持ちが、晴れ晴れするほどの満月の晩。
まん丸の月は、長野原町を出る頃はもやがかかってとっても風情がありました。そして、少女期の淡々とした夢も潰えた中年女、ならず初老期の女性のちょっびりもの哀しさにも似てしんみり。古典に例えれば「更科日記」の世界のような感覚にしみじみ包まれてしまいました。
この月は、帰路の道々、右手前方に輝き、時にはどうしてか左手になったりして、ずっとつきまとってくれて一緒。東村から伊香保温泉街に入った頃には、フロントガラスの真正面に煌々と。
そうだ、阿仏尼の『十六夜日記』なるものあった。結局、10代の頃の夢の叶わなかった私は、題名だけでまともに学んだこともなく、このまま終わるのだろうなと思うと、胸につきあげてくるものがあった。
Posted by やんばちゃん at 23:59│Comments(0)
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