グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2009年11月08日

脱ダム下、八ッ場よ命を持て!  拙著転載・まえがき(最終) 

 本日も、かってながら、拙著のまえがきの最終を転載させていただきます。
 なお、これは5年前まで(2004年10月頃まで)の事実です。


鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)より
  /////////////////////////////////////////////
 
   変容する水の作用を直視して 

 地上三二階、屋上まで含むと一六一メートルの新庁舎は、三方を東側から赤城・榛名・妙義の上毛三山に囲まれた平地の只中に際立ち、遠目からも分かる県内一のノッポビルである。建設当初、巨額の建設費への批判かわしか、職員の対応も良く「うちの階からの展望はいいんですよ。お寄り下さい」のサービス語まで発せられたものである。今や訪問客も多く、ランドマーク的な存在として定着しつつある。

 目はおのずと、県内西北部の吾妻川沿いの八ッ場ダム建設予定地に向く。
 渋川市から斜め北西部に目を向ける。探す目安として、まず利根川上流の中央より左手の、雪をかむった平らな山の連なり、頂上が平らな珍しい地形の山が白砂山である。わが八ッ場はその手前、やや右下にある。
 「群馬の川筋で残るのは県西北部の吾妻川のみとなりました。ですので」――と利根川上流部の“空白域”の洪水調節とやらの国土交通省の説明文句である。ダム建設ラッシュ時、水利権獲得のため、群馬の川筋はことごとくツバがつけられている。県内でただ一つ残された未開発の吾妻川。それ故になんとしても手つかずのままに残したい熱い思い入れが、護りたい側にはある。
 展望台直下に視点を移す。
 県庁北側眼下に広がる前橋公園沿いには、利根川本流に平行して流れる桜並木沿いの疎水がある。ここの川面の色は青一色にしか見えない利根川本流に比べ、濃目の抹茶色なのである。思わず、強酸性の吾妻川のPH2の水が、石灰によって中和された、湯の湖(吾妻郡六合村)の湖面の色を思い出させられてならない。同じ、利根川の水であるのに、なぜ脇を流れる疎水の色があのように変容してしまうのだろうか。水面は濁っていると直視できないものである。
 前橋公園の桜は勢いよく流れ去る疎水のため、水面に瞬時にも影をとどめないが、高崎城址のお濠端では土手の桜がよどんだ堀の水に映え、どこまでも桜の樹幹が水底深く果てなく広がり行く。
 そして夜半、ライトアップされ水面の濁りがひどければひどいほど、水面下に逆さまに映る地上の桜の輪郭は、くっきりと際立ち、凄絶かつ妖艶なのである。春宵のほほの照りにも似た昂ぶりから、思わず水中に飛びこみたくなるほど魅せられてならず、来る春ごとのつややかな紅色の吸引力となる。
 ……私にはこの“水の変容”が来る年も来る年も分からずに、今日に至っている。八ッ場ダム問題に触れて以来、ますますその混迷の度は強まってならない。
 変容というか変質の最たるものが、ダム建設ではないだろうか。
 
 吾妻川はPH2の毒水に近い。
 が、両側の山々から伝い流れる沢水は、純な水である。
 その清冽な水の流れはどこに葬り去られようとしているのだろうか。先々の日、せき止められた湖底でもがく、水たちの苦衷の波紋に思いがいく。
 不思議にも、八ッ場には命がある
 この日、感慨を持って展望台を後にした。
 もうじき、脱ダムの夜明けの風が吹く、と信じて……。長野県と長野原町を隔てるものはない。“吹かぬなら吹かしてみよう”の気概を心に持とうと。
 いみじくも、階下の二六階テラスには、県内の山を際立たせたジオラマができている(山々の高さのみ三倍に強調)。
 三方を山々の連なりに囲まれた、群馬県のありようが一望でき、しかも上から俯"瞰ができるというのは、山の裏側をも直視でき、全体図の中でより真実に迫れる利点がある。有田焼の釜場に特注し、焼度一〇〇〇度の高熱で焼いてあるそうで、土足で踏みつけることもできた。滑りやすいジオラマの上に意識的に立ち、建設地点を心してギュッと踏みつけ、身体を反転し、首都のある東南の方向に目を向ける。人の手によって作られた陶土なら、きっと打てば響く人温みが足底から伝わるはずと。
 八ッ場には、不思議にも命があるではないか。もうダメかと思うと、思わぬ方向転換があった。そうした蛇行上の闘争過程に縁取られてきた。
 若山牧水をはじめ、ここには文学における想像力、その蓄積にも似た命脈が連綿と宿っている。
 県内で生まれ育ったので、一九六〇年代後半たびたび報道された「八ッ場」の字面は新聞などで見知っていた。時過ぎ、一九九九年一一月初旬、川原湯を訪れた文人の取材で初めて訪れ、対岸の川原畑、とりわけ三つ堂のひなびた景観に衝撃的に魅了された。このお堂も早晩、沈む運命にさらされていると知ったことに、ダム問題には全くの無知ながら、私の八ッ場通いの端は発する。
 〝今はむかし〟の心なつかしい郷愁の地に足しげく通い、水没者の方々の人間味に触れ、そしてなじむたびに見聞きした矛盾の数々に突き動かされて、ほどなく疾走状態になった。
 原動力はこの日取材した牧水の八三年前の警告文――八ッ場ダムの話が持ちこまれた、およそ三〇年も前の文章なのであった。作家の心眼、培われた想像力としか思えない。五年前のその日、偶然にして探り当てたこの記述に、運命的な出会いを覚えてならなかった。
 ――「八ッ場には命がある」と単純直情的に信じた。半世紀もかろうじて持ちこたえられてきた背後には、眼に見えぬ祖霊たち、浮遊し時にはあらぶれざるを得ない、嘆きの産土の神々に守り抜かれているのではないかと、常にあらずの思いに打たれたものである。
 同時に、文学の不滅性と若い日に習い覚えた“想像力の革命”の語を想起。掌中にそっと温め、握りしめた。三つ堂の前の草の径は、旧信濃街道のなごり道である。その昔、幾多の旅人が往来した類い希れな歴史的空間を、昔日の息吹のままとどめ置き守り抜けないものかとの思いに駆られて、ますます前のめりの構えになったのは、むしろ必然的成り行きであった。
 少しでもダムという水の変質を、分析解明したくてならなくなった。
 濁った水底を凝視し、ダムの二文字と向きあい、稚拙ながらも人間の響きを持つように咀嚼・解体する方法を習い覚えようと、ひたすら足を使って、丸五ヵ年経つ。
 八ッ場の哀しくも野趣あふれ、心温める野辺に、時に怒りで言葉を周到に折りたたんでしまったのか、くぐもった口調の水没民のお宅の戸口にたたずむ。とある日は、恐る恐る出入り禁止の工事現場にひそかに踏みこむ。そしてためらいつつ意を決して国土交通省に電話。必要に迫られ閲覧室ならびに関係機関にと通うことになった。
 以下は、五感をフルに駆使して、水没地内の草道のみならず畦道にまで踏みこみ、追われいく人々の吐息にも似た思いを直接聞くに及び、耳朶を打つその一つひとつの疑問を、憤然としてつぶさに検証。怖いものしらずの手探りで、ダムにまつわる非人間性や不合理をたどたどしく学んだ、五年間のつたない記録である。

 ※ なお、第一部第11章まではルポの列記にて、地元郷土誌に連載したものです。
 水質や負担金など概要は、二〇〇〇年時に記した巻末の17章、18章を先にお読み頂くほうが、お分かりになりやすいかと存じます。最新の動きは各章の注をご参照下さい。また、ランダムな流れと重複箇所についてはお許しください。
  


Posted by やんばちゃん at 23:04Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月07日

利根川氾濫の歴史的過程を追う  拙著転載・まえがき(四)

 本日も『八ッ場ダムーー足で歩いた現地ルポ』のまえがき、その続きを。
 長すぎるまえがきの中で、この部分と末尾の群馬県庁のあたりは、ダム問題を逸脱して、何やら「前橋城ものがたり」的で、五年前の校正の時も、短く短く必要事項のみにと、腐心したものでした。もしくは全部伐採しようかなともかなり悩んだ個所です。
 けれど、利根川のことは、浅間山噴火との兼ね合いもありました。その導入部としてやはり乗せておこうと。
 書き下ろしでない場合の刊行にはつきものですが、当時、過去五年間発表してきた拙作の中から、全体のトーンに調和させ、重複させぬよう、どれをセレクトすべきか迷ったものでした。
 今回の転載にも、ここはパスしようかなとさへちらつき、逡巡気味なのですが……、
 

鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)より///////////////////////////////////////////////
  
前橋城と吾妻川の“危険な関係”度 

 この群馬県庁は利根川べりの旧庁舎脇、かつての前橋城本丸跡に一九九九(平成一一)年、新築完成した。水源県の名にちなんでか不思議にも、戦国の世から妙に水との因縁相克に彩られてきた。
 戦国時代の終息期頃までは、当時の技術にして簡単に橋がかけられる川幅であったらしいことが古文書の記述から憶測できる。が、江戸初期頃よりたびたび大きな洪水に見舞われ、川幅が押し広げられてしまって、その終わり頃に、現在のような広さになったとされている。
 “関東の華”とうたわれてきた厩橋は永禄三(一五六〇)年、長尾景虎(上杉謙信)が関東の拠点としたことに幕をあける。その後めまぐるしく城主は変転交代し、関が原の戦い後、天下制覇の徳川家康によって、譜代の酒井重忠に与えられ、ようやく安定。この時に家康から“関東の華”なる要所を表す名称が発せられたと今に伝えられる。
 酒井氏三代目・忠清は下馬将軍として名高く、九代にわたり一四八年間統治した後、姫路へ転封した。跡に入った松平氏の治世には、たびたびの氾濫にて侵食され、往生することになった。
 およそ一六五〇年代の頃(まだ酒井氏の治世の時)、流れを変えるために流路変更工事をしたところ、意に反して本丸北の高浜曲輪が直撃され、それ以降は城の崩壊を防ぐ手段がなくなったと前橋市史は伝える。
 利根川が最初に厩城に突き当たる場所(県庁のやや上流)には「お虎が渕」もある。伝承「お虎伝説」は、酒井の殿様に仕えた女性の怨念にまつわる話で、無実のお虎の恨みで毎年大洪水が起こり、城の西の端が欠落。ついには本丸まで流されてしまったと伝えている。
 たび重なる水害に加え、一七六七(明和四)年に起きた大火を機に同年、松平朝矩が見切りをつけて、川越に移城すると、厩城は取り壊され廃城となった。一八六〇年代に入り、財をなした生糸商人たちが再び築城。一八六七(慶応三)年、松平直克を呼び戻して城下町として活気を呈するまでは、前橋城下は寂れ果てていた。

      天明三年、浅間山の噴火 
 吾妻川との今に続く因果関係を追えば、一七八三(天明三)年、浅間山大噴火による浅間泥流は吾妻川を下り、渋川市の合流点で利根川伝いに流れた。浅間山は八ッ場ダム建設予定地上流にある。長野原町作成の二〇〇三年版「浅間山火山防災マップ」によれば、わずか二〇キロメートルしか離れておらず、今なお活火山なのである。土石流に巻きこまれた人々が銚子や江戸まで流された史実さえある。
 さらに約二万四〇〇〇年前の大噴火にさかのぼれば、前橋市内の岩神神社境内にある周囲六〇メートル、地表の高さ九メートル余、地下数メートルの深さの巨大な「岩神の飛石」もまた、泥流とともに押し流された地質と同じだと研究者は指摘している。この時の洪水により、川底が高くなって台地が形成されたのが前橋市周辺の地形とされている。
 
 災害の源は、いずれも吾妻川上流に起因する。
 浅間山はまたいつ何時大噴火が起きるか分からず、再び同じ軌跡を描くか、可能性は未知数といえども、常に間一髪の危険性にさらされている、今この時もである(現実に二〇〇四年九月一日噴火)。
 八ッ場ダム建設予定地一帯は浅間泥流に覆いつくされた、極めてもろい地質の全国有数の地すべり地帯なのである。地すべりの原因は水が浸透することにある。一帯の地質は大量の水を吸うと粘土状になり流れ出す特質のある、火山灰が主成分の安山岩質に覆われつくしているのである。
 県内でも下久保ダムにある譲原活断層とならぶ、二大活断層が走り、西上州から北側にかけて、この二つがミックスした災害がもたらされないとも限らず、その危険性は研究者によって指摘され続けている。現実に奈良県の大滝ダムの例がある。
 しかも、半世紀かかっても完成できず、ここまで長引いてきたのには建設できないそれなりの吾妻川の〝危ない水事情〟もまた歴然とある。
 上流の硫黄鉱山や温泉地からの強酸性の水、その中和に伴う石灰水や北軽井沢の農薬など混入した安全性の確立していない水質に加え、肝心の降雨量も少ない。狭隘な谷間は自然の洪水調節を果たし、ダムの必要性はどこにもないことが明白なのである(第17章「あなた、この水飲めますか」参照)。
 にもかかわらず新築に際して、またしても群馬県庁は厩城本丸跡地に建てられたのである。
 
 水没地での地元民同士のある夜の会合の席で、「なんで、あんな危ない利根川沿いに新しく県庁を建てたのだろうか」といぶかしがる長野原町住民がいた。この人は毎日、配達の仕事で行き来するJR線にも注目。戦中のあの突貫工事の最中なのに地盤のもろい箇所を見事に避けて、線路を高台に完成させた当時の技師の炯眼に瞠目しているとも語り添えた。出席者たちが異口同音に「本当だ」と相づちを打ち、「そういえば」と語り出した夜語りによれば、川原湯温泉駅は当初、現在の位置より北側の川原畑地域にある通称、聖天山付近の旧道に設置予定だった。が、地すべりがひどくて工事ができず、計画変更したそうである。吾妻線は群馬鉄山の鉄鉱石搬出のため、強制連行の朝鮮人労働者等を酷使し、二年後の一九四五年一月に完成。
 時経て、強引に国道一四五号線の付替工事を始めたが、やはり地すべりのために諦めたのか、本年二月頃は、山肌に測量用の赤白のバーが何本かうっちゃられたままになっていた。が、最近またパワーショベル五台が山肌にへばりつき、猛烈な勢いで切り崩している。
 
 このように先々の危険性は視野に入れず、何がなんでも「建設」の二文字に向かってひた走ってきた。それが、八ッ場ダム建設の軌跡である。
 繰り返すが、一六五〇年代に行われた流路変更工事が利根川氾濫の遠因であった。そして、今後も同じ轍を踏まないという確証はない。 (続く)  


Posted by やんばちゃん at 22:53Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月03日

車代をさしあげます。昼食のお弁当も用意いたします

 今日は、思わず涙してしまった。
 八ッ場ダム闘争記録を、読んでいてであった。
 
 反対運動が熾烈をきわめた1967(昭42)年代の町長は、桜井武町長。福田経済研究所の吾妻連合会長であり、議会もまた桜井派が多数派であった。
 対峙する反対期成同盟の作戦力を支えたのは、汗と足であり、知恵と情報力であった。いわば素手で果敢に挑んでいた。その原動力は、大事なふるさとの田野を湖底に沈めてなるものかの信念にねざしていた。その覇気が行間に波打つ。
 
 当時、1967(昭42)年の建設省は、地元説明会を長野原町に、2月頃から再三要請するが、実現せずあせっていた。 
 他方、県議会には①ダム建設「絶対反対」に加え、②「条件付き賛成」による、二つの請願が提出され、継続審議も回を重ねて、混迷を極めていた。
 その頃の反対既成同盟の迅速な動きを証明する事実に、町長と県の動きを察知磨るや否や、この年の8月9日~10日間の二日間にわたり、陳情のため、県議会議員全員の自宅を訪問してのけたのである。夏の暑い日に、群馬県内全域を回ったのである。 国会にも、総勢200名もの大量動員で複数回訪れている。
 8月19日には県議会に。バス二台に議長・議員17名に会員120名で押しかけ、八ッ場ダム建設反対の請願を行っている。そして、この夏の県議会も、継続審議に。
 
 1968(昭43)年2月28日には、国は八ッ場ダムの調査費を1億2千万と発表した。
 
 運動の記録事項を繰りながら、私が熱いものに突き動かされてしまったのは、1969(昭44)年3月13日に水没地に届いた関東地方建設局八ッ場ダム調査事務所名の、3/16予定の説明会の通知ハガキ、その文面にあった。
 ここまで、人間を愚弄し,分断させるのかと。

 そのはがきの文面には、あいさつ文に続く、日時や会場明の文化劇場などの必要事項の脇に、以下の添え文があった。、
  当日、御出席のかたには車代をさしあげますので、この案内状を御持参下さい。
  なお、万一、案内状を紛失されましたかたは、当日、受付にお申し出下さい。
  昼食のお弁当も用意いたします。

 1960年代の山間部の者にとって、車代という現金収入は魅力であり、仕出し弁当の響きには、少なからずの心ひかれる憧れがあったのは否めない。
 むろん、反対期成同盟はボイコットした。
 水没民の半数の350人が参加したという。人間という者は不思議なもので、ひとたび線を越してしまえば後はなしくずしに、またひとたび旨い経験をしてしまえば、これまた歯止めかからずなし崩しになっていく。
 私は、その後の、反対期成同盟の方たちがたどらさせられた顛末を知っているがゆえに、ことさら切なくなってしまったのだ。
 
 直ちに反対既成同盟は、「会報2号」を発刊し、そこに弁当・車代付き説明会の懐柔策手口に怒りの看破文を掲載。建設大臣など関係機関に抗議の打電をしていた。
  このガリ版ずりの会報を担った方を始め、反対運動を担った闘士の方たちは、勝ち誇ったようなダム推進の時代下で、失意のうちに消えて逝かれた。
  さらに、こみ上げるむものをこらえながら、次の記録をうちこんだ。
 1969(昭44)年3月16日 建設省、10時~12時。説明会を長野原町文化劇場にて開催。反対派はボイコット。桜井町長以下、水没民半数の約350人が参加  
     〃    3月20日 反対期成同盟、桜井町長の16日の態度に怒り、辞職を求め反対派約250名が町議会に押しかけ、約1時間にわたり抗議。

 そして、この後、反対期成同盟は、示威行動を展開する。
 例のはっぴ返上事件である。
 川原湯・林地区の消防団50人が法被返上を宣言し、一部区長は業務拒否し、反対運動は激化する。
  
  しかし、権力側からはほどなく次の一手が次々と飽くことなくくりだされ、わが反対期成同盟は、次第に勢力を弱めていくのであった。
 辛くなって、私は思い切って中断。
 久しぶりに畑の草むしりを、夢中で行った。
 弱々しいが、それでもスッキリとした青空が広がっていた。
 昨日来、八ッ場へ行こうか。行きたいと思いつつ日数をかさねている。
 文化の日。八ッ場ダムの地に訪れ出して、丸々、丁度、10カ年となる。

 そして、現在、同じ賛否の攻防戦の軌跡が、やはり飽くことなく、水没地では描かれている。
 しかし、わが新政権は、前原さんは、間違えても人間の尊厳は、傷つけまい。
 金や食べ物で人間を深く冒涜することは、なされまい。

 そこが、かつての闘争と今般の闘争との根本的な質の違いに感じられてならない。  


Posted by やんばちゃん at 22:44Comments(7)八ッ場に願う

2009年11月02日

それ河川は清浄潔白也  拙著転載・まえがき(三)

 昨日に続いて、本日も『八ッ場ダムーー足で歩いた現地ルポ』のまえがきの続きを転載させていただきます。


鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)より
/////////////////////////////////////////////////
仮面かけ直し戦術で、ムダなダム増額に拍車

 八ッ場ダムは期間もギネスブックに掲載されかねないほどの最長なら、事業費も最大。質量ともに日本一の金喰いダムとなった。
 二〇〇三年一一月二〇日、いつかいつかと待たれていた事業費の値上げがなされた。この後の動きは、活火山爆発の様相となって、負担を強いられる下流都県にまさに燎原の火のごとく広がった。同年の春先、国土交通省八ッ場ダム工事事務所に「値上げはいつ頃ですか」と問い、何度めかの質問の断片をつなぎあわせると、「吾妻町の補償交渉が成立すれば、より金額が詳細になる秋口頃」と判断した。翌日、念押しの電話を入れると、慌ててぼかし始めたが、思えばこの頃、「戸倉ダム撤退。八ッ場ダムに絞る」構想はひそかに進行していたのである。
 一九八五年発表のまま据え置かれていた二一一〇億円が、一挙に二・二倍もの四六〇〇億円となった。これに水源地域対策特別措置法の九九七億円。利根川・荒川水源地域対策基金の約二四九億円を加えれば、合計五八四六億円に達する。さらに起債の利息も含めれば、およそ八八〇〇億円ともいわれる。しかも、これにて経費打ち止めの確証はない。
 値上げ要因の主な事業を抜き出せば下記のようになる。(※各都県の負担率詳細は第18章二七七頁参照)
      ※付替え国道やJRなどの値上げ額の図表は割愛 
 一 ①の東電についてであるが、八ッ場ダムには、もともと発電計画はない。
 巨額の金をかけて、東電導水管の補強対策を行うのであるから、当然、今後も東電が発電を担うものと考えるのが妥当である。国土交通省に聞くと、今後の協議に委ねるしかないという。さらに総貯水量一億七五〇万トン/秒には、東電に取水されている水量も含まれているとの回答を得た。となれば、今後総事業費の負担額などに大きな問題が生じる。
 スタート時のあいまいな計画のまま、根幹ともいうべき東電の去就を、うっちゃってきた果ての値上げ案には驚かざるを得ない。群馬県河川課に水利権を払い続けてきた東電が、水利権返上を行った場合には、新たに莫大な減電補償費が支払われることになり、近い将来、クローズアップされる最重要課題である。
 
 二 ①~④まで「地質など自然条件に係る要因」に基づくもの。
 全体で四八四億円の増加で、いかに危険な土壌であるかを実証している。ところが、努力の削減案なる五六〇億円のコスト縮減策には、肝心の地すべり対策の簡便化が目立つのだから、不安この上ない。
 三 しかも「水没関係者の生活再建に係る要因」の増額は、計算上では一一一五億円にも達するが、中味の「戸数・面積増加」は良いとしても、「建物リサイクル法による廃材処分費・運搬費の増加。貯水池護岸・防災ダムの増加」などである。
 これらの概要を知るたびに、「何だかムダな、すごいお金ねえ」と嘆息すると、水没地域ではすてばち風のセリフが返ってくる。「自分たち(ゼネコン)の仕事作りには金はいくら使ってもかまわしねんさ。それが目的だもん。だけど出ていく俺たちには出したくねえんだと」と声も震えがちに。
 
 幸いにして災害は起こらず、今や水余りの世相となって、ダムはムダだということは明々白々となった。河川法も改正され、環境に留意した自然工法が再認識され出した。  
 にもかかわらず、何とも説得力に欠ける、十年一日どころか半世紀余も経た今日もなお「昭和二四年のカスリーン台風の被害による治水・利水」の語を臆面なく振りかざす。日本の河川工学は、一九四九年の域から進展なしとでもいうのであろうか。
 今日もまた数々の指摘と多くの疑問の声を無視し、時代に逆行するかのように、なおも強行着工態勢で、昼夜を問わず工事のピッチを上げている。一部の財団法人に天下りした建設族。癒着する政財界の迷走状態にも、依然としてピリオドが打たれない。
 国道沿いに仕出し弁当屋の看板が立てられ出した二〇〇一年六月の補償基準調印後は急速に、新緑の山々の木の間越しに、えぐられた褐色の山肌とコンクリートが目立つようになった。日増しに開発面積が増えて、訪れるたびに切ない。立ち入り禁止の緑の木立に踏みこめば、通常感覚を超えた無意味さにいやでも直面する。
 用地買収の進捗度は四月現在、建設に必要な面積四三〇ヘクタールのうち、約二四パーセントにあたる一〇五ヘクタールの用地の取得が完了しているという(二〇〇四年八月末の発表では、三七〇ヘクタールとなり、三一パーセント)。
 ところで、三年後の二〇〇七年完成予定とされる肝心の代替地は、驚くことに二〇〇四年春になっても、代替予定地と勝手に地図上に記されている地権者に聞くと、用地交渉のための第一歩の打診さえなく、手がついていない。
 にもかかわらず、「川原湯地区打越での代替地の造成工事は順調」。他四地区についても「代替地の基盤整備や準備工事が進んでいる」と、年頭の所長挨拶には述べられている。
 ただし、この打越代替地は二〇〇三年一二月の現地見学の際に、国交省に問うと、誰にも文句のいわれない国有地なのであった。周辺部は手つかずの状態で、「国は本当にやる気があるのだろうか」と、時折浮上する中止説の裏づけとなるいぶかしさに包まれている。
 さて、ダム企業集団の次なる一手は、さらに経済効果の密度を積み上げるためにか、今度は環境保護の視点を繰り出す。自分たちが破壊した自然界に、美徳のダム環境施策の仮面をかけ直してのご登場と相成るしたたかさには驚くしかない。説得力なく、環境配慮のうたい文句がうつろに響くことこの上なし。
 ことあるごとにマスコミ関係者に「お宅の総力を上げて、全国のダムでこの間、使われた金額は幾らになるか、リストを出したら、スクープもんよ」といい続けてきた。
 平然と行われてきた大本営発表のインチキに、迫れる日ももはや近いと確信する。

  水との因縁に彩られてきた群馬県庁 

 その日は、冬場にしては珍しくスッキリと晴れ、稜線を際立たせた上越国境の山並みが全貌を現した数少ない日であった。
 最上階三二階、一三一メートルの高さに屈指の水源県、群馬県庁の展望台はある。
 くしくも八ッ場ダムダムサイトの提高と、ほぼ同じなのである。
 吾妻川の狭隘な谷川に高さ一三一メートル、堤頂長三三六メートルのコンクリートの塊りが出現する景観を想定すると、渓谷沿いを走るたびに空恐ろしさが迫る。緑の山の中のコンクリートの建造物ほど不釣合いなものはなく痛々しい。
 北側窓辺直下に新潟県境の大水上から南下する大利根の大動脈が、迫るように視界に入り来た。
 
 ーーー利根は悲壮である。 
 坂東太郎の名にふさわしく滔々と、時にたおやかな風情を漂わせつつ、一三一メートル下の眼下を太々と流れ去っていく。それぞれの川筋で見聞きしてきた種々くさぐさ"は黙して語らず、の風情にて、まさしく威風堂々、ツル舞う県のシンボルの名に値して恥じない。
 だが、首都圏の水がめとして開発しつくされた川筋として考える時、まさに“哭くな、坂東太郎よ!”の惻隠の情が迫らざるを得ないのだ。逝きて、再び戻れぬ水たちに、「気をつけていくのよ」と励ましたくさえなる所以だ。
 足尾鉱毒や治水に取り組んだ田中正造その人は、早くから河川や山をおろそかにすることは、国の荒廃につながると見抜いていた、エコロジーの先駆者であった。
 百年先を見通したその治水論において、水害は自然災害ではなく人造であると唱え、「天然に背き、明治政府はさらに西洋式なりとて河川を造意す」と指摘した。わが利根川河川工事は、一目散に西洋式に駆け走り、破壊された代表例と呼べよう。「それ河川は清浄潔白也」「治水は天地の導く処に従うべし」など、今に新しく迫る語録である。
                                                          (続く)
  


Posted by やんばちゃん at 23:00Comments(0)八ッ場に願う

2009年10月31日

長野原の皆さん、どうしちゃったの!

 読売新聞群馬版のシリーズ「八ッ場ダムを問う」の8人目は、おなじみの
脱ダム宣言の祖である新党日本代表、田中康夫さん。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/feature/maebashi1256135252318_02/news/20091030-OYT8T01351.h

 私の心に飛び込んできたのは、次の末尾の設問とそれへの打開策的返答だ。
 
 ――57年も翻弄された住民に対しての対応は。
 付け替え道路は今の計画を早期に完成させると同時に、もう一度、現地を緑の谷に再生する新しい公共事業に転換する必要がある。前原さんは中止と言う前に、「日本の治水はこう変える。その中で、今動いている部分はこうなるから協力して下さい」と示さねばならなかった。私の経験を踏まえれば、役人任せにせず、自ら司会をして、車座集会を幾度も開く熱意がなければ脱ダムは達成されない。

 
 その最末尾の、「役人任せにせず、自ら司会をして、車座集会を幾度も開く熱意がなければ脱ダムは達成されない」というくだりだ。
 というのは、私はかねがね、民主党筋の方たちから問われると、《町の呼びかけでは出にくい雰囲気がある。番外編として「誰でも参加自由」的枠組み編成は、できないものか。 もしくは、時間的に不可能かもしれないけれど、個別に住民の戸口を叩いて戴ければ、町側の主張する意見と異なっていることは、すでに私の足で確認してありますので》的なことを伝えてきた経過があった。
  
  さらに、 
――前原国土交通相の手法はどうか。
 「河川とは何か」を大本から見直して、ダム建設よりも護岸補強や森林整備、危険地域の家屋移転などの方がはるかに地域雇用が増えると説明した上で、ダムによらない治水・利水の在り方を示す必要があった。ところが「マニフェストに載せたのだから止めます」と「上から目線」で言ったのだから、地域は混乱するに決まっている。
  


        ここに住んでいねぇモンに、わかるか!!

 ここの処、日一日と現地の空気はきつくなっているのが、身にしみてわかるのだが……
 実は仮にも、この「上から目線」でものを言ってはならないことを強く自戒してきたつもりだ。どこまで行っても部外者なのだから、その立場を考慮して、遠慮がちに記したことまでもが、なぜか曲解されてしまったらしい。
 むしろ、立場は違えても、一脈相通じて、「生きる」ということにおいても同志的なひびきあいを感じていた方であったがゆえに、ことさら寂しい。
  多くの要素が内在しているので、詳しく記してみたい気持ちもあるが、かえって傷口を広げてしまう作用もあるので……ためらう。
 ともかく、水没地の方たちと、ダム反対賛成の立場を超えて、かつては会話が通じあい、極めて良識的な思考回路をお持ちであった方たちまで、どういうわけか、変わられてしまったのを感じる。
 過日も良かれと思って、一目散に申し上げたことに対して、おどろくような曲解解釈の言葉を吐かれ、たじろぐと共にビックリせざるを得なくなっているのだ。どうして、あれほど沈着冷静、豊かな思考力だった方までか、これしきのことの筋道が定かでなくなってしまったのか……と。
 差後には、「この気持ちが、よその村のモンに判るか」といわれる。
 
 その中の一つの体験を、つい先日までは、前出の方よりもまた一段と近しいご縁だった、別の現地の方に相談すると、つい先頃まで、相づちをうってくださっていて、またこの方の示唆的なこともあった事柄だったのに、「だってそうでしょ」と同意を求めると、「う~ん」と言った後に、「そりゃ、そう言われるに決まってるさ」と見事に豹変されてしまわれたのだ。この方とそのことについて話をしたのは複数回を数える。
 おもわず、「だって、この間、〇〇さんだって、そういうふうにおっしゃってくれていたじゃないですか」とくいさがってしまった。  すると、「要するに深入りしたことは、何も言わないことだよ」とかわされるのだ。
 「よほど、お立場上、今回のことで追い込まれてしまっているんでしょうかね」と問うと、「誰も追い詰められちゃいねぇよ」と言われて、「だって、ひどすぎるじゃねぇ。何が友愛だよ」と、ひとしきり鳩山・前原ラインの悪口を繰り出される。
 立つ場所が異なると、一つ一つの受け止め方が、かくも異なってくるものかと、思いつつ聴いていた。中身がないと評される鳩山演説は、私にはしらじらしい約束事よりも、ずっと大きな精神力として迫る“新時代の希望の響き”として、とらえられた。
 そして、「昔のように、最後まで闘う」とのご意思であるという。
 不毛の闘いであり、昔の反対闘争とは違う。こには正義がないし、武器もない。
 どこまで゜いっても不毛なのだ。
 思わず「生活再建が遠のくだけじゃないですか」とまた、こらえきれずに余分ごとを言ってしまった。
 
 なお、民主党筋に伺うと、選挙前に川原湯温泉街に打診に実際に行った際、「ダムはどちらでも良い。生活再建さえ、しっかりしてくれるなら」という意見に接して、安心してことを断行してしまったようである。
 ところが、選挙後は、一変。
 報道番組に登場された方たちの、強い怒りのセリフに困惑されていた。
 おそらく、よもや、政変が起きるとは思わずのきれい語であったとしか思えないのだが……
 事実、ある報道番組の中で、私も同種の言葉を聴いている。
 同じ番組の中で、この方はある団体との前夜の懇談会の後片づけをしながら「もう、市民運動の皆さんには騙されない」的なことも語っていた。また、昨年暮れ、県庁でのイベントの際、私も直に聞いている。
 その気配を如実に感じて、昨年の春頃に、ダム問題の会報に思わず、「市民運動と地元とは、乖離しすぎている。修復をはかって置かないと、ダム中止になっても禍根を残しかねない」と憂えた拙文を寄せた次第だ。
 (※本当のことを書きすぎたためか、行動面と性格が悪いためか、この後、私への反撃は強まり、昨夏の弁護団会議などにおいては、いわく言い難い空気に接した。出席拒否的な言動にあい、その裏にはあろうことか、“国交省のスパイ”呼ばりまでされていたらしい。幸いにして地元弁護士さんの配慮とさすがにあきり果てたいく人か方々によって救われたが)
 断じて、言わせて頂くが、私はいかなる時も「ダム反対」の立場は鮮明に告げている。
 そのうえで現地に出入りして、交流を深めさせていただいてきた。従って、ダム推進の役員の皆さんのところにも少なからず、お邪魔させて頂いてきた。話し合えば互いに判る。そのうえで「また、来ない」ということになってきた。
 百歩ゆずろう。「人を見る目がない」と言われれば仕方ないが、八ッ場の皆さんから、私から情報をとろうなんて、さもしい気持ちは感じられない。
 五年前、「八ツ場に出入りしすぎて、現地の方たちを刺激しかねない」とかの表向きの理由にて、発会時からのメンバーであるにも関わらず、私が、群馬の市民運動から干されていることは、先刻、皆さんご承知である。


 残念だけれど、この方も、先の態度を変えられた方に近いご意見の持主であったということになるのだろうか。
 でも、私はこの二方のご紹介には、「人物ですよ」と申し上げ続けてきた。
 電話の向こうで、奥さんが「村の外のモンにいくら言ったってムダだから、はぁ止めな止めな」と声をとがらせて言っているのが聞こえる。
 「まぁ、これ以上、お話していると、仲たがいになりますからね。私、〇〇さんとケンカしたくないから」と言って、受話器をおかざるを得なかった。
 皆さん、極めて、日頃は論理的な思考過程の持主であった方たちである。
 誤解を受け、筋道が通じなくなってしまっているのが、極めてさみしい。
 もはや打開策はないものかと思い、気落ちした。
 
     
      長い不毛の時を、またも繰り返すのか     
 そして、目下、闘争の年譜を丹念に繰る作業に追われている。
 八ッ場では、皆さんがいきどうるに足る、多くの時間が費やされて、いたづらに流れてきたことはまぎれもない事実だ。
 日々、国と条件付き賛成派の暗躍によって、狭められてきたダム反対派の皆さんの無念さが、読み取れ行間から立ち上がってくる。
 今回はダム中止への「反対運動」と変容していて、なんとも紛らわしくてならないが、皆さんの怒りがおさまらなければ、また、果てしなく不毛極まりない長い時を費やされるというのか。
 年表の闘争の日々を目で追いながら、ため息がつきない。
 誰か、よりよい終息過程に導ける、スーパーマン的なヒーローはいないのか!!  


Posted by やんばちゃん at 18:21Comments(2)八ッ場に願う

2009年10月16日

針を飲まされた人たちの譜  拙著から、転載

  
 本日もまたダム問題関連のことで、揺さぶられるような一日でした。
 その一日も、あと数分で閉じる今、またしばし、ダム問題から“逃避の
お遊び”にて。

 わが郷土の詩人、山村暮鳥の詩を。
 昔学生のその昔から、心に肉迫しそらんじているこの詩句と国木田独
歩の「山林に自由存す」をおもいきっりくちずさむと、不思議に高揚してき
て、昂然とまた猪突猛進してしまう、私の秘薬です。   

  「いのり」
  
  つりばりぞそらよりたれつ
  まぼろしのこがねのうをら
  さみしさに
  さみしさに
  そのはりをのみ。


       青空に
  青空に
  魚ら泳げり。

  わがためいきを
  しみじみと
  魚ら泳げり。

  魚の鰭
  ひかりを放ち

  ここかしこ
  さだめなく
  あまた泳げり。

  その魚ら
  心をもてり。
               <山村暮鳥 詩集『聖三稜玻璃』所収<

※続いて以下は、拙著『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』の記述

 思えば、針を飲んだ、飲まされたに等しい人々の譜。長野原町に通う
往復の車中で、いつも私はこの山村暮鳥の詩、「いのり」と、続く「青空」
を思い出すと、やはりおのずとこみ上げてくるものを止められない。
 山村暮鳥はわが町出身の郷土の詩人であり、中学校の校庭には「月」
の詩碑があり、小学校の正面玄関にはその詩句の拓本が飾られていた。
 朝夕の通学の折に目にする暮鳥の詩は幼い日から、すでに内心の襞に
染みこむほどに肉迫し、同化している。
 そして、膨大な作品量の中から私の心情にピッタリ食いこんだのがこの
「いのり」と「青空に」なのである。啄木と同じ時代閉塞の時代に生きた山
村暮鳥の真髄は、この第三詩集「聖三稜玻璃」の時代にあると考える。
 それにしても「水源地域特別措置法」をはじめ「特措法」とやらは、一見
まくて甘そうに見えるが、ある意味では毒まんじゅうの要素がたぶんにあ
る。一度口にしてしまえば、不思議に闘いへの怒りがそがれ、計り知れ
ない懐柔効果があるものだ。
 悔しいのは、是が非でもダムを建設せねばならぬ権力側の至上命令が、
いつも地域の切実な声が一つになりかけると、切り崩すことだ。
 推量するに、毒まんじゅうをたっぷり積まれたらしい人間が、闘いの戦列
からそっと抜け出し、これまた眼前の自然界同様に陰に陽に暗躍してきた。
 しかし、おもしろいことに雲間から漏れる照射ではないが、案外その動き
をもライトは追っていて、早晩人々の知るところになってしまう。
 
 八ッ場ダム五〇年間の闘争の過程でも、節目節目ごとにあったそんな動
きを、資料を読んでいけば行間からこぼれ出る事実として、部外者の私まで
気づかされる。
 さて、二〇〇一年六月一四日、補償基準の調印がなされた。水没地帯の
現況は、予想しなかった加速度がついて、事態はかなり進展してきている。
 二人の大物政治家の確執でキャッチボールのように揺らされ、遅々として
一進一退のあがきを続け、長期化しあったのにかかわらず、補償基準の調
印までは二年間という異例の速さであった。
 要因として無理からぬのは、連合補償交渉委員会四七名のメンバーの多
くが、委員長を含めダム建設推進派であったことが大きい。
 さらに追い風となったのは折からの不景気。
 心ならずも逆説的な効果として作用したのは、全国的な脱ダム思想。
 それと市民層による運動の出現などが、逆に促進作用を果たしてしまった
と指摘されている。
 現実に補償交渉委員会トップの発言にも、再三「ダムができなくなったらど
うする。そういう人たちに騒がれないうちに」との言質があったと聞く。

     存続危ぶまれる過疎化の町 
 全戸水没地の川原畑でおよそ七九世帯中、すでに一五軒がいち早く転居し、
家屋も壊した。
 建物を壊さない限り補償金の支出はないという鉄則があるからであるが、比
較的密集していた川原畑の屋並みに、更地と化した空間が生じている。
 集落の真上に一村全体でズリ上がり、ダム湖を見下ろして住むとの結束も、
調印がなされ個人が転出を希望する以上、もはや阻止する効力は何もないそ
うで、流出組は今後も増え続ける見込み。
 八ッ場方式なる現地再建策、ズリ上がり方式への可能性は、やはり崩れた。
この先は転出者に金銭を支払った既成事実のもとに、さらに住民を駆り立て
追い詰め、代替地の遅れは地主にありと転嫁させる、地元民同士の反目の
構図が待ち受けている。
 水没民はまたしても進むしかなく、袋の一方だけを開けられ、退路を断たれ
たと同じである。
 丸がかえの各地への視察、政治的工作などで夢を見させられた住民たちが、
現地再建策の構造に乗った時に、全国各地のダムを仕上げた手腕から権力
側は手のひらに乗ったも同じとほくそえんだであろう。
 ダム関連工事は急速にピッチを上げている。
 林地区の山中、高規格自動車道国道一四五線とそこを分岐点とする「県道
林・長野原線(王城道路)」と「県道林・吾妻線(吾妻峡南道路)」は無論、ちょっ
とした山あいに入っても随所で、工事現場に出会う。
 全体で二〇台のダンプが日に約二〇回は往復するというから、その喧騒の
度合いは推し量れよう。要所要所では係員が誘導に当たっているが、経費は
各建設会社を通して、国土交通省が払う。
 つまり私たちの税金がこのようなことにも費やされている。
 
 原始からの大地を切り刻むように木々が倒され日々変貌している。
 緑色にとってかわり面積を増していくコンクリートの色。八ッ場に訪れるたび
に切ない。どうにかならないものかと嘆じる。
 目の当たりにしている居住者はもっとつらいだろう。投げやり的に「どうにも、
ならしねえよ。儲かる人もいるんだから」と吐き捨てるようにいう。
 だが、最も潤うのは地元企業と地元の一部の有力者だけではなく、全国の
ダム建設現場を渡り歩いてきた、他所からの企業や業者たち。
 昨年夏頃あたりから、国道沿いに「仕出し弁当」の真新しい看板が目立つよ
うになってきた。
 現地を歩くと、「お上に逆らっても勝てっこねえ。あの下筌ダムだって結局は
負けたんだから」との声を疲労"困憊の果ての言い訳的につぶやく。
 国家権力に徹底抗戦した下筌ダム(熊本県)、その蜂の巣城の指導者は室
原知幸だった。
 市民の権利意識に基づき七〇回もの法廷闘争を起こし、国の誤りを突いた
先駆者である。
 しかし、指摘された弱点を逆手にとった司法は、土地収用法や下流自治体の
同意などを盛りこみ、一九六四年の河川法の改悪を行ったとされる。
 ――「わしが戦いに負けるたびに、権力の実態が明らかにされ、歴史に刻ま
れていく」。
 大闘争過程を描いた松下竜一著『砦に拠る』文中の室原語録である。

    --- 略 ----  
 さて、この日も、吾妻川の水量は、少なかった。川床の石が見えている。
 こんな巨億の資金をかけて水の流れない毒水の川をせき止めて、どうするのか。
 何よりも怖いのは人体実験段階の石灰中和水を水余りの世の中、高い料金を
払って飲まされる、下流都県の市民たちの運命である。
 帰途、心落ち着けて“氷の花”に再び出会おうとしたが、すでに溶けていた。
 しかし、この日、私の心に宿った、傷みの花は、終日凍えたままであった。
 そして今、“銭の花”という言葉もあったことを思いつく。
                         (『上州路』二〇〇二年一二月号、あさを社)

  


Posted by やんばちゃん at 23:55Comments(1)八ッ場に願う

2009年09月17日

豊田さん、「やまたのよっちゃんは正しかったった」ですよ

 皆さん、お喜びください。
 ご覧になっていられた方、いらっしゃたことと思いますが、今朝の民法テレビの各紙面紹介コーナーで、新国交相・前原さんが、「八ッ場ダム廃止」と言いきった旨の報道と、朝日新聞一面中央の見出しが映りましたよね。
 良かった!、思わずバンザイです。
 早朝、期待して見たのですが、当地の朝日新聞は「13版N」というので、掲載なっていません。が、本当にさわやかな朝となりました。

 全てが解決したわけではなく、幾つかの抵抗運動に対峙しなければなりません。
けれど、この朗報をもって八ッ場へ行き、豊田嘉雄さんの墓前に「嘉雄さん、やまたのヨっちゃんは、やっぱり正しかったってみんなにわかりましたよ」って伝えてあげたいです。【注】
 嘉雄さんが、補償基準調印式のあった2001年6月14日、うなだれて「八ッ場は負けたんだい。戦争に負けたんと同じだ」と悄然としていました。肩を落とした姿が、同日の毎日新聞夕刊に掲載されました。支局にちょっと出入りして顔みしりだった若手記者のM君から、事前に電話をもらい、嘉雄さんを招介したのでした。彼は情味にあふれる良い記事を書いてくれました。
 
 そして、?どっかからの命令を受けた一部有力者によって作り上げられたダム推進の世論。それによって徐々に八ッ場の谷間で息をつめてこさせられてきた、まさに“意識の隠れキリシタン”的存在の人々の戸口をたたき、「朝です! 夜明けですよ」 と伝えたい思いです。「長い、闇でしたよね」と喜びあいたいです。
 つい、数日前「おめぇはそんなことしてりゃ、殺されるぞ。しばらく来るなよ」とある方から言われ、この間、終始一貫ヒヨラズ、結構強いこの方でもそんなことを想定しなければならない、現地の空気に慄然としたばかりでした。
 しかし、仮に命を取られても、そのくらいの覚悟がなければ、生じの手だしはするものではないものとの、自覚はあります。

  ともかく、ハレバレ。
 八ッ場には、やっぱり「地霊」がやどっていました。

 これからは、地元の当事者たちが、真に望む、あるべき「生活再建策」の練り直しの出番です。

  末尾に、豊田嘉雄さんの自分史、『湖底の穹』に所収されている泣かせる短歌中、そらんじている一首を。
   青春は兵役に埋没 後半生ダムと対決 命足らざる  
 

【注】
①「やまた」というのは嘉雄さんが経営していた民宿「やまた屋」さんの屋号。息子さんが継いで営業しています。ご当主は陶芸の先生。温味のある手作り陶器に旨い食事が盛られて供されます。お風呂がピカピカで気持ちがいいですよ。うれしいことに川原湯で最も廉価なお宿です。

② 「よっちゃんは正しかった」の出典は、著書の『湖底の穹』の末尾の結びの言葉によります。
「どんなに頑固ものだと言われようが、最後まで八ッ場ダムに反対し、このダムは造ってはならないと叫び続ける。いつかきっと、やまたのよっちゃんは正しかった、と認められる日がくることを信じている」
 ーーふるさとが湖底に沈む少し前花の咲く頃ぽっくり死にたいーー
.......................................
 ※追記 ニュース速報がキャッチできました。ので、転載を。
..................................


【読売】
http://news.biglobe.ne.jp/politics/404/ym_090917_4042730925.html
八ッ場ダム「中止」前原国交相…霞が関激震
読売新聞 09月17日04時07分

 【キャプション】報道陣の質問に答える前原誠司・国土交通相

 八ッ場ダムの建設中止、死刑執行への慎重姿勢……。16日に発足した鳩山内閣の新大臣たちが、これまでの自民党政権とは一線を画した方針を相次いで打ち出すと、東京・霞が関には激震が走った。

 前原誠司・国交相(47)は16日深夜、認証式後の記念撮影を終えると、首相官邸で始まった各閣僚の記者会見の順番を待つ間を惜しむように、「戦場」となる国土交通省に礼服姿で乗り込んだ。

 幹部職員らが拍手で出迎える中、大臣室であいさつを済ませた前原国交相は、エレベーターホールで、報道陣約30人の取材に応じた。報道陣から出た質問は、国交省が建設を継続するかどうかの判断を新大臣に委ねるとしていた「八ッ場ダム問題」。前原国交相は笑顔のまま、「マニフェストに書いてあることですので、中止します」と、あっさり中止を明言した。

 ただ、「やみくもに中止すると現場の方々も混乱するので、補償措置について地元の方々や関係自治体と話し合いたい」と述べ、早急に建設予定地を訪れて、地元の住民などから話を聞きたいとの意向も示した。

 ダム建設を担当する同省河川局では多くの職員が残って、前原国交相がどんな意向を表明するのか見守っていたが、同省幹部は「政策については、官僚が発言してはいけないということになったので感想は話せない」と疲れ切った表情。別の幹部は「非常に重く受け止めています」と語った。

 一方、中止撤回運動を進める地元住民組織「八ッ場ダム推進吾妻住民協議会」の萩原昭朗会長(77)は、前原国交相が記者団に中止を明言したと聞くと、「やっぱりという気もするが、残念。工事中の橋や道路などはダムが完成し、水がたまることを前提に造られたもの。今さら中止は本当に困る。国策を押しつけ、昔も今も地元の民意は反映されないのか。新政権にはしっかりと地元の声に耳を傾けてほしい」と話した。


【朝日】
http://www.asahi.com/politics/update/0917/TKY200909160438.html

前原国交相、八ツ場ダム建設中止を明言
2009年9月17日0時54分印刷

ソーシャルブックマーク

【キャプション】首相官邸で会見する前原国交相=17日午前1時12分、東京・永田町、河合博司撮影
 
 民主党が政権公約(マニフェスト)で中止を明示した八ツ場(やんば)ダム(群馬県)について、前原誠司国土交通相は17日未明、政権公約通り中止する考えを明らかにした。総事業費4600億円の巨大公共事業は、計画浮上から57年を経て、中止へ動き出した。

 前原国交相は官邸での就任会見に先立って同省に初登庁して幹部にあいさつ。その後、記者団の取材に応じた。前原氏は中止を明言した上で、「早めに現地に行き、いろんな話をうかがい、どういう補償措置を前提としてとるのかということが必須の条件になってくる」として、地元住民の生活再建に取り組む考えを示した。「やみくもに中止するとなると現場の方々の混乱が起きる」とも語り、事業費の一部を負担している下流域の6都県とも協議を進める考えを示した。

 国交省は民主党の総選挙での勝利を受けて、9月11日から予定していたダム本体工事の入札を延期し、新大臣の指示を仰ぐとしていた。谷口博昭事務次官は「治水、利水上の必要性、事業の経緯、地元の県知事や地元の首長のご意見を新大臣にご説明させていただきたい」と述べていた。






  


Posted by やんばちゃん at 08:01Comments(2)八ッ場に願う

2009年09月16日

(三)群馬民主党・マスコミ騒動記 

 群馬県選出の参議院議員、民主県連・富岡由紀夫会長と中曽根弘文外相の対比的な意見を、本日16日の県内版から拾いました。
 読売新聞は、11日の上毛新聞一面における、富岡会長の「ダム本体工事はストップ」の前提条件を元にくりだした見解を補う報道のようですが、スッキリと受け止められません。

※以下は本欄における追記です。
なお、今回は詳述していられませんが、
「中止すれば、建設するよりも金がかかる」というキャンペーンは、正しくはありません
 もし、続行すれば、ダム本体工事があり、しかも水没地内には、まったく交渉の糸口にもつかない家もあり、家屋が点在しています。2015年度内に、完成できるはずもありません。予算追加が繰り出されるのが、ダム建設の通例です。
 ストップした方が、実際には少なく済むとの試算を、算出中です。
 後々の維持費や逆に地震誘発など災害をもたらす危険性や、地滑りによる追加工事費などを考えると、比較にならないほど、国民の負担は少なくて済むのです。
 しかも、大手ゼネコン維持に費やされるのではなく、この間、痛めつけられてきた水没地の皆様の生活に直結した“生きた税金の使い道”となります。
 何よりも、(かなり痛めつけられてしまった八ッ場の山河ですが)、ダム本体工事に伴う、自然破壊は食い止められるのです。

 皆様、どちらが、よろしいでしょうか。
 ご意見、お聞かせください。

 

【本日、9/16(水)】
..................................................
///////////////////////////////////
①【2009年9月16日(水) 読売新聞群馬版】http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20090915-OYT8T01291.htm
 八ッ場「地元の意向に耳」
  民主県連・富岡会長が明言
 
 民主党が政権公約(マニフェスト)に建設中止を明記している八ッ場ダム(長野原町)について、同党県連会長の富岡由紀夫参院議員は15日、読売新聞の取材に対し、「歴史的な経緯もふまえ、地元が納得いくような方向で検討しないといけない」と述べ、地元やダム建設に参画する6都県の意向を十分聞いた上で、党内の議論を深める必要があるとの考えを示した。

 富岡氏は、先週の4日間、長野原町や東吾妻町で地元住民らを訪ねて回ったことを明らかにした上で、「地元の不安は『中止』と言われて(ダム本体以外の)何が『中止』になるかわからないこと。ダム湖を前提とした現在の生活再建案に代わる働く場所の確保や産業誘致が、国の責任でできれば『(中止しても)いいよ』と言う人はいる」と述べた。

 一方で、「マニフェストに中止と書いたからと言って、いきなりばっさりはできない。地元の意向などをよく聞いた上でソフトランディングしないといけない」と述べ、新政権が発足後すぐに中止決定することに、慎重な考えを示した。また、ダム中止を掲げた政権公約について「時の状況や財政状況などを勘案しながら、常にバージョンアップを図り、見直しながらやっていくべき」と述べ、八ッ場ダム中止を掲げた項目についても、「これからいろいろ議論していく必要がある」と話した。

///////////////////////////////////
②【2009年9月16日(水) 産経新聞群馬版 写真あり】
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/gunma/090915/gnm0909151211003-n1.htm

【キャプション】八ツ場ダム建設で川原畑代替地に並ぶ墓地。いずれも水没するエリアの墓地を移設した=11日、群馬県長野原町川原畑地区(撮影・矢島康弘)

 中曽根弘文外相(参院群馬選挙区)は15日午前の記者会見で、民主党が建設中止を表明している群馬県の八ツ場ダムについて「50年近くかかって住民の合意を得て国、県、近
隣都県で進めてきた。急に中止になると、どれほどの費用が掛かり混乱するか」などと指摘し、建設継続を求めた。


  


Posted by やんばちゃん at 11:43Comments(0)八ッ場に願う

2009年09月16日

(二)群馬民主党・マスコミ騒動記 

  先の(一)群馬民主党・マスコミ騒動記に対して心配の声が寄せられました。以下は、その返礼です。
 なお現実に、全国のダム問題においては、民主党員の中には「推進」派に回り、民主党見解と異なる行動をしている同党党員もいることは事実のようです。

 .. 【9/15(火)に発信】
....................................................
 ○○様、お便り、ありがとうございました。
  皆さまも、ご安心ください。

 12日に上毛新聞の記述に惑わされて、「またも、対立の構造か」なるセンセーショナルなメールをお送りいたしました。
 が、以下に述べますように、わが群馬の民主党は、案ずるにあらずでした。
 
 本日、民主(労組系)・富岡由紀夫参院議員の事務所に電話。秘書の方から、きちんとことの経緯を伺いました。
 富岡さんは、鳩山代表と同じ考えでマニュフェスト通り、もちろん「八ッ場ダム中止」です。
 その上で、「工事はストップしても、生活再建は長い経過のある問題なので、このままにはできない」として、生活再建に言及し、今後の対策を言ったのだということでした。
 また、7日~9日まで三日間、現地入りしてきたとのことでした。
 
 「中止」という前提条件を上毛新聞の記述では記者の読解力不足か、?意図的に欠落させたのか、
《ーー略ーー民主党2議員が党が掲げる八ッ場ダム中止方針に言及、中島氏が中止の必要を強調したのに対し、富岡氏は党内議論の必要を指摘するなど、方針に対する考え方の違いを見せた》。と「方針に対する考え方の違いを見せた」との表現にもちこんだのでした。
 「中止」の考えは、二人とも共通項。さらに富岡氏は次のステップの今後の生活再建に踏み込んだ発言をしたまでだったことのようでした。
 
 「プロパガンダ的に扱われた」と言ってましたけれど……
 そして、お恥ずかしいながら、「よもや」とは思いながらも私もみごとに乗せられてしまった一人でした。
 本県の民主党間の近親憎悪も甚だしいの対立を前回の選挙戦の手伝い中にも嫌というほど、見てきた者の一人として、また前夜10日の萩原渉県会議員が行った、富岡参院議員の協力体制のご披露として、「ダムの必要性の精査」まで遡って討議する旨のあいさつまであったものですから。
 さらに同じく10日夜に、しきりに「ダムを造る」ことに気炎をあげていた、茂原副知事は翌日の富岡発言に対して、《「たいへんありがたいこと」と話した》となるわけですから。
 すっかり、「ダムの必要性」にまでさかのぼると勝手解釈してしまった早とちりな私もまた、短絡的でした。

 そして、わが親愛なる八ッ場のあるオトモダチさんは、新聞を読んで立腹。「見損なった。こんだ(選挙に)書かねぇって言っといてくんない」とまでおっしゃられたのです。で、思い切10日夜の抗議に続いて、またもことの真偽を確認の本日の電話となった次第ですが…。
 今後は、担当窓口が決まり次第、きちんと地元の要望にこたえるため、話し合いの場を持つようです。
 
 水没地の一連の抗議行動の裏には、自民党群馬県連やゼネコン関係者の姿がチラホラ。
 どなたかが、書かれていましたように、選挙に負けた「自民党の最後のあがき」的要素に縁どられています。
  
 まさに、「大政奉還」的な未曾有の潮流のただ中にいるわけですが、新政府に対しての「戊辰戦争」から始まった抵抗運動の、ただ今は「神風連の乱」もしくは「萩の乱」辺りでしょうか。
 そのうちに終息してくれることでしょうが、冷静に判断、まどわされぬように心したいと思います。

 ○○様はじめ皆さま方、どうか、よろしくご教示のほど、お願い致します。 
                                            


Posted by やんばちゃん at 11:21Comments(1)八ッ場に願う

2009年09月16日

(一)群馬民主党・マスコミ騒動記

 
 民主党参議院議員の「ダム提本体工事はストップ」の前提条件を抜きにした、?プロパガンタ的報道と談話に、ふりまわされたこの間の推移を。
 これは あるメーリングlリストへの投稿文を、本欄に即応させて、不必要部分を削除など、アレンジしたものです。
 分割して掲載させていただきます。

 昨今の迷走は、自民党筋さんのお得意芸とはいえ、ホントにおかしい。
 八ッ場ダム問題の根幹の責任は、新政権にあるのではなく、前政権にあることをお忘れのようで、自己反省の気配、まったくなし。しかし、もはや、時間の問題!! 


 【9/12(木)に発信】
................................................... 
 恐れていたことですが、民主党内部(群馬県に限定)の対立の構造が、八ッ場ダム問題における見解の差にも、形になって表れてしまいました。
 周知のように民主党は一枚岩ではありませんが、とりわけ群馬県内の(労組系と鳩山系との)確執は根が深いのです。
 八ッ場ダム問題についても、早くもその萌芽が出てしまいました。
 本日12日の上毛新聞一面の中段には目立つ見出しで「富岡氏 党内で議論」の報道があります。主要部分のみを手打ち(ネットになし)。

 ////////////////////////////////
① 【2009年9月12日(土) 上毛新聞一面中段、真中】   
【見出し】 中止方針の八ッ場ダム 富岡氏「党内で議論」  
   【記事冒頭のみ】 
 藤岡市内で11日県商工会議所議員大会で、来賓として挨拶した中島政希衆院議員、富岡由紀夫参院議員の民主党2議員が党が掲げる八ッ場ダム中止方針に言及、中島氏が中止の必要を強調したのに対し、富岡氏は党内議論の必要を指摘するなど、方針に対する考え方の違いを見せた。
  中島氏は「八ッ場ダムのような無駄な公共事業をやめて税金をどう使うかが大きな問題。ダムのために使う予算で例えば病院を整備することもできる」と指摘した。これに対し富岡氏は、地元で直接住民の声を聞いたことを話した上で「地元の意見、これまでの経緯を踏まえた上で、結論ありきではなく、民主党の中で議論していきたい」と述べた。富岡氏の発言について、数人置いてあいさつに立った茂原 男副知事は「たいへんありがたいこと」と話した。 
   ----以下、略ーーーー
/////////////////////////////////

 実は、一昨日の10日夕刻、長野原町・山村開発センター長野原町で開催された、「八ッ場ダム推進吾妻住民協議会」の発会式の冒頭でも、発起人で司会役の萩原渉県議が、つぎのような意味の談話を話していたのです。
    ////////////////////////////
②【9/10(金)長野原町にて 萩原県議による司会の冒頭談話の中の言葉】
 「ーー略ーーさきほど、民主党の参議院議員・富岡さんとおあいしました。民主党の中でも八ッ場ダムをいきなり中止というのは少し考えもの。これから地元を廻り地元のことを知って、そして八ッ場ダムの必要性ということを精査して、これから取り組む、とおっしゃっていただきました」と伝え、場内を沸かせたのです。----以下、略ーーーー」 
     ///////////////////////////

 「まさか、富岡議員が」とギョっとし、虚をつかれた思いが走り、「これはまた、民主党内部でこじれるな」と直感。
 瞬間的に反応する短絡型人間の私は、終了後、早速、(お留守だったので残した当方の携帯番号に)夕刻電話をもらっていて話をしたばかりの富岡議員筋の方に、萩原県議によって「演出効果のダシに用いられた富岡参議員の姿勢と発言について抗議めく電話をしてしまいました。
 
 なお、私もこの間、個人的に社民党県連、県内民主党双方の電話できる方たちに「現地を訪れ、謝罪的なことを早くすべきではないか。政党としては軽々としたことはできないなら、一日も早く現地視察は行くことを検討してほしい」旨と伺っている本音の現地要望を伝えて来たものでした。

 つとに知られていることですが、現地のダム推進派の策略の一つに、《民主党内の確執(労組系と鳩山系との)のスキ間をねらえ》というのがあります。
 富岡参議院議員はその労組系筋の支援を受けてます。
 実際に、昨夏の鳩山視察の際にも、今回、比例区で初当選の中島政希衆議員側は一方的に設営したようで、労組系は中島さんが得々と記したブログなどに反発し続けてきた経過も見聞きして参りました。
 
   所詮は“政治の世界”です。
 が、発言の真意について問うとともに、支持者の一人として以下の苦言を伝えました。
  ① 間隙をねらう、自民党のメッカである現地作戦のターゲットにならぬよう気をつけて欲しい(※絶対に来年の参議院選に役立ちはしない)。
  ② スタートしたばかりの鳩山代表見解とことなる発言を続けた場合の、富岡さんの今後の立場を憂える。
  
 11日早朝の外出前にざっと目を通した紙面に、10日夜の萩原談話に言及した記事は見当たらないことにほっとしたものでした。が、今度は上け新聞の記事よよって、民主党政権スタートの前に、微妙ながら“対立の構造の予兆”を聴衆の前で話し、活字となってしまったのですから、ダムSTOPを闘う者として、これからの混線した動向が思いやられます。

 「環境の世紀」のスタート時に、維新前夜の手探り状態の混迷のもと、ダム建設による“負の遺産”を残さないよりよい方向づけをひたすら、願う者の一人です。 
  


Posted by やんばちゃん at 10:15Comments(1)八ッ場に願う

2009年09月14日

マスコミ旋風、吹きすさんだ水没地に

 マスコミは世論に素早く反応するもので、まさに民主党のマニュフェストが完遂でき得るかのシンボル的存在となった、わが八ッ場ダム問題が、連日、報道されています。
 現地取材も加熱。
 何やら狂騒的な気配でした。
 すでに金太郎アメ的登場人物に食傷ぎみの読者を意識してか、各社とも目新しい人物の発掘に躍起となっているようです。
 報道の怖さをしっている住民は、選挙後、殺到したマスコミ陣の攻勢から逃れ、「居留守」を使ったり、逃げていたようです。
 そして、マスコミは当たり前のことですが、取材に応じてくれる人の人権よりも、いかに他局よりもインパクトがあって、センセーショナルな報道ができるかに憂き身をやつしそこに収斂させた切り取り方をしてしまうものです。
 その底流には、娯楽的要素を多分に求めるこの国の浅薄な聴衆の要望に応えてしまう、応えなければしのぎを削れない、憐れな報道意識があります。
 
 他方、日々穏やかに暮らしてこられた山里の村で、マスコミ取材にあうと、多くの方が舞い上がってしまわれるようで、得意げに話されるのをしばしば耳にしてまいりました。
 例えば、いち早く高台に移転した女性には、テレビ局からひんぱんに、あることの進捗度を問う電話が入るとかで、聞き違えなければ、「まい朝のように」とかでした。
 マスコミとつながっているということで“特別な存在”として、地域に鼻が高いのかもしれないなと思わせる口ぶりでなのでした。
 ……かつて(?今でもかな)私もマスコミ大好き人間ですから、真理の綾が良くわかるのかもしれませんけれど。

 実は、去る10日の夜、私も、会場内で数社からカメラを向けられたのです。で、「地元民ではなく、しかも反対の立場に立つこと」をきちんと告げ、お断りしました。報道陣らしき数は、約50名ほど。
 けれど「みのもんた朝ズバッ!」には「それでも、いいんです」と畳みこまれてしまいました。「この場面では、スタッフの皆さんにもかえってご迷惑をかけることになりますよ」と添えました。が、「構いません」とおっしゃるのですが、カメラをさえぎったまま拒否し続けました。
 ただし「どう、思いますか」ときたので、反対の理由を短く述べました。すると「終わった後、表でどうでしょうか」とも。
 というのは、数ある番組の中では信頼感をもっていたのとキャスターの態度にはひびきあうものがあったので、思わず、先の対応をしたのですが、私は朝のこの番組をきちんとみたことがなかったうえに、何よりもこの日のメイン取材である推進派の結成式の枠組と、お邪魔虫である自分の位置に自分自身でも、強い違和感があったのです。
 
 (なおもちろん、番組名は異なっていたので安心感はあったが、先の女性の話されたテレビ局と同じ。しかも拙著にも記しましたが、国交省からの大きな補助金で現地状況を制作したのも同局系のプロダクションという、潜在的な拒否感覚も手伝いました。このゼネコン体質の実態を暴露したことは、水没民に対しての生活再建は遅々として進まなかった五年前の段階では、少なからず地域に衝撃を与えたようて゜した)。

    メディアにおける人権感覚 
 速さが宿命とはいえ、翌朝5時半~開始で8時台に放映された同番組を、早朝より外出のため見られずようやく手に入れたビデオを、先ほど見てみました。(目下私のビデオは不具合で録音はおろか、音声も出ない始末。でも流れと雰囲気は伝わりました)。
 番組最後にあの切れ味の良かったキャスターの方が、現況を説明してくれていました。たぶん、内容的も質的にも、信頼できる部類に入るものでしょう。でも、日頃のおっちょこちょいで早合点にあらず、断って正解であり、自分ながら舞いあがることもなく冷静に対処できたと思います。

 ところで、番組は一過性であっても、周辺地域ではピリオド打てず、流布してしまうもの。
 さらにメディアに勝手に切れ取られ編集された人格は不特定多数にさまざまなイマジネーションを増幅させてしまうもの。
 
 とりわけ「映像と肖像権」は、大きなテーマです。
 かつて、日本の賞を総なめし世界の映画祭にも輝いたドキュメンタリー映画で懲りた体験があります。
 前作で名を馳せた監督の妻でプロデューサーとは数年来の親友とも呼べる仲。受賞後の第一作となる撮影開始に当たっては一緒に挨拶に行き、会への橋わたし役として制作に5年間、伴走。
 ですが、編集段階から次第に遠ざけられ、試写会上で違和感を覚え困惑。
 それから「映画芸術」などの映画雑誌や幾つかのメディアにて自分なりに闘うとともに、責任をとる意味でそのサークルから抜けてしまった苦い体験があります。
 
 さらにこれは映像ではなく新聞記事でしたが、過日、水没地のある方の私生活にまで及んだ内容がある新聞の三面記事に掲載されました。読んだご親せき筋の方々は、子供さんの将来を憂え、関係の修復を待ち望んでいただけに、「あんなこと、町中はおろか全国にしらせなくとも」と憤慨されてました。
 一読後、私もギョとなった次第。
 八ッ場に訪れた際、「いいんですか、あんなことまで書かせて」と問うと、ご本人は掲載紙を送ってもらってもいず、すでに掲載日の翌日の夜なのに、「まだ、読んでいない」とのこと、書いてあることを伝えると「ちょっと違う」といわれ、細部は異なっていたようでした。記者は書く目的で接近してくるのですが、ご本人は無防備だったようです。
 いかに新聞とはいえ、「なぜ。ゲラ段階で確認するかしなかったの」と問いました。
 
 私は人さまのことを記す時、仮に実名でなくとも、草稿をお送りし確認してもらい、「もし、嫌な表現があったら直しますよ」と伝えて参りました。自分がそうされた場合には辛いからです。
 でも、表現上の効果は薄れてしまうことが多々ありますが……
 確かに好都合の証言やセリフに合うと、小躍りしてしまうのは、取材側の習い覚えた本音です。
 それを書くと「インパクトに満ちた決めて」になって、記事にメリハリがでます。
 けれど、書いて公表した場合には、その方が追い込まれてしまうなと考えて断念。胸の奥にたたみこんだことが再三、ありました。
 ですのに、一度案内した後、私に話してくれるようにいつもの調子で無防備にはなされた効果的な一言を、インターネットに大見出しで掲載。今後の立場を考え、削除を申し出たことがあり、結局、その後、その方とは直接の原因かどうかは定かではありませんが、疎遠になってしまってます。

 ただでさえ辛い、現地のみなさんが、後々、極度の神経疲労に陥れられる取材ごとに、変な形で巻き込まれぬよう、昨今の狂騒的なマスコミ取材を憂えます。
  
 ただし、取材や報道には、立派な使命があることは、厳然とし手市民社会の成熟におおいに寄与してくれています。
私が“マスコミ大好き人間”の理由もそこにあります。
 「表現の自由」と「個人の人権」はむずかしい、永遠のテーマかもしれません。
  





   


Posted by やんばちゃん at 16:39Comments(0)八ッ場に願う

2009年08月18日

時代を超えて息づく“真理の道”の、選択を

 時の流れというものは、本当に分からないものだ。
 選挙戦の争点に急浮上した、わが八ッ場ダム問題。
 それにしても、八ツ場には、不思議な命脈があると、またも思い知らされる状況下になってきた。
 もはや万事窮すかとおもいきや、(水面下でのそれぞれの立場からの不断の努力が実を結びというか働きかけの積み重ねで)ふいに旋回する。その蛇行状の軌跡の繰り返しだったように思えてならない。
 
 昨今の水没地の方たちの“政争の具”にされているという怒りは、(根柢の基本的考えが異なり、反対市民の一員としてf針を刺す立場の私にも)、さもあらんと実感できる、ほんものの叫びであろう。
 ……当事者ではないから「実感できる」とまでは言い切れまいと指摘されれば声もないが、己の身に置き換えても、辛いものが走ってならないのは本当だ。国民不在の政策にさらされる同じ立場の響きあう国民の一人として感じられてならないからだ。
 考えてみれば長い間、国策と自民党大もの議員同士の勢力・金力争いに、翻弄された。その後も引き続き尾を引き、長引いた。
 時経た今般は、当事者の間には、“政権交替のいけにえかっとなった”という悲劇の主人公的、見解もあるのも無理からぬ。
 確かに八ッ場の皆さんは、「自分たちが造ってくれ」と頼んだものでもないのに、強引な懇願に渋々と従っただけ。
 幾星霜かを経た今日は突然、ダム不要論をめぐる政争の渦中に放り込まれてしまった。
 そして、まんべんなく肥え太ったのは、いかなる事業もいつの世もそうだが、権力に群がる一部の有力者たちという、相も変わらぬ構図。背筋正しい弱者たちには、恩恵は行きわたらず損な役柄ばかり。
 容赦ない時のニーズの変遷とはいえ、これでは怒りの捌け口もないだろう。私は何度か「皆さん、もっと怒るべきですよ」と申し上げたものだったが……。今からでも、遅くはない。立ち止まって、事実経過を見直すべきである。
 
 ところで、辛い体験に基づく怒りは、簡単に忘れてはならず、忘れようとしても忘れされるものではない。
 風化させ消し去りようもなく、断じて忘れてはならない種類の体験を、「原体験」と呼ぶという。
 おそらく、57年間という行きつ戻りつの歳月で語るに語れぬ痛みは、想像を超える、まぎれもない“痛みの原体験”であったろう。
 
 またも巡りきた、8/15という、最も風化させてはならない日。 
 思えば、ここには戦意高揚の美名のもとに、“造り上げられた国民の総意”が平然とまかり通り、さまざまな“演出”がなされたことは今や、つとに知られている。
 そして、……八ッ場を愛してやまない双方いずれもが、相反するそれぞれの立場で、同じ轍を踏まなければ良いがと念じる。
 ともかく私は、とりわけ「演出」とか「やらせ」という言葉が嫌いだ。
 取材ごとで調べれば調べるほど、ダム推進の長い過程にも、陰に陽に少なからずの、造りたいヒトたち側からの働きかけによる“民意操作”もあったことも浮かび上がってくる。
 操作というより、権力側の繰り出す方向に集中させるのだ。どこの地域もそうだが、その要員がちゃんといることが、切ない。
 
 終戦記念日の八月。
 さらに、刻々と日々決戦の時となり行く、衆院選・告示日の本日。
 ことさらに原体験の重み、その質。戦争に代表されるもろもろの仕掛けの構造にしみじみつくづく、思いはせてみる次第だ。
 
 だが、断じて忘れてはならないことは、(対世間的には若輩者の身で口はばったいもの言いだが)、世の中には“真理の道”というものがあるということだ。
 環境の世紀とよばれ、ダムをはじめとした大型公共事業の実態が明るみに出た、今回は、仕組まれたヤラセや演出効果にふりまわされることなく、いかに何でも、ピリオドを打つ潮時である。
 ダム建設の基本線に戻るべきである。
 ダム建設のうたい文句の「治水・利水」は必要性なく、真の目的には他にあった。
 この間の軌跡を見つめれば、おのづと見えてくる道筋がある。
 水没地の皆さんには、移転に付随して生活再建策という、餌を用意した。しかし、“釣った魚”には、餌を与えず、じっと自ら日干しになって去って行くのを待った。
  代替地造成をはじめ、肝心の生活再建が遅々として進まなかった施策の道筋から受けた体験も、またまぎれもない「約束不履行の原体験」だ。
 時代を超えて息づく、「真理の選択」をと、願ってやまない。




   


Posted by やんばちゃん at 11:24Comments(0)八ッ場に願う