グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2011年07月17日

月の丸さ、空しさを感じる今宵です

 昨日16日の地元紙・上毛新聞一面右上トップには、有識者会議や「検討の場」の進展内容から見て、「ダムが最も妥当」として、6都県が「実利性に乏しく,、八ッ場ダム建設が最適」との回答をする方針」を出す旨の記事がありました。
  見出しのみ引きます。
    八ッ場ダム利水対策 「建設が最適」回答
     6都県側 代替え案拒否
 そもそも、わざと実現不可能な代替案を出したことが明らかに読み取れれます。今般の九州電力のヤラセメールと同じく、作為が見え見え。優秀なる管僚さんたちにはしては不出来な作為で、そのうちにあぶりだされるでしょう。
 まさに刻一刻一刻、あらかじめ敷かれたレールの上に終着駅に向かって走っています。 



 昨晩の8時近く、草むしりを終わって立ち上がった目線の先に、異様な赤さの月が迫ってきました。不気味な照りを放ってました。
 ここのところ、連日涼しくなった夕方5時頃から8時頃まで、草むしりに没頭してます。日一日と伸びてしまって、今では背丈と同じで往生もの。毎朝、手がしびれてしまって、ケンショウ炎を起こしているようです。ボランティアのクリーン作戦の休耕田なのですから、素ほどの責任はないのですが……
 疲れきって家の門口近くまで゜来ると、近所のおくさんと子供さんが、月をながめ、携帯電話で撮っているのに気がつきました。
 「ほんと、今晩の月は妙な赤さね」といいつつ、脇を通り去ろうとした耳に、「携帯じゃ、ダメみたい。普通のカメラじゃなければ」と残念がる声が入りました。時折り、写真を撮ってあげる女の子さんでしたので、「……今さ、家のカメラ、修理にだしているのよ。毎日、困っているのよ。でも、カメラでも、写らないんじゃないかしらね」と伝えながら、家に入りました。

 泥にまみれ、草の汁がしみついた手の泥をおとし、ついでにそのままシャワーを浴びて、部屋に入ると、携帯にちようど、家を出た5時ちょっと過ぎの「着信」のマーク。
 ……心ときめかせてみると、見慣れぬ、でも、どこかで記憶にある番号。かけたら電器店。なんと、2週間と言われていたのに、以外に早く5日間で出来上がったのでした。
 実は5月末からまだ、2カ月もたたないのに、カメラをもったまま久しぶりに畑にいったら、ひまわりやコスモスは草丈に負けずに何とかなっていましたが、マリーコ゜ルドや風船カズラなど弱いのは草に覆われてしまってかわいそうでした。
 で、片手で夢中でその辺りを無中で草むしり。そのうちに、カメラを土の中に落としてしまったのでした。そのせいかどうか、その直後から次々と妙なことになってしまって、ついにブームが利かなくなっていったのでした。前に壊れたのと同じ機種の同じ壊れ方でしたので、慌てて修理にだしたのでした。が、ほぼ毎日何かしら撮っているので困りました。
 壊れかけたのが数台あるけれど、当たり前のことだけれどどれも皆、不調。どうしても必要な時には親戚のを借りる始末でしたので、2週間は長いなぁと思っていた矢先でした。

 「もうちょっと、気がつけば……もう8時ですものね」と言うと、21時まで開いているというが、まだ食事も作らなければならず、明日にすることに。
 しかし、もし、今夜行けば、あの月もとれるかもしれない…… 夕食はその後でも良いしととっさのものを口に押し込んで、急いで出かけた。
 帰途、夜空を見上げたら、すでにかなり高く登っていて、しかも赤未もなく、変哲のない月色のそれであった。
 撮る気も失せて、帰宅。
 
 そして、一夜あけて本日、次の畑に行ってみたら、こちらのはもっと酷い。あれから一週間も経っていたので、さらに草丈がのびて、それはみごとな雑草畑。
 種が芽生えて、いつの間にかはえていたカボチャの苗をあちこちに移植してから、前に周辺の草はむしってあったのに 、横に張れずに縦に伸びて草の上に必死にツルをのばしているではありませんか。まるで、タツノオトシゴのように草の上に先端をのぞかせていたのでした。
 一心不乱に草退治。考えたら月を見る余裕などありませんでした。
 でも、夢中で汗を流していると、くさぐさを忘れられます。没頭できることがあると、ヒトの心を疑うこともいきりたつこともなく時間がすぎます。応急措置的にあちこちに手をつけて、草の輪郭も定かでなくなった8時過ぎに家路に。

 そして、いつものようにいつもの必要最低限の所用時間がすぎ、一段落した夜10時。
 「ああ、そうだ、月、月」と。今日は確か出ていなかったような気がするけれど、昨日の今日のこと。天候も同じなのに、不思議とばかりに戸外に。庭先の茂みで眼をこらすと、かすかにぼんやりと…… 
 結局、門口を出て、昨夜、近所の親子さんが見ていた場所まで行って撮ったのが、本日の一枚です。もう、相当高くなっていて、赤味など見いだせず、昨晩よりももっと弱々しい黄身色の月でした。  


Posted by やんばちゃん at 23:57Comments(0)八ッ場に願う

2010年07月26日

八ッ場へ行きたしとおもえども

 昨日は、勝手ながら休ませて戴きました。
 提出原稿の締切日だったからです。
 つたない本欄ながら、それでも、毎日〇〇名の方がご覧下さっているというのは、感動ものです。
 あらためて、おつきあいくださる皆さま方に、お礼申し上げます。
 もちろん、さまざまなお立場の方が、それぞれの異なるご関心からとは存じますが、その方々は皆、私と心同じくする方と思い込むのが、どこかのオバさんのおメデタサ加減です。
 そして、この幼さで手さぐりで、何とか生きて参りました。けれど、本日もまた“どこまで続くぬかるみぞ”と心閉ざされることがありました(もちろん、本欄はダムの問題ですから、逸脱せず関連することですけれど。これも勝手解釈かもしれませんけれど)。

 思い屈するままに、炎天下で思い切り草むしりしたいのですが、ここの処、珍しく陽にやけ、ツメが泥で黒くなるのを厭う、不思議なかつてない気持ちが浮上。それでためらい、せめて、果てしない夏空を直視することにして戸外へ。
 ノウゼンカズラが目に泊まりました。夏の花と呼ばれているようです。
 例年、荒れ屋敷の玄関前の棕櫚の木にまきつくのは太いのもあるのですが、写真のは、昨年、初めて開花。今年は二房になり、花数もおおくなったのです。ダイオキシン問題から自家焼却をやめて放置したままの焼却炉にまきついている花です。
 二日前に、つぼみに気がついて、バッサリと切って、部屋にいれようかと思っていたら、そうはされじとばかりにか、こんなに咲いてしまったのです。
 
 さて、殆どのくさぐさは、八ッ場へ行けば見事にバーげンセール並みに一掃出来るのが通例なんですが、これまたここの処、追われる雑事にままならず、せめて、朔太郎の「ふらんすへ行きたしとおもへども」の、確か「旅上」の歌にちなみ、
  
  八ッ場へいきたしとおもえども
      八ッ場はあまりに遠し  ※?遠くではありませんね。
   せめてはそぞろ歩きのミニトリップにて
      きままなる 心の旅 にいでてみん

 なお先日、八ッ場へ行った際に、また穴場を発見しました。
 ここでバーベキューや野外映画祭、コンサートなどしたら、良いなと思える、とっておきの場所なのです。
 秋口までに、何とか昨年来からの企画、映画祭を実施したいなと思います。「現地ですることに意義ある」とプロデューサーの方もおっしゃってくださっています。

  暑い日々、皆様、どうぞ、ご自愛くださいますよう。  


Posted by やんばちゃん at 23:58Comments(0)八ッ場に願う

2010年07月21日

バナナも実りかねない暑さ?


 暑さの中で、葉音のみ涼やかな、わが家の芭蕉の木です。
 数年前から花が咲きだし、バナナのまねごとのような小さなフサが実り始めました。でも、もちろん、バナナにはなれず台風時の夏の終わりには黒ずんで落ちてました。
 ところが、今年はこの勢い。いつもより太めの実がいっぱいつきました。
 そこで、折からの異常気象の熱風に煽られて、今年はもしかしたら、北限が関東地方まで延びてきて、実るかもしれないなと夢見させられています。卑近な例え語“おだてら、豚まで木に登る”式に、「バナナにな~れ」とほめちぎってやりましょうか?
 
 でも、……あり得ないことで、またあったら、困りますよね。
 ここ数年、変化の兆しはありましたが、それこそ、日本の四季の変化が大幅に狂ってしまいます。
 ただし、この暑さが続けば八ッ場の地でも、見かけたことのなかったこのバショウも庭木類として植えられ、寒冷地なのでならないとされてきたユズもミカンも実ってしまうことになるかも知れません。生態系の破壊ですね。
 
 それにしても、暑い一日でした。
 確実にこの国は、亜熱帯型に変化しつつあります。


 ※ 一昨日7/19付けの「海の日」関連の記述で、本日、当時の資料がどっさり見つかりました。
   細部の日時のミスがありましたので、訂正しておきました。  


Posted by やんばちゃん at 19:56Comments(0)八ッ場に願う

2010年06月01日

戦後派文学の作家、お二人のサイン

 
 数日前に記した、いかなる時も少しのプレもない知人、〇〇子さんのことから、私はある詩が思い出されてならなかった。
 が、ここの処の寸暇の余裕もない日々の中で、その詩集を、本棚から出して、ひも解くことも出来なかった。
 かつて、20代のどんじりの年にだったろうか、子供の頃からのひそかな夢ではあったが、うっちゃり捨ててしまった「文学」のぶの字に再び駆け寄った、15カ年間の歳月がある。
 そして、うれしいことに戦後文学の騎手ともいうべき、質の高い仕事をなされた作家の方たちの謦咳に接することのできたのは、小さな人間にとっては、望外の幸せであった。
 忙しなかった5月が去り、6月に突入した朝の一時、ようやく、これまた久しいこと開けたことのなかった、それらがびっしりつまった、本棚をあけた。
  
 でもその〇〇子さんのきっぱりとした姿勢に通じるその詩は、どの詩集に入っていたか、思潮社の例の詩集シリーズを手にする前に、『木の花嫁』という分厚い箱入りの割と豪華な詩集を出した。
 しかし、そこには所収されていないように思えた。これはもっと晩年になられてからの集大成だったよなと浮かび、箱に収めかけて、そのなつかしい筆致の署名を見た。ここにある本は、ほとんど署名本なのだ。
 その作家は、詩集だけで三段階の詩集を出されていた。
 最も豪華なのは限定百部の一冊が確か五万円のもの。通し番号があって、それを三冊ももっている。あの頃は、本だけは買い込んだ。またねそんな資力のあったほんの一時だった。
 師事したこの作家の本の量はおびただしい。
 しかも、新刊がでると都度、二割引きで30~50冊、纏めて購入。それを全国の仲間に送ってやっていた。今、考えれば、なんと愚かしい時間の浪費をしていたのかと思える。まあ、今ではできようもない贅沢な時間の使い道であった。

 若い頃の詩だから、初期の詩集だよなとして、思潮社発行の現代詩文庫のシリーズ59を抜き出した。これも2冊はあった。こちらは保存用。もう一冊あるはずなのだが……
 記憶に残る、「同士Mよ」や「八女のオルグ」などの単語をたよりにくっていったが、求める相通じる精神性の漂う詩はどこにもなかった。
 それにどう、考えたって、今を生きる〇〇子さんの世代と戦後のその時代の空気や生きる姿勢がマッチのしようがないのだ。 
 でも、この中の一つを写して、みようかと思い立ち、薄い想定の最もなじみのある思潮社の詩集を開けた。
 内扉には、
 86年11月28日、井上光晴。
 そりゃそうだ、井上さんの詩集だもの。でも、その脇にもうお一人の名。あの「野間 宏」さんの名。
 時は文学賞の選考会の席。
 同席させてもらった際に、何冊めかの冊子を買い求め持参し、お二人に署名をお願いしたのだ。人のやらない突飛なことをしでかす人間なのだ。 
 そりゃ井上さんはお若いから、勢いよく書いてくださっても大丈夫だった。それにサインごとが大好きな方だった、野間さんはもう、手がご不自由だったらしいのだ。そんな事情も知らずの傍若無人に加えた無知とはいえ、失礼な依頼をしてしまったものだった。
 しかも、井上さんにとって、野間さんは埴谷雄高さんと並んで、その師的存在の方なのだった。
 それを自分の詩集の脇に、お願いしたのだから、井上さんご自身もちょっぴり困惑なされていたかもしれない。野間さんがもしメンツにこだわる狭い識見の方だったら、立腹なされたに相違ない。
 そばにいた関係者もまたきっと、ハラハラなさっていたかもしれない。

 その日から、すでに25年近くもの歳月が流れた。
 お二人とも相前後して、鬼籍に入られた。野間さんの確か5月のご葬儀の日、私たちの場所から仰ぎみられた高台で、空を見上げて、必死で涙をこらえるように天空を見上げていられたわが師・作家・井上光晴さんの姿と顔。それは写真でみていた若き日の、詩人・井上光晴の意気軒昂とした清々しい横顔だった。
 その井上さんのご命日は、先月30日だった。
 それさえも定かでなくなり、死後刊行されて、巻末の晩年20年弱の年譜は、ご遺族から頼まれ、私が必死で作り上げた、絶筆集『病む猫ムシ』(1992年10月 集英社刊)の年譜をくってみるというお粗末さなのである。
 時折り、当時の仲間たちで、「お墓参りに行かなきゃね」とは言いあっても、毎年毎年そのままになってしまう。
 井上夫人はおっしゃる。「いいんですよ、遠くて、家族だってなかなか行けないんですから」。確かに遠い。瀬戸内寂聴さんが住職を務められている、山形県の天台寺である。
 
 今だったら、野間さんに「サインしてくださいますか」などとたぶん、申し出られない。
 でも、無知と若さと熱に浮かれてやってしまった行為だ。井上さんは病床から、私が図書館に寄贈した全十五巻の書籍にサインをして下さった。そして、自分でもサインということにも魅力を覚えなくなった。あってもなくても著書は、著書。こんな一冊しか書けない私でも、サインをと言われる。慌てて「ものすごく字が下手なんです。それにサインなんかあると処分される時困りますよ」と必死で逃げる。後にも先にも、仕方なく記したのは一冊だけである。
 なにもかもご承知の上で、ご署名くださったに相違ない、戦後文学のお二人の大作家・野間宏さんと井上光晴さん。
 当時のお二人の年齢に近づいて、その思いのご業績の一端にも及ぶべくもないが、直接、幾つかの言葉に接してきた者の一人として、この国の人間の明日のために、己の小さな守備範囲で、少しでも動かなければならない。
 田植えどころのノンキなことに浮かれているべきではないが、それもまた八ッ場の未来につながるものと信じたい。

  お二人のご冥福を祈って、止まない。
  今日から6月。まもなく突入の梅雨空には死者たちが浮かびくる。

 ※【実は、27・28は超多忙でして、記そうと思いつつも時間なし。一段落した、6/1に記した感慨です】  


Posted by やんばちゃん at 20:41Comments(0)八ッ場に願う

2010年05月28日

八ッ場ダム「中止」の前に、倉渕ダムの成果あり(二)

『土と健康』~、大塚さんのインタビュー、昨日の続きです。

市民団体が結集、県レベルの反対運動へ 
問 2002年7月には「倉渕ダム建設凍結をめざす市民の会」が発足、8月にはそれまでの市民団体などが結集して「倉渕ダム建設凍結を求める県民会議」ができて、運動の方向性も倉渕ダム問題を広く市民に知らせる広報活動にも力が入って、運動が幅広くなり、かつ政治的な面にも及んでいきます。それまでに大方の論点は出されていたということですか。
大塚 当初の運動を担ったのは「高崎の水を考える会」で、私は事務局長をしていました。会としてダム問題の専門家が集まっている「国土問題研究会」に依頼し、「倉渕ダム調査団」を組んでもらい、2002年3月と5月に、合同で現地調査を実施しました。そしてその結果を「群馬県倉渕ダム計画の問題点と烏川総合治水対策」という報告書にとりまとめました。倉渕ダムの主な論点はここで明らかになっていたと思います。イヌワシの生息についてはこの後のことですが……。
問 「県民会議」の設立総会(2002年8月31日)には、400人の参加者があり、政治的に保守系も含めて大同団結の様相を強めました。その後の運動の方向は、ビラをつくったり、各地で校区ごとに住民説明会を開いたりして倉渕ダム問題を知ってもらう広報的な活動に力を入れたとのことですが、同時に、専門家による「倉渕ダム再評価委員会」もできましたね。
大塚 住民のあいだに倉渕ダム問題が広まるにつれ、推進側と反対側と、どちらの意見が正しいのかという声が出てきたのは当然のことです。そこで、県民会議が第三者機関としてNPO法人「地域シンクタンク高崎国際センター」に依頼し、民間の学識研究者や専門家による「倉渕ダム再評価委員会」が組織されました。
 委員長には環境問題の大御所で東京大学名誉教授の宇沢弘文氏、委員には、河川工学の大熊孝氏(新潟大学教授)、国際政治学の多賀秀敏氏(早稲田大学教授)、水源問題全国連絡会代表の嶋津暉之(てるゆき)氏、そのほか鳥類研究者、ジャーナリストなどの第一人者による強力な委員会ができました。その明晰な報告書は、県知事に提出されました。
 2003年2月9日には、その再評価委員会による市民公聴会が開かれ、それに対し、県土木部河川課は出席を拒否するという事も起こりました。専門家にたちうちできないことを自ら示したようなものです。
市長選で住民の意識を問う
問 そうこうするうちに、高崎市長選が2003年4月にあります。
大塚 政治的な様相になっていましたからね。ダムに反対する団体のうち3団体が中心になって高崎活性化委員会をつくり、民主党で衆議院議員をねらっていた中島政希さんを離党させて市長選を闘ったのです。彼は鳩山由紀夫さんの陣営なので、これは後に民主党のマニフェストの八ッ場ダム問題にもつながっていくことになります(現在、中島さんは民主党の衆議院議員)。
 倉渕ダム問題は、市長選を通してますます市民たちに知れ渡るようになりました。結局、市長選には負けましたが、もう一人の候補も倉渕ダム問題では同じような反対の立場をとったことから、現職で当選した票よりも二人の得票数を足すと、反対側の方が上回ったということになります。当選した市長といえども、この事実を無視できなくなったのです。
 高崎市長は、「高崎市としては、積極的にダム建設推進はしていない」という立場をとるようになりました。2003年8月、高崎市長が県の予算についての要望書にも昨年まではあった「倉渕ダム建設促進」という項目をなくした。このことは各紙県版が報道し、皆の知るところとなりました。
公開討論会が実現
大塚 他方、市民団体からの働きかけで、県としても、市民への説明責任を果たさねばならないということになり、これも画期的なものですが、県と市民団体「群馬の自然を守るネットワーク」との共催による公開討論会が実現したのは、2003年8月9日のことです。どっちが言っていることが正しいか、住民が自ら考える機会が設けられたのです。
 倉渕ダム再評価委員会で問題点を熟知していた大熊孝氏、嶋津暉之氏が住民側からの意見を述べ、推進側からの意見は生彩を欠くもので、誰の目にも勝敗は明らかでした。
 第2回目の公開討論会を待たず、知事は、これは止めようということになりました。財政的にも厳しいし、倉渕ダムを建設しても、県が主張しているほど治水及び利水についての効果はないという理由です。そうして、2003年の12月の県議会で、倉渕ダム建設は「凍結」するという判断が下されたのです。
八ッ場ダムはどうなのか 
問 県営ダムだから、知事の判断で取りやめることができたのですね。それに対し八ッ場ダムは、治水、利水などで首都圏の都県全体に関わってきますね。大塚さんは、八ッ場ダムの問題についてはどのようにお考えですか。
大塚 ダムそのものは、経済成長する過程で、水源や電源としての役割を果たしてきたのは事実でしょう。ですが、ダム政策は多目的ダムとして治水とか利水に深く係わる中で、国が補助金を出すことから、余計なダムがたくさんできたと思います。洪水の危険度を余計に見積もって、それでダムが必要なんだという展開でどんどんダムが造られていく。おそらく八ッ場ダムについても、基本高水流量そのものの考えを再検証していくのではないかと思います。
 水利権の問題もむずかしい問題です。埼玉県も千葉県も言っていますが、「渇水になった時に困る」と。
倉渕ダムの場合も、高崎市は農業用水を一部転用して水道水にしています。ですから、水そのものは物理的には間に合っているのです。ですが、水利権ということになると、圧倒的に多いのは農業用水です。その農業用水っていうのは、田んぼが少なくなっていく中で使用量は少なくなってきている。ただ、実際に転用が許可されているかというとそうではない。きちんとした水利権を取るためにはダムを造らないと得られないという口実で、河川行政がすすめられてきた。水利権というのは非常に大事な権利なので、これを簡単に水道水に転換させるというのは難しい部分もあると思いますが、農業用水等の転換も含め、今後政治や行政が取り組むべき課題なのです。
問 お金の使い方とかの問題はどうですか。
大塚 ダム建設の経済効果の面では、一部のゼネコンが潤うくらいなのです。しかも一時だけです。それから、もう一つ、マスコミも言っていない問題ですが、公共事業というのは必ず地元の有力者といわれる人たちが見返りを求めるということです。それが問題を非常にややこしくしています。ダム建設に絡めていろいろ事業を持ってくることで結果的に地元の土建会社等も潤うことになる。そういう人たちにとっては、反対運動があると、自分たちは反対運動とは違って行政側の協力者なのだという構図で出てくるのです。そしてそれが地元の意見だ、みたいなになってくると、ややこしくなってきます。
 八ッ場ダム問題でも、住民の声には、そうまでして進めなくてもよいという考えも実はかなりあるのではと思うのですが、ややもすると、そういう声はかき消されてしまいがちだ、ということです。
ダムで壊される自然の循環
問 ダムと農業などの関連はどう考えますか。
大塚 日本全国津々浦々、ほとんどの川がダムで遮断されてしまっています。烏川は、唯一ダムのない川ですが、これが遮断されてしまうと、上流の森の中から流れてくる腐植とか養分とかがダムに貯められてしまいます。砂防ダムも相当ありますからダムに堰き止められて、ちょろちょろとしか来ない。海もそれによって影響を受けます。
 砂が流れないから、海岸が少なくなってしまうのです。砂で埋まったダムは、その砂の上を川が流れるようになるのです。また、漁業にも影響があります。富山県の黒部ダムでは、堰き止めているゲートを開けて、溜まった砂を流しましたが(1991年)、堆積物は腐敗してヘドロ状になっている。そのため、海一面に異臭がし、刺し網漁の魚も7割が死ぬという被害が起きました。
 八ッ場ダムが計画されている吾妻川の上流には全国有数のキャベツ産地嬬恋村があります。化学肥料とりわけ窒素分の多投入による地下水汚染が全国的に問題になっていますが、嬬恋村も例外ではないはず。窒素肥料は硝酸態窒素に変化し大量に吾妻川に流れ出ていると思われます。ダムができれば堰きとめられたダム湖は、川の浄化作用がなくなるため、コケ類の異常繁殖を引き起すなど水質の悪化が避けられないでしょう。ダムにより流域全体の生態系は大きく崩れてしまいます。
問 どうもありがとうございました。これからもがんばってください。私たちも今後の八ッ場ダムの行方に関心をもっていきたいと思います。                 (2009年11月9日)

参考資料 
『倉渕ダム白書―倉渕ダム再評価委員会最終報告書』 倉渕ダム再評価委員会平成16年4月4日
宮原田綾香著中島政希監修『ダム建設による地域コミュニティの変容 ― 八ッ場ダム建設計画の進行過程から見える現状と課題』NPO法人公共政策研究所、平成21年1月
ホームページ 
倉渕ダム建設に関する様々な問題点 http://t-mizu.hp.infoseek.co.jp/
八ッ場あしたの会 http://www.yamba-net.org/   


Posted by やんばちゃん at 15:28Comments(0)八ッ場に願う

2010年05月27日

八ッ場ダム「中止」の前に、倉渕ダムの成果あり(一)

 倉渕ダムの大塚一吉さんから送って頂いた記事です。
 『土と健康』~ 二回にわったって、転載させて戴きます。元原稿は冊子のページそのままのレイアウトでカラー。頂いた当初は「わぁ」と喜んだものでしたが、その後、そのままでは転載できないことに気がつき、なんとも意気消沈。
 その後の記事多発の最中、長文でもありますし、どうしようかなと思っているうちに、思わぬ日数を経てしまいました。
 イベント続きで、錯綜としてしまった27、28日分に穴が開いてました。そこで、穴埋め記事として使わさせて頂くのは何とも失礼なのですが、転載させていただく次第です。大塚さん、どうぞ、ご寛容のほどを。《6月1日に転載》

八ッ場ダム「中止」の前に、倉渕ダムの成果あり有機農家/「倉渕ダム研究会」主宰/群馬県高崎市在住
大塚一吉さんに聞く 聞き手 久保田裕子

群馬県北を水源とする利根川は延長332キロメートルで、日本で2番目に長い川であり、その流域は関東平野全域に及ぶ。農業用水・工業用水はもとより、首都圏の水がめ(飲用水)としても、また、水力発電の電源開発としても重要視されてきた。
 今、利根川水系の主要河川の一つ吾妻川(あがつまがわ)に計画中の八ッ場ダムの建設事業中止案が政治問題化している。やはり利根川水系の一つ、烏川には、1979年、倉渕村川浦に「倉渕ダム」が計画されて建設事業が進められていた。1980年から83年にかけて予備調査、84年に国庫補助による群馬県の事業として総貯水量1160万?の多目的ダムの建設計画が決まり、1991年から総事業費275億円ということで本格的に建設工事が始まった(2002年、総事業費は400億円に変更)。
 山間のダム建設には、他地域と異なり、当初、さしたる反対運動は起きなかったが、自然生態系を破壊し、巨額な建設費のかかるダム建設計画に疑問の声をあげたのは、高崎市に飲料水をもたらすとされた当の高崎市に住む市民たちだった。2001年6月、「高崎の水を考える会」が発足した。高崎市郊外で有機農業を営む大塚一吉さんもその一人(その後、2002年に「倉渕ダム研究会」主宰)。土木工学を学び、土木設計コンサルタント会社にいた経験からの活動が功を奏して、2003年12月、ダム建設計画は事実上終結した。
 全国のダム建設反対運動のなかでも比較的短期間に中止に至った数少ない例である。その立役者大塚さんに、その反対運動を振り返っていただいた。
根拠となる数字に疑問
問 八ッ場ダムの場合、計画はかなり前に立てられており、すでに着工されて建設が進んでいます。東京、埼玉などの利根川流域でカスリーン台風による広範囲にわたる水害が起きたのは1947年(昭和22年)。そうした水害が起きないよう、多目的ダムを造ろうという計画は、1949年、当時の経済安定本部時代とのことです。その後、1952年に建設省が利根川水系のダム群建設の計画を立て、八ッ場ダムの建設が進められました。倉渕ダムの場合は、まったく手つかずの計画のうちに中止になったのですか。
大塚 そうではないです。やはり倉渕ダムについても、計画の立案は早く、県の調査は1955年から始まっていました。反対運動は2000年頃からですから、その頃までに全体の工事費400億円のうちの162億円はすでに使われていた。水没道路に変わる付け替え県道ももう完了していて、本体工事着工の直前だったのです。
問 そこまで進められていたのに、中止というのはすごいですね。
大塚 これは、住民の力ですね。そして、これには有機農業の生産者、消費者のつながりが大きな力になりました。後に出てきますが、「倉渕ダム凍結をめざす市民の会」の代表をして運動の中心的なところを担ったのは歯科医師の武井謙司さんで、うちの提携野菜の消費者ですし、県の職員を刑事告発した時にお世話になった梓澤和幸弁護士もまたそうです。記事を書いてくれた記者は、NHKの番組改編の問題を書いた朝日の本田雅和記者です。
 また、有機の生産者である「烏川を大事にする会」の田島三夫さん、「倉渕つばさの会」の山際義隆さん、それと民主党の中島政希さんをはじめとしてたくさんの人たちが協力し合ってきました。そうしたいろんな人の有機的なつながりで運動が展開していって、それで2003年12月に、知事が県議会で「凍結」を宣言したわけです。

問 ダム建設反対の論点といいますか、反対運動の経過はどのようなものでしたか。
大塚 私は、有機農業をやる前は土木設計コンサルタント会社に勤めていたので、ある程度水問題についての知識があったのです。倉渕ダムは治水、利水の多目的ダムですが、その建設の根拠になっている数字などが非常におかしいのではないかという疑問から始まりました。
 一つは、治水面ですが、この計画は、100年に1回起きるであろう大洪水を防ぐ目的で立てられていました。カスリーン台風のようなものを想定しているわけです。ところが、最大洪水流量、専門用語でいうと基本高水流量という、洪水が来た時に、毎秒どのくらいの水が川に流れるかという指標があるのですが、それを県は2800?/秒と出していますが、これは国の治水計画でいう2000?/秒と比べても、かなり高く見積もられている。
 この根拠となる実際の基準地点における洪水時の流量観測データはなく、他の地点の洪水時の雨量データ10回分を用いた雨量確率法という手法で推計したものです。ところが県は、用いた河口の流量のデータに相当な幅があるのに、その最大値だけを採用するなど、推計で補填した数字や係数の設定に恣意性があるし、短時間の雨量が引き伸ばされて大きくなるので結果として過大な流量になっていました。
 また、ダムによる洪水削減効果が計算されていましたが、治水基準点でのピークカット効果はたかだか200?/秒で、水位にして20cmの低下効果でしかない。これは下流の堤防を20cmかさ上げすれば済むことです。倉渕ダムは、守るべき市街地から遠く離れている場所に計画されているため、洪水削減効果が低いのです。ダム地点より上流の流域面積は、全体の流域面積の8%と、ごくわずかです。
ダム建設か、河川改修か
大塚 二つめは、ダム建設か、河川改修かという論点です。県の当初の計画では、ダム建設案349億円に対し、河川改修単独案では411億円と計上していた。ダム建設のほうが安上がりだというわけです。ところが、この数字も根拠に乏しいものだった。
 02年3月に、県が約1600万円をかけてコンサルタント会社に作成させた倉渕ダム建設の設計書と代替案(河川改修)の比較を含む資料を情報公開の手続きをとって県に請求したのですが、それによりダム建設の細目にわたる資料が出てきました。ところが、その直後に、県のほうから「間違ったものが入っていたので差し替えてほしい」と、その日のうちに私の家までやってきたのです。私が家に着いた時には彼らがもう先についていて待ち構えているという状況でした。しかしすでに、会のメンバーが機転をきかせてコピーをとっていました。
 コピーを見ると、河川改修単独案よりもダム建設案の方が安上がりだという結論ありきで、その論拠とされたダムを建設しない場合の河川改修に係る用地の買収費が宅地20万円/㎡、田畑5万円/?と、私たちが調査した価格に比べ数倍から十数倍と、実勢からかけ離れた高い数字になっていたのです。  


Posted by やんばちゃん at 15:20Comments(0)八ッ場に願う

2010年02月28日

八ッ場の肉厚原木しいたけ売りました

 【2009年12月撮影の竹藪で自然発生したという初物】
 昨日、一日中雨かと思ったら、昼前に見事にはれあがって、ポカポカ陽気に。安心しきっていたら、本日は昨夜来の雨、それも結構激しい降り。津波情報と相まって、暗い日曜日の幕開けに。
 昔から、“土方殺すに刃物はいらぬ、雨の三日もふれば良い”とかの言葉がありますが、いわゆる“にわか露天商のオバさん”も雨には弱い。まして、テントをもたない。持っていても、たぶん、一人で組み立ては出来ないだろうし……、(ところが、私よりも年配で小柄な女性の方は、お米が完売とかで早くも帰り仕度をされていたが、お一人で二つのテントと車につないだビニールなどの解体をスイスイとこなされているではないか。「お手伝いしましょうか」と声をかけたが、「大丈夫だよ」との軽快な声が返ってきた)。
 もっとも、痛手なのは衣類などのいわゆるフリーマーケットの皆さんらしく、8時の開始時間がすぎても、荷ほどきしないで、じっと天候の回復を待っていられる様子。
 いつもしんがり組の私は、主に農産物と鉢ものだから、比較的、気がらく。本日も雨にぬれても痛痒のない植木や花類を持って行った。ビオラ約30鉢は、農業大学校の指導の講習会に出て、種から蒔いて育てたもの。売るが惜しいほど、見事に咲いてくれた。「2鉢100円にしろ」とか言われたが、先々月から、ガンとして「2鉢150円」を崩さず。最初の方は良いのをもっていくはずと思って、 「〇〇スーパーでは55円だったよ」とか言われたが、「どうぞ、そちらでお求めくださいませな」として応じなかった。
 ほとんどのものが元手タダ同然のものか、庭というか荒れ放題の畑地に跋扈している、山椒の木などを季節に応じて、知恵しぼって集める。
 この間、最も売ったのは庭先一面に広がりだした「吉祥草」。これにヒト言、「吉事があると咲く花であり、植えておくと良いことがもたらされる縁起花です」なるプレミアムをつけておくのだ。
 本日は初夏に白い花をつける、これまた年々歳々、敷地内に縦横に拡がりだしたオーニソガラム。おまけに、瑠璃色の青い球の美しいリュウノヒゲ(竜の髭)、別名をジャノヒゲ(蛇の髭)まで、大鉢に植えこんだ。通常の方は見向きもしないものばかりである。雨がたたって客足の少ない本日は、どちらも一鉢も売れなかったけれど、元手がかからず、草むしり的整理の実益も兼ねているのだから、ガックリはしない。売れのこったものは、今度は配置を考えて、まとめて埋め戻しておけば良い。

 こうして昨年春先からまた復活して、月に一度、第四日曜日に旧市役所跡地のもてなし広場で行われる、「たかさき人情市」に出店している。
 ここで、八ッ場の特産物も分けてもらって販売している。コンニャク、ふきのトウ、フキ、リンゴ、竹炭、ハンデェ米など。そして、セリやワサビの葉などは田んぼや沢筋をかけずり回って採集して、我がにわか店頭を彩ってきた。
 時に、ダムの話もする、するとついつい熱が入ってしまって、慌てて、度が過ぎるな。過ぎては逆効果と軌道修正に至る。
 長野原町産と記すものだから、「どこから、きたん?」と聞かれたり、「遠くからきてるんだね」と良く問われる。
 今日の品物中、長野原町野品物は、2軒の農家から分けてもらった約7キロの原木しいたけと林地区有志による「すみやきの里」の竹炭。竹ショウギに並べた我が店で、しいたけの次に売れたのは、今朝、早起きして小袋に詰めた福島県の酒造元からのこだわりの酒粕であった。 
 しかし、重労働である。帰宅し、あらかたの売れ残りや用具を片づけてから、刻、コタツにはいってから、動くこともできずにいる。

 まだ、雨足が上がらない9時前、遅い時間帯に到着したので最も端に並んだいた出店場所の目の前に止まった、黒塗りの高級車から降りてきたのは高崎市長だった。
 「あら、市長さん、おはようございます」と慌ててあいさつをすると、「おはよう」と言いながらもかなりの急ぎ足であった。ほどなく、130回目を迎えた本日のゲストは石巻市。で、同市の観光協会ご一行に釜石市長も同行してみえていたのだった。で、歓迎の意味でのおでましとわかった次第。
 ようやく10時近く、薄日がさしてきたが、釜石市からの新鮮な魚介類が並んだらしいのに、客数が年々減少気味に加えて、雨で出足が悪くて、気の毒であった(一人の私はトイレに行くのがやっとで、見にいけず)。午後、次回の申込みに本部席に行ったら、ものすごく立派なストーブの煙突から煙がもくもくとあがり、辺り一帯が温かった。くびれた台座で煮炊きも出来るしシャレた斬新なデザインであった。この辺りではこんなに重厚な焚き木ストーブはみたこともなかったので思わず、パンフをもらってみた。
 脇にいらした方が、「北海道などはそれはあったかいものですよ」などのとの口添えをなされた辺りで、ようやく全体が把握でき、釜石市からの展示物だとわかった。その初老のた気品にみちた方は、?釜石市から見えた何かの役職の方ではないかと直感。値段も良いけれど、近場のホームセンターでのヤワなものとは異なり、やはり北国の暖房具は、すごく頑丈で機能的なものだと実感出来た。
  欲しいけれど、わが家のポロ家で、あんなに猛烈なストーブを炊いたら、引火してかえって危ないのではと感じられたほどだ。
 そういえば、今年はちっちゃな電気ストーブも使わずに、コタツだけで過してしまった。温暖化は本当にひどい状況になってきたのだろうか。先日の映画の中の危機感をあおるセリフは「このまま、行けばあと50年で地球は滅びる」との由。
 
 そして、夜半過ぎ。そうだ、先日、八ッ場のあるお宅の玄関土間で威容をはなっていた焚き木ストーブも、この類いの頑丈なものだったなと思い至った。展示物のはさらにデザイン性を加えたすぐれものであった。  


Posted by やんばちゃん at 23:32Comments(0)八ッ場に願う

2010年02月21日

わが田園、まさに荒れなんとす

 今朝は、地域を流れる井野川の、今年度最後のクリーン作戦を行いました。
 八ッ場ダム問題に深入りしだした時と同じく、10年間前呼びかけて、地域の皆さんと一緒に、川と耕作放棄地のクリーン作戦を行い、どちらも事務局を預かってきました。
 井野川は吾妻郡境の榛名山系の山ふところに位置する、旧箕郷町と北群馬郡の榛東村にある自衛隊相馬ケ原演習場の敷地の奥地から源を発するといわれている一級河川です。高崎市の北を東に向かって流れ、利根川に合流します。
 通例、川の中のゴミを拾ってきました。今日の最大の粗大ゴミはバイクでした。巧妙にもナンバーは外してあったのでしたが、ゴミを拾いながら突き進んだ上流にすててあって、会員がひろい、カメラに納めた次第です。
 
 終了後、独りで耕作放棄地の点検を。
 こちらは耕作放棄地などの荒れ地を耕して、花を植えて美観を保つクリーン作戦です。
 あることで耕せずに草で荒れほうだいだった水田三枚、もとは村一番の美田だっという併せて約四反以上、1200坪の広さの水田を借り受けて、春秋2回、コスモスなどの花々を植えてきました。
 こちらは年々再々、花好きな方たちが減ってしまって往生しています。会員が集まらない現在はもてあましています。動いてくれない会長にかわって、年度末の報告書作成にたずさわる者には、毎年の苦痛ごとでした。ある年の私の作業日数は88日。現在は、しかたなく私が結局事務局兼会長。
 
 昨年春は、緑化フェアでのボランティアとしての作業最終日に、高崎市の駅前通りに展示した花類の余り物の放出がありました。喜び勇んで、車で3往復して約500鉢の花類を貰ってきたのは良いのですが、植え付け、水やり、草取り作業に5、6、7、8月追われ通しで、なんと、5㌔の激減。父の没した年齢と同い年。やはり急速に痩せたその晩年を思い浮かべて、さすがに病気かと思ったほどでした。
 
 ところが、秋口からの八ッ場ダム問題沸騰!! 
 丹精?の花々を、何とかと思っているうちに、10月下旬の一朝、早すぎる霜にやられて無残なことに。
 八ッ場のベテラン農家のに「どうしたら言いかしら」と尋ねると、にべもなくおっしゃるには、「霜にやられたものをどうかすべえと思ったって、結局ムダだよ」。
 
 とは言われても、でも、何とか少しでも救って、来春につなげようと、限られた時間の隙間をぬって時間を費やしてそそいで来たのでした。でも、もっとすごい冬場の寒さに向かって、ダメだろうな、長年の経験から会得した言葉には逆らえないなとは思ってました。せめて、バラの類だけは何とか守ろうとしたのでした。
 でも、ついに寸暇の時間も割けなくなった、昨年末~今年にかけて、激減した体重が回復するにつれ、もう畑仕事には見向きも出来なくなってしまってきました。現在4、5㌔回復して、ほぼ元通りのビア樽体系に復旧。結局、ムダな努力なのでした。
 
 そして、目下、浮上の困難な事柄を抱えて、久しぶりに荒れた畑にたって、あ~あ。
 こちらも何とかしなければならないのですが、でも、もはや金銭的にトラクターを頼む余力もなくなりましたが、作業しさえすればストレートに進む事柄に加え、人間関係、とりわけ八ッ場ダム問題が根底にあるねじれた政治がらまりのイデオロギー問題はしんどいものがあり、これまたあ~ぁです。   


Posted by やんばちゃん at 23:58Comments(0)八ッ場に願う

2010年02月10日

八ッ場の大地よ、皆さんよ、きっと蘇りたかったんだですよね

 昨日の高崎市は24度もの温かな気候で、全国ニュースで流されたほどでした。
 確かに上着なしの軽装でOK。

 こんな日は何かか゛起こっても不思議ではなさそう?
 で、本当に起きたんです。

 一昨日記した、バワーポイント制作中に消えてしまった、私のDVDのこと覚えていてくださいますでしょうか。容量は2Gで、約2000枚可との由 昨年の5月~前原大臣の9/23までの記録がおさまっていました。
 一昨日の夕刻、現像店から「やはり、いろいろ試みたのですが、ダメでした。なお、店が閉店しますので、もし他のもダビングの必要性があるのなら、お早目めに」と電話をもらい、他の約20枚程度のCDやDVDをもって、ものうい思いででかけました。
 
 必要なものをお願いして、ふと、ダメといわれたDVDを、未練がましく器具にさしいれてみたのです。
 するとやはりダメ。ダメにきまっているじゃないかと、思った矢先、かすかに画面に映像が、一瞬、凍りつくような思いの期待感の中で、目を凝らすと映っているじゃありませんか。慌てて、店の方を呼ぼうとして、私にしては極めて慎重になって、ぬかよろこびではないよな。もう一度、間違いでないか調べて確認してからにしようと思いとどまった。
 「落ち着いて落ち着いて、なおも落ちつけよ」とここの処、持ち前のそこつさで、失敗ばかりしてきたから、すこし、自嘲気味になっている。
 でも間違いない。
 で、店員さんに声をかけた。 「不思議ですね。出てきたんですよ」と。
 
 不思議なことは、不思議に起きるものです。
 時にハンレイなきにしも非ず

 そこには、今はもう消えてしまった八ッ場の山河が、花や木が、そして皆さんの顔がうつているんです。
 道でお会いし石垣に越しかけていた見知らぬおばあちゃんのとっても良い表情なども……。(せめて、写真は数か月遅れながらも、先日届けておいて良かったと思っていた方でした)。
 今は切り刻まれてしまった自然界のもろもろが、きっと画面の中で永遠に蘇生したかったんでしょうよね。と思うことにしました。
 でもね不思議です。プロの方が試みても、何も映らなかったんですよ。
 
 喪失感が吹き飛んで、本当にはちきれんばかりに心膨らませて戸外にでると、ただならぬ春の風をうけました。
 すると、何十年も前の入試に落ちた日のあのこそばゆい記憶がよぎりました。あの日を境にして、ここまで来てしまったわが行路。思っていた道にはもう戻ること叶わず。たどることさえ不可能。今ならどんなに方法でもあったことが分かるのに……、なぜ、あのまま無策で……。悔いても仕方なし。
 でももし、順調にいっていれば、今の時間的自由はなかったかもしれない。

 で、珍しくめったいにしない外食を。遅い昼食をとったのです。チェーンのすし店舗でみた、“すしやの幻のラーメン”といわれるそのラーメン、380円にて。もし、順調に世の中に滑り出していれば、今、この時、ここで380円のラーメンをご馳走としてすすってはいまいにと憂えつつ。 
(でも、本日溜まっていた広告類をかたずけていたら、なんと昨日からあるラーメン店の半額ラーメンセールがまた、始まっていたのに残念と思う、この気持ちのせちがらさ)。
 でも、その店は安くて私の好みなのです。
 いつか前橋でのイベントに見えた八ッ場のある方を駅まで迎えに行った際、まだ昼前なのでどこか急ぎで簡単に食べられるところないですかとのことに、道筋あったここの前橋店にご案内したことがありました。「旨いねぇ」ととっても喜ばれました。
 そうなんです。昔のシナそばの味なんです。八ッ場の山間部の方には、私同様ラーメンはご馳走の部類なのです。
 でも、子供の頃に食べた(当時は30~60円位だった)あのシナそばの味ほど旨かった味にはやはりお目にかかれません。
  
 追伸:悔しい! なんと11日に入ってきた広告には、例の“すしやの幻のラーメン”の100円引き券があったのです。
     こういうのって何とも悔しい。  


Posted by やんばちゃん at 22:41Comments(0)八ッ場に願う

2010年02月02日

?“作家”なる言葉に振り回された「雪の朝」

 今朝は群馬県一帯、初雪にみまわれたようです。量的にはさほどではありませんけれど、でも積雪しましたから、本格的な初雪とよべましょう。風花、この辺では「ハアーテ」と呼んでいますが、ありましたけれどね。
 昨夕、チャイムが激しくなるので、電話の何度目かの中断をして表に出てみると、先ほど配布物をもってきてくださった詩のサークルの方の軽トラックのエンジンがかからず、「明日、晴れてから直すから、置いてくんない」とおっしゃるのでした。
 で、急いで町の端と端の距離なので、乗っているその方まで「下手な運転だのう」と言うわが運転技術でお送りしたのでしたが、行く時には大粒の氷雨。帰途には雪にかわっていました。
 で、おっちょこちょいおばさんはフロントガラスが曇って前方がよく見えず、対抗車とごく軽い接触をしでかしてしまった次第。メカに弱いこのおばさんはあらゆる機械の構造にも弱く、実は未だに窓の曇りをとる方法が良くわからないのです。最近は冷暖房をいれればという知識を得たので、慌てて暖房を入れたのでしたが、間に合わなかったのです。なお、これは私に限ってで,女性がメカに弱いというのは誤った通念で、男性以上強い女性もたくさんいます。機会がなかつただけです。その意味で皆さんにSOSを求めながらも、パソコンにしがみついているこの私です。
 ずっと座っていたので、急に表にとびだしたから頭の回転も運動能力も鈍ってました。それに家に近づく頃は胸が少々いたくて、私も心臓がわるいのかしらと思ったものでした。
 
 さて本朝、八ッ場の今度は、Kさん宅に電話。
 奥さんいわく、「大雪で。朝飯前から雪かきでまだ家に入らないんだよ」と。約60㌔離れた平地でこれだけ降るということは、八ッ場ではさぞかし大雪なんでしょう。
 これで、今年はさらに温暖化が進んだらしく、川原湯温泉街の坂道も凍てつかずで、早々とスノータイヤを履いたのにと拍子抜け気味だったのでしたが、これからは覚悟しなければならないかなと思った次第です。
 今年最初の八ッ場行きの日、笹湯からの坂道での凍てついた場所にはまり、どうにも坂が登れずで往生したことがあり、冬場は谷あいの坂道にはちかづくべからずと自戒しています。
 
 思えば、このわが運転技術、加えて猛スピードで山中の坂道を吹っ飛ばして続いてきた「八ッ場通い」。
 月に平均して仮に最低の2回にして年間24回。単純計算で少なくとも200回は往復してきたのでした。毎回、よく飽きずにと思いつつ走らせています。時折り変わった道が走りたくなって、時間に余裕のある時は路線変更をしてみる次第です。
 でも、それほど八ッ場の地は、吸引力がある魅力の土地なのです。だから、必死で護りたいのです。といっても、無力な私に何ができるわけでもありません。
 でも、“三つ子の魂、百までも”のことわざ通りの、ある信じることがあるのです。
 それはもしかしたら、幼い日に、父が買ってくれた絵本の逸話に起因しているのかもしれません。
 確か、オランダのハンス少年は、堤防の一カ所に水が漏れているのに気がつき、自分の手を差し込んで、大人たちが気がついて駆けつけるまでの間、気を失っても決壊を守ったという話でした。
 その絵本の絵づらが今もかすかに浮かんできます。
 到底、力及ばす不毛の努力と思っても、渾身の限り、試みるという思いは、己の小さな力を顧みず、私を一途に駆り立てさせる秘薬です。
 
 これまた“雪の明日の裸洗濯”と教えた祖母の言葉を信じて、昨夜来、いっぱい洗濯ものをしておいたのに、朝の一時、晴れただけでどんより。結局、生乾きのまま、しまいこむ結果に。
 車を直しに工具やブースターをもって、昨日の方がやってきました。たぶん、プラグとかが悪いということでそれも持参した由。
作業中に突然、「作家先生の日常場面を撮影してやろうか」と言いだしたのです。
 「サッカって」と一瞬、意味がわからず、この方は最後まで養蚕をしていた大農家。じゃ、高良先生の過日の講演に電話しようとしたお一人なので、間をおいてから「だって、高良先生はそんなに群馬に来ないわよ」と言い出したら、「アンタだよ。その散らかっている部屋を撮ってあげるよ」と言われて、「えぇー、私はサッカの域じゃないよ!」と驚き慌て、「そんなこといいよ。散らかって部屋なんか。まったくもうー」と周章狼狽したものです。
 そうだ。昨日、この方の一度目の時は、久々に遠方の知人との電話に夢中かつ声高に話していて、チャイムに気がつかなかったのか壊れていたのか、玄関の中から「こんちわー。いるかい」と大きな声をあげられ、あわてて電話を中断して部屋を出てみると、ずぶぬれの合羽姿で散らかっている玄関の中にいたのでした。で、二度目は激しいチャイムの連打となったのでしょう。
 その時、例のうれしい毎日新聞とそのコピーが玄関先にあったので、長年と言っても、開店休業状態の同人仲間のこの方にも、気がつかなかった言い訳と、「ここんとこ、お掃除できなくて、部屋の中がいっぱいなの」といいなから、一枚さしあけていた経緯があったのです。 
 そして、サークルの中で皮肉屋さんで名高いこの方、いわく「いつも、そうだんべ」と荒れ放題の下駄箱の廻りをジロリ。あぁ、恥ずかしいと身の縮む思いでした。
 で、「いいよ。断る。私だって、一応、女だからね」と男女共同参画推進にはあるまじき通念語を用いて、撃退ねがった次第。
 
 そうなのです。考えてみれば、新聞の伊東光晴さんの書評に、なんとも面映ゆく《作家による(政治と金」の貴重な記録》となっていたのでした。少なからず、「いいのかな」とひっかかってましたけれど。
 「作家」にほど遠いながら、「もの書きの部屋はちらかり放題」という事と、概してメカに弱いとの点では確かに通じます。
 人さまを玄関から先にあげられなくなって久しいのです。特にこの四ヶ月間はひどくなっています。「ちらかっている処がいいんだよ」という先の方の、お体裁を好まない実直な詩精神にはこの間、共鳴してきましたが、言葉の裏の皮肉さにも気がついています。八ッ場の方がみえた時、開口一番、玄関先から続いていた本の山に「これは、女の部屋じゃねえのう」と言われた私です。
 でも、いつも私でも人並みに「お掃除しなければ」と思うのです。 ですが、たまの空き時間に整理しはじめても、近所のことや会議の時間がきて中断。するとなまじの片づけは、より始末が悪くなって、老化現象も加わって置いたところが記憶になく、今度は探すのにてんやわんやでかき回す。より散らかっての悪循環。今日のこの寒い日だって、川のクリーン作戦の事務局として次回のチラシを持って、村内を一巡してきたばかり。

 思い出してみれば、わが師・井上光晴さんのトランプ占いは有名で、一時NHKで講師をやっていたとか、(たぶん、これは死後私にも良く判った“嘘つきみっちゃん”の本領でしょうが、今度、奥さんに聞いてみようと思います)私たちは本当に、とりわけ素直さでは年の割に定評のあり過ぎた私なのでした。即座にその人間の状況を把握し、夢と希望を与え、活路を与え励ますのが井上さんの占いでした。
 で、ある時の占いで、「あなたは何かのシゴトをします。しかし、それは“文学”じゃないかもしれませんけどね」と。以来、誠に素直だった私は“文学”への道から遠ざかって、事務局的な雑用係を率先して引き受けたのでした。
 同じ頃、世渡りの才覚にたけた方からも「恋愛の一つもしたことがないのに、小説がかけるかなぁ」とからかわれました。当時の私は「恋愛」という言葉を口にできないような幼さでした。で、「でも、そういうことに触れない小説だってあると思います」とは反論はしたものの、人さまのおっしゃることにまともに左右される私は、この二つの言葉は鮮明に心の底に宿って、左右されて今日にいたります。
 確か、樋口一葉の小説に「雪の朝」なる小説については、瀬戸内寂聴さんや前田愛さんの評論などで、恋愛もなく若くしてなくなった一葉の一度の恋的に、師であった半井桃水らしき人物と迎えた“雪の朝”だとか、一時、かまびすしい憶測論がありましたっけ。
 その意味深な背景もようやく判ってきた現在も、そんな気配も種もないままに独り、いつものごとくの今朝を迎えたのでした。

 従って、作家なる言葉は、伊東光晴さんの明らかに過分な思い込みでしょうが、あのご批評は、今後の八ッ場のために少なからずの糸口となることを願ってやまないのです。これもまた、素直に信じてまいりたいと思います。
 でも、おかげ様で一時、忘却のかなたに押しやって忘れていた「作家」なる言葉に酔わせて戴けましたことに、本日も伊東さんに心からお礼申し上げさせていただきます。
 なお願わくば、こちらもちょっぴり信じさせて戴きたいもの……

  


Posted by やんばちゃん at 23:57Comments(0)八ッ場に願う

2010年02月01日

伊東光晴様、八ッ場のために有難うございました

 朝、お電話したある文化人の方が、開口一番「出てましたね」とおっしゃり、なんと昨日の毎日新聞の書評欄の中でも、大きくトップ扱いで載っているというのです。しかも、「内容的にも高いですね」と添えてくださり、わがことのように喜んでくださったのでした。この方は毎日新聞が、めざす思想に最も安定していると踏み、最近、他紙から乗り換えた由。
 それだけに報道されていた今日の同紙の窮乏は惜しいですね。かつて毎日新聞記者筋からの話に、例の「外務省機密漏洩事件」以後、陰りが生じ出したとくどいてました。
 で、急いで新聞店が開くのを待ちかねて求めに行きました。
 ところが、いつもの、(2年前まではず~と購読していた毎日新聞)の販売店には一部しかなく、その支店にも問い合わせしてもらいました処、やはり一部しかないとのこと。というのは、昨夕、どっさりと古紙処分車が廻ってきて回収したばかりとのこと。
 昨日のうちに気がついていればと悔やむことしきり。
 必要に迫られて各紙を求めて奔走していた頃、新聞類はいつも在庫があって数部手にいれていたので安心していたのです。一部130円で幾つか求めたい人間もいるのに、もったいない廃棄されてしまうなんて。しばらくこのようなこともなかったので、最近はシステムが迅速化したのを知らずにおりました。
 早速、他県に住む姉にも援軍を頼む。ここでも2部のみとかで、合計4部ゲット。 

 拡げてみると、せいぜい見開きページの下欄くらいに思っていたのに、なんと読書欄が充実している毎日新聞のその欄の一ページ目、何年か前にレイアウトが一新され、特色あるイラストの真上の順トップ扱いクラスの場所にあるではありませんか。
 (昨夜、版元の社員が送ってくれた記事から、記事を張りつけたもののコピーでなければ、これは上方の位置の上にかなりの大きさとは踏んでましたが、それはありえないことでまさかとも)。
 かつて経験した諸先生の記事やその何年か前、アジアの女性たちの翻訳を自費で行い続けている素晴らしい仕事をしている知人の新刊のことで、当方のわずかなつてをたよりにお願いしてみたらと伝え、お蔭さまで数行でしたが掲載され、彼女に喜ばれたことがあります。が、私などよりはるかに良質の実績のある知人のその時のことから考えて、書評欄に掲載されることさえむずかしいことなのに、どうしてこんなに大きくと。
 さすがは、第一級の評者と定評のある伊東光晴さん。
 この方のお力のたまもので、“光栄”などという言葉をはるかに超えて、身の引き締まる思いです。
 八ッ場の今後のために、きっと何かの兆しがあり得るものと信じています。心底、信じたい思いです。

 お伝えする方たちが、伊東光晴さんのお名前を申し上げると、「えぇ」と驚かれ、「良かったわねぇ」と本当に喜んでくださる。その「良かった」の語は、八ッ場の今後のためにという意味であることは誰よりも、この私自身が深く自覚している次第です。

 うれしい対応もありました。
 歯科医院を開業している院長さんから、「見事な書評だった。ひいては、広く患者さん達にも読んでもらいたいので」との朗報が入ったのです。こんな拡がりがもてるなんて、小さな私には望外な幸せに突然、つつまれています。
 これも八ッ場の、この国の公共事業のカラクリ、何よりも環境問題に多くの心ある市民が危機感を持っているからでしょう。
 
 八ッ場よ、わが八ッ場よ、待っていておくれ、きっと辿りつけるからね!! 
  
 これは、思わず口をついてでそうになった、次のメロディのフレーズをもじった。 
   君にあうために、二人で歩くのよ
   君にあえる日はいつのことだろう
   風はふきやまず
   山は高くとも、
   待って、いて、おくれ、
   きっと、行くからね!
   あぁ、自由よ、自由。
   わが自由よ!
 若い日に観た、高崎労演のミュージカル調の舞台でした。このように思い出がぽろぽろとこぼれるように忘れてしまう日が来ることは考えもしなかったが、もはや、私もその年になってもどかしいというより悔しい。
 たしか、フォーリーブスとかいった若手の演劇集団で、「洪水の前」ではなかったか、でも自信ない。否違う。(当時の買いためたパンフレットを探し出す気力も時間もなし)。
 労演は全国を廻っているから、どなたかご存じだったら教えていただきたい。
 ともかく、この間、うかがった八ッ場の方たちの叫びを脳が鈍化しないうちに書き記さなければならない。
    
 本当に、八ッ場よ、わが八ッ場よ、真の経済的基盤に基づく生活再建が構築できて、水没地の皆さんに笑顔が戻る日を、もう少しだ。待っていて欲しい! この気持ちに偽りなし!!
 どうか、この高揚感が持続しますように。  


Posted by やんばちゃん at 20:23Comments(4)八ッ場に願う

2010年01月29日

あるべき生活再建構想に、前原さん一歩踏み出す

 27日の地元選出参議院議員・富岡由紀夫さんの一般質問の八ッ場ダムへの前原大臣の答弁は、昨日紹介の朝日新と並んで、より詳しく同じく昨日28日付読売新聞群馬版にもありました。
  ところがサイトが見つからないので、久しぶりの手打ちです。
  以前、水源連メールに毎日の報道一覧を送信していた時には、ずいぶん手打ちヲしたものでした。メールが送信できない日が続いたのを機に中断したままです。
 なお、私は27日の新聞のテレビ版をみて、富岡参議院議員の質問は13時~と思っていたのでしたが、どうやら午前の部から始まっていて、その冒頭の13分間が、八ッ場ダム問題に当てられていたようでした。
 富岡さんの冒頭のみが聞きたいのに、富岡さんの検索をすると、午後の部から出てしまって、午前中の早送りや巻き戻しが旨く出来ず、往生。どなたか、コツを教えてくださいません?
 結局、何度目かに下手な近道をせずに朝から聞くのが最もロスなしと考えて、この新聞記事を打ちながら、最初からじっと我慢の子ならぬ、おばさんに徹しています。
 現在、林久美子さん。この次だと思うんだけれど……。新聞をみたらまだ一人いる。でも国会中継は面白い。
  子供手当てのバラマキをめぐっては、子供を持つ林久美子さんは涼しい顔で「前政権のバラまきとは本質的に違う」といってのける。怒りの反応を発言席近くの自民党議員たちが何言うかと一斉に示す。この顔は初日に辛辣な独特のもの言いで鳩山首相に迫った、西田昌司議員、その脇の川口順子前大臣まで腕組みしたまま冷ややかな顔を向け、口を尖がらせているのが、何ともリアル。この方たちも思いもかけず見舞われた、秋霜烈日の日々の耐えがたきをじっと耐えていられるのだろう。下手なドラマよりもずっと深いものがある。
 さて、森田さんという議員が長びくだろうと思って、風呂に入っている間に、なんと富岡議員。で、見ていたのだが、またも一向ににダム問題は出てこない。失敗を覚悟で、巻き戻し。今回は成功。
 ようやく、ダム問題に遭遇。なんと、現地から手紙類が届くとのこと。事態は良い方向に行っている。安心した。ほどなく午前中の部は終わり、休憩になった。
 時間はなんと、午前3時を回った。でも、区切りがついて快く眠れそうだ。
 前原さん、膠着状態から一歩抜け出せて、良かったね。

/////////////////////////////////
 一、【2010年1月28日(木) 読売新聞群馬版】 
   八ッ場ダム  生活再建、雇用重視で

 八ッ場ダム(長野原町)問題に関連して、前原国土交通相は27日の参院予算委員会で、「必ずしもダムを前提としたインフラ整備を続けるのが真の生活再建なのではなく、長野原や東吾妻両町の方が、ダムがない場合に持続的に生活できるものを考えるのが真の生活再建だ」と述べ、ダム中止後の生活再建策の策定が必要との考えを示した。
 前原国交相は「(水没予定地住民の中には)雇用につながって日銭、月給が安定的に入るものを確保するのが本当の生活再建だと言う方もいる」と述べ、重点を雇用確保に置くべきとの認識を明らかにした。
 また、水没予定地住民の一部から手紙などで、「中止賛成だという意見がたくさんではないが、ちらほらとある」と明らかにした。
 昨年、ダム本体工事を中止表明した際に前原国交相は、道路や橋などの生活再建関連のインフラ事業は続ける考えヲ表明した。だが、民主党県連や市民団体などから不要論が出ている仮称・湖面1号橋の建設を続けるかは明言を避けており、この日も「近々態度を決めなくてはいけない」と述べるにとどめた。  


Posted by やんばちゃん at 23:33Comments(0)八ッ場に願う

2010年01月28日

正義感に燃えて、前原逆襲・《国会版・松の廊下!》

 25日衆議院・27日参議院の予算委員会での前原大臣の言動を二つ、お伝えします。
 昨日27日13時から、参議院予算委員会で富岡由紀夫さんの質問がある旨を、八ッ場現地の皆さんに伝えていた際のことです。 (今度の順番のアルファベットは今度はどなたでしたっけ?、ひと月も用いなかったので失念、たぶん)、Jさんと話をしていたら、25日のテレビニュースで、その日あった衆議院予算委員会での一時間に及んだ、町村衆院議員(自民党)の質問事項のしめくくりの発言に対する、前原さんの怒りの応酬を観たみたそうでした。で、24日に目の前でお目にかかったばかりの「前原さんも、あんなに怒ることがあるんだのう。たまげたのう」と驚いていました。
 
 質問者・自民党の町村信孝衆議議員といえば、確か前に文部科学大臣を務めた方でしたよね。しかし、その語り口の何とも言えないいやらしさ、皮肉ばっかりの下品極まりないものいい方が延々1時間続き、ヤレヤレご苦労さまと思った瞬間に、さらに許し難い締めくくりの発言があった。
 「なんで民意を問うことなしに八ッ場ダムを止めた。24日自分もテレビを観ていたが、前原大臣が深々と頭を下げてお詫びをしていた。ああやって頭を下げるくらいなら、最初からにやるな」という八ッ場ダム問題への言及があり、この前原大臣への嫌みの何十秒かの言葉がまた、とりわけ鼻もちならなかった。
 しかし、時間切れ。
 反論の余地なしかと思った瞬間、議長の「何か、どうしても? あったらどうぞ」の議長の声。
 まさに、前原ガンバレ。国民の期待に応えて、ワガ前原青年、大いにガンバッタ。怒りの炸裂で逆襲。
 「バラマキの公共事業をやってきたのはどの政党ですか! どの政権ですが!」と痛烈にきりこんだ。
 いぎたなくも町村オジサン、「私もいいますからね」の予告通り、「なんでも前政権のせいにするのは誠によろしくない」と開き直ったが、怒号にがすさまじい。議長に強く制止され、尻切れに。でも、言いきろうとする魂胆がすさまじい。
 途中「どうぞお座りください」的な町村オジサンの制止の身ぶりもあり、「議長、議長」と言う声という声も聞こえた。
 後に、youtaiblなる欄の《指名されてないのに答弁席に近づいて仁王立ち。■そもそもは、議長が答弁を求められてもいないのに前原大臣に発言させたのが拙いだろう》との揶揄語から推測して、声の主、仁王立ちになっているのは、わが前原さんらしい。
 「質疑者に言います、時間をちゃんと護ってください」。さらに今度は町村オジサンが議長に「座ってください」と発言制止を再三言われている。しかし、その議長の声にも、めげず町村オジサン最後まで言いきる。他人にご高説をたれながら、長年バッチヲつけているのにルールを振りきった「誠によろしくない」のはどっちだ。本来なら反論はすべきではなかった。
 さらに前原さんらしき「一言だけ!、ヒト言だけ!」の必死の声あり。
 まさに、“国会版、松の廊下”だ。 昨日、赤穂浪士に触れたのでそう思えた。わが前原さんに最後の一言のとどめを刺させてあげたかった。何も町村オジサンがあんなに長く話す必要はなかった。持ち時間は終わっているのだから、あそこまで辛辣な嫌みというより、イビリヲやられたら、キレるのは当たり前。
 きっと、「議長、議長」と迫るわが前原を「殿、ご乱心にござるぞ」と仲間内の議員でも抑えたのだろうか。
 痛快極まりなし。
 私も手間暇かけて2度も3度も聴いて、テープ起こししようかとテープに収めました。
 で、皆様とともにもう一度、味わわせていただきたいと思います。 詳しい内容は聞いてのお楽しみ。約1時間後の最後ですので。末尾なので、これが大変。

 二つ目は、昨日27日参議院予算委員会の富岡由紀夫参議院議員の質問に対する、前原大臣の応えです。
  今朝28日の朝日新聞群馬版に、その生活再建案に対する方針が載っています。私たち市民が懇願してきた、あるべき生活再建策でした。

/////////////////////////////////
 一、【2010年1月25日(月) 衆議院予算委員会  質問者:町村信孝】 http://www.shugiintv.go.jp/jp/wmpdyna.asx?deli_id=40121&media_type=wb&lang=j&spkid=19659&time=04:22:13.4
  
 ※他の議員の質問を観るのは、下記の「衆議院インターネット審議中継」を検索。発言者一覧や会議名をクリックしてもできます。   http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php

 二、【2010年01月28日(木) 朝日新聞群馬版 質問者:富岡由紀夫】  http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000581001280001
    参院予算委で「雇用や収入確保が生活再建」
  ※同じく、「衆議院インターネット審議中継」は
    http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL

 早速、援軍コメントあり
 さて、前橋さんからのコメントを転載します。サイトもすぐに必要事項が出てきますし、町村さんの面白い記事もあります。ご参考までに。
/////////////////////////////
//////////////////////////////////////////////////
 「政治と金」の問題で、小沢氏が政治資金で土地購入していたことを散々嫌みたらしく非難していた町村氏。
 ところがそんな自分も全く同じことをしていた。
 むしろ、個人名義に売却していた事実から、もっと悪質か?
http://gendai.net/news.php?m=view&g=syakai&c=020&no=44445

「前原キレル」の場面
http://www.youtube.com/watch?v=YycMsXjR_3I
拙劣なる政治家というのは町村氏こそ相応しい
Posted by 前橋人 at 2010年01月28日 20:43


※追伸  表題「痛快なり、前原逆襲!」の「痛快」は面白がっているようで適語ではないと、国会討論を観ていたという“八ッ場の知恵もの”の方と30日朝の電話で、話していましたら言われました。で、変えさせていただきました。
  


Posted by やんばちゃん at 18:44Comments(2)八ッ場に願う

2010年01月26日

ワイロって昔はもちろん、?今もある

 わが家のメインの置き時計は、既に昼近いのに、まだ7時をさしている。
 今日こそは何とかしなければと思うが、電池の予備がみつからない。買いにいくのもおっくう。わが頭の中のように、この家の中はまだ眠りのなかにある。何よりも、その周辺のホコリだらけを思うと、気持ちが滅入るのだ。若い日には体力で何とかこなせたが、家事に割ける時間がほとんど無くなって久しい。

 一昨日の24日、ある方から「これネ、僕の郷里のお菓子」と戴いた、送迎のお礼らしいお菓子を貰ったのを思い出して、親せきにおすそわけしようとした。
 津和野の銘菓「源氏巻」であった。その箱書きにはこのように記されている。

  江戸・元禄時代。赤穂の浅野内匠守の刃傷が゜起きる前のことです。当時の津和野藩主、亀井 親が勅使接待役を命じられ。吉良上野介に教示を依頼しましたが、浅野同様、数々の非礼を受け藩主を怒らせました。それを知った国家老多胡外記は早速、吉良家に進物を贈りつけ、ことなきを得ました。
  その時の進物の一つが「源氏巻」です。

 ーーここまでは、何のことはない。問題点は次の言葉。
 
 小判を下に敷きそのうえに竹皮で包んだ源氏巻をのせたという言い伝えがあります。津和野を救ったといわれる縁起の良いお菓子です。

 なぜ、戴きもののお菓子の箱がきに釘づけになったかと言うと、昨日、伊香保温泉の石段街をご案内しながら伺った、高良留美子さんから伺った同種のお話を思い出したからです。
 高良さんの祖父、参議院だった高良とみさんの父親である、和田義睦さんが中央官庁から新潟県に出向し、災害で流された万代橋の新設工事にあたっていた際に、土木業者(間組)から届いた、札束の敷き詰められた菓子折りのことを。
 その妻・邦子さんの機転で送り返した為に、「話の判らぬ役人」とレッテルを張られ、ほどなく新潟県を追われたという祖父のことを、高良さんが母親のとみさんの昔がたりに聞いたということを伺ったばかりだったからなのです。
 
 確か読んだ記憶があつたので、久々に刊行時に高良さんから頂戴したまま、なかなか読めずにようやく読破した大部のご著書『百年の跫音(上・下)』(2004年3月 お茶の水書房刊)を探し出した。
 上下併せて千ページを超える大作である。島村の養蚕技術から一族の歴史など縦糸横糸を縦横に駆使して明治・大正・昭和の変遷を描き切っている労作である。 

 やはり、この事実と祖父・和田義睦のことも記されていた。上巻の第二十章「新潟を追われる」(381頁)。
 作中人物の近年の登場者は仮名になっているので、お名前が本名かどうかは一読者の私には定かではないが、たぶん、祖父母の辺りまでは、ご本名と推察。
(※偶然、高良さんから戴いた電話の際に、確認させて頂きましたら、やはりご両親のお名前から仮名とのことでした)
 
 島村の田島弥平の一人娘、宮中に養蚕の技術指導で行った民。その長女の邦子の夫、和田義睦は極めて優秀かつ清廉潔白な土木技師だったようで、中央から派遣されて新潟県の内務部土木課長を務めていた由。新潟市は1908(明治41)年、二度の大家に見舞われて、県庁を残して全焼してしまった。この時、万代橋も焼け落ち、その万代橋の再建の時の出来事である。

 (---この辺りまで記してましたら、当の高良さんから電話を頂戴。またたく間に一時間以上も経過---)
 で、ひとまず、結論を記して、後ほど加筆・校正させていただきます。

 その結論とは、
 今回の八ッ場の発注工事に、ワイロめくことはなかっただろうか。接待と称することのあったことは知っているが、他県のダム建設であったことがなくはないと踏んでいる「献金制度」と同じく、元禄時代、明治末期にあったことが、今もないはずはなかろう。
 あっては困るが、“盗人や浜のまさごはつきるとも、世にぬす人の種はつきまじ”のことわざもあるくらいである。形成された社会通念が崩れぬ限り、ウミは出きれない。
 幸いにして、和田義睦さんに続く人物の比重は増しつつあるのは現実だが、八ツ場ダム工事事務所でも、実際に収賄事件も起きていて、最近、予想外に軽い刑が確定している現実がある。
 昭和三〇年代の子供の頃、しきりに話題になった話題の一つに、県政界経済界の大物は、福田赳夫の選挙に当時の金で、100万円カンパした逸話がある。当時の子供たちの遊び言葉に「百万長者」とか、「俺ん家は百万円あらい」とのほらふき語が横行していた時代での単位である。今で言えば、10億円くらいの言葉の響きであった。
 それで注目され、福田赳夫の覚えめでたく福田会の幹部にのし上がり県議会に。同時に事業も飛躍的に拡大させた?l立志伝中の人物がいる。
 先年、八ッ場問題を追う週刊誌記者が執拗に食い下がった経過があったが、黙して語らずだった由。
 
 たまたま戴いた菓子であり、もちろん下さった方に何の責任もない。が、「小判を下に敷きそのうえに竹皮で包んだ源氏巻をのせ」たことを「津和野を救ったといわれる縁起の良いお菓子」ともてはやす気風を是認し、もてはやす男社会の通念はまだ、生きているのだから、始末が悪い。  


Posted by やんばちゃん at 23:56Comments(2)八ッ場に願う

2010年01月25日

八ッ場の縁、母上との縁、断ち切られた縁

 疲れ果てたという気持ちです。
 でも、そんなことは言っていられない一日でした。

 実は、昨日の日曜日は近くの土屋文明記念文学館で、「群馬の女性の原型ー『宮中養賛日記』を通してー」という、講演会があったのでした。講師は詩人で女性史研究者の高良留美子さん。私も戴いた「女性文化賞」を創始した主催者です。
 内容は明治初年に、養蚕の指導に宮中に上がった島村の女性の記録で、高良さんのご先祖です。
 
 本来ならば、友達などを誘って真っ先にかけつけなければならないのに、八ッ場のことに夢中で、文学館にもご無沙汰気味で案内看板が変わって、次の企画が始まったのは目にしても、細部を確認することもなく知らずにおりました。
 何やら事前に高良さんが、メールをくださったそうなのですが、どうやらメールの不調とかで当方には届かず。
 22日、他の人に頼まれたいた高良さんの著書の件で久しぶりにメール。その文面から推し量って、どうやら私は24日のことを全く知らないらしいことに気がつかれて、返信を下さるとともに電話もくださって、ようやくわかったのです。
 しかし、24日は、八ッ場の意見交換会。
 すでに遠方からの方の運転手役などや諸々の計画をしてしまったこともあって動かせず。
 
 困惑しながらも、高良さんは伊香保温泉に宿泊されるそうなので、旅館名を聞くと、FAXの調子もだめなので学芸さんからのFAXも不可。従って、まだ旅館名もわからないとの由。で、高良さんご所望の翌日のご案内をということや、宿泊先の旅館名などを伺いに、文学館にお邪魔し担当学芸さんにお会いした。それと同時に知り合いの24日にご都合付く方たちには、寸暇を割いての電話がけ。
 思えば、島村のご先祖が愛したという八ッ場の地に、八年前にご案内したのが、高良さんとのうれしいご縁の始まりた゜った。
  
 ところがなのです。昨日朝、近所の同級生が急死された報を受けて、これまた困惑。翌日25日が葬儀とのこと。すでに25日は伊香保周辺をご案内し、高崎駅までお送りすると約束。事実を言えば、高良さんは「いいわよむとおっしゃるだろうし……。
 本来なら、いわゆる弔辞のようなこともと。この方の母親や親せき筋のご葬儀では頼まれて読ませて戴いたしと……。てんやわんやだけれど、出がけにともかく、お悔やみだけはと。(当地では口見舞いと申します)。
 
 さらに、前夜、帰宅したら長野原町の方からの宅急便があるとルス電に。いくら電話してももう不可。仕方なく送り主に品物は何なのか問い合わせ。すると、明日、高良さんにも差し上げて欲しいとのこと。この方の用件でメールを入れたので、24日の講演会並びに翌日のご連絡した経緯もあった。事前に知っていれば、親せき筋に預けてもらう手配して出かけたのだが、やむなし。問題は明日出がけまでに間に合うかどうか。おそらく不可だろう。その場合はどうしようか。
 時間の配分はどうしようか。まぁ、なるようにしかならない。
  「明日のことは、明日考えれば良い」かの名作の有名なセリフだったっけ。
 翌朝、重い頭で目覚めたら、置時計が朝4時半をさしている。明らかにおかしい。となると、電池切れで遅れ出していた昨夜の時間は示した針よりも。遅かったのかも知れない。帰宅後の時間は正確に覚えているけれど連絡事項を幾つかしてしまったから、到着時間から推し量って大丈夫と思うが、非常識な時間でなければ良かったけれど…。どうして次々と朝からと思う。
 昨夜は、なにやかやと手間取ってしまった八ッ場の帰途、遅い時間なのでフロントから内線で明朝の時間を打ち合わせ、気持ちばかりのものを宿の方に届けてもらって失礼してきた。「テレビで八ッ場のこと、みてましたよ」とおっしゃってくださった。
 
 さて、本日、久しぶりに伊香保神社、石段街、露天ぷろ。そして徳富蘆花の「ほととぎす」の舞台をご案内。
 高良さんは極めて健脚。それから榛名湖へ。また伊香保にもどり。葬儀ごととは申し上げず、実は1時間半くらい所用があるので、お一人で記念館のような処で時間をつぶしていただけないかと提案。
 候補地を3か所あげた。文学館に続く、かみつけの里博物館が最も、ご希望の地。で、蘆花記念館も水沢神社もパス。途中お見せしたい箇所もあったが、一目散に地元に舞い戻り。葬儀場を通過、南下して博物館にお届けした。ギリギリの時間しか残されていない。
 取り急ぎ、迅速に喪服に着替えられるように準備していたので大胆に車の中で着替え、北上して葬儀場へ。数分遅れで到着。読経が始まっていた。車を降りると葬儀社の方が「センセイ、お待ちしていました」という。エーと思うが、「指名焼香がありますのでご案内を」と言う。慌て「それは止めてください。現職の時は、仕事の一部と割り切らせて戴きましたけれど」。ご遺族の配慮というが、指名焼香はおかしい。とりわけ議員がナニ様なのか。電報などは売名行為でしかない。それに私はもはやその任ではない。「ご遺族には落ち着かれてから説明しますから」と固く辞退。そーと後ろの席に滑り込むと、小学校時代の同級生たちが、神妙な面持ちで前列の方に詰めていた。早すぎるし何とも言いようもない旅立ちだった。焼香後、死の理由を同級生の一人にそれとなく聞いて、衝撃だった。「急なことなのでご遺族の動揺が強いので」と添えた、先ほどの係の方の言葉の奥がわかった。昨日は出かける直前まで電話などがあり、口見舞いにかけつけるのが精いっぱいで知らなかった。秋以来、あまりにもやることが多く、近所にいて役立たずでごめんね、マーちゃん。
 心は急いたが、せめて出棺の見送りまではと見送り。喪服を脱ぎ捨てるようにして、駐車場で着替えて急ぎ到着。
 
 博物館のガラス越しに高良さんが学芸さんと談笑している。近づくとなんとその方もいろいろとご縁のある学芸さん。「あら、お知り合いですか。この方、歴史にお詳しいですね」とおっしゃる。それはそうだ。文化や風俗の古今東西の比較史的なことはお得意分野で明るく、詩や芸術論と並ぶライフワークである。で、敷地隣の文学館の昨日の講師でお見えになられたなどのことを添えた。
 
 そして、菜食にこだわっているという高良さんに配慮。車の中で弟に電話し、お得意さんの蕎麦処「おおの」さんに電話を入れてもらって遅い昼食を。オーナーご夫妻のきめ細かな配慮の数々と全てのお味に満足していただけ。一茶庵の系統をひく、打ちたて(売り切れだったのを電話してから打って下さったと後に弟に聞く)の抜群のそばの味は無論、特にそばがきの旨さとまだ新作というホウレン草のムースは絶品だった。グルメ通の人気が高まりいくゆえんだ。 もし、水沢周辺ということだったら、名物の水沢うどんを思っていたが、やはりこっちの方が良かった。
 弟の家に届けてもらっておいた宅急便も積み、食べ過ぎたとおっしゃる高良さんに腹ごなしの運動を提案。 
 
 「かみつけの里・博物館」の館外に続く広大な古墳群のご案内をしていたら、昨日の後援会の出席者のお一人で、82歳にして現在も文学館の解説ボランティアをなさっている元気な元女性教師の方が散歩中で、偶然、お会いした。
 伺うと、昨日はなんと定員を超える100名以上もの方が集われた由。これもほっとしました。
 これだけ固い内容で今どき、百名を集めるのは大変なことです。詩人としての高良さんに詩関係の方が多く集まられたそうであった。これもお若い日にH賞を受賞され,詩壇の第一線で活躍されてきた高良さんのご業績の高さと学芸さんの並々ならぬ熱と努力のたまものでしょうと、その方とも話した。
 今朝、高良さんのお部屋にお邪魔した際の語るところによれば、昨日、講演会で語られた親戚の女性たちが、「明け方の夢の中にワァー」と出てこられたそうなのであった。思わず「皆さん、喜んでいらつしゃるんですよ」と伝えた。
 しかも、この方が高校生の時に、高良さんの母上、参議院議員・高良とみさんが講演に見えたとの披露話。
 そして、この方の母親は、九州のお生まれで、伊香保に記念館のある徳富蘆花の縁にあたられる。そのことを最初に教えたのは、まさに名もなく貧しさの中で消えていった亡きわが母であった。それは教育を存分に受けられた恵まれた女性たち、その中から、女たちの生き方を高め押し広げてくださった方たちへの尊敬と憧れを帯びていた。
  わが母の生前は、女の自立どころか思うことことごとく叶えられないしずめ石のような生き方だったけれど、子供たちにはせめてとの切々とした思いを、終生持っていた。
 たぶん、輝けるお二人に臆せずに混じっている娘の私の姿を、天空の、お二人の母上と同じようにとは言っても、堂々と並ぶことなど出来ずに、どこかの物陰からおずおずと見ていてくれているかも知れない。終生、心の張りを持てなかったわが母は、死してもなお、遠慮がちに物かげにそっとたたす゜んでいることだろう。
 わが家にはほど遠い世界なれど、知性にあふれた高名な母上を持たれたお二人の縁と、さらにご訓育を受け継がれ、それぞれの持ち場で女性の自立をめざされ、今に根をはられている娘さんたちの絆を、そこはかとなく感じさせられた次第。
 
 何やら、「縁」に彩られた1日でした。
 でも、同級生のマーちゃんとの縁は、この地上では、もう永遠につながらなくなってしまいました。目元のくりっとしたかわいい少年だったマーちゃん、いつもさりげなく心使いを見せてくれた照れ屋のマーちゃん、最後のお別れに十分に時間が割けなくて本当にごめんね。
 あぁあ、それでも、わが八ッ場との縁は、邪魔扱いされてもこの先もずっと続けさせていただきますので、どうぞあしからず。  


Posted by やんばちゃん at 20:35Comments(0)八ッ場に願う

2010年01月16日

転機を迎える? 

 24日を前にして、ニュートラル状態の八ツ場です。
 さきほど、午前一時半近くようやく最終を入稿し終えて、今日は現地に電話をする暇がなかったなと思った。
 一つがズレ込み、二つの草稿が同時進行となってしまって、24日のことを問う、遠方の方の電話にもそそくさとしてしまい、失礼になったかなと気がめいる。
 夕刻に、ある処のある方が、送ってくれた出版物には、小沢幹事長の小寺前知事支援の来県時の記事があった。一部地域のみの発売前なので詳しくは書けないが、小寺出場は八ッ場と民主党路線への裏切り的論調にまとめてあった。
 お礼を兼ねて、閑話休題的な寸暇の雑談の中で、真意を問う。
 こういう記事の裏には、かなり屈折した真意があって、私ごときでは読み取れない。

 本当にどうころぶのだろうか。
 加えて、ダム建設反対派の方の意見は当日、言える余地があるのだろうか。その確認などもある。

 本当は今日あたり現地に行くつもりで、特産物のあるものを頼んでおいたのだが、昼頃、判断し断念。明日行けたら、それこそ寸暇の時間で行ってこよう。
 秋以来の立て続けの座り仕事で、昨夏は農作業こどに専念しすぎて、自然体で5㌔も落ちた体重が、また元通りという現象下にある。
 道前で始まった普請ごとものぞいてみる余裕なし。頼んだ棟梁は同級生だからまずいかもねと思うが……
 
 さて、明日は「どんど焼き」、6時には太鼓による、触れが廻ってくる。寝てはいられない。
 今は、ソノ任務にないから良いけれど……、夜と朝の触れ太鼓の廻りには例年、子供たちに手をふって激励したものだった。  


Posted by やんばちゃん at 02:07Comments(0)八ッ場に願う

2010年01月04日

移転者の皆さんに幸あれ

 遅ればせの年賀状の一通が「あてどころありません」と帰ってきた。最近は年賀状のみのご縁だった。もしかしたら電話が通じるかと直ちに電話したが、ダメであった。
 お一人で自宅で委託をうけた書籍を仕上げるフリーの編集者だった。一時、知人の仲介で、少しお手伝いさせて貰えるとの話もあったが、当方の事情で実現しないままに立ち消えとなって、そのまま疎遠になった。
 新宿御苑に面したマンションだったが、あの辺は開発行為はもうないだろうし、まだ建て替えの時期でもないだろうし、。
 出版不況の折柄、行き詰まってしまわれたのだろうか。
 そうしたら、どうされているのだろう。 田舎に帰られたのならよいけれど……、確か九州の方とか人づてに聞いていた。折からのホームレスのニュースに、お一人で世の中に執着心のない方だったから……、もしかしてとなどと失礼ながらチラつく。 

 もうお一人、レイアウト専門の印刷関係の方には、連絡のとりようがなく、今年はその年賀状も出せなかった。
 仕事を止める旨の連絡を受けた際に、教えてもらった電話番号のメモ書きをどこかに紛らわせてしまって、探し出せずに年越しをしてしまった。伺った電話番号を、きちんとノートに記しておけば良かったのだが……
 私が一時出入りしていた県内の出版社の印刷関係をして下さっていた東京の業者であった。印刷は下請けさんに発注されていたのだが、滞っていて支払えない代金を「内容が良いから」と自分の処のみならず、外注さんへの経費も建て替えてくださるほどの人の良い方で、ついに積りにつもった立て替え金が莫大な金額となり、昨今の不況下、倒産に至ったらしい。
 この方の通常感覚では考えられない善意のお蔭で、すでに断末魔をあげていたこの地方誌が続けていられたのである。確かに、並みのジャーナリズムでは掲載不可の社会の暗部をえぐり出す精力的な雑誌ではあった。
 何年か前、返済を求めて群馬に見えた時に、私はとうにその出版社を辞めていたのだが、やはり貰えなかったのかとその負債額の大きさに驚きながらも、快く駅からの車の運転をしてさしあげたことがある。
 良心的な仕事をなされる方で、感性も鮮やかだった。で、幾つか個人的な印刷もお願いし、お世話になってきた。
 「最終的には地裁に申し立てる」といわれるので、いかに経済面にに無知な私でも、さすがに「取ろうと思ったって無理ですよ。払う気持ちなどないと思いますし、お宅た゜けではないんだしたぶん払えないと思いますよ。このまま地裁に直行した方が良いと思われますよ。時間の問題となりますよ」と差し出がましくご忠告したことがあった。
 昨年の夏頃、ようやく倒産手続きを終えたというその最後のあいさつの電話中「若い日から、この仕事一筋できたんですよ。それが……。ただね、息子がね、お父さんは何も悪いことはしてこなかったじゃないか。社会が悪いんだよって言ってくれたのが救いです」と声を詰まらせられていた。
 活字離れの昨今、出版業界の不況は、好きな分野だけに辛い。
 何とかして連絡先の電話番号のメモ類を探し出し、来年の賀状は出したいとものと願っている。

 一方、あちこちに負債を残しながら、何度かの倒産の憂き目にあいつつも、記者魂の一念で突っ走ってきたオーナー夫婦は、
「会社には関係ない」と言い切っていた息子さんが買った今風の建売住宅に最高額の年金生活で暮らしている。その年金で私たち出入りのライターへの微々たる報酬も賄われていたわけであった。
 今は数多くの方たちへの月々の返済金に当てていられるのだろうか。だが、「年金は生活費ですからね。強制手段はとれないんですよ」と、借金返済の義務はなし的に語っていた奥さんの言葉が蘇る。
  
 このお三人達よりももっと厳しい生活力しかない私でも、こうして全てがいびつながら、今年も漫然と過ごしていられる。
 都会での生活と異って、地方では仮に現金がなくとも、有り難いことに周囲が親せきや知人なので何とか活路が開ける可能性がある。
 移転した水没地の方たちも集団移転したのなら、まだ地域の築き上げたつながりがあったろうが大半が個人事情で単独に転出している。わずかに中之条町の一角に集中して移転組の方たちのお宅があるらしいが……
 とりわけ借地人にて十分な補償金もないまま、新築移転など夢の夢で、都会に紛れ込まざるをえなかった方もいただろう。
 ある女性は「いくら、息子の家だって嫌なこともあったよ。最初は友達も出来なくってさ。病気になって入院したんだよ。どこも悪くなくてストレスだって言われたけれど」と語ってくださった。
 八ッ場から転出され、それぞれの地に根を張らた方たちの、今後の生活に幸あれと祈る、三ケ日明けである。  


Posted by やんばちゃん at 23:53Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月28日

土の哀しみ

 明日のフリーマーケットの準備で、昨日来、久々に敷地内のあれこれを物色。
 まず、むかごを採取。
 むかごを 採るために春先から、小さな山芋も大事にしてきた。何年も自生してきたものはやはり、粒が大きい。
 次にアピオスを掘った。
 これは霜が降って、つるが枯れるまでは収穫が出来ない。今年は、もう何回も霜がおりているから安心だ。思ったよりたくさん、採れた。年々増えてくれるがうれしい。
 そして、今日はさらに、真っ赤なクコの実が眼を射る。
 摘み取る。すると、今度は緑さやかなクコのに眼が行く。試しに柔らかそうなのを摘み取ってみた。たぶん、大丈夫……だろう、商品価値ありと踏む。
 おりしも昼時。心配だから最も硬い部分の葉を一つかみ洗って、炊きあがったご飯にまぶした。秋のクコ飯だ。おそるおそる試食。食べられる、すこしも硬くない。食べながら、レシピ用のインターネットを観て、保存した。葉は春と秋に食せるという。なるほどと得心。
 となると、午後一番、張り切って、柔らかな黄緑色のを選んで、ショウギに山盛りいっぱい摘んだ。
 クコの木は亡き父親が血圧に良いいからと植えたものだ。そして、程なくその血圧で死んだ。丁度、今の私の年だった。親の年を超える今年は、不思議なざわつきがあった。何年もうっちゃらかしてきたけれど、今年、始めて実を採取してみた次第だ。
 夕暮れ、昨日、堀ったアピオスを小袋に詰めた。ギンナンも袋詰めしなければならないけれど、まだ、乾燥があまくて匂う。ギンナンの皮むきは重労働だった。夜まで、また戸外におく。

 それにしてもだ、私には去年と同じものを採取できる幸せがある。来年のために、アピオスの小さな種は選りわけて、来年は、また土に戻せる。何の疑いもなしに、来年の収穫が信じられる。
 雑草ひとつにも思い入れと愛着がある。
 だが、八ッ場の皆さんは、常に「あと何年か、あと何年だろうか」と迷いつつ、自分の敷地に田畑にたちすくませられるを得なかった不安な日々を辿らさせられてきたのだ。この土くれを何年耕させられるだうかと。どうせ沈むんだからと思っても、土への愛着は、習い覚えた習性で、無駄と思っても心をこめて肥料をくれただろう。
 作業をしながら何度も、八ッ場の方たちが辿らさせられた苦衷のヒダに思いを馳せた。ようやく、その心配から解放されたのに、一度方向づけられると、今度は、なかなか思い直すのは容易ではないらしい。
 でも、土地が水底に沈まなかった喜びは、計り知れないものであることに早晩、気がついてくださることだろう。
 事実、庭の土も畑の土くれも、小躍りして大地の脈動を奏でてくれているはず。

 通例は八ッ場にちなむ品物を扱わさせてもらってきた。
 昨年の今頃は、八ッ場の原木しいたけやリンゴ、それにハンデェ米を扱ったものだ。
 時には、特製のコンニャクを作ってもらったものだった。
 でも、今回は昨今の忙殺状態による準備不足もあって珍しく、林の竹炭以外は何もない。
 一人で行った先日も六合村奥地で手間どって、夜になってしまった上に、時間的に取りに行けそうもなかったので、あえて、頼まなかったのだ。こんなことは初めて。で、しきりに屋敷打ちの今の時期に何とか売れそうなものを物色している次第だ。
 そうだそれに、川辺川からの川ノリがある。極上品なのだけれど、この場所では売れなくて、まだあるのだ。陽ざしにあわせたので、色合いがだいぶあせてきてしまった。忘れないうちに物置きに行き、冷蔵庫の中にしまってあるのを少し用意した。
  
 時間が迫る。間に合わないだらけだ。
 少し、整理しないと、すべてが中途半端になってしまう。明日の販売リストを作ってみる。クコなどはレシピを添えなければならない。むかごも酒粕も昨年のがある。
  
 薄闇の中、南天の実つきの枝を15本ほど切った。正月には早いけれど、もしかしたら売れるかもしれないひらめく。そして、小走りに走って、荒れ地の畑に咲きだした菜の花をきりとった。組ませて売るか、否、別々にした方が良い。
 そうそう、10月には都合が悪くて、出店できなかったので、もう花は盛りを過ぎたが、吉祥草も何鉢か持っていこう。「良いことがあると咲く。植えて置くと吉事が゜訪れる」という、縁起花だ。9月~10月のレパートリーの一つだ。白と紅の蘭に似た、快い花の色合いがまだ少し残っているのを、6鉢選びだした。
 
 釣銭。マジック、包装類などを先に整え、車に積み込む。
 かぼちゃもたくさん積みこんだ。初夏、食べたクリカボチャの種を二枚の畑に撒くというより散らかしたら、花が咲いて実がごろごろとなって、それがまた味がよくて、クリカボチャとまではいかないまでも、結構うまいのだ。
 今夜の袋詰めのための袋や結束機などを忘れずに実家から借りて、運び込む。
 一日戸外で動いたから、手はツメの先まで泥。冷え切ってしまった。まずは風呂に入り一呼吸しなければ限界だ。

  さて、もはや、23時を回った。
  これからクコの葉の袋詰めがある。
  何よりも、主力商品の酒粕も袋詰めをしなければならない。これは無添加のこだわりの純米酒の新ものの酒粕で、実家から分けてもらって、昨年から暮れの一時、私の販売の主力となった。味が違うと喜ばれている。
  この分だと、多分、明日の朝も遅刻で、しんがりだろう。月に一度の、露天商のオバさんは、元手無料のあるもので賄う。それゆえに大変であるが、売れなくとも痛手は少ない。
 なおかつ、ここでは明日の生活設計を疑いもなくたてられるという、安心という名の幸せがある。ゆるぎなく大地のはぐくみとともに生きられる無上の営めがある。

  
   


Posted by やんばちゃん at 23:06Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月27日

八ッ場の実態は伝えるに難しすぎる

 吾妻川の上流域には、先の湯の湖だけでなく、まだ幾つかの安全性を危惧させる要因が横たわっている。
 それは追うごとに足を踏み込むたびに思うことだが、水没地の置かれている人間模様の様相に似ていると現地にたたす゜む都度、のど元につきあげてくる思いである。

 現在までに、数多くの「八ッ場報道・ルポ」が記されてきた。
 しかし、それは記者がディレクターが、そしてライターが水没地内を走り回って、たまたま遭遇出来得た人物が、その時に語った言葉を、書き手側の裁量で切り取る。、熟成させ、さらに肉付けさせて、自分が着地したいストーリィに、人物を言葉をちりばめて仕上げるだけである。
 それは部分であって、真実の立像ではない。
 一個の人間は複雑である。
  ただし、読み手はそれらの前提がわかっていても、メディアが伝える側面をそれがそのキャラクターとして脳裏にしみこまされてしまう。
 
 「ここに住んでいねぇモンにわかるか!」の叱咤の声は、事実だ。
 一日や二日、「取材に行ってきました」とほら吹いても、八ッ場の現実はとらえきれない。
 しかし、「締切」と書くことが大前提だから、聞いたことは全てとなり、局部的に取材したことを網羅する。
 そして、同じ長野原といっても、水没地と非水没地ではことなり、水没五地区といえども、全水没地と部分水没では大いに感情のヒダが異なる。
 まして、長野原町以外の者のいうことは、全体を構築するうえでの俯瞰する目線としての参考例としては必要だが、サラリと流れ出てしまうものがある。
 また、取り上げる人物が、平素、その周辺でどのような評価を受けているのかまで忖度したら、筆は進まない。知らずとも、吐かれた言葉を辿って行けば、おのづと判るもので、それがわからなかったら、モノを書く、想像する資格ないといっても過言ではない。一つの手法として、それを伝えて重層化するということはある。
  
 マスコミに取り上げられるということは、多くの場合が、「選ばれたヒト」的な意識の高揚感があり、往々にして、もてはやされる。現地には、書いてもらいたくてウズウズ状態の方も、現実にいられる。
 さて、ある村のある方の言葉に(あの人のことは村のモンは知っているからいいよ。だけど、しらねぇヒトは本気にするし、下手すりゃ、どっかがやらせているとしかみねぇんで弱るんさの」と。

 同じく、その末端に連なり、「飯のタネ」ほどにもならず、しようとも思わずに必死に歩いてきた者の一人として、「八ッ場の姿」を伝えることの難しさをこえて、氾濫する取材モノを前にして、困惑やむなしさを覚える。
 
 最も冴えて優秀なるキャラクターは黙して語らず、じーと事の推移を見詰めていられて、凝縮された言葉をひと言、鋭く繰り出さしてくださるのではないだろうか。
 そういう方に、お目にかりたいものだと念じつつ、この間、ヒトの行かない野道、小道、そして畦道を好んで歩いてきた。
 
 私が、想像するそんな人物とは、案外、建て替え利かぬ暗い建物のジメジメした台所で煮炊きにおわれながら、食器類を黙々と洗っている、そんな嫁の立場の女性たち。または、建設現場で、手ぬぐいをほおっかぶり(今は帽子の時代だ)、ならぬ帽子を目深にかむり、じっと仲間うちの世間話に聞き耳をたてている方たちなのではないだろうかと、まだ不幸にしてお会いできぬ方たちの顔のさだまらない立像をえがく。
 神様よ、そろそろそんな方たちにも、お目にかからせてくださらないだろうか。
 
 何よりも優先するのは《書いても良い》とのお許しを頂けるか、この一点にかかる。
 私は、ご本人に、一応の御断りをする。できれば、草稿をお見せする。しかし、そうすると、ほとんどがダメになるが、人権上、出来かねることである。書かれる方は、生身の人間である。
 あるライターが電話をかけてきて、「上司の意見を聴きたい」といったそうだ、「留守」と伝えると、その方に問われた。役目がら「判りません」と答えたというある方は、他人に「出ている」といわれ、見たら「わからないと答えた」と記されていたという。立場上、困惑され、立腹していた。派生して、一時、マスコミ嫌いになられ、さらに、影に存在すると思いこまれている、市民運動嫌いの度を強められたことがある。
 
 概して、「余りにホントのこと」もまた書けない。
 飛びつきたくなるセリフもあるにはあった。しかし、書けばその方が困る。となれば記せなくなってしまう。そこまでの権利は一介のライターにないからだ。
 さらに書かせてくださるメディアは限られている。機会があれば懸命に書く。何事も練習曲線だから、熟達し巧みになれる。
 
 ある意味では、わが八ッ場は、マスコミの格好の餌食となってしまった。
 そして、この私もまた、その一員には相違ならず、現地の方の指摘、「八ッ場でメシを喰っているやつら。……〇〇ちゃん、おメエも厳密にいえば、そうだからな」の言葉を、深く深く、自分の胸に突き刺し、自戒する一夜である。
 しかしだ、あえて、自己弁護的に反論が許されるのなら、“巨額のメシ代を稼ぎだした、それこそヤツラの実態”をあぶり出すための、本質的な“ペンの力”というものは、いかなる時代にもある。たかが「ペン(=カメラ)、されどペン」なのだ。
 そのために、筆先を磨き続けたい。

   


Posted by やんばちゃん at 23:57Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月25日

クマさんよ、出ないでよ!

 草津温泉の山間部には危険な場所もあります。
 その一つが、「万代鉱」。
 「バンダイコウ」と読むそうで、この万代鉱一帯は、立ち入り禁止区域(入るには許可が入ります)。それは硫化水素が出ている場合もあるからだそうです。
 実は、向う見ずなオバさんの単独行を心配して、ある方が(※22日にご一緒した方のお一人でもあります。皆さん、お忙しい方たちなので、またご一緒にとは切り出せrずにとは言いだせずにおります)、気がかりなのが万代鉱だと、メールにて教えてくださいました。本欄にて、お礼を申し上げます。
 この万代鉱も湯川に注ぎ込むものと思われますが、その品木ダムの石灰投入口に立ちますと、やや左手山なみの中復あたりから、真っ白な湯気がモウモウとあがっているのが視界に入ります。これがたぶん(今回は慎重にたぶん、と言っておきます)、万代鉱と思われます。
  白根山方向の国道沿いに油煙がたっているのは西の河原にそそぐもので、その先のホテルのそばの道を左折し、小一時間歩いた場所に、万代鉱の源泉はあるとのことです。

 本当は本日、行くつもりだったのですが、朝のうちの雨に出そびれてしまって、のばしたのです。
 でも、さすがに県北西部の冬の様子は未経験。怖くなったので、役場に電話して、香草付近のことを伺いました。
 ちなみに、冬の期間~5月の連休シーズンまで、長野県境と白根・草津高原ルートは全面交通止めになるのです。それだけに待ちに待った5月の初日、両脇数メートルの“雪の回廊”を走る爽快感は、たまらないものがあります。私も長野原町の方に乗せてもらって、一度だけ走ったことがありますが、青空に映える雪の白さとさわやかさは抜群。
雪の回廊とは、本当に絶妙なネーミングに感じられませんか。

 「香草という地名の辺りに行きたいのですが、万代鉱のように硫化水素が漂うような場所はないですよね」と問うと、香草近辺には、万代鉱のような区域はないけれど、なんとクマの出没地として、判例が役場には寄せられているとのことではありませんか。最初に対応してくださった女性の方は、自分はその辺りは行ったことないので、もっと詳しい者に代わります言って、代わってくださった男性職員も、「そこはクマの出没地として、今年も見たという情報が寄せられていますよ」という。その前に私はうっかり独りで行く旨をポロリと口にしていたらしく、「独りで行くのは危険ですよ」とも言われた。
 でも、この男性も町外れのその辺りには、訪れたことがないらしく、22日に訪れた谷沢川沿いの情景を伝えて、あの建物は何だったのかと問うても、「行ったことないから、わからない」とのこと。
 ともかく、スズなどは用意していけとのこと。クマよけ鈴は持っていないのだけれど……、買ものに行くほどのこともないでしょうと溜まりにたまっている雑用に追われ、時間的ゆとりもないまま、ついに夜となってしまった。ラジオなど音の出るものを持っていく心づもりでいますけれど……。
 それにしても谷沢川沿いの細道にあった幾つかの糞。「何だろうね。犬にしては細いし。ここまで散歩には来ないだろうしね」などと除けながら、タヌキかなと思っていたけれど、「もしかして、クマ」と言いあったけれど、本当にもしかしてだったのかも。
 タヌキは一定の場所で行い、貯めて置く習性だそうですけれど、クマというのは道端にヘビの丸焼き状態の糞をするものでしょうか。ご存じの方、お教えくださいませんか。

 ともかく、昨日、品木ダム管理所に場所の確認などを聞いた限りでは、工場の建物内部には立ち入り禁止とのこと。 で、「あのう近寄るとブザーなどなる仕掛けですか」と問うと、職員の方は「それは、ありませんけれど、寂しい処ですよ」と笑いながら言ってくださったけれど、クマのことは言って何もおっしゃていなかった。
 願わくば、石灰を運び入れる契約会社の職員さんの訪れる時間に、タイミングよく合えばいいなと思っている。  
 
 この年甲斐もなく無鉄砲なオバさんは、クマさん、あなたとののおつきあいの方法は、トンと存じませぬので、どうか、そちらで避けてくださいなと祈るしかありませんので……。
  


Posted by やんばちゃん at 22:17Comments(2)八ッ場に願う