2010年07月19日

15年前、「海の日」祝日化反対に燃えた、熱い日々

 今日は、1996(平成8)年から実施された、国民の祝日「海の日」だ。
 祝日法の改正(ハッピーマンデー制度)によって2003年(平成15年)から、7/20にこだわらなくなって、7月の第三月曜日となり、三連休となった。
 なによりも、立案者たちの当初の思惑であった、7/20が外されて、痛快でならない。
 というのは、丸々14年前の制定時に、私は「時代錯誤の天皇制の強化」と直感。疑義を唱え、全国に資料を発送するなどして、大いに発奮したからだ。
 
 忘れもしない。
 前年の1992(平成4)年暮れ、当時とりくんでいた「芽止めジャガイモの放射能汚染」の食の問題のため、地元の町議会の12月議会にノコノコと出かけて行った。誰もいない傍聴席に座った途端、耳にはいってきたのは。「7/20の<海の日の祝日化>は天皇制の強化になるので、わが党はこれに反対する」との文言だった。その後、議会のしくみに慣れてきて思い辿ると、最終日の採決の前の反対討論の場だったと思える。
 30代半ばで習い覚えた「天皇制」という言葉を知って以来、病みつきになっていた。この3文字の字づらに接するとどんな集会にでも、出て行った。 その晩から、幾ら新聞などくっても「海の日の祝日化」は書かれていなかった。市民運動仲間やマスコミ関係者に聞いても、異口同音に「知らない」とのことであった。まだパソコンなどなく、ワープロが出回っていた頃だ。
 議会事務局に資料閲覧を問う。一般住民には3月後の議事録公開まみとのことであった。
 で、妙にあきらめない性質なので、数日後、地元選出の町議の処に行き、「議会でS議員が言っていた<海の日の祝日化>についての資料を見せて戴けませんでしょうか」と頼んだ。
 ラッキーにも貸してもらった資料には、(当時の資料一式の山は段ボールに入れて、物置の奥深くにしまってしまってあるため、以下は記憶による要約)、日本海事振興連盟による呼び掛け文で、明治丸のイラストとともに「明治天皇が1876(明治9)年、東北地方巡幸の際、灯台視察船・明治丸に乗って、青森から函館を経て、無事に7月20日に横浜の港にご安着なされた」とあり、これを記念して7/20に制定しようとしたのであった。したかって、日時はゆるがせにできないものであった。
  
 直感的に、この間、学び蓄積した権力の構造的パターンからして、隠された意図が容易く、思い描けた。
 地方議会→県議会→国政へ提出。いつのまにか、国民の総意として機能してしまう巧みな演出を感じて、こんな時代錯誤な
こと「許せるか」という思いが、憤然として湧きあがった。
 
 1993年の頃から、義務化されれていた「日の丸・君が代」問題は、ますます強化され、その後、1999年には国旗国歌法が制定され、「日の丸」を 国旗とし、「君が代」を国歌とする事が定められるに及ぶ。
 あろうことか、1994年7月、第130回国会にて所信表明演説に臨んだ村山富市総理が、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言、時代は危機感に包まれていた。
  保守政権といえども、さすが常識的にこらえ続けてきたもろもろの右傾化要素が噴出し始めてしまった。しかけ人の高笑いとほくそ笑みが聞こえてきそうな、そんな流れのなかにおいて、海事振興連盟を軸として、数年前から、用意周到にしかけられていた議案であった。
 
 翌年の1993年2~3月にかけ、当時、手配りしていた地域内への手づくり新聞「みんなの青い空」に《町民の知る権利」》として、早速、特集記事を記す一方、その後は「ふぇみん」・「社会新報」などの、手づるのあるメディアへも次々と投稿した。
 
 翌年の1994年秋、祝日化は本格的な動きになり、議員立法として上程され、1995年年明けに制定されることになった。
 それらの投稿記事が、女性天皇制史家・加納実喜代さん達、当時の第一級の研究者たちの目にとまり、お蔭さまで「海の日を考える会」として闘争を展開できることになった
 1994年12月6日、「国民の祝日に関する法律の一部改正案が、内閣委で採択されるに及び、私たちは必死となってあちこちへお願いに奔走した。
 この時に、役だったのが、先の町議会で入手した、地方議会への根回し的資料一式、それらを記した私の手作り通信だった。
加納さんたちには無論、各地からの問い合わせに奔走状態になった。
 1995年開け早々には、色川大吉さん・鈴木裕子さんらを講師にお願いして、開館してほどない池袋・東京芸術劇場の大会議室での講演会を皮きりに、都内各地で、展開できた。
  電話での説明に長時間を要し、そうだ、まず郵送またはFAXしてから、要点のみ話せば良いと気がついた時は、電話代は桁がちがっていた。交通費もバカにならず、電話代とほぼ同額になった。
 
 思えば、1994年末~1995年にかけてのこの年は、お正月どころではなかった。
 衆参両院の議員会館に日参する日々が続いた。その頃の、八ッ場ダム問題では知事に就任するや、変わり身の見事さを見せつけてくれた、堂本暁子さんの如才なく鮮やかな対応ぶりに接し、後年の変わり身の速さの片りんをいち早く垣間見た。
 各新聞社の論説委員もいち早く、つばをつけられ、各紙の社説で「祝日化案賛成」のちょうちん持ちの記事を書いていた。
 当時の前橋支局の正義感に燃えた各社の記者たちも、何とかと協力したいとして、本社の知人記者達ににつないでくれたものだったが、彼らも無念そうに頭をたれた。 「力不足でごめんなさい。一度、社説に書いたものの反対記事は者としては書けないです」と。
 当時、最も力を貸してくださったある新聞社の論説委員はその後、華々しく知識人としてデビュー。群馬にも講師として見えているが、この時のシャクなトラウマがあり、未だ拝聴しに出かける気にもなれない。
 
 そして、全てが形式的に運び、ついに迎えた採決の日、国会議事堂の傍聴席から、階下の国会議員の圧倒的多数の起立を、私たちはなすすべもなく見降ろした。
 思わず、「インチキ」と叫びたくなり、もちろん、厳重なもちもの検査のチェックを受けてはいるのだけれど、自分でも不思議なくらい小石でも投げつけたいような思いに駆られたものだ。「石よ、なにゆえ、飛ばざるか」と。
 翌朝、各紙はトップ記事で報じた。
 燃えにみえた約3カ月間の中味のぎつしりとつまった熱い闘争であった。

 そして、あの時代から、早くも丸15カ年の歳月が流れた。
  検索したら、当時の週刊金曜日の記事が出てきた。
 そうなのだ、私が同誌に初めて記させて戴いたのは、この表紙のあづき色の地に、日本国憲法の条文が載っている<海の日の祝日化>問題なのであった。
 その前の同年1/13号の金曜アンテナトップでも「祝日化に用意周到な根回しけと題して、掲載させて戴いていた。
 それらのご縁で、その後の八ッ場ダムも数回、記させて戴いてきたのだ。
 そして、映像における表現問題などを記させてもらった月刊誌『創』、ご支援くださった靖国神社問題などの宗教関係者の会報など、流行作家並みに(もちろん、質と量は抜きにして)、約一カ月に8本の記事を記させて頂けたことを思いだした。
 「天皇制」と言う言葉の響きが日々に疎くなり、埋没している昨今、当時、小さな人間の私に、お力を貸してくださり、ともに汗を流した、この国の良識層の方たちは、今はどうしていられるだろう。すばらしい人間群だった。
 
  第72号 日本国憲法 そしてまた憲法とともに
  第72号 1995.4.28     表紙/日本国憲法
    今週の表紙の色/憲法色(けんぽういろ)
   国民の祝日を考える
天皇制がらみの日本の祝日(加納実紀代)
「海の日」はこうしてできた(鈴木郁子)
コラム 私の「海の日」すり込み効果(宮城賢治)


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Posted by やんばちゃん at 18:49│Comments(0)回顧もの
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