2011年12月10日
“疑わしきは造らず”
数々の免罪事件に際して、「疑わしきは罰せず」という名言がある。
同様にして、検証過程があいまい、何がなんでも「ダム案がベスト」の疑わしいかぎりのダム建設は造ってはならない。
この間の数々の検証に、交通費を気にしながら、工面しつつ通い詰めてきた。その過程で、今般の関東地方整備局の検証作業は、いかに「ダム建設ありき」に収斂させていくための“作文”てあったか、身をもって味わってた。
以下の本日10日付け東京新聞「「こちら特報部」の記事を引く。
ここにかかれていることは真実である。
マスコミ本来の使命感が伝わってくる。
作為にみちた検証で、作為的な安全性とカラクリが網羅された八ッ場ダムは、断じて造ってはいけない。
検証の筋書きのおかしさは、回をかさねるにつれ、いやというほど検分してきた。
それらを最終過程近くまでみすごししてきた、政権党・民主党の力のなさも問題である。この妙な検証を、なぜもっと前に強力にチェックできなかったのだろう。官僚たちの思いのままの筋書きに乗せられ、最終章であわてふためいても、まさに後の祭りである。
メディア改革
幸い、時代の進展は、記者クラブに属さない一介のフリーのライターにも門戸が開いてくれている。
多くの先人が苦労して、ようやくこじ開けてくれた既得権である。それを行使するために羞恥心をこらえつつも通い詰めてきた。
現在では改善されているだろうが、かつてマスコミ筋と行政は、友好関係があり会食会などもあったことを、かつて新聞社でアルバイトしていた時に小耳にはさみ、当日は、あたかも特権階級のごときの笑みでいそいそとでかけていく記者たちの姿を目の端にとらえている。
仮に不都合な事柄を記者が書いても、チェック機関があり、削除システムがある。その点、一匹狼のフリーのマスコミは何を書いても己の責任に帰結する。
従って、本当のことが報道できる。
ために体制側には、きわめて面倒なものらしい。
3・11以後の一連のユーチューブの中に、原発関連取材現場でもみあい、排除され強行に抗議しているフリーの映像関係者のビデオをみて、なるほどなと意を強くしたものであった。
以来、臆せずに堂々とこの既得権を行使してきた。
関連して、思い出す場面がある。
国道145号線の開通式の日であった。お乗せしてきた報道陣の腕章をもっているマスコミの方が、車の中に忘れ物をしてきたというので、駐車場まで取りに行き、再び受付を通過しようとした背に、耳に飛び込んできた言葉があった。
若い要員の青年たちが受付で固まっていたる受付の名刺の整理をしていたのであろう。そして、「アハハ、フリーのライターがマスコミだとよ」と。当方の顔とは別に、単に当方の名刺をみての発声だろうと考えるが……
開始数分前で急いでいたので、後ろを振り向かず、そのまま進んでしまったが、後で、あれは自分のことだと思った。
次にやんば館に立ち寄ると、推進派の集いがあるらしく、ものものしかった。そして、先の受付にいたと同じようなスマートな若者たちがいた。問うと意気軒昂に、〇〇〇関係だと答えた。
たぶん、開通式の受付にいた者たちも、推進派のその手の青年だったろう。そして、ほとんどが親からの仕事をうけつぎ、エリート意識をもって、あたかも地方行政を動かしているような感覚にて生き生きと動いている、恐れをしらぬ階層である。狭い町の中で、この閉鎖的な体制を良しとしているあなたたちには、おそらく「報道の自由」も、「人間の自由」さえもわからないかも知れないわねと感じた。「トイレだけならいいですよ」との傲慢なものいいに、心の中で「入れていただかなくても結構よ」とつぶやき、勢い良くUターンしたものであった。
Posted by やんばちゃん at 14:34│Comments(0)
│八ッ場だより