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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2010年07月20日

生ける世のさびしくなれば此所に来よ

 本日20日が、制定時の「海の日」なのでした。
 そして、青春18切符が使いだせるスタート日でもあります。
 小さな人間があらがっても、どうにもならなかった「海の日」制定反対闘争後の「闘いすんで日がくれて」の翌年からの数年間は、海辺の祝日風景を見るために、この切符を買いこんで、海のある地域に出かけたものでした。そして、今年は、過日記した内海ダムのある瀬戸内海の海辺に立つと意気込んでいたのでしたが、挫折。
 どこまで行っても2300円に、ここでも欲張りの精神を発フルに発揮して、なるべく遠くへ行ったものでした。
 静岡県の焼津港の市場風景に見入ったり、ある時はずっと手前の真鶴で下車。港町の風景漂う市内をあるいて、名前は失念したけれど岬の小高い丘にたどりつき、岩場を降りて海岸べりに出て、足を浸して太平洋の水の感触を体感したりと、海なし県に生まれた者特有のやみがたい海への思いを充たすとともに、自分なりの「海の日」の過ごし方をしたものでした。
 しかし、まだ梅雨もあけず、大半が雨なのでした。

 早くも梅雨のあけ、暑い高温の本日は、確実にこの間の気象の変化を感じさせられてなりません。
 今年の海の日の過ごし方は、昨日来、必要に迫られて家の中の片づけに追われています。
 昨日は妙に心寂しくてたまりませんでした。
 そんな折に、片づけもの中で目についた、しおりの歌。
 土屋文明記念文学館の展示観賞券・ご招待とあって、下部が切り取られているので、多分観たのでしょうけれど、特別会期展でもないので、フジの花の絵のしるされたこの会期には、記憶がないのです。

  生ける世のさびしくならば此所に来よ
                  谷にたなびく藤浪の花 (文明 青南集)

  「生ける世のさぴし」とは、巧みな表現だなあと、心にしみいってきました。
 啄木や牧水の歌と違って、膨大な文明短歌は、数首しかそらんじていず、全作品を味わったわけではないので、言える感想ではないのですが、固い理念の歌の歌人と思い込んでいた、土屋文明もこんな短歌を詠んだということは新発見。
 根源的な人の世の寂しさはいつの世にもつきまとうもの、恐らく巨匠の歌人・文明さんにもそんなこと、凡人には計り知れない重層てきな懊悩に近い寂寥感が、多々あったことでしょう。
 でも、一昨日の寂しさの原因は、自分では思い当たるのでしたが、どうにもならないことに起因していて、いかに藤の花に埋没しても癒せる類いのものではないのでした。
 
 こんな入場券のしおり1枚でも大事に保管してきたのですから、わが家のゴミの量は押してしるぺしです。幸か不幸か、独り暮らしにしては、空間があったからでしたが、あちこちに未読の新聞の山、そのきりぬき・空箱・包装紙が山のようになってしまってます。
 さて、二日目の本日の片づけは、物置に空間を何とか作り、この部屋にデンとある5段のスチール製の棚を運び出すこと。
 ところが、部屋の棚に詰め込んであったホコリだらけのそれらに辟易しつつも、なつかしさのこみ上げてくるの品々を玄関先にまで並べ、いざ、棚を出そうとしたら、手前に棚があり、全開にならない左手入口のノブにぶつき、運びだすことが不可。
 そこで左側の棚をうごかして、ドアを全開にしなければならず、強引に動かしたら、二つの棚のものが散乱。線香立てまでひっくりかえしてしまって、わが足もカ―ペットも灰だらけ。
 ついで、これは重くてどうにもならない右手の棚のものを降ろして、少しずらさないと不可とふんでの作業。
 
 そんなこんなの果て、いよいよ出そうとしたら、出口の廊下の角で不可。
 結局、姉を頼んできて、出窓から出して表から物おきという経路に。最初から、こうにすれば、不必要な作業はしなくても良かったのに……  もの起きに入っても逆コースとなって、道々の雑多なものの片づけ。なんのために、家の中からの通路をあけておいたのか意味なし。
 しかも、動かさなくても良かった入り口の棚二つや左手の棚から降ろしたものなどが、散乱した部屋の中は、箱の山をまたいで通らなくてはならず、夕闇の中で、ためいき。

 それにしても嘆息するのは、体力のおとろえ。
 この部屋に積みあげて、ほとんど開封しなかったそれらの品々は、おりしも「海の日」の制定の動きのあった、およそ15年前に動き回った当時の活動歴を示す品々。分類して小箱にいれて、表書きしてつめこんでました。それを改築してまだたっぷりと空間のあったこの部屋につみあげたのでした。スチールのこの棚も、自分で何とか組み立てたのでした。

 で、あれだけのエネルギーを費やした文学サークルで撮りためた膨大な写真類をどこにしまったのかと思っていた、15カ年にわたった思い出の写真類の束も出てきた次第。
 そこに映っている30代の己の若さ。こんな棚の一つや二つ、簡単に移動できたものだったのに。
 しかし、「海の日」の資料一式をしまいこんだ大振りの段ポールはまだ遭遇しておらず、物おきでも見かけなかったのでした。となると、次の部屋の押し入れかなと、そこには大半が、北京会議の頃から法制定にいたる約10カ年、八ダム問題とともに次にかけ走った男女共同参画関連の大量の資料の山なので、想起して気鬱に。肝心のダム関連は最も大事にして、その奥の座敷に積みあげてあるのです。

 この生ける世とサラバをした時には、私にとってはパンフ1枚でも思い出につながるものでも、単なるゴミの山。
 未だに両親の遺物をすてきれず囲まれていて、その苦労はわかるので、絶対値4人の甥や姪たちの口をとんがらせる姿も浮かんできます。とはいえ、生前にことごとく処分する勇気もなし……、未だ備わらず。
 え~い、思い煩っても致し方なし、結局「今日の日はおしまい」とばかりに、戸外に出した荷物のみを家の中にしまいこんで、作業打ち止め。
 年をとって一つ、良いことはこういうあきらめの良さ?
 ……でも、明日が確実につづくものでもなし。 
 
 文学や各種市民運動に連なって、勢いよく走りまわっていた30代~40代の軌跡を示す品々に囲まれて、浮かんだ次の一首は、
  
     漂泊の憂ひを叙して成らざりし 
                 草稿の字の読みがたさかな 
 この歌、意外にもかの啄木さんなのでした。20数年前、師事した作家の評論の題名にみつけて、小さな自分のごく少ない情報量のなかから思い描く、啄木の歌との意外性に、あの時もすくなからず、驚いたものでしたっけ。 
 実は中学二年生の夏休みの宿題で「好きな短歌を五首、書いて来い」というのがありました。何でも欲張り屋の私は、叔父が持っていた啄木の「一握の砂」に魅せられて、冒頭の「東海の」や「頬につたふ涙のごはず 一握の砂を示しし人を忘れず」などの所収されている「我を愛する歌」の全部と、次の「煙」の章では何を勘違いしたか、「己が名をほのかに呼びて 涙せし 十四の春にかへる術なし」大好きで、それら全首を写して、冊子状にして提出。大いに教師を喜ばせたのでした。でも、次の章「秋風のこころよさに」はそぞろに。そして、上記の短歌が17番目に出てくる「忘れがたき人々」は割愛したのでした。
 その国語の男性教師は本当に飾り気のない方で、少しもブルところなく学校の草取りなど雑用をいつもなさっていて、生徒に親しまれていましたっけ。まさに「忘れがたきひとびと」のお一人です。
 そして、「上郊村の人は、どうして、文明さんを大事にしないんだろうな」と言っていたのが、忘れられません。文明短歌の真髄を皮膚感覚でご理解なされていた方のお一人だったのでしょう。  


Posted by やんばちゃん at 23:59Comments(0)回顧もの

2010年07月19日

15年前、「海の日」祝日化反対に燃えた、熱い日々

 今日は、1996(平成8)年から実施された、国民の祝日「海の日」だ。
 祝日法の改正(ハッピーマンデー制度)によって2003年(平成15年)から、7/20にこだわらなくなって、7月の第三月曜日となり、三連休となった。
 なによりも、立案者たちの当初の思惑であった、7/20が外されて、痛快でならない。
 というのは、丸々14年前の制定時に、私は「時代錯誤の天皇制の強化」と直感。疑義を唱え、全国に資料を発送するなどして、大いに発奮したからだ。
 
 忘れもしない。
 前年の1992(平成4)年暮れ、当時とりくんでいた「芽止めジャガイモの放射能汚染」の食の問題のため、地元の町議会の12月議会にノコノコと出かけて行った。誰もいない傍聴席に座った途端、耳にはいってきたのは。「7/20の<海の日の祝日化>は天皇制の強化になるので、わが党はこれに反対する」との文言だった。その後、議会のしくみに慣れてきて思い辿ると、最終日の採決の前の反対討論の場だったと思える。
 30代半ばで習い覚えた「天皇制」という言葉を知って以来、病みつきになっていた。この3文字の字づらに接するとどんな集会にでも、出て行った。 その晩から、幾ら新聞などくっても「海の日の祝日化」は書かれていなかった。市民運動仲間やマスコミ関係者に聞いても、異口同音に「知らない」とのことであった。まだパソコンなどなく、ワープロが出回っていた頃だ。
 議会事務局に資料閲覧を問う。一般住民には3月後の議事録公開まみとのことであった。
 で、妙にあきらめない性質なので、数日後、地元選出の町議の処に行き、「議会でS議員が言っていた<海の日の祝日化>についての資料を見せて戴けませんでしょうか」と頼んだ。
 ラッキーにも貸してもらった資料には、(当時の資料一式の山は段ボールに入れて、物置の奥深くにしまってしまってあるため、以下は記憶による要約)、日本海事振興連盟による呼び掛け文で、明治丸のイラストとともに「明治天皇が1876(明治9)年、東北地方巡幸の際、灯台視察船・明治丸に乗って、青森から函館を経て、無事に7月20日に横浜の港にご安着なされた」とあり、これを記念して7/20に制定しようとしたのであった。したかって、日時はゆるがせにできないものであった。
  
 直感的に、この間、学び蓄積した権力の構造的パターンからして、隠された意図が容易く、思い描けた。
 地方議会→県議会→国政へ提出。いつのまにか、国民の総意として機能してしまう巧みな演出を感じて、こんな時代錯誤な
こと「許せるか」という思いが、憤然として湧きあがった。
 
 1993年の頃から、義務化されれていた「日の丸・君が代」問題は、ますます強化され、その後、1999年には国旗国歌法が制定され、「日の丸」を 国旗とし、「君が代」を国歌とする事が定められるに及ぶ。
 あろうことか、1994年7月、第130回国会にて所信表明演説に臨んだ村山富市総理が、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言、時代は危機感に包まれていた。
  保守政権といえども、さすが常識的にこらえ続けてきたもろもろの右傾化要素が噴出し始めてしまった。しかけ人の高笑いとほくそ笑みが聞こえてきそうな、そんな流れのなかにおいて、海事振興連盟を軸として、数年前から、用意周到にしかけられていた議案であった。
 
 翌年の1993年2~3月にかけ、当時、手配りしていた地域内への手づくり新聞「みんなの青い空」に《町民の知る権利」》として、早速、特集記事を記す一方、その後は「ふぇみん」・「社会新報」などの、手づるのあるメディアへも次々と投稿した。
 
 翌年の1994年秋、祝日化は本格的な動きになり、議員立法として上程され、1995年年明けに制定されることになった。
 それらの投稿記事が、女性天皇制史家・加納実喜代さん達、当時の第一級の研究者たちの目にとまり、お蔭さまで「海の日を考える会」として闘争を展開できることになった
 1994年12月6日、「国民の祝日に関する法律の一部改正案が、内閣委で採択されるに及び、私たちは必死となってあちこちへお願いに奔走した。
 この時に、役だったのが、先の町議会で入手した、地方議会への根回し的資料一式、それらを記した私の手作り通信だった。
加納さんたちには無論、各地からの問い合わせに奔走状態になった。
 1995年開け早々には、色川大吉さん・鈴木裕子さんらを講師にお願いして、開館してほどない池袋・東京芸術劇場の大会議室での講演会を皮きりに、都内各地で、展開できた。
  電話での説明に長時間を要し、そうだ、まず郵送またはFAXしてから、要点のみ話せば良いと気がついた時は、電話代は桁がちがっていた。交通費もバカにならず、電話代とほぼ同額になった。
 
 思えば、1994年末~1995年にかけてのこの年は、お正月どころではなかった。
 衆参両院の議員会館に日参する日々が続いた。その頃の、八ッ場ダム問題では知事に就任するや、変わり身の見事さを見せつけてくれた、堂本暁子さんの如才なく鮮やかな対応ぶりに接し、後年の変わり身の速さの片りんをいち早く垣間見た。
 各新聞社の論説委員もいち早く、つばをつけられ、各紙の社説で「祝日化案賛成」のちょうちん持ちの記事を書いていた。
 当時の前橋支局の正義感に燃えた各社の記者たちも、何とかと協力したいとして、本社の知人記者達ににつないでくれたものだったが、彼らも無念そうに頭をたれた。 「力不足でごめんなさい。一度、社説に書いたものの反対記事は者としては書けないです」と。
 当時、最も力を貸してくださったある新聞社の論説委員はその後、華々しく知識人としてデビュー。群馬にも講師として見えているが、この時のシャクなトラウマがあり、未だ拝聴しに出かける気にもなれない。
 
 そして、全てが形式的に運び、ついに迎えた採決の日、国会議事堂の傍聴席から、階下の国会議員の圧倒的多数の起立を、私たちはなすすべもなく見降ろした。
 思わず、「インチキ」と叫びたくなり、もちろん、厳重なもちもの検査のチェックを受けてはいるのだけれど、自分でも不思議なくらい小石でも投げつけたいような思いに駆られたものだ。「石よ、なにゆえ、飛ばざるか」と。
 翌朝、各紙はトップ記事で報じた。
 燃えにみえた約3カ月間の中味のぎつしりとつまった熱い闘争であった。

 そして、あの時代から、早くも丸15カ年の歳月が流れた。
  検索したら、当時の週刊金曜日の記事が出てきた。
 そうなのだ、私が同誌に初めて記させて戴いたのは、この表紙のあづき色の地に、日本国憲法の条文が載っている<海の日の祝日化>問題なのであった。
 その前の同年1/13号の金曜アンテナトップでも「祝日化に用意周到な根回しけと題して、掲載させて戴いていた。
 それらのご縁で、その後の八ッ場ダムも数回、記させて戴いてきたのだ。
 そして、映像における表現問題などを記させてもらった月刊誌『創』、ご支援くださった靖国神社問題などの宗教関係者の会報など、流行作家並みに(もちろん、質と量は抜きにして)、約一カ月に8本の記事を記させて頂けたことを思いだした。
 「天皇制」と言う言葉の響きが日々に疎くなり、埋没している昨今、当時、小さな人間の私に、お力を貸してくださり、ともに汗を流した、この国の良識層の方たちは、今はどうしていられるだろう。すばらしい人間群だった。
 
  第72号 日本国憲法 そしてまた憲法とともに
  第72号 1995.4.28     表紙/日本国憲法
    今週の表紙の色/憲法色(けんぽういろ)
   国民の祝日を考える
天皇制がらみの日本の祝日(加納実紀代)
「海の日」はこうしてできた(鈴木郁子)
コラム 私の「海の日」すり込み効果(宮城賢治)  


Posted by やんばちゃん at 18:49Comments(0)回顧もの