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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2009年11月04日

八ッ場の心に触れました

 八ッ場へ行ってきました。
 ある御長老にお目にかかれて、ここ数日の積憂がスッキリした思いです。
 お年をとられ御長老と呼ばれる方というのは、こういう的確でムダのない、しかもすばやい対応を取ることのできる方なんだなぁと、感服した次第です。(※相変わらず何のことか、おわかりになりにくいと思いますが、微妙な状態にあることなので、詳しく記せないことをお許しを)
 また、一昨日に記した、電話の向こうの奥さんともお会いした際には、おそるおそる歩み寄る私に、仕事の手を休めずに奥さんの方から、「女同士だょぅ。判っているよ」と笑顔をみせてくださり、うれしくなりました。
 「うちのに、ちゃんと言っておくよ。だけどさ、今、本当にいそがしいんだょ」と。本当に忙しい大農家の大家族をささえられるこの方は、なりふり構わずに働きづめに働いてこられたのです。たぶん、私と同い年くらいでしょうか。
 見かねたある方が、「おい、奥さんをあんなに働かさせたら、可哀そうだぜ」と言ったとか? 聞いてます。そして夫なる方の本当に忙しいのは私もよ~く知っているのです。
 
 本当にいま、私の存じあげている八ッ場の方たちは、未曽有の出来事に、ちっょぴり混乱なされているだけなのでした。

 そして、偶然にしてまたお一人新たに、信念の持主さんと遭遇。
 ダムに揺れる町の中で、きっちりとご自分なりの揺れないプレないご意見を展開してくださいました。夕暮れ時でしたので、「また、お邪魔いたします」として後日、たっぶ゜り、ご意見を伺いに行ってきます。水没地にはまだ、こういう骨のある方たちがいられたのに、私はまだまだ未発掘なのでした。

 さて、今日は、前々から頼んでおいたのだけれど、タイミング悪くて本日になった新米を、入手。
 別のあるお宅では、この時期、例年「今年の新米だよ」と用意しておいてくださるんです。10日ほど前、電話をいただいた時で「おかげさまでのぅ、家ももうじき終わるから」とおっしゃってくださっていました。
 前々回にお邪魔した時、8時近い時間なのに、まだご夫婦で乾燥機をかけていられました。そう思うと、かえって行きにくく、今回もパス。だって、山間部の農家のお宅のご苦労は並大抵のことではないのです。私も一時、脱穀とハンデエかけの作業のお手伝いをさせてもらったので、身体が覚えているのです。
 さて、乾燥機にかけていない正真正銘のハンデエ米。
 早速、帰宅後の遅い夕食に炊き上げました。
 ツヤツヤと一粒一粒がきっぱりと自己主張している新米のおかずは、昨晩、このお宅への心ばかりのおかえしとして持参した、心こめてたっぷりと作っておいた、塩辛とイクラの醤油漬けのその残りもの。
 八ッ場の方と今、同じものを食べているという連帯感。
 (往々にして、農家の方は新米ができても、神様に初物として供えた後は、前年の古米が尽きるまで、自家米としてしばらくは食べられるものなんです。でも、このお宅では今年はなぜか収穫前に尽きていたことを知っているんです。たぶん、昨年度は供出米として、多目にだされたのだろうと。「もったいない。ハンデエ米だよ」とお伝えしているのですけれど……)
 
 でも、この間の私の最大の手みやげは、全国のダム問題の情況をお伝えする情報録のコピー類なのです。

 ※昨夜アップの文面に末尾が加わってますが、打ち込んだものを登録しないまま、居眠り。今朝、パソコンに電源を入れたら、
確かに管理者画面があったのです。が、気にもせずに削除してしまったのです。クリックしたら書いた記憶のある部分がないので、あっと後悔。この方がスッキリしていいか、いつも書きすぎなのだからとも考えました。がやはり、思い出しつつ加筆してみました。
 
追伸、
 ……ただ今ブログの調子というより、私のがパソコンが変なのです。今朝から、画面が白かったり、コメントの返信がアップならなかったりと。考えてみたら、昨晩、このブログが途中なのに、シャットアウトできたことだって、変。
 はたして、無事、アップになりますでしょうか。
  


Posted by やんばちゃん at 22:51Comments(3)八ッ場だより

2009年11月03日

車代をさしあげます。昼食のお弁当も用意いたします

 今日は、思わず涙してしまった。
 八ッ場ダム闘争記録を、読んでいてであった。
 
 反対運動が熾烈をきわめた1967(昭42)年代の町長は、桜井武町長。福田経済研究所の吾妻連合会長であり、議会もまた桜井派が多数派であった。
 対峙する反対期成同盟の作戦力を支えたのは、汗と足であり、知恵と情報力であった。いわば素手で果敢に挑んでいた。その原動力は、大事なふるさとの田野を湖底に沈めてなるものかの信念にねざしていた。その覇気が行間に波打つ。
 
 当時、1967(昭42)年の建設省は、地元説明会を長野原町に、2月頃から再三要請するが、実現せずあせっていた。 
 他方、県議会には①ダム建設「絶対反対」に加え、②「条件付き賛成」による、二つの請願が提出され、継続審議も回を重ねて、混迷を極めていた。
 その頃の反対既成同盟の迅速な動きを証明する事実に、町長と県の動きを察知磨るや否や、この年の8月9日~10日間の二日間にわたり、陳情のため、県議会議員全員の自宅を訪問してのけたのである。夏の暑い日に、群馬県内全域を回ったのである。 国会にも、総勢200名もの大量動員で複数回訪れている。
 8月19日には県議会に。バス二台に議長・議員17名に会員120名で押しかけ、八ッ場ダム建設反対の請願を行っている。そして、この夏の県議会も、継続審議に。
 
 1968(昭43)年2月28日には、国は八ッ場ダムの調査費を1億2千万と発表した。
 
 運動の記録事項を繰りながら、私が熱いものに突き動かされてしまったのは、1969(昭44)年3月13日に水没地に届いた関東地方建設局八ッ場ダム調査事務所名の、3/16予定の説明会の通知ハガキ、その文面にあった。
 ここまで、人間を愚弄し,分断させるのかと。

 そのはがきの文面には、あいさつ文に続く、日時や会場明の文化劇場などの必要事項の脇に、以下の添え文があった。、
  当日、御出席のかたには車代をさしあげますので、この案内状を御持参下さい。
  なお、万一、案内状を紛失されましたかたは、当日、受付にお申し出下さい。
  昼食のお弁当も用意いたします。

 1960年代の山間部の者にとって、車代という現金収入は魅力であり、仕出し弁当の響きには、少なからずの心ひかれる憧れがあったのは否めない。
 むろん、反対期成同盟はボイコットした。
 水没民の半数の350人が参加したという。人間という者は不思議なもので、ひとたび線を越してしまえば後はなしくずしに、またひとたび旨い経験をしてしまえば、これまた歯止めかからずなし崩しになっていく。
 私は、その後の、反対期成同盟の方たちがたどらさせられた顛末を知っているがゆえに、ことさら切なくなってしまったのだ。
 
 直ちに反対既成同盟は、「会報2号」を発刊し、そこに弁当・車代付き説明会の懐柔策手口に怒りの看破文を掲載。建設大臣など関係機関に抗議の打電をしていた。
  このガリ版ずりの会報を担った方を始め、反対運動を担った闘士の方たちは、勝ち誇ったようなダム推進の時代下で、失意のうちに消えて逝かれた。
  さらに、こみ上げるむものをこらえながら、次の記録をうちこんだ。
 1969(昭44)年3月16日 建設省、10時~12時。説明会を長野原町文化劇場にて開催。反対派はボイコット。桜井町長以下、水没民半数の約350人が参加  
     〃    3月20日 反対期成同盟、桜井町長の16日の態度に怒り、辞職を求め反対派約250名が町議会に押しかけ、約1時間にわたり抗議。

 そして、この後、反対期成同盟は、示威行動を展開する。
 例のはっぴ返上事件である。
 川原湯・林地区の消防団50人が法被返上を宣言し、一部区長は業務拒否し、反対運動は激化する。
  
  しかし、権力側からはほどなく次の一手が次々と飽くことなくくりだされ、わが反対期成同盟は、次第に勢力を弱めていくのであった。
 辛くなって、私は思い切って中断。
 久しぶりに畑の草むしりを、夢中で行った。
 弱々しいが、それでもスッキリとした青空が広がっていた。
 昨日来、八ッ場へ行こうか。行きたいと思いつつ日数をかさねている。
 文化の日。八ッ場ダムの地に訪れ出して、丸々、丁度、10カ年となる。

 そして、現在、同じ賛否の攻防戦の軌跡が、やはり飽くことなく、水没地では描かれている。
 しかし、わが新政権は、前原さんは、間違えても人間の尊厳は、傷つけまい。
 金や食べ物で人間を深く冒涜することは、なされまい。

 そこが、かつての闘争と今般の闘争との根本的な質の違いに感じられてならない。  


Posted by やんばちゃん at 22:44Comments(7)八ッ場に願う

2009年11月02日

それ河川は清浄潔白也  拙著転載・まえがき(三)

 昨日に続いて、本日も『八ッ場ダムーー足で歩いた現地ルポ』のまえがきの続きを転載させていただきます。


鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)より
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仮面かけ直し戦術で、ムダなダム増額に拍車

 八ッ場ダムは期間もギネスブックに掲載されかねないほどの最長なら、事業費も最大。質量ともに日本一の金喰いダムとなった。
 二〇〇三年一一月二〇日、いつかいつかと待たれていた事業費の値上げがなされた。この後の動きは、活火山爆発の様相となって、負担を強いられる下流都県にまさに燎原の火のごとく広がった。同年の春先、国土交通省八ッ場ダム工事事務所に「値上げはいつ頃ですか」と問い、何度めかの質問の断片をつなぎあわせると、「吾妻町の補償交渉が成立すれば、より金額が詳細になる秋口頃」と判断した。翌日、念押しの電話を入れると、慌ててぼかし始めたが、思えばこの頃、「戸倉ダム撤退。八ッ場ダムに絞る」構想はひそかに進行していたのである。
 一九八五年発表のまま据え置かれていた二一一〇億円が、一挙に二・二倍もの四六〇〇億円となった。これに水源地域対策特別措置法の九九七億円。利根川・荒川水源地域対策基金の約二四九億円を加えれば、合計五八四六億円に達する。さらに起債の利息も含めれば、およそ八八〇〇億円ともいわれる。しかも、これにて経費打ち止めの確証はない。
 値上げ要因の主な事業を抜き出せば下記のようになる。(※各都県の負担率詳細は第18章二七七頁参照)
      ※付替え国道やJRなどの値上げ額の図表は割愛 
 一 ①の東電についてであるが、八ッ場ダムには、もともと発電計画はない。
 巨額の金をかけて、東電導水管の補強対策を行うのであるから、当然、今後も東電が発電を担うものと考えるのが妥当である。国土交通省に聞くと、今後の協議に委ねるしかないという。さらに総貯水量一億七五〇万トン/秒には、東電に取水されている水量も含まれているとの回答を得た。となれば、今後総事業費の負担額などに大きな問題が生じる。
 スタート時のあいまいな計画のまま、根幹ともいうべき東電の去就を、うっちゃってきた果ての値上げ案には驚かざるを得ない。群馬県河川課に水利権を払い続けてきた東電が、水利権返上を行った場合には、新たに莫大な減電補償費が支払われることになり、近い将来、クローズアップされる最重要課題である。
 
 二 ①~④まで「地質など自然条件に係る要因」に基づくもの。
 全体で四八四億円の増加で、いかに危険な土壌であるかを実証している。ところが、努力の削減案なる五六〇億円のコスト縮減策には、肝心の地すべり対策の簡便化が目立つのだから、不安この上ない。
 三 しかも「水没関係者の生活再建に係る要因」の増額は、計算上では一一一五億円にも達するが、中味の「戸数・面積増加」は良いとしても、「建物リサイクル法による廃材処分費・運搬費の増加。貯水池護岸・防災ダムの増加」などである。
 これらの概要を知るたびに、「何だかムダな、すごいお金ねえ」と嘆息すると、水没地域ではすてばち風のセリフが返ってくる。「自分たち(ゼネコン)の仕事作りには金はいくら使ってもかまわしねんさ。それが目的だもん。だけど出ていく俺たちには出したくねえんだと」と声も震えがちに。
 
 幸いにして災害は起こらず、今や水余りの世相となって、ダムはムダだということは明々白々となった。河川法も改正され、環境に留意した自然工法が再認識され出した。  
 にもかかわらず、何とも説得力に欠ける、十年一日どころか半世紀余も経た今日もなお「昭和二四年のカスリーン台風の被害による治水・利水」の語を臆面なく振りかざす。日本の河川工学は、一九四九年の域から進展なしとでもいうのであろうか。
 今日もまた数々の指摘と多くの疑問の声を無視し、時代に逆行するかのように、なおも強行着工態勢で、昼夜を問わず工事のピッチを上げている。一部の財団法人に天下りした建設族。癒着する政財界の迷走状態にも、依然としてピリオドが打たれない。
 国道沿いに仕出し弁当屋の看板が立てられ出した二〇〇一年六月の補償基準調印後は急速に、新緑の山々の木の間越しに、えぐられた褐色の山肌とコンクリートが目立つようになった。日増しに開発面積が増えて、訪れるたびに切ない。立ち入り禁止の緑の木立に踏みこめば、通常感覚を超えた無意味さにいやでも直面する。
 用地買収の進捗度は四月現在、建設に必要な面積四三〇ヘクタールのうち、約二四パーセントにあたる一〇五ヘクタールの用地の取得が完了しているという(二〇〇四年八月末の発表では、三七〇ヘクタールとなり、三一パーセント)。
 ところで、三年後の二〇〇七年完成予定とされる肝心の代替地は、驚くことに二〇〇四年春になっても、代替予定地と勝手に地図上に記されている地権者に聞くと、用地交渉のための第一歩の打診さえなく、手がついていない。
 にもかかわらず、「川原湯地区打越での代替地の造成工事は順調」。他四地区についても「代替地の基盤整備や準備工事が進んでいる」と、年頭の所長挨拶には述べられている。
 ただし、この打越代替地は二〇〇三年一二月の現地見学の際に、国交省に問うと、誰にも文句のいわれない国有地なのであった。周辺部は手つかずの状態で、「国は本当にやる気があるのだろうか」と、時折浮上する中止説の裏づけとなるいぶかしさに包まれている。
 さて、ダム企業集団の次なる一手は、さらに経済効果の密度を積み上げるためにか、今度は環境保護の視点を繰り出す。自分たちが破壊した自然界に、美徳のダム環境施策の仮面をかけ直してのご登場と相成るしたたかさには驚くしかない。説得力なく、環境配慮のうたい文句がうつろに響くことこの上なし。
 ことあるごとにマスコミ関係者に「お宅の総力を上げて、全国のダムでこの間、使われた金額は幾らになるか、リストを出したら、スクープもんよ」といい続けてきた。
 平然と行われてきた大本営発表のインチキに、迫れる日ももはや近いと確信する。

  水との因縁に彩られてきた群馬県庁 

 その日は、冬場にしては珍しくスッキリと晴れ、稜線を際立たせた上越国境の山並みが全貌を現した数少ない日であった。
 最上階三二階、一三一メートルの高さに屈指の水源県、群馬県庁の展望台はある。
 くしくも八ッ場ダムダムサイトの提高と、ほぼ同じなのである。
 吾妻川の狭隘な谷川に高さ一三一メートル、堤頂長三三六メートルのコンクリートの塊りが出現する景観を想定すると、渓谷沿いを走るたびに空恐ろしさが迫る。緑の山の中のコンクリートの建造物ほど不釣合いなものはなく痛々しい。
 北側窓辺直下に新潟県境の大水上から南下する大利根の大動脈が、迫るように視界に入り来た。
 
 ーーー利根は悲壮である。 
 坂東太郎の名にふさわしく滔々と、時にたおやかな風情を漂わせつつ、一三一メートル下の眼下を太々と流れ去っていく。それぞれの川筋で見聞きしてきた種々くさぐさ"は黙して語らず、の風情にて、まさしく威風堂々、ツル舞う県のシンボルの名に値して恥じない。
 だが、首都圏の水がめとして開発しつくされた川筋として考える時、まさに“哭くな、坂東太郎よ!”の惻隠の情が迫らざるを得ないのだ。逝きて、再び戻れぬ水たちに、「気をつけていくのよ」と励ましたくさえなる所以だ。
 足尾鉱毒や治水に取り組んだ田中正造その人は、早くから河川や山をおろそかにすることは、国の荒廃につながると見抜いていた、エコロジーの先駆者であった。
 百年先を見通したその治水論において、水害は自然災害ではなく人造であると唱え、「天然に背き、明治政府はさらに西洋式なりとて河川を造意す」と指摘した。わが利根川河川工事は、一目散に西洋式に駆け走り、破壊された代表例と呼べよう。「それ河川は清浄潔白也」「治水は天地の導く処に従うべし」など、今に新しく迫る語録である。
                                                          (続く)
  


Posted by やんばちゃん at 23:00Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月01日

ダム堤変更の真実 拙著転載・まえがき(二) 

 2004年12月、刊行の拙著『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』の「まえがき」
の続きを、さる10/5に転載の次の記述から、下記に記させていただきます。
 今が紅葉のピークの吾妻渓谷。
 ダム堤の位置が600メートルあがり、現在の位置に決まったことの真相には、以
下の事柄があります。
 まさに、足を使って、当時の反対メンバーの方たちに伺った事実です。当時の反
対既成同盟の中枢の方たちしか知らない事実のようで、これが、交付金が吾妻町
に入ってしまうことに気がついた、反対既成同盟の知恵のようです。
 年譜の上でも具体的には欠落させ、以下の記載のみ。   
1973(昭48)年9月25日 
      反対既成同盟、ダム建設計画を変更し犠牲のない上流への陳情書
 〃     11月14日    「自然環境を守る会」スタート
1975(昭50)年3月4日 
    ダムサイトの位置、当初計画より600㍍上流、戸数315戸に変更

 そして、(前政権による)国交省は「いかに、環境政策に重きをおいている
か」の証明的に
用いているのです。
   http://www.ktr.mlit.go.jp/yanba/faq/q0/q0_4.htm
 
 思い出せば、当時は、「八ッ場ダム」の名前の由来さえも、発足したばかりの市
民運動の間では、定かでありませんでした。
 この八ッ場沢の写真が掲載なったのも、拙著が最初だったのではなかったでしょ
うか?  前回の転載と重なりますが、その部分から。


『八ッ場ダムーー足で歩いた現地ルポ』の「まえがき」(2004年12月刊)より
//////////////////////////////////////////
 「八ッ場」と書いて「やんば」と読ませる特異なダム名は、ダムサイト予定地付近
の大字川原畑、字八ッ場の、この小字名に由来すると考える。吾妻川左岸には
「八ッ場沢」なる沢があり、吾妻川に垂直に注いでいる。場所は八ッ場大橋の手
前、ダム提建設予定地近くの一四五号線にかかる橋下の清流である。橋の欄干
の古びた石柱は文字面も欠損、磨耗していて読めない。語源には諸説がある。
 思えば山には山の営みがあり、里には里の暮らしがあった。
 人々はその村々の独自の地形に温められるように抱かれて、平穏に暮らしてき
た。
そうした最中の一九五二年、一方的にもたらされたダム建設の通告なのであった。
 この間、明日の生活設計も立たぬままに水没民たちの多くは、自分の判断では
何一つ踏み出せずに、半世紀にわたりダムに翻弄され続けてきた。
 特別措置法に基づく補償金は、犠牲者として当然の権利補償なのに、金銭の放
つ特有のくぐもりがアダとなって、下流の市民層とは、往々にして乖離させられてき
た。
 突き詰めれば紛れもなく人権問題と呼べる。
 
 不要不急の八ッ場ダムは、なりふり構わずの利権確保が優先。費用対効果は無
論、既設ダムの悪例が網羅された欠陥だらけの悪質公共事業の代表格である。
 二一世紀は環境の世紀などと称されているのに、なぜこのダムが中断されず、今
日もまた一歩と着実に進展してしまうのかと、いらだちがつのってならない。
 大義名分的に繰り出される治水・利水というよりも、八ッ場ダム半世紀の歴史は、
大物政治家の間で行きつ戻りつ揺れた、まさに政争と物欲の歴史と呼べる。
 二〇〇一年六月の補償基準調印後、国土交通省の態度は一変し、水没住民の申
し出に対して、それまでのように直ちに駆けつけなくなったと聞く。しかも「お上のいう
ことに嘘はありますまい」と信じきってきた約束ごとのいくつかも、反故にされ出した。
 それらははるか一〇〇年近くも前の谷中村の悲劇の構図に通じまいか。目見開き、
凝視すれば、まさに時代閉塞の状況が随所に見受けられる。

    断崖の亀裂にも、物欲の歴史あり 
 
  そして、ダムには、外にも内にも翳りが多すぎる。
  例えば、「耶馬"溪しのぐ吾妻峡」と親しまれてきた「名勝吾妻峡」(昭和一〇
年一二月文化財保護法指定区域に指定)のダムサイトの位置を、一九七三(昭和
四八)年に六〇〇メートル上流に変更し、今日に至る。
  あまり知られてこなかったことだが、このこと一つを採り上げても、国指定遺跡
保存の美名とは裏腹に、内実はエゴと政治的判断に基づいていたことが浮かび
上がる。
  現地に訪れ出した頃、「ありゃ本当は、税金が長野原町に入るようにしたんさ」
と当時の事情に通じていた方のさりげない一言があった。
  当初の予定地であった鹿飛橋地点にダムサイトを設置すれば、確かに吾妻渓
谷は死滅する。けれども最大の理由は、そこが吾妻町の所有地であり、ダムによっ
てもたらされる固定資産税など様々な利益恩典が、犠牲となる長野原町ではなく、
川下の吾妻町に入ってしまうということにあったらしい。ために長野原町独占の公
算が大きく、賛否を超えた住民の共通項的な雰囲気が、底流にあったことは誰し
も一致する共通認識であった。
  発端は闘争が熾烈だった一九六八(昭和四三)年頃に持ち上がったと聞く。
  そもそもは「反対期成同盟」に連なる川原湯の反対住民が、反対だけでは運
動がいため、もっと広範に理解を深めるための戦術として、「吾妻渓谷ならびに川
原湯岩脈(臥龍岩・昇龍岩)を守れ」を前面に打ち出したものとの証言も得た。そ
の過程で、日々段階的にことが動き出したものと思われる。
  しばらくの期間は混沌状態のままであったらしい。が、この動きを受けて翌年
一九六九年末には、文化庁は新ダムサイトの調査に当たっている。脆"い岩層の
欠陥が見つかり、極めて不適切な場所として指摘していたという。両脇に岩礁が
あり川幅も最狭なため、上流地点に比べれば工事費は安く、岩盤の質も応桑岩
屑なだれの堆積物だらけの一帯の中では比較的良好なことは、地元民ならば誰
でも知っていた。
  ダムを造りたい建設省にとって、劣悪な諸条件はもともと承知のこと。だが、容
易になびかず持て余し気味の反対運動を切り崩す、その懐柔策に使えると踏む、
そんな思惑が働いただろうことも想像はたやすい。
 なお当然ながら、ダム建設そのものを認めない市民活動家も含めた反対派の人
たちにとっては、移動しようとすまいと「絶対反対」の文字は揺るがず、一連の動き
は関係なく無関心であったそうである。
 当時の動きを「八ッ場ダム年表」(一九八七年長野原町ダム対策課作成。その
後は年ごとのまとめを各戸に配布)から抜粋すれば、

  ① 一九七〇(昭和四五)・三・一八――「根本建設大臣は、国会において山口
   代議士の質問に答えて、八ッ場ダムの調査や工事は地元の了解を得た上で
   着工する方針だと答弁した」
   ② 同年三・二七――「反対期成同盟、約一〇〇人上京し、建設大臣に反対の
    直訴状を提出」  
   ③ 同年五・一八――「八ッ場ダム工事々務所は、吾妻渓谷のダムサイト予定
    地附近の岩質調査のため、ボーリングを開始」
   ④ 一九七四(昭和四九)・一一・三〇――「文化庁『名勝吾妻峡の本質に及ぼ
    す場合同意しない』河川局長宛」
   ⑤ 一九七五(昭和五〇)・三・四――「区長会議開催。ダム指定問題につき経
    過説明(ダムサイトの位置、当初計画より六〇〇メートル上流、水没戸数三一
    五戸に変更)」
 
  決定されたという翌年の一九七四年になっても、なお文化庁は前記の懸念の通
達を出すに及ぶ。が、この半年近くも後に、長野原町では正式に区長会に諮ってい
る。
ダム提の上流変更に伴い、水没家屋が増えたことも記述から読み取れる。ことここ
に至って、文化庁も「及ぼさない」との判断を押しきられたのだろうか。
  というわけで、“経費がかかろうが危なかろうが、ダムが造れさえすれば良い”
の方針が終息するまでに、少なくとも五~六年間の歳月が流れていたことなる。
  なお、水没する川原湯岩脈の扱いについては、関係機関に問うと、二〇〇四年
の現在に至るまで、文化庁からの明確な伝達はないそうである。
  ところがである。同じ一九七四(昭和四九)・一一・三〇の文化庁の対応について、
『長野原町町史・下巻』を繰ると、「昭和四九年十二月十四日付の上毛新聞では次
のように報じている」として次の記述となる。

   昨年九月の衆議院予算委員会で、山口鶴男氏(社会党)が、安達文化庁長官
  「文化庁は八ッ場ダムから吾妻渓谷を守るべきだ」とただしたのに対し、安達長
  官は「ダムをつくる場合には、ダムサイトを上流に移して渓谷の本質を阻害しない
  ようにしてほしい、と建設省に要望している」と答えた。
   このため、建設省は安達長官の要望を尊重して、ダムサイトを当初計画より数
  百メートル上流へ移動する計画を立て、そのための地質調査をしたいと昨年十二
  月に文化庁に対して、文化財現状変更申請を出していた。文化庁では一年間か
  けて検討を行い、一一月三〇日付で建設省に対し、国指定名勝吾妻渓谷内の
  八ッ場ダム建設関連調査にOKを出した。

  いかに地元紙とはいえ、ニュアンスの異なりにとまどいつつ、同一の事柄でも、
立場によって切り取り抽出する視点が異なり、微妙な差異が生じること。やがて、
文字化された文書が、正史として定着。瑣末なことながら、歴史の闇に埋没してい
く事実のあることを知った次第である。
  そして三〇年近く経過した今日、往時の一般常識的な経過も脚色変容され、
国土交通省の刊行物ならびに公式発表では、「このため、名勝吾妻峡を最大限
残すために建設省(当時)は、昭和四三年より指定地の現状変更について文化
庁と協議を行い、昭和四八年に約六〇〇メートル上流の現ダムサイトに変更しま
した」と転化され出す。
  これにて一件落着の趣で、昨今とみに環境問題に重きをおき出した、同省お得
意の大本営発表型の美談として位置が定まった感がする。
  青葉の底に横たわる半世紀間の混沌とした複雑な推移とその襞は、この一例に
おいても、もはや部外者にはほとんど窺い知れない。
  最も確実な事実経過は、反対期成同盟の主軸を担った方が生前、丹念に書き記
したという当時の記録、ご遺族保管という活動日誌の公開を待つしかない。その時、
空しく生を終えていった人々の、全身で権力と対峙し、怒りの汗を流し、無念の涙を
こぼした反対闘争の日々が、谷底からフワリと舞い上がるように、行間から如実に
よみがえって、思いの深さを語ってくれることだろう。
  
  本当に、ダムには翳りが多すぎる。
  国道一四五号線沿いにへばりつくように点在する家並み内部の、外部からは窺
うべくもない果てしない内輪の相克もまた、渓谷の断崖の深さに似ている。
  恐らく鹿が飛べるほどの短距離で、その狭隘さが自然の洪水調節を果たしてき
たという鹿飛橋付近の麗姿に非ずして、吾妻渓谷の断崖にも、人間界の欲という名
のどみや亀裂が深々と幾重にも刻みつけられていることだろう。
                                      (続く)

                                      


Posted by やんばちゃん at 23:24Comments(0)八ッ場だより