2011年04月12日

『告発・電磁波公害』のご案内と雑記

 3/12 その二
 【↑朝日新聞最新記事より転載】ユネスコに響く震災レクイエム 音楽家110人が結集
http://www.asahi.com/international/update/0411/TKY201104110376.html

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 昨日11日は、ほぼ終日、以下の二つの拙文の日時確認に追われ、没頭したしだいです。
 そこで、確認できた事柄に基づき、本欄の過去記事の年月日の誤認について、訂正を施させて戴きました。
 すでにお読みになられた皆さまに、念のため、以下に列記させて戴きます。
 一、2011年3月26日  「大震災の教訓を「力の政治」の問いなおし策に」
    ①写真の日付  2002年頃⇒2000年
    ②文中、およそ9年前⇒およそ11年前の2000年夏
  
 ※理由は、当初は記憶に基づき「2000年」と記していたのでした。
  ところが、確認のため、ようやく探しだした写真に「02 12 31」とあったのです。が、写真の「02」年を西暦使用主義者の当方、「2002年」と思わざるを得なくなったのでした。 
  となると、全体がおかしくなるんだけれどなと思いつつ、それでは掲載誌の「サンデージャーナル」を確認するしかと物置に行きました。乱雑に積み上げた箱の中から同誌の箱をようやく探しだしましたが、その綴りは(前にやはり確認しにきたらしく)綴り糸がほどかれてランダムになってました。肝心の記事がみあたらないのです。
 すでに当時の神流川発電所の工事風景の写真探しに3日ほど費やしてしまって、何とも気ぜわしい上に例の花粉症による瞼下がりにてぼやけてしまって、ついに見つからないのでした。
 でも、ここに「02」とあるんだから、「2002年」に間違いないだろうと疑わずに記してしまったのでした。
 
 ところで、昨日11日は、物置で探しごとに追われてました。
 その過程で、思い切って~2004年までの写真類の箱の整理に及んだのでした。
 2000年頃からの現像写真には、ネガを差し込む袋に小さな写真見本がついてます。そして、神流川発電所関係の写真類はネガの束の上がき欄に「2000年」とあるではありませんか。
 
 ここでようやく、つまり「02」とは、「平成12年」をさし、「平成12年12月31日」の意味なのではないかと気がつきました。でも、それなら「12」となるべきなのですが……
 ① 実は掲載後も何度か掲載誌をもってお礼かたがたお話を伺った方の家や、その後に取材した、とっておきの証言などもあったので上野村を訪れ、工事の進捗状況をカメラにおさめてはいました。だから、02年にも上野村には通ってはいたのは事実です。ただし、いかにのんきオバさんでも、12月31日の大晦日の日に上野村に行くはずもなかろう……と浮上してまいりました。
 ② 次に、何度かカメラの日付けが狂ったり、現像過程での不備で、何年も前の同一日付になったこともあったりしたのでした。て日時については定かではない期間もありました。
  
 最後の確認手段として当時の手帳の日にちを繰って調べる道もあるのですけれど…… 
 今度は手帳の箱をひっかきまわしたところ、なんとこの年だけないのです。もう「どうして」と泣きたくなる一瞬です。締め切り時間に追われる時には、本当に辛いものがあります。
 で、今回は、日時がハッキリしないので、写真には「2000年」のみで入れなかった次第です。

 どおりでいくら2002年と思い込んで、「サンデージャーナル」誌のファイルをくっても記事が出てこないはずであったわけでした。落ち着いて2000年の冊子をひも解いたら、もちろんあるにはありましたけれど、無記名でした。配慮によるものと思われますが、最後は編集長との対立構造にて辞めた同誌の記事には、幾つか無記名で記したものがありました。
 でも、掲載写真のは写真ファイルのものと同一のものでした。

 長くなりましたが、混乱のもととなった写真は、アナログカメラ時の10年前の何らかのカメラの日付けいれの不備によるものでした。こういう場合は、一応のメモをいれておくものですが、この写真に関しては、自分の記憶力が10年後にここまで落ちて混乱するとは予見できなかった、哀しさの顛末となりました。
 あえて、細かに示しましたが、写真の日付け不備によって起こる混乱を記させて戴きました。


二、 2011年4月8日  「本日、川原湯温泉春祭り」に写真追加。
  川原湯温泉の「大々神楽」の写真もみつかりましたので、「百聞は一見にしかず」ですので、本日入れました。
  これには、日付け無し。たぶん、壊れカメラで必死に撮っていた頃のもので、少なくとも4~5年前のものと思います。

 
三 上記一の確認の端緒となった「東電50万ボルト送電線上武幹線」問題について
 なお、核と電磁波は異なりますが、最近の提出済みの雑文に「東電50万ボルト送電線上武幹線」における電磁波問題を、国策」としての東電対応の実態として、自己体験の例として簡略に「一」の神流川揚水発電所と一緒に列記したのでした。
 WH0の安全基準は「4ミりガウス」なのに、当時のパンレットには「50000ミリガウス」であったので、記憶力のみで、「約1万倍の乖離」と記した次第でした。
 しかし、同様にして、もし間違えていたら訂正不可となり、決定的なミスに。
 上述のように、ここの処、かなり記憶力が薄れてきても愕然とする日々なのです。
 もし、ミスっていたら、それこそ「大きな誤認」となってしまいます。あれだけ当時、近隣の皆さんに説明する際に口にしていた数値なのですから、よもやと思うけれど、単位の読み違えっていうこともなきにしもあらず……
 
 そこで、何もかもなげ打って物置に入って、当時2005年時の「電磁波問題」のファイルを探そうとしたのでした。しかし、これまた当時、購読した電磁波問題の通信「ガウスネット」の綴り類はあったのですけれど……
 ところが、確かに堂々と「50000ミリガウス」と記されていた、東電のあの肝心のパンフレットが見つからないのでした。最も主要なこのパンフと朝日新聞の記事コピーなど、いつも持ち歩いていた袋が眼にはいらのです。
 東電側との2回の説明会。区長さんとの同社への出向き、何度かの電話やりとり。そして、地域は愚か、隣町の送電下の住民の皆さんへのチラシ配布など、かなりの資料があったのに……絶対に捨てはせず、あるに決まっているのですけれど……。
 焦燥感につつまれると余計、眼にはいなくなってくるのが通例。時過ぎるとちゃんとあるのにです。
 当時の個人機関紙「みんなの青い空」には記さてなかったけれど、一応確認。一般質問はしてなかったと記憶するけれど、記事録もみようかとさえ思ったほどでした。
 あんなにコピーして配布したのに、せめてもの朝日新聞一面の掲載記事も出てこないのです。 
 (幸いにして、この探しことの過程で、一に記述の写真類と掲載誌も確認できた思わぬメリット)
 
 夕刻になっても、見つからない。
 ますます不安が募った。最後の手は当時、確か1992~3年に朝日新聞一面に、小児ガンへのリスクなどのWH0見解の記事を執筆された記者さん、(?どうやらこの記事が原因で群馬に都落ちさせられて、朝日新聞〇〇支局長さんだった)あの方に伺う道しかないと思い浮かんだのでした。
 古い名刺なので、直ちには探し出せない。でも幸い、苗字は覚えていて、お名前の字面もひょいとでてきたのでした。コレは我ながら快哉もの。
 で、ダメ元でと必要事項を入れてインターネット検索を。あった、しかもなんとご著書も記されていたのでした。
 とりわけ新聞社は個人情報にて教えてくれないものですが、こちらもダメで元々と〇〇支局に電話。こちらの身元と目的をきちんと伝えますと、うれしいことに九州のある支局の連絡先を教えて戴けたのでした。
 
 そして、なんと4年ぶりくらいに連絡がついた次第。
 東電との第1回の説明会直前の小一時間、レクチャーしてくださった時の未だ耳もとに記憶ある声音。群馬を去られる直前、「ついに、東電が電磁波の危険性について認めましたよ。記事をみてください」との朗報をうれしそうに連絡してくださった声音そのものの声が、はるか向こうにあったのでした。
 数値は「あってますよ」と即座に。ホッとしました。「もしかして単位を読み違えてたかもと」と伝えると、何か閃かれたらしく、ちょっとの間をおいて「関西電力では、5000ミりガウス」であったとも言い添えてくださいました。関西電力のことは知りませんでした。

 そういえば、八ッ場にもご案内して、現地の方たちに集まってもらって、語らいの場を設けたこともありましたっけ。そして、程なくの転勤でした。八ッ場のLさんなどはその直後から、何とひそかに朝日新聞も購読し始めていたのでした。後日、「ちっとも記事にならねぇ」とやや怒り口調にての言葉に、「あら、転勤になさったのよ」と伝えたことも思い出しました。
 春三月のこの時期は、ようく年単位にて信頼関係が築けつつある矢先のなじみの、記者魂に燃えた記者さんたちの移動の時期でもあるのです。

  さて、今となっては、もうご著書とともにもうお名前を公表してもさしつかえないでしょう。
 お名前は松本健造さん。
 ご著書は、『告発・電磁波公害』(2007年 緑風出版 1995円)
 http://www.amazon.co.jp/dp/4846107140/ref=nosim/?tag=biglobe06-src-link-22&linkCode=as1

 おかげさまで、松本さんに4年ぶりに連絡がついたことと、八ッ場ダム関連の膨大な写真類が少し整理できたことが最大の収穫でした。
 しかも、2001年6月14日の補償調印式の日の、私的な写真類の前後に続く、小さな写真類のコマも出てきたのでした。ネガの一部もあったのです。もし、これらが使えれば本当に助かります。
 サンデージャーナル誌では、経費一式全て自分持ち。掲載になってようやく2か月後くらい経て、一行×〇〇円の稿料が貰え、それが生活費の全てだったあの頃の厳しい生活。直後の決裂も想定せず、36枚撮りのフィルムに3本分の現像写真一式を収めたままだったのです。ほどなく廃刊になってしまったので、もうどうにもならず、残念でならなかった写真類でした。
 八ッ場取材の過程でもとりわけ、数々の思い入れのあったのが調印式の日なのでした。あの日、ライターとは言いながらも、羞恥心と気おくれをこらえながら、おこがましくも記者クラブ所属の記者さんやプロ写真家たちらに交じって撮ったのでしたから。
 
 さて、これが、昨日のわが仕事実績なり。
 コレだもの、「働けど、働けどなおわが暮らし楽にならざり」ではなく、無理からぬわけ。でも、余震におののきながら、啄木並みに「じっと手をみる」次第です。
 ……啄木と言えば、先日、姪の大学の例の門前での待ち合わせの際、お茶の水から湯島方面に歩いていて、方角を間違えて湯島聖堂から反対方向に歩きかけてしまいました。台東区役所近くにあった、啄木の史跡案内板が目に入りました。
 函館から妻子と母が到着し、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移った啄木は、当時の「東京 朝日新聞」の校正係として働いていたのでした。仕事柄、終電に間に合わずに疲れ切った身体で切り通し道を歩いてきたことが説明されてました。
 



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Posted by やんばちゃん at 12:54│Comments(0)紹介
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