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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2011年04月27日

暴発的豪雨にたたられた、2号橋開通式

 ご覧ください。
 路面は濡れて、周囲の山はかすみ、どんよりとした様子を。
 以下は、3日前の25日の月曜日に行われた、2号橋こと、不動大橋の開通式式典の遅ればせのご報告です。

 まるで、時ならぬ雷雨のような、どしゃぶり雨の中、渡り初めの式典が中止となった直後の、様子です。
予定通り、10時半開始のテント内の式典の後、テープカットを皮切りに行われるはずだったのでした。
 司会者が「次は」と言ったので、すかさずひどい雨の中、ここだけは良い構図で撮ろうと、記者たちに交じって、遅れを取り戻すつもりでかけだして橋の真ん中、ま正面に陣取って悦にいった途端、その背に後方のテントのなかから「中止」のアナウンスが告げられて、拍子抜けでした。
(けれど、考えてみたら、ここに陣取っても何の意味なく、写真は撮るにはどうにもならない構図で、雨に濡れ損でした。邪魔になってどかされるだけですから……、たぶん、他のプロ記者さんたちは、渡る前の写真を撮るだけの意味合いだったのでしょう)
 
 実は、この日の八ツ場は「一転、俄かにかき曇り」式に、しかも式典の最中のみのものすごい荒れ模様の天気となってくれたのでした。高い橋のうえですから、それはひどいものでした。
  式典テント内では、おりしも、二番手の高山町長のあいさつ中。
 



なお、来賓あいさつの順は、最初に茂原群馬県副知事だったそうでした。
  「そうでした」というのは、ほぼ一番乗りに近い9時半に到着したのでしたから、そのまま会場内にいればことなきを得たのに、まだ一時間もあるとばかりに、所用のため、抜け出したのでした。
 そして、またもの不思議なハプニングをやらかして、開式後にたどりついたというおバカさんでした。
 ……この日、川原湯温泉駅から会場までの運転手役をかってでている方をお乗せするため、いつものように上野発7時半の列車に間に合うように、かけつけると、「特急運休」のため、お仲間の車でみえていたのでした。で、なんとなく身軽になったので、場内の仮設トイレに行けばよいのに、ちょっとの想いが大ハプニングになってしまったのでした。
 (後ほど時間があったらわが顛末記も記させて戴きますが)、この予期せぬハプニングによって、20分ほど必死で急坂をのぼって歩き通して式典会場へ。橋のずっと手前にたたれている案内の要員さん配置していられる辺りからなんと雨。
 ポツポツ雨に打たれながら、滴りおちる汗と雨の区別もないままの無我夢中で、進入路の林地区側の橋のたもとにたどりつきました。
 要項には「何時まで」ということは記されてませんでしたが、10時半にはなっていると思ったのでもう、不可かと思いましたが、一度駐車場に入っていたので、ご親切にも「どうぞ、今、始まるところですから急いでください」と言ってくださいました。「どうにしたら、ご迷惑かけずに行けますか」とは伺いましたが、、正面でしたから大丈夫だったのでした。これが式典ではなく大臣たちの視察でしたら、厳戒態勢で絶対に入れなかったものでしたが……
 以前、ある記者さんによれば、「仮に遅れても絶対的な場面にはいつも間に合ってますから、いいじゃないですか」と言われてました。確かにそうなんですけれど…… 痛しかゆしのご批評です。でも、さすがは切レモノ記者さん、ご観察が鋭い! おそらく、記者修行をつんで無い、このウザいおばさんは、皆様に何かとご迷惑をかけてることと思います。どうぞ、ご寛容のほどを。

 橋の中頃に達すると、風雨は瞬間的に強くなってきて、劇的に変化。
 眼前の受付テントは、とばされそうになり、県職員の皆さんが必死で押さえてましたが、吹き飛ばされそうになって、結局、実際に吹き飛び、自然状態にて、折りたたまれてしまいました。
 職員さんたちがてんやわんやのそこへ、のこのことたどりついたのでしたから、迷惑な話です。
 心ならずもご迷惑おかけいたしました。(どういうわけか、先天的にご厄介をかけてしまうヒトのようです。これも、一種の天性とでもいうのでしょうか……)
 そして、テント内の式典会場内左手、吾妻川上流側のテントの足を支えている若手の男性職員さん達は、なんとズブぬれ状態なのでした。(県職員の皆さま方、お若いとはいえ、お役目、本当にご苦労さまでした。また後ほど資料を下さいました女性職員さんもありがとうございました)。
 左手に回ると、先程定刻一時間前に、ご一緒に式典会場に入った、日本を代表するプロカメラマンのあるご高齢の方も、テントがふきとばされないように必死にテントにしがみついて支えているではありませんか。大事なカメラをかばいつつというより写真も撮ることもできぬ状況のようでした。でも、こちら側は雨にはあまりぬれないようでしたが……
 後ほどおっしゃられるには、「僕もね、テントを支えていたんですよ」と。はい、先生も本当にご苦労さまでした。
 ですから、テント内の来賓の皆さま方も、特に後ろの席の方は全容が見えますから落ち着かれないご様子でした。おなじみの顔ぶれのご来賓の方々でしたが、今回は、数は極めて少なく、こじんまりとしたした式典でした。

 昨日聞いた、ある方の話によれば、その頃、某所にも、竜巻のような現象があったとかでした。
 なお、この暴発的な荒れ模様は終了後、ほぼラスト組に近い私たちが駐車場から帰る頃には、小雨程度に。その後は、あがりましてほどなく陽射しがでてきました。


 高山町長に続いて、関東地方整備局長のあいさつ。
 ここで、あいさつは打ち止め。

 その後は中止でしたから、短いセレモニーでした。
 この後、13時~ 一般車乗り入れ。町内にはお知らせ済みになっています。

 最後は渡り初め中止後の高山町長へのぶらさがり会見の写真です。
 




※お伝えする記事はいっぱいあるのですが、先週末から、駿府の時間も惜しい時間の綱渡りといつもの“にわか露店商人のおばさん”役とで大奮闘、疲労困憊の数日間でした。ために、思わぬ失敗もありで、ますます時間が足りずのあいもかわらぬ日々でした。命あってのもの種とか。本日は全面休業いたします。   


Posted by やんばちゃん at 10:38Comments(4)八ッ場だより

2011年04月23日

4/27 緊急院内集会

【庭の紫けまん草 

手前の横たわっている花は昨日、抜き取ったものの一つ。まだ生きてました】















【やまえんごさくの葉】
 昨晩、遅くアップしたのは花の写真がないので図鑑から失敬。で、今朝、下記の記事をアップしてから、本日の「写真」として、何かとひらめいたのでした(ご存知のように、「グンブロ」さんでは、写真も添えると写真の一覧コーナーがあって効果的なのです)。「山延胡策=やまえんごさく」はかたくりと同じく、根が落ち葉の堆積のなかに深く深くはいっているので、カタクリと同じく移植はむずかしいのです。きっと一人静のお伴としてついてきて、わが家の鉢の中に根付いてくれたのだと思います。どうか、花が咲きますように。来年も枯れずに芽吹いてくれますように。

////////////////////////
 さて、今度は、原発問題の集会のお知らせです。
 今朝ほど、水問題の会に寄せられた催しの転載をさせていただきます。
 かつて、学んだ気構えとして「読んで、書いて、行動する」というのがありましたが、突然、噴出といった呈の「福島原発問題」。まさに「驚いて、実態を知って、行動する」のパターンで、今度はいよいよ行動面です。

 ...................................
             <転送・転載歓迎>

【緊急院内集会】

<福島原発事故に関する公開質疑~事態の見通しと対応策~>

【日時】4月27日(水) 13:00~15:00 (12:30 開場)

【場所】衆議院第1議員会館 1階 多目的ホール(定員198人)
(東京都千代田区永田町2-2-1、最寄駅:国会議事堂前または永田町)
http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_kokkaimap.htm
※12:30から13:15頃まで議員会館受付ロビーで係が入館証を配ります。

 福島原発が深刻な事態に陥って40日になろうとしています。少なくとも4機の原発からは、今なお大量の放射性物質の放出が続いており、大気と土壌と海水、地下水の放射能汚染は広がり続けています。東電は事故収束の工程表を発表しましたが、それで収まる保証は何もありません。そのため、福島県民をはじめ、東北、関東全域の住民に大きな不安と生活の危機が広がっています。放射能被害を最小限にとどめ、どう回避できるかは、緊急かつ国際的にも大きな課題となっています。
 そこで緊急に、事態を憂慮する超党派の国会議員たちと市民が共同して、政府の対策本部、原子力安全委員会、原子力安全・保安院に対し、情報の完全公開を求め、原発危機がさらに悪化する可能性と、その場合の避難対策について問いただす公開質疑の場を設けることになりました。
 どうすれば生命を守れるか――政府の事故対策の責任者に直接に質問を行い、回答を求める機会になりますので、ぜひご参加ください。
◆当日は崎山比早子さんなど原発事故に詳しい専門家も参加されます。

※あらかじめ資料請求書と質問書を当局に提示し、資料と質問関連データの事前提出を求めたうえで、原子力安全委員会、原子力安全・保安院の責任者の出席を求めています。

【参加費】無料

【主催】超党派国会議員有志
呼びかけ議員(所属会派)
[衆議院]石田三示(民主)、稲見哲男(民主)、服部良一(社民)、山崎誠(民主)
[参議院]川田龍平(みんな)、平山誠(民主)  (4月20日現在)
(連絡先)服部良一事務所 (TEL)03-3508-7056 [担当:芦澤]

【協力】福島原発事故緊急会議
(連絡先)ピープルズ・プラン研究所
(TEL)03-6424-5748 (E-mail)ppsg@jca.apc.org

【賛同】脱原発・新しいエネルギー政策を実現する会(eシフト)
(連絡先)国際環境NGO FoE Japan (TEL)03-6907-7217  


Posted by やんばちゃん at 09:00Comments(4)原発関連

2011年04月22日

山延胡索なり、その名もゆかし花の名は

 【山延胡索=やまえんごさく 植物図鑑より転載】
 20日の本欄で、八ッ場からわが家に移転してきた花たちのことを記しました。そして、カタクリと共生している名前の解らない花も添えました。
 さっき、電話を頂戴。いつもこまめにイベントなどのご紹介をしてくだされるTさんが話の最後に、「あれ、けまん草の仲間じないですか?」とやわらかく繰り出してくださったのに、反射的に「でも、けまん草じゃないと想うよ」と言ったしまったのでした。(わが言葉、いつも高調子でことのほか響きが強すぎる由にて……)。
 「でも、たぶん、紫けまんとか山えんごさくとかいうんじゃないかな……」と。彼女はとっても博識なのに極めて控えめなものいいなさる方なのです。
 始めて聞く「山えんごさく」。慌ててメモッた次第。で、「じゃ、調べてみるね」と言って電話をきりました。
 
 (実は、最近の一連のブログも読んで下さったとのこで、この前に「大変でしたね」と言ってくださいもしたのでした。「ホントなのよ」とばかりに、セキを切ったように愚痴りだしてしまった次第。わかってくださった方がいたことがうれしくて、そのことで張りつめていたものがすっかり落ちてくれた思いでした)。
  
 心優しいこの方への礼もこめて、すぐにインターネット検索を。
 ありました。やっぱり彼女の言うとおり。「山えんごさく」。その文字も花の優美さに似合わず、「山延胡索」。なんといかめしく哲学的な名なのでしょうか?
...........................
 【けし科きけまん属】 分布地  本州、四国、九州
 4~5月咲き  山近辺の腐葉分の多い薄日のあたる斜面に分布
  紫ケマンに似た花  花の長さ2cm位
 葉の形が違うのと色が紫ケマンより青い
 葉の形は変異が多い  花色も変異があり赤紫に近い色もある
 草丈30cmまで   全体に咲くと地面が青くなり美しい
   北に生えるえぞえんごさく  花がピンクのじろぼうえんごさく
 
 ..........................
 それにしても、「次郎坊延胡索≒じろぼうえんごさく」って何なのと思うとともに、そこはかとなhストーリィ性がただよってきませんか? 調べてみたら、なんと、(名前は地方の呼び名からで)太郎坊はスミレ、この花が次郎坊というのだそうです。
 こんなむずかしい名前の花だとは、なんの手づるもなしに図鑑を調しらべてもラチがあかなかったものと想われます。
 で、早速、彼女お礼を。
 「あなた、物知りね」と自分の無知をさておいて平然とくりだしたものでした。それと「けまん草じゃないわよ」といい放ったことも心中でお詫びしつつ、この方のお手柄に感謝の想いをこめて、電話した次第です。
【紫けまん 植物図鑑より転載】
 ことのついでに「紫けまん」を引いてみました。あっと声をあげてしまった次第。
 この花は、ここ何年も、そして、今日の昼間も何本も抜いた雑草なのです。紫といっても赤紫で、わか家の敷地内の土には相性がよいのか、採っても採っても生えてくるのです。
 そして、抜き取る度に、ちょっぴり胸の痛みをおぼえる花でもあるのです。
 
 というのは、1926(大正15)年年生まれの父方の末の叔父が、定年になると同時に故郷のこの地に簡単な家を建てて、約10年間ほど盆栽いじり等で暮らしていました。
 その頃、私たち姉弟は父の急死、母の死と相次ぎ、母を住ませることのできなかった日あたりのよい道前の新店舗の方に移住していて、この家は空き家同然。ましてや庭はジャングルのごときの荒れ放題になっていました。
 みかねた叔父が、毎日やってきて庭木の手入れをしてくれていたことがありました。そこに何かの折にひょいとやってきた私が、叔父の芽の前にあった花ざかりの、この花の大きな株をヒョイと抜いたものでした。
 叔父は「こんないい花なんだから、とっとけや。せっかく咲いたんだから」等の言葉をくりだしたものでしたが、当時は今よりももっとヒトのいうことをきくような人間ではありませんから、「だって、こんなの雑草だし、生えてしょうがないがね」と。
 ほどなく叔父夫婦は東京へ戻りました。そして、翌々年の春、71歳で叔父は亡くなりました。
 
 若い時にふるさとを出て、定年を待ちかねて生まれ在所の土くれになじみつつある時に、生意気な姪にピシヤリとやられた、その時の叔父の切ない気持ちが、めぐりくる春ごとに、抜いても抜いても芽生えてくるこの花を抜く都度、胸に迫ってくるのです。
 昭和期の農村部の次男・三男の宿命とともに……
 お客にくるたびに、作文や図工等をほめてくれたりした叔父でした。この叔父の買ったものかどうか今は定かではありませんが、貧しく何もないわが家に、珍しく文庫本風の糸でかがった昔の装丁の啄木の「一握の砂」が、昔の小ぶりな文机におさまっていましたっけ。
 
 そして、不思議にの雑草にしては、嫋嫋としすぎている花に「紫けまん」などという優美な名前がついていたことも、山延胡索という偏屈な名前の、山野草のことも、不思議にも本日までしりませんでした。
 野草にしては、華やか過ぎるのが気にくわなかったのかもしれません…… あの当時も今も終生、華やぐことに縁のない身には。そして、これでも結構、山野草については知っているつもりでしたが、図鑑を開いてみようとも調べてみようとも思わなかったのでした。
 
 なお、「けまん」とは浮彫りの仏前装飾具のことをいうのだそうです。
 祖父母たち、叔父に採っては両親の汗の染みた畑地にたって、一塊の土くれに咲いた紫けまんの、その心寄せた花さえも、生意気な姪によって想うままにならなかった、叔父の霊よ、安らかなれと祈る、春の一夜です。

 Tさん、教えてくださってね本当にありがとう。  


Posted by やんばちゃん at 23:12Comments(0)八ッ場だより

2011年04月21日

タラの芽ものがたり


【庭のタラの芽 4月18日】
 本日は何とも温くて、本当にもの憂い春日。なんと18度とか。草むしりや庭の草木類の移植にはもってこい。
 で、本日の写真は三日前に庭の隅で芽生えた春の山菜の代表格のタラの芽にしてみました。
 でも、年年歳歳木が朽ちてきて、人様にさしあげるのにも少量でしかないので、自家用にと、一昨日、思い切って初もぎをかき集めてたべてしまって、もうお腹の中なんです。今回の天ブラは我ながら珍しく上手にあがりました。これに山ウド、フキ、山椒、ムカコ゛のかき揚げ。ホタテにハゼなどあり合わせのものを親戚のお昼にまにあわせるべく大急ぎであげました。
 わが家では天ブラをあげるのは私の役目。うまくいくときはなにもかも旨く行くもので、油がはねても、火ぶくれにならずにすんでます。
 
 タラの芽を庭に植えたのは亡くなった父。少なくともうもう50年くらい前、まだこれほど騒がれない時でした。40年くらい前、池袋のデパートで、極上のタラの芽でしたが、一つが300~500円で売られているのを眼にして、驚いたものでした。以来、タラの木は身近でありながら、特別の思い入れののある食材となったのでした。
 そして、父が植えたタラの木は、父が急死した後も、年古るこどにどとんどん大きくなって、はしごをかけなければ採れないほどの高さになり、採取するのに命がけでした。でも、大ぶりのそれそそれは見事なもので、あぁ、料理屋さんにもって行けばと思えたものでした。でも、10年くらい前にもう今年が限度と考え、直径約10センチを超えた大木を思い切って伐採したものでした。
 写真のは、その後のあちこちに生えてきた、何代目かの若木の一つです。

 ところで、八ッ場のSさんは、そのタラの芽栽培の草分けとか。
 厳寒期に、タラの芽の枝を細かく切って温室で水耕栽培する方法を編み出して、?大儲けしたとか。でも、その技法を惜しげなく村の人に伝授したために、過当競争と品質低下になって、ほどなく値がかなり下がってしまったとか……
 「吾妻郡でタラの芽の促成栽培」といった新聞記事を、たぶん、その頃のことだと思うんですけれど、亡くなった母はどうやら、その報道を読んだらしく、「吾妻の方じゃな、正月頃に水の中に入れておいて、めぶかせるんだと」と何度となく、口にしていました。
 そして、吾妻郡のタラの促成栽培は、以来、母の語り口とともに私の心の中にストンと確たる位置をしめて久しいのです。
 で、そのご本人さんに、後年、こうしておあいできたのですから、何とも不思議なご縁です。今は出荷は全面的に止めていられるSさん宅の畑の一隅には、見事なタラの木の一群があります。
 そして、いつかショウギいっぱいのタラの天ブラの残り物に、遭遇。たらふく頂戴いたしたことがありました。ここのお宅のは電気の天ぷら揚げ器。わが家の原始的手法と違って、温度管理が一定なので、程よくあがるのです。
   


Posted by やんばちゃん at 21:33Comments(0)八ッ場だより

2011年04月20日

4/25開通式  二期連続無投票長野原町町議選 

【不動大橋の川原湯側整備風景 2月26日撮影 ※最近のもっと鮮明なのが見つからず…】

 
お知らせを二つ。

一、 過日、延期の旨をお伝えした、2号橋(正式名 不動大橋)の開通式が25日に行われます。
 ある方がいち早く下記のことを教えてくださったのでしたが、この情報をもとに詳細を八ッ場ダム工事事務所に電話をかけてしまったのでしたが、管轄は群馬県とのことです。
 土地の方に聞きましたら、残工事は4日前にコンクリートが打たれたそうでした。
 さすがは、自民党さんの強い群馬県。今や、全ての資材の被災地入り最優先の昨今、コンクリートの調達など、世間的常識をこえて、オチャノコサイサイなのでしょうか。
 林側は掘削した部分のほんの1mほど、さらに川原湯側も短い区間だったそうで、徒歩でしたら土地の方たちは通していたとか?
 なお、町内では、陽光が配布されているそうです。が、親子三代の渡り初め式のような華々しいイベントは、今回ないそうです。
   不動大橋(2号橋)開通式  
日   時  平成23年 4月25日(月)
式典開始 午前10時30分
供用開始 4月25日(月)午後1時より


.......................................

二、 長野原町議会の町議会議員選挙は無投票でした。
  二人やめられて、新人がお二人入られました。
   新人のお一人は、元JAの役員さん
     もうお一人は、山崎前議長の息子さん。(と言っても61歳)

 ベテラン議員だった山崎議員は、水没民ではありませんでしたが、その議長職時代に「ダム推進」を掲げた清水知事の命をうけた故・小寺知事らの接近をうけ、内部かにら樋田町長に迫って、長野原町をダム推進に転換させた人物でした。
 また、同じく小寺さんと接触して、転換を図らせた人物に、現高山町長の父親の高山要吉さんがいられます。樋田町長後援会幹部で、選挙線の際には、資金調達の功労者と伝えられています。
 お二人とも、国交省が初期の懐柔策として実施した、自分史刊行事業の町民10名の中に選ばれ、その著書の中で、ご自分の功績話として、当時の県との接触の状況をこと細かに記していられます。   


Posted by やんばちゃん at 22:34Comments(0)八ッ場だより

2011年04月20日

26日の「緊急集会 ダム予算2,400億円を震災復興に」




 【昨日に続いて、同じく「早春の八ッ場の花たち」です。
 寒冷地の八ッ場の気候に近づくよう、夏の間など簡単に涼しい場所に移動できるように鉢植えにしたもので、注意を払って管理してきました。こちらの一人静の方がより鮮明なので……添えてみます。
 葉に切り込みの入った周りの山野草の名前はわからないのですが、カタクリの群落のそばに共生して、年々カタクリを負かして勢力を強めてくる野草です。紫の趣のある花が咲きます。「林・かたくりの里」をはじめ、多くの場所で見受けられます。また真ん中の濃い緑のは「吉祥草」です】


......................................
 下記の日程で、次のイベントが開催されます。
 ご都合のつかれる方、是非、ご参加みださい。

「緊急集会 ダム予算2,400億円を震災復興に」 http://bit.ly/f6NaUM


 どうやら、震災復興への資金調達の検討過程で、国債発行は不可となり、代打案として、消費税アップが浮上しつつあります。
 果たして、それ以外には本当に方策がないのでしょうか?
 経費の切り詰め・縮小策はもう、ないのでしょうか? 
 実施されれば、たたでさえ、苦しい今日の家庭生活の中で、私たちはさらに厳しい生活を強いられてしまいます。それが震災地の復興につながりうるものとして受け止めざるを得なく、他にもう策がないのなら、致し方ありません。
 でも、一家の財政に照らしてみれば、私たちは、まずは家計のやりくりを行います。
 不要不急のダム建設をめぐっては、今や、その建設の賛否をめぐって、これだけ大変な議論がある世の中です。そのダム予算を一度凍結して、直ちに復興策に充当することも可能ではないでしょうか。
※(なお、様々な事柄を想定して、本欄への掲載は、数日間、ためらッて参りました。が、多くの皆さまに御認識ねがえればとの観点から、会の主催関連者に問い合わせして、承諾をえましての転載です)  


Posted by やんばちゃん at 14:38Comments(0)イベント/予定

2011年04月19日

久しぶりの、石木ダムのご案内




【上の写真は、「八ッ場の春」ならぬ、八ッ場が生まれ在所の山野草たちの嫁ぎ先・わが家の庭で芽吹く花たちです。手前からイカリ草、一人静、奥右手の葉はヤブレ笠。
 止むなく移転するお宅から分けてもらって、最も日陰の寒目の木立ちの茂みに移植して三年目。今年も無事に芽吹いてくれてほっとしています。
 (映像ではまだ春景色ではないようですが)、きっともう「川原の春」は春の花々でいっぱいでしょうね。
 連帯の意味をこめなから先程表に出て、チョッピリ早目の「八ッ場の春」の息吹きを写真に収めてみました。今日の当地は雨です)
 
石木ダムの皆さま、共にがんばりましょう。こんなすばらしい自然界をなんでふみつぶしてなるものか! 自然界は一つですの心意気にて……

.................................
 昨年2010年の10月27日の本欄で取り上げさせて戴いた、九州・長崎県佐世保市の「石木ダム」のその後の活動、今回は手づくり新聞についてお知らせさせて戴きます。
 皆さま、前回の「川原(こうばる)のうた」とまさしく「日本の原風景」のあの素晴らしい景色のことを覚えていてくださいますでしょうか? 
 「石木ダム関係者による「川原(こうばる)のうた」 http://s35.gunmablog.net/d2010-10.html (2010年10月27日)
   春は黄色の 帯のよう
  石木川に寄り添って
 水辺の菜の花 どこまでも

そして、次のリフレインがよみがえりませんか、。
  ここは こうばる ホタルの里
  自然を守る人が住む
  
   ここは こうばる ホタルの里
   ふるさと愛する人が住む

 http://www.youtube.com/watch?v=jZ_TEg3dQJM&feature=player_embedded


 ※以下の転載は「石木川まもり隊」の〇〇さんが、昨日、水問題の会にメールに入れられたものを、早速、お断りして転載させて戴くものです。
..................................
 皆さま、こんにちは。
 「石木川まもり隊」の〇〇です。

 長崎のローカルニュースについてお知らせします。
15日夕方NBCニュースで、「石木ダム建設絶対反対同盟」の一員である石丸穂積さんの活動が紹介されました。

http://www.youtube.com/watch?v=c-IB3at5vN4 
 1982年の強制測量の年に生まれたほーちゃんが、今、生まれ育った川原(こうばる)のことを手作り新聞で伝えています。
 ほーちゃんは「石木川まもり隊」の一員でもあります。
 昨年の今頃、付替え道路工事に反対して座り込んでいたご両親やおばあちゃんを遠くで見ながら、ほーちゃんは自分にできることは何か?と考え、その答えが「こうばる通信」だったのです。
 ーー以下、略ーー
 私が住んでいる佐世保市は日本の西の果てですが、東北の福島原発も他人事ではありません。
 佐世保市は佐賀県の玄海原発から30kmの距離です。
 玄海原発は、日本で初めてプルサーマル運転を始めた原発です。
 東京都民の電力を賄うために犠牲を強いられている福島の人々、佐世保市民の水道水を確保するために川棚町の川原の人の暮らしを奪おうとしている・・・同じですね。
 佐世保市民としてあらためて申し訳ない気持ちでいっぱいになります。  


Posted by やんばちゃん at 11:33Comments(1)紹介

2011年04月18日

実態ルポ(三)ある移転家屋の現実を通し

  
 【上の写真は、手前のQさん宅の前庭に続く空地でここにJR線が地下埋没となって走る予定です。写真右手の通行止めのある舗装路は、現在はこの場所で寸断となっている、かつての406号線。ここと正面の則面の間の低地に、付替えの145号線が走っていて、つまりJR線は道路ならびにめがね橋と平行して走り、吾妻川とわたって「長野原草津口」に向かう予定です。この空地は初期段階で国交省が買い上げていました。今回、隣接するQさんの庭を約1mほど買い上げて、この地下でトンネル工事を行う予定に決定したわけです。舗装道路の右手が、文中に出てくるQさんの私有地の駐車場。なお、空地に横たわっている石柱は、かつてこの場所近くにあったものです。Qさんの旧宅は、406号の舗装路が右手に伸びた坂道沿い、現在は国道になった場所にありました】

⇒ 昨日付け・中断後の続きです。
 
、かくして、1999年秋、Qさんの家は、現在の場所に移転。
 Qさんは新築にあたっては、自分の敷地内に、新築の玄関先へのトンネル埋没工事はないとしても、家屋の前に付け替え国道145号線が走り、406号も交差。地下とはいえ、JRも通過予定の交通の要所になることに備えて、基礎工事を70㌢も深く行っていたということでした。「3階建てのビル並みの基礎工事」として、それは半ばご自慢のことでした。

三、 ところが、翌2010年の初夏の頃だったかと記憶しています。

1、冒頭写真の左上に迫っている、JR線のトンネル工事が始まって、トンネル用の大型鉄管を埋没させるための、コンクリートを混ぜた地ならしの大型ローラー(建設機械の正式名称は?低圧ローラー)が動き出したら、新築1年もしない家屋が振動してしまったのでした。まさに想定外のことのようでした。
 その直後にお邪魔した時に、Qさんは怒りに燃えたぎっていました。
 「ふすまがガタガタするんだよ。70㌢もむ基礎を打ったんにだよ」と。直ちに国交省を呼びつけたようでした。訪れたある時などには、駐車場に八ッ場ダム工事事務所の運転手つきの車がとまっているときに遭遇しました。

2、場合によっては、列車の前方直進方向に位置する、道路を隔てた私有地へのJR線の新入は拒否する」とまで宣言。この土地は語るところによれば、幸いにしてまだ正式契約をしていなかったそうです。さらにこの時点で、以後の一切の交渉にも応じないと態度をより硬化させていました。


3、そして、何度もの話し合いで、工事に当たって細心の注意を払うことになったようでした。
 
  --この間のやりとりについては、定かに伺ってないので省略。ともかく度重なる話し合いがもたれたようですーー

4、 さらに話し合いは続き、ようやく妥協案として、Qさんの庭に隣接する冒頭写真の土地を通って進める「トンネル工事」の際に、庭先を1メートルほどかすめることの承認となったようした。
 その方法をめぐっても協議なされたようですが、所有地の外れでもあるし、思い切って売却という形になったようでした。
 そして、3月26日からの、Qさん宅の工事前の庭木の伐採につながったようでした。

5、次の問題は、Qさん宅の前庭を突き進んだJR線の直進方向にある、工事にとってなくてはならぬ駐車場をめぐっての問題だったようです。
  ここでは「賃貸・売却」をめぐっての様々なケースや角度から討議されたようでした。が、細かく記すのは控えさせて戴きます。
 
6、結論として、駐車場については、国交省に貸すことに決定したとのことでした。
 
7、Qさんを交渉ごとに望ませ、6に至る決心をさせ、さらに溜飲をさげさせた約束ごとに、トンネル工事の手法を採ることに加え、
 以下の工法が採られるということのようでした。
  JR線の工事に際しては、Qさん宅の付近、約50メートルの区間に限っては、「最新最良の技術を駆使して、東京都内の繁華街における新幹線並みの工法を用いて、振動・騒音のないように配慮する、」という条件のようでした。

 いつも「ダム工事も国交省も、本当にいい加減だ」といきまくQさんですが、先日は「諦めめなきゃならねぇこともある」とポツリとおっしっゃて、「ダムっていうのは、ハリの悪いことべぇさの」と言葉を添えていられました。
  
 通例の場合は、国に対して、ここまで抵抗できずに泣く泣く折れて、「村のために」という大義名分の前に、「皆さん並みに」との無難な選択をたどるものです。
 が、Qさんはまれにみる強いご意思をもった方で、幸いにして世間に対しても守るものの要素が比較的ないお立場にいられる方でしたので、ここまで頑張れたものと想われます。
 そして、何よりも一部の役得や公務員のたるみ慣れ合いに対して、強い憤りをお持ちなのです。
 そして、以下に敵対する国交省職員といえど、顔を合わせることが度重なれば、互いに親近感も生まれることでしょう。とりわけ、奥さんのR子さんは細やかな気づかいをされる方なのですし……
   

 問題の導入部、しかもその初回ですので、お分かりになりにくいかもしれませんこと、ご寛容のほどを。
 これらのことは、(ここの処、震災のこともあり、間遠うになってしまいましたが)、ほぼ10日に一回程度は通いつめ、大型公共事業の在り方をこの眼で見て、土地の方の生の声に接し、足で実測。カメラに収め続けた当方の真実の記録です。(想わぬうっかりミスもあるかも知れませんが)、嘘の記述はしない心づもりです。
 
 なお、参考までに、どうぞ皆さまの率直なご感想をお寄せください。  


Posted by やんばちゃん at 16:37Comments(0)八ッ場だより

2011年04月17日

実態ルポ(二)ある移転家屋の現実を通し

 4/17 その二
 ⇒続きです。
 【写真③ 3/26】
 



【写真④ 3/26】

  3/26の夕暮れ時 慣れた足取りでいつものようにこのお宅に近づきますと、見慣れた門口の雰囲気が違うのでした。道路反対側のこのお宅の土地に写真④の伐採した木らしきものが積み上げてあったこともありましたが、すぐに、ご自慢だったあの銘木がないことに気がつきました。
 先祖代々400年からこの地で比較的豊かに住み慣れてこられたQさん宅の周囲には、いろんな植木類もありました。
 中でも、旧宅の門口の築山の中心部にあったアララギは、実に200年もの歳月を経た、手入れの良い木でした。
 国交省の立木の補償見積もりは、金連の庭師が「買いたい」と言った値段の約10分の1とかで、ここでもQさんは怒ってました。何よりも移植して根付くかが心配の種でした。
 実は、その心配は的中してしまって、プロの庭師の手によって高額の代金で移植したにも関わらず、半年もたたずに枯れが目立つようになっていました。で、とっさについに処分なさったのかとも思いましたが、それにしても全体が変でした。

 玄関口にみえた奥さんのR子さんに「どうしたんですか、入口のところ」と伺うと、断片的な言葉を総合すると「前を開けなきゃならなくて……、全体にズラさなければならなんで、今日から取りかかって…… 」とのことでした。
 「お茶飲んでって」と言ってはくださいましたけれど、夕暮れ時ですし、ご夫妻はこの時間帯には、国交省が水没五地区内に作った天然温泉の共同浴場へ行かれることと、この間の大体のいきさつは推し量れたので、あまり根ほり葉ほり伺うのも悪いというおもんぱかりもあって、辞去してきました。
 奥さんは、ことのほか花好きで、旧宅の庭は花で咲き乱れていましたし、移転後の約1年半も、あちこちにいろんな花を植えてました。
 それにこの時は時間にせかれていたこともあって急いでいました。でも、ゆっくりお話を伺ってくればよかったなと今は公開しています。

 Qさん宅をめぐる、この間の経緯を以下に。 
、Qさんは(移転を巡っては抵抗し抜ぬき、たぶん本意ではなくしぶしぶであったであろう)移転場所としては代替地に行くことは好まず、旧宅そばのご自身の畑地と決めていたそうでした。
 もはや、眼鏡橋が完成し、抵抗しきれないことも射程距離に迫ってきていました。でかねがね、出来る準備は畑内にしておいたようです。その一つが、写真の立派なお社でした。

2、これに対し、国交省はその場所には、先々、「JR線が通る」と言ったそうです。しかも、新築の家の玄関の前、庭の真ん中を横断する計画のようでした。
 そして、これは既に運輸省の許可もとってあることで、変更はできないと言ったそうでした。
 
、Qさんは、激怒。さらに問答無用の絶対反対、阻止を表明。
 公共事業の宿命とはいえ、八ッ場でお会いした、ダム反対の、もしくは潔しとしない地権者の皆さん方が何よりも悔しがるのは、「事前に何の相談もなく、勝手に地図の上に線をひいて、問答無用で弱い国民に押しつけてくる」と言うことでした。
 別のRさんも憤慨して、そのことを文書に記して、国交省に突きつけています。
 そして、それを飲ませるために、かなりのアメ玉的な条件をつけるのです。幸か不幸かQさんと同じように国に文句を唱えられる方たちは、金やものに左右されない潔いご性格と比較的生活基盤もしっかりとしていられます。逆に、それらに乗って栄える方たちに対して嫌悪感をもっています。

 即座に、Qさんは「断固、反対」を宣告したそうです。
 そして、先々も絶対にのめないこととして
 ①「吾妻川を渡る際のカーブを少し変えれば済むこと」
 ②「どんなことがあっても、賛同はしない。しかも、そこは水没地ではないから強制収用はできない」とまで、言い切ったそうでした。
 
、 国交省は、ともかくQさん宅に立ち退いてもらわなければ、付け替え国道が進展しないのです。こちらへの折衝が最優先のようでであったのではと推察しています。
 結局、JR線問題は、折り合い付かず平行線のままで日数を重ねた、と想われます。

5、結果的には山中をくりぬいて、Qさん宅の斜め前ちかくまで、坑口を見せていた、その角度を変更するに至ったようです。さらに、本来ならば、Qさん宅の畑を使って、大きな縦穴を掘って、そこに電車を通す鉄管を埋め込んでの工法への変更を余儀なくされたとのことで、「トンネルを掘る方が単価は高くなるそうだけれどの」とQさんは説明してくださいました。
 
  ※当然のことながら、 ダム推進派役員はむろん、近隣の方たちも、以前から、Qさんに対する「非協力的・わがまま」との批判にはすごいものがありました。国道145号線とJR線工事の遅れは、全て、Qさんにあり」の雰囲気さえもありました。
 そしてさらに、この時点ではさらに高まり、当方も幾つか耳にしました。 
 なお、もう一軒のお宅も絶対反対を未だに貫いているそうで、貫き通しきれるようです。ある時、Qさんは「俺より、強えやのぅ」と言ってました。
 なぜ、Qさんがここまで強いかについては、後ほどおいおい説明させて戴きます。
  
   ※ここで、また分割します。  


Posted by やんばちゃん at 15:20Comments(0)八ッ場だより

2011年04月17日

実態ルポ(一)ある移転家屋の現実を通し

 【写真① 4/13】
 



 大型公共事業においては、庶民感覚では思いも及ばない施策や、惹起せざるを得なくなる様々な事象があります。
 その中には、すでに「八ッ場のおかしな物語」と題して、幾つかを2003年時からの出来事を、拙著『八ッ場ダムー振り回された57年間』の中でもご紹介してまいりました。
 今般のシリーズもその延長に続くものとして、(本欄で記すのには制約もありますが)、許せる限り記したいものと考えています。その意味でもなるべく、「事実」ご基づくことであることを理解いただけるよう、写真を駆使したいと思います。
 なお、連続しての紹介は、他の緊急のことも生起しますので、ムリかとおもいます。が、何とか頑張って想定している着地点までたどり着きたいと思います。
 
 私たちも八ッ場ダムほどてはないにしても、いつ公共事業にさらされるかわかりません。どうぞ、つたないルポながらよろしくおつきあいください。また、ご自分のこととしてお考えくださって、お気軽にご意見などをお寄せ戴ければうれしいです。

  第Ⅰ部、Qさん宅の場合
一、 前置きが長くなりました。
 さて、本日は写真を使って、以下の実態をお知らせします。
 冒頭の写真は移転して、3年目を迎えるQさん宅の、前庭の去る13日の写真です。
 問題の場所は、Qさん宅の庭先。
 そこの石垣にそってのJR線のトンネル工事のため、1メートルほどが公共用地となるので、その幅分、庭木を伐採したのです。手前の切り株は、そのための庭木の切り株です。
 そして、奥まったところに見えるお社も、当然、写真右手にずらさなければならなかったのでした。そのアップが写真②です。ずらしたのが、おわかりになるでしょうか。ここに付け替えの吾妻線のトンネル工事が行われる予定です。
 【写真② 4/13】


 水没はしないけれど、めがね橋の延長上にあり、移転を迫られていたこのQさんは、もともと強いダム反対で知られてき方でした。先祖代々400年住み慣れた土地、(そこは現在、新国道に)、これへの交渉ごとにもかたくなに応じなかった長い経緯がありました。
 結局、2年ほど前。家屋を解体。近場のご自分の畑地のこの場所に移転するつもりで、これらのお社はもともと畑地のこの場所に設置しておいたのでした。が、移転にともない、また設置し直しされていたので、こちらも2年目となります。

  ※長いので、ここで分割します。  


Posted by やんばちゃん at 10:30Comments(0)八ッ場だより

2011年04月16日

八ッ場の炭をお使いください

 
 13日の日に、八ッ場へ行った目的の一つに、頼まれていた炭の運搬がありました。
 林の「炭焼きの里」では、村起こしの一環として、有志の皆さんで炭を焼いています。当初は主に竹炭ときいてましたが、木炭も焼くようです。なお、竹炭のほうが高価とのことでした。
 少しでも、お役に立ちたいと、お米や農産物はなるべく八ッ場のものを分けてもらっています。
 
 先年、親族の新築の際に環境に配慮した自然工法として、、床下に炭を敷き詰めました。
 その際に用いたのは、林の皆さんの炭。計画の一年くらい前から、「床下に敷くんだから、粉になったクズ炭でいいか、捨てないで取っておいてくださいませんか」と頼んでおいたものでした。
 でも、代表のPさんのおっしゃるのには、「そういうのはみんなが畑のトマトやキュウリにくれるんに持っていくんで、ねぇんだよ」
とのことで、結局、分けていただいのは、ちょっと形の崩れたものあたりの木炭でした。
 それを約150㌔、袋にして12袋ほどでした。

 今回は、もっと上の良質の炭でした。はり、新築の家屋の床下に敷かれるという知り合いの方から頼まれて、写真の12㌔入りのを6袋ほど、この日は分けて求めさせてもらってきました。
 量販店の中国製のお安いものより単価的には手間暇がかかっていますので、上回りますが、材質は楢の木など良質のものを用いているそうでして、安心できる炭です。大きな黒い木塊の木目を観ていると、心の中にもホカホカさが伝わってきませんか?
 どうぞ、皆さまの何かの折にはご利用くださいますよう。

 炭焼きの里の全景写真はいっぱいあるのですが、今は探せませんので、後ほどアップします。
 ここの近場には、林地区の「かたくりの湯」の源泉があり、それをを引きこんだ、会員皆さん手づくりのお風呂場もあって、「入っていってもいいよ」とおっしゃってくださいますけれど…… 辺りは一面の草むらてせ、まさしく自然の中のく露天風呂。並みの羞恥心には鈍感なのか超越しているというか、本当にいつか入らせてもらいたい気持ちがいっぱいあります。
 また、建物の中には、大きく長いテープルの下にはそれに合わせた長い掘りごたつがきられていて、炭は存分に使えるのですから、それはホカホカで申し分ありません。 
 なお、通常はここは無人ですのでご注意ください。私は代表のPさんの仕事場にお邪魔して分けて戴いてきます。   


Posted by やんばちゃん at 22:20Comments(0)八ッ場だより

2011年04月15日

あたり!! 湯の華でした

 あたりました。 
 コメントをお寄せくださいました小野さんがお書きくださいましたように、
川原湯温泉の「湯の華」なんです。「湯の花」とどちらも辞書には載ってますけれど、少しでも、川原湯温泉が華やぎますようにと祈りをこめて、華子さんの華を使う次第です。
 場所は、皆さまおなじみの川原湯神社下の温泉卵から足湯に流れ口。写真の格子状のものは、覆いの金網なんです。卵をゆでる場所から、足湯に引き込むところに熱い源泉を水道水で薄めているのですが、その管の周りに付着した湯の華なのでした。

 小野さん、本当に“ご応募”くださいまして、ありがとうございました。
 しかも、おわかりになっていられながら、「写真ではそうじゃないみたいだし、、、何かな?」とあえてお書きになられている、お人柄の奥ゆかしさ。とともに、そこはかとなく当欄への心入れを感じ取らせて戴き、感謝しております。
 とびきり豪華な景品でも、お贈りしたいのですが…… ごめんなさい!
 たぶん、小野さんは吾妻路に、特に川原湯温泉には、おそらく何度も、おみえの方なんでしょうね。
 ……で、もしかしてこの間のご文面から拝察して、“八ッ場をこよなく愛してくださる方”のお一人と信じております。
 
 お伝えするとお寂しいでしょうけれど、神社前の大手旅館3軒のうち、残っているのはもう柏屋さんのみ。しかもずっと休業中です。そして、年内には取り壊すそうです。
 夜になってしまってよく映らなかったけれど、解体が終了して、玄関先のコンクリートのみとなった高田屋さんの跡です。今度、昼間に行って、もつと鮮明に撮ってきますね。




 温泉卵は訪れる都度、おきまりのお土産品ですので、このオバさん、卵がゆだる間の待ち時間に、足湯につかる時、まるで牢名主のように足湯の最も上座、つまりお湯の流れ口に近いところに陣取るのです。が、先日の冷え切った足をあたためながら何気なく視線が、右手の金網の中に。足湯の中にはしろいものが浮いてはいましたか、こんなに見事な形となって揺らめいていたな湯の華は初めてお目にかかりました。思わず、不思議な気持ちになりました。
 まるで、イソギンチャクのような形で、ユラユラ揺れてましたよ。
 で、思わず夜なのでダメかなと思いつつ、写真におさめた次第です。
 ですので、格子や背景をわざとわからないようにアップで撮ったのではなく、湯の華をアップしていたらのことです。で、思わずの初の遊び心での試みでした。

 ところで、何かのご参考までに、温泉卵のゆで時間は昨年から、温度がまちまちで、もう15分のゆで時間ではとてもとても無理。通い始めた頃は、所要時間約25分とありましたが、改修工事によりレベルアップ。その当初は持ち帰ってガッカリ。まるで固ゆでの湯でたまごなのでした。
 程なく25分の看板の上に15分と紙がはられるようになり、それがずっと続くものと思っていたら、その後、急速に温度が下がったらしく,今度は逆の生たまごに近いユルユル。
 で逆に、程なく、一時は30分との張り紙がだされましたが、昨年秋頃には、その30分でも不可となり、1時間ゆでてもユルユル。試食をしないとひどいことになって困惑したものでした。
 その頃すぐ近くの柏屋さんのオーナーさんは、ゆでていると通りしなに、ご親切にも「30分じゃ、ゆだんねぇよ」と特有のぶっきらぼうながら教えてくださったものでした。
 そして、最近は温度計が設置されてました。
 この夜の源泉の温度は70度。通のご先客がおっしゃるのには、この温度だと約1時間はかかるとのことでしたけれど、急いでいたので、まず30分で試してみましたら、黄身は流れ落ちないけれど柔らかすぎ。で、野のものに混ぜてご進物用にとも思ったので、殻がむきやすいように冷水をかけようかとも用意してみましたけれど、それも止め、時間に急かれながら、しかたなくもう20分くらいかけて、約50分強であげました。
 そして、その場でもう一つ試食。程よいと思ったけれど、帰宅までに余熱で固まって、黄身は固まりきらないけれどトロリ部分なし。遠くに送るのには良いけれど、もう少し柔らかいいほうがベターでした。
 温泉卵の奥義は極めて微妙です。
 
 これって、79度と明記されている、川原湯温泉の源泉温度が低くなりつつあるということなのでしょうか。
 なお温度計は戸外の空気にさらされる、卵のゆで場の中のお湯の温度で、低くなるのは当たり前ですけれど……
 温泉の専門家によれば、源泉は引き上げる高さが増すごとに、その効果は薄れるとのことでした。約70メートルほど上の代替地に引いた場合、名湯・川原湯温泉本来の質が、果たして保てるのかは、この間、市民運動の指摘し続けてきたことの一つでもありましたけれど……
   


Posted by やんばちゃん at 22:31Comments(1)八ッ場だより

2011年04月15日

これは、何だかお分かりになりますか?





 皆さま、これ何だかお分かりになりますか?
 ビデオの動画でご覧いただけないのが残念なんですけれど、ゆらゆら揺れています。
ヒント
 ①生き物ではありません。
 ②色は白。
 ③この辺りでは草津町が有名ですが、八ッ場にもあります。
 ④食べられません
 ⑤販売される時には、粉末状にて。
 ⑥特有の臭いがあります。

 さて、なんでしょうか?

  


Posted by やんばちゃん at 14:14Comments(2)八ッ場だより

2011年04月14日

資材不足にて2号橋、未だ竣工式ならず

 



 

 八ッ場の絶妙のタイミングの、田ゼリです。
 毎年、採らせて貰っている0さんの、ご自慢の美田の畔際にはえているセリたちです。
 身勝手にも「セリを採るまで田んぼにトラクターかけないでね」と伝えてきたのですけれど、遠目からみてももう土起こしをしてありました。考えたら、今年は一度もセリのことを口にしていず、震災のなかでそんなのんきなことをお願いするような雰囲気でもありませんでした。
 「ウン、もう」と極めて一方的我がまま感覚になりながら、探しましたら、写真のみごとなのが畔際にびっしりありました。とたんに鼻腔をふくらまして、満面笑みとなった、どっかの単純おばさんの今年のセリ採り奮戦記のスタートです。


 ところで、先月28日開通予定だった2号橋は、林側の1mほどと川原湯側のほんの一部分のコンクリート資材が足りなくて工事が出来ず、竣工式が延期になっていました。
 それにしてももうどうかなとと思って、」バイパスを走りました。が、未だに開通していませんでした。工事中の気配もなく、ズラリと交通止め標識が並んでました。
 
 たまたま、野のものをお送りしようかと思って、ご都合を伺ったある経済学関係の方は、「現在、大手の建設会社は皆、ある資材は全て震災現場に送っている。八ッ場どころではないだろうろ」とおっしていました。
  この方は最近、二度八ッ場を訪れていらっしゃて、やんば館にも立ち寄ったそうでした。「昨日はやんば館はとてもひっそりしていましたよ」と伝えると、この方が訪れた28日のその時間帯にも誰もいなかったそうでした。昨秋までの混雑が嘘のようですね。
 職員さんのおっしゃるのには「節電で暗くしているから、余計に感じるでしょう」とのことでした。
 
 この方から頂戴していたはがきを昨日は見落としてしまっていたらしく、出がけにポストの隙間に発見。文面によれば、28日にやんば館に行ってきたとのことでした。で、久々に館内の展示物をざっとみました。一時期に比べると無難なダム一般知識に変わってはいましたけれど…… 
 「中止」を発令したのなら、確かに礼讃型展示物は即座に一掃すべきでした。党内の足なみ揃わぬ「中止」宣言だったための今に続く中途半ぱさです。
 八ッ場ダム工事事務所が気をきかして片づけ始めたのを、また元通りにさせた経緯もありました。こういう時、変わり身が早いというか、問題の質をわきまえた対応をすかさず繰り出すのは、むしろ公務員さんたちです。

 やんば館を出て、4時過ぎから、写真のセリをとりました。
 そして、夕暮れ時の久森沢に降りて、セリ洗いを。
 流れの上に渡されていた、縁台のような木橋がなくなっていました。
 車は炭を積んでいるので、少しでもなるい坂道をと、対岸においていました。ここをつっきらなければセリのある田には行けません。長靴をもってこなかったことをくいましたけれど、幸い、オタの上は浅い流れなので、えいゃとばかりに。 
 1度目はあまりぬれずにまぁ成功。しかし、何度か往復しているうちに靴の中までびっしょり。結局、最後ははき替えの靴下も持っていなかったので、素足。
 川べりは、芽ぶきの前の荒涼感にみちていました。
 心なし水もにごって、オタの上にはヌルヌルしていた苔も生じていました。無理はありません、道上の第一小の跡地には、飯場があるのですから。 生活ザッパイが流れ込んでしまって、もう8年近くなりましょうか。
 しかし、町場の川に比べれば、まだまだ良しとしなければなりません。セリにまといついている細かなゴミを取り除くのは、流れる水でない限り、大変な手間と多くの水を要するからです。
 それでも中腰の姿勢は、足にきてしまいましたし、長くなるといかに早春とはいえ、冷たさに耐えかねてしまいました。
 そして、電車の音に見あげれば、国道を走る車がめっきり減ったことに、厭でもきづかさせざるを得ませんでした。
 時刻はまだほぼ6時なのに……と。ひっそりとした薄闇の中で独り、川辺りで下を向いてセリ洗いを続けていると、寂寥感がこのうえなく迫ってくる八ッ場でした。
 
 さらに、次に訪れた川原湯地区、温泉街であるがゆえによりその想いが強くならざるを得ませんでした。   


Posted by やんばちゃん at 23:55Comments(0)八ッ場だより

2011年04月14日

めぐりあえました。自然の恵み




 午後から八ッ場入り。
 もうフキも遅いかなとおもいましたら、ありました。でも、もうほとんどが開いてましたけれど。驚いたことにそのフキの花の上に虫がいたのです。どうやら花のミツを吸っているらしく、フキの花にもミツがあるなんて、非科学的ゆえに驚きでした。

 写真のように、こういった草むらに自生している野のものです。決して、ヒトさまの畑などのものを失敬ではありません。

 そして、いつものコースの一つ。かつてフキ出荷農家だったMさん宅へ。またお留守であった。正月以来、まだ一度しかお目にかかれず、奥さんに色の好みを伺ってからと思っている気持ちばかりのものも渡せずにいる。前回の夕暮れ時はいらしたが、あいにく置いていってしまった次第。
 少し、待たせてもらって車の中の整理を始めた。本日は頼まれた炭を分けて戴く予定があるので、出がけに座席を倒したのだけれど、それでもあちこちに品物が散乱してしまっていた。
 いらっしゃらないと思ったけれど、周りの工事現場を歩きだしたら、Mさん宅の洗い場の清水がとうとうとながれているのが目についた。こういう流れる水か敷地内にあることは、本当にうらましい限り。
 で、迷ったけれど、先のフキを洗わさせてもらおうかなと思い立つ。もし、セリがあったら、久森沢であらってこようとと出がけに竹ショウギを持参していたから好都合。
 「清水で洗うと長持ちするから、洗っていきな」と前にみょうがを分けて戴いた時に教えて戴いていたし、ゴミだらけの山菜類を水道水の溜まり水で洗う苦労は並大抵ではない。
 それが下の写真。結局、洗い終わっても、Mさんご夫婦は戻られず。



 今朝、Mさんに昨日、お邪魔して勝手に、洗い場を使わさせて戴いてフキを洗わさせてもらったことを伝えた次第。すると、ここのお宅のみょうが畑の脇にもいっぱい生えているから「採って行けばよかったんに」と、おっしやる。「でも、いくら親しき仲でも、お留守とわかっていて、そこまでは足をふみいれられないですよ」と。
 Mさん言う。うちの「洗い場のことをNさんも、この間、ここん家はうらやましいなぁっていって、グイグイ飲んでたよ」と。
 そうなんです。
 次に伺ったNさん宅で、あるとは思ったけれど、「フキ食べjますか?」 というと、「いいよ、俺ん家はいっぺえあらい。みてみろ、はぁ、あんなにでっかくなっちゃってらい」とのことに見てみればもう花が咲いて、20センチくらいのが林立。
 さらに、「でもねえ、もう洗ってあるんだよ。Mさん家、留守だったけれど、待たしてもらっている間に洗い場を使わしてもらったん。あれ、便利だよね」と添えると、「ありゃ。良い水だいな」と言っていたことで、ここで結びついて、Nさんとの顛末を笑いながら、Mさんに伝えた次第。ついで呆けたフキの話も。Nさん宅の方がMさん宅よりも温かい土地柄である。
 Mさんによれば、「だって、昔はみんなこの水を飲んでいたんだもの」と。
 拙著にも記しましたが、ダム建設によって、この地域の皆さんはタダで飲んできた先祖代々の自然の旨い水を、川に流させられ、今度は塩素交じりの水道の水を有料で飲まさせられているのです。で、Mさんたくでは、ワサビを育ててきた清流を移転した自宅まで引きこんだのでした。
 長くなりますので、具体的な事柄は、別項でお伝えする予定いですが、今朝も「ダムなんて、腹のたつことばっかだ」、「それにハリの悪いことばっかりで……」」とおっしゃってました。
 
 さらに、フキのトウの最も旨いのは開かないものとのこと。
 考えてみれば、それはそうだ。販売しているのも料理屋さんのも、みんな固いつぼみ。フキのトウの「董」たるゆえんだもの。
 昨日、まだ固いつぼみのは、後から来る人のため(と言っても、ほとんどヒトの立ち入らない奥地の川のなか。行く途中の土地の人たちのお宅にはいっぱいほきていても、Nさん宅と同じに採らず)、次回のためにと、殊勝にもアイヌの方たちの精神にならって採らずにおいてきてしまった…… それにそのまま、おいても朽ちてしまうし、フキの芽生えには何ら関係ないことをなまじ、自分の家のフキで知っているので、15センチくらいに伸びたのももったいないがりや精神でフキ味噌用に摘んできたのでありました。  


Posted by やんばちゃん at 09:28Comments(4)八ッ場だより

2011年04月13日

意見募集中 内閣府・ 原子力委委員会

 


【また、移転地が変わっていた横壁の石仏たち】
 ただ今、八ッ場から戻りました。
 写真は、おなじみの横壁の赤地蔵さんたちです。今度は北向きになってました。これで移転させられたのは、確か四度目になりましょうか? 今度は金網で過去ってあるので、たぶん、永住の地となれるのではないでしょうか?
 

 ところで、内閣府 原子力委員会が原子力政策について意見を募集しています。
 見た限り、意見締め切りの期日が明記されていないのですが、早い方がよいと思われますので……(今朝は容易にアップされず、問い合わせして操作ミスが判明。1時間半後の再アップなどで、手間取ってしまった次第てす)
 
 八ッ場ダムの場合もそうでしたけれど、往々にして“開かれた行政”の証し的に、パブリックコメントを行い、募集しただけでほとんどが予定稿通り進められてしまうんですけれど、今回はこれだけの大惨事なですから、どうでしょうか?
 ぜひ、多くの皆さま、チャレンジしてみてください。   
 
★★国民の皆様からのご意見募集について
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/tyoki_oubo.htm

 ※去る10日にこの案内を水問題のメールにいれて下さった方は、以下の紹介もして下さっています。ご意見を記す際の何かのご参考までに。
 3/31 小出裕章 講演会
        http://www.youtube.com/watch?v=4gFxKiOGSDk
 4/ 5 田中優 講演会 
        http://www.ustream.tv/recorded/13766187
 4/11 小出裕章 インタビュー
        http://www.ustream.tv/recorded/13897618  


Posted by やんばちゃん at 22:43Comments(3)原発関連

2011年04月13日

八ッ場が招くよ

 



      お読みくださっている皆さまへ
 本欄のもともとのテーマは、「八ッ場ダム」建設反対の立場から、その愚を伝えるコーナーにありますことは自覚しております。
 昨今の原発問題へののめりこみ様、確かにすぎる傾向にありますが…… その事もまた認めております。
 このことにつきましては、それぞれのお立場にての様々なご見解もありましょうが、前政権によって「国策」として強引に推し進められてきた、「原発」も「ダム」も、(厳密には、問題の質と大きさは異なるかもしれませんが)、その「骨格は同じ」と考えてのことです。
 それゆえに、一人でも多くの方に、この破たんした原発行政のカラクリの例え、一端でもご理解願えれば、いずれ、本欄の究極の目的、「脱ダムの夜明け」への一助となれるものと信じております。
    
 加えて、原発問題は現在、大変な危機に直面してます。
 焦眉の課題です。
 子どもたちの未来に及ぶ、命の存続にかかわりかねません。
 その上、一か月経ても、震度5前後の余震に何度も見舞われ、群馬の平野部でも思わず戸外に飛び出す始末。屋内にいても揺れているような落ち着かない日々に見舞われています。心身ともに揺さぶり続けられてます。
 さぞかし、震源地の皆さまは恐怖の谷間に座される思いのことと、思いはせる次第です。
 ほぼ、終日、大規模余震にみまわれた昨日は、科学的解明の糸口もなかった平安時代からの、逃げまどう民衆の阿鼻叫喚の様を描いた絵巻物の世界が、久しぶりに思い浮かぶほどでした。
 
 その意味において、今や、今般の未曽有の大事故には、政治・文化のあらゆるジャンルを含み超えて、この国の問いなおしが、内包されているものと思われます。
 いわば、細部の技術的理論をこえての、国民的課題と申せましょう。 
 (その際、知識面にて、並みの専門家以上の知識があればあるにこしたことないでしょうが……)間違いとわかったら、学び直して認識を改めればよいことと存じます。
 多くの国民が、戦時下の国民と同じく、無知であったからこそ、この愚かしい国策を許してしまったのではないでしょうか。
 まずは原発問題への関心を高め喚起することにあるもの心得えざるを得ません。
 ヒトは学びによって目覚めます。そして、最終的な方向性を定めるのは、その人なりの判断力にかかわるのではないでしょうか。
  
 さて、写真は昨日からほころび始め、今朝は満開となった庭先のボケの花です。
 見回したら山椒も芽吹き出して、これから、忙しくなりそう。
 おもいっきり、布団も洗濯物も干し、早く春の野で安心して、山菜採りを存分にしたいもの……
 八ッ場のセリはどのくらいになっているか、気持ちがもめてなりません。                  
   


Posted by やんばちゃん at 09:59Comments(2)八ッ場だより

2011年04月12日

小出裕章さんへのインタピュー

   3/12 その四
【←読売新聞より転載】福島県産の農産物直売イベントでトマトを試食する枝野官房長官=飯島啓太撮影




 昨日の深夜1時台に九州地方の水問題関係者からの「転送の転送と」推察するメールの転載です。
 おなじみの小出裕章さんへのインタピュウーとのことです。
 「BCCにて 転載転送自由」とありましたので、転載させて戴きます。
 小出さんの説明は明快で難しいお話を解りやすく説明してくださっているのでずか、聞き手の岩上さんという方の声が低くくて聞きとりにくいのが残念です。最後にインタヴュー者の岩上さんのまとめも添えておきます。

 京都大学原子炉実験所 小出裕章氏に聞く    http://www.ustream.tv/recorded/13897618
 
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 岩上安身氏が小出研究室に出向いてインタビューです。
2011.4.10 14:48から 2011.4.1017:00時点での小出さんの最新見解。

ーーーーここから岩上安身さんの書き起こし ツイッターからーーーーーーー
小出裕章助教のインタビュー、予定時間より早く始めます。今からです。
 京大原子力実験所の小出裕章助教インタビュー
 原子炉の圧力容器に穴の空いている事実、再臨界が始まっている高い可能性について、明晰に論じながら、最悪の破局を回避するシナリオを語る。
 再臨界を止めるには、中性子を吸収するホウ素の投入すべきだが、東電は、一時投入を控えていた可能性がある。ホウ素の投入は、結晶の付着などの問題があるが、再臨界を起こさせてはならない。
 続き。最悪の破局のシナリオは、どれか一つの炉がメルトダウンの果てに、水蒸気爆発を起こし、他の炉の冷却作業もできになくなって、連鎖的に爆発を起こすシナリオ。
 その最悪の破局のシナリオが現実化すると、チェルノブイリが放出した放射性物質の6~10倍の量の放射性物質が飛散すると思われる。
 
 続き。再臨界が始まっても、即、その最悪の破局になるのではない。再臨界の熱によって膨張すると、ウランは臨界がとまる。
が、また再開する、その繰り返しで、ブスブスとくすぶる。
 
 続き。最悪の破局を避けるためには、とにかく冷やし続けること。圧力容器と格納容器を一体として扱い、サプレッションチェンバーというプールに溜めた水を、再び圧力容器に戻すループの確立が必要。
 同時に外部冷却装置を設置するなどして、熱交換のループも確立しなくてはならない。

 その現場作業、高い放射線量の中でできるか。できないと破局に近づく。
 先日の宮城県中心の地震で、六ヶ所村の再処理施設、女川原発、東通り原発も、一時外部電源が絶たれた。福島第一原発と同じ危険な事故はどこでも起きうる。

 原発はすべてやめるべき。
 非常用電源を高台に設置すればいいとか、小手先の議論がまたなされているが、無意味。
 機械は必ず壊れ、人は必ずミスを犯す。
 事故は必ず起きる。そして原発事故の場合は、取り返しがつかない。

 実は、そもそも、リスクを冒してでも原発を必要とする理由はない。
 原発をすべて停めても、現在の火力発電所の稼働率を7割に上げれば、カバーできる。

 政府と電気事業者の公開データだ明らか。
 原発がないと電力が不足するというのは、真っ赤な嘘。
 政府、マスコミは本当の事実を伝えない。
 また、原発が安く電力を供給している、というのも嘘。
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まだツイートが続いていますのでここからは
http://twitter.com/#!/iwakamiyasumi をみてください。  


Posted by やんばちゃん at 20:36Comments(1)原発関連

2011年04月12日

最悪「レベル7」 に

  3/12 その三


【読売新聞より転載】
福島第1原発事故の国際原子力事象評価尺度(INES)の評価を「レベル7」に引き上げたことを受け、記者会見する原子力安全・保安院の西山英彦審議官(左)と広瀬研吉・内閣府参与(12日午前11時25分、東京・霞が関で)=金沢修撮影

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 午前中、テケビ朝日で観た速報をお伝えしましたので、その後の新聞報道をお伝えします。当地もそうですか、とりわけ、夕刊の来ない地域の皆さま、ご参考までに。
 
 それにしても、原子力安全・保安院て、今になって…… いい加減な感じですね。
 先月の最初の会見の時の、あの斑目春樹・原子力安全委員長の、「心配には及ばない。安全のハードルを高くしてある」とかの見苦しいほどの防衛振りが浮かびます。この職員も学になったとかの話もあるほどだ……
 ご存知のこととは思いますが、念のため整理しますと、もともと「推進」の前政権と一体のお墨付き係の〇〇団体なのです。で、過日のあの妙な防衛的な会見もうなづけるというもの。
  ①原子力安全・保安院    経済産業省
  ②原子力安全委員会     内閣府
  ③原子力委員会         〃
    これに対して、真実の究明に力注いできた、民間団体には、
   ① 故・高木仁三郎さんの遺志をつぐ、「原子力情報資料室」
   http://www.kankyoshimin.org/modules/blog/index.php?content_id=79
   ② 小出裕章さんらの「京都大学原子炉実験所」などの機関があります。

...........................
① 【2011年4月12日 9時07分(最終更新 4月12日 14時28分)毎日新聞】http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/nuclear/news/20110412k0000e040006000c.html
  福島第1原発:最悪レベル7 チェルノブイリに並ぶ


② 【2011年4月12日12時39分 朝日新聞】
 http://www.asahi.com/national/update/0412/TKY201104120085.html
 福島原発事故、最悪「レベル7」 チェルノブイリ級に

③ 【2011年4月12日13時52分 共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011041201000192.html
福島原発事故、最悪のレベル7 チェルノブイリと並ぶ  


Posted by やんばちゃん at 17:49Comments(0)原発関連

2011年04月12日

『告発・電磁波公害』のご案内と雑記

 3/12 その二
 【↑朝日新聞最新記事より転載】ユネスコに響く震災レクイエム 音楽家110人が結集
http://www.asahi.com/international/update/0411/TKY201104110376.html

.......................................
 昨日11日は、ほぼ終日、以下の二つの拙文の日時確認に追われ、没頭したしだいです。
 そこで、確認できた事柄に基づき、本欄の過去記事の年月日の誤認について、訂正を施させて戴きました。
 すでにお読みになられた皆さまに、念のため、以下に列記させて戴きます。
 一、2011年3月26日  「大震災の教訓を「力の政治」の問いなおし策に」
    ①写真の日付  2002年頃⇒2000年
    ②文中、およそ9年前⇒およそ11年前の2000年夏
  
 ※理由は、当初は記憶に基づき「2000年」と記していたのでした。
  ところが、確認のため、ようやく探しだした写真に「02 12 31」とあったのです。が、写真の「02」年を西暦使用主義者の当方、「2002年」と思わざるを得なくなったのでした。 
  となると、全体がおかしくなるんだけれどなと思いつつ、それでは掲載誌の「サンデージャーナル」を確認するしかと物置に行きました。乱雑に積み上げた箱の中から同誌の箱をようやく探しだしましたが、その綴りは(前にやはり確認しにきたらしく)綴り糸がほどかれてランダムになってました。肝心の記事がみあたらないのです。
 すでに当時の神流川発電所の工事風景の写真探しに3日ほど費やしてしまって、何とも気ぜわしい上に例の花粉症による瞼下がりにてぼやけてしまって、ついに見つからないのでした。
 でも、ここに「02」とあるんだから、「2002年」に間違いないだろうと疑わずに記してしまったのでした。
 
 ところで、昨日11日は、物置で探しごとに追われてました。
 その過程で、思い切って~2004年までの写真類の箱の整理に及んだのでした。
 2000年頃からの現像写真には、ネガを差し込む袋に小さな写真見本がついてます。そして、神流川発電所関係の写真類はネガの束の上がき欄に「2000年」とあるではありませんか。
 
 ここでようやく、つまり「02」とは、「平成12年」をさし、「平成12年12月31日」の意味なのではないかと気がつきました。でも、それなら「12」となるべきなのですが……
 ① 実は掲載後も何度か掲載誌をもってお礼かたがたお話を伺った方の家や、その後に取材した、とっておきの証言などもあったので上野村を訪れ、工事の進捗状況をカメラにおさめてはいました。だから、02年にも上野村には通ってはいたのは事実です。ただし、いかにのんきオバさんでも、12月31日の大晦日の日に上野村に行くはずもなかろう……と浮上してまいりました。
 ② 次に、何度かカメラの日付けが狂ったり、現像過程での不備で、何年も前の同一日付になったこともあったりしたのでした。て日時については定かではない期間もありました。
  
 最後の確認手段として当時の手帳の日にちを繰って調べる道もあるのですけれど…… 
 今度は手帳の箱をひっかきまわしたところ、なんとこの年だけないのです。もう「どうして」と泣きたくなる一瞬です。締め切り時間に追われる時には、本当に辛いものがあります。
 で、今回は、日時がハッキリしないので、写真には「2000年」のみで入れなかった次第です。

 どおりでいくら2002年と思い込んで、「サンデージャーナル」誌のファイルをくっても記事が出てこないはずであったわけでした。落ち着いて2000年の冊子をひも解いたら、もちろんあるにはありましたけれど、無記名でした。配慮によるものと思われますが、最後は編集長との対立構造にて辞めた同誌の記事には、幾つか無記名で記したものがありました。
 でも、掲載写真のは写真ファイルのものと同一のものでした。

 長くなりましたが、混乱のもととなった写真は、アナログカメラ時の10年前の何らかのカメラの日付けいれの不備によるものでした。こういう場合は、一応のメモをいれておくものですが、この写真に関しては、自分の記憶力が10年後にここまで落ちて混乱するとは予見できなかった、哀しさの顛末となりました。
 あえて、細かに示しましたが、写真の日付け不備によって起こる混乱を記させて戴きました。


二、 2011年4月8日  「本日、川原湯温泉春祭り」に写真追加。
  川原湯温泉の「大々神楽」の写真もみつかりましたので、「百聞は一見にしかず」ですので、本日入れました。
  これには、日付け無し。たぶん、壊れカメラで必死に撮っていた頃のもので、少なくとも4~5年前のものと思います。

 
三 上記一の確認の端緒となった「東電50万ボルト送電線上武幹線」問題について
 なお、核と電磁波は異なりますが、最近の提出済みの雑文に「東電50万ボルト送電線上武幹線」における電磁波問題を、国策」としての東電対応の実態として、自己体験の例として簡略に「一」の神流川揚水発電所と一緒に列記したのでした。
 WH0の安全基準は「4ミりガウス」なのに、当時のパンレットには「50000ミリガウス」であったので、記憶力のみで、「約1万倍の乖離」と記した次第でした。
 しかし、同様にして、もし間違えていたら訂正不可となり、決定的なミスに。
 上述のように、ここの処、かなり記憶力が薄れてきても愕然とする日々なのです。
 もし、ミスっていたら、それこそ「大きな誤認」となってしまいます。あれだけ当時、近隣の皆さんに説明する際に口にしていた数値なのですから、よもやと思うけれど、単位の読み違えっていうこともなきにしもあらず……
 
 そこで、何もかもなげ打って物置に入って、当時2005年時の「電磁波問題」のファイルを探そうとしたのでした。しかし、これまた当時、購読した電磁波問題の通信「ガウスネット」の綴り類はあったのですけれど……
 ところが、確かに堂々と「50000ミリガウス」と記されていた、東電のあの肝心のパンフレットが見つからないのでした。最も主要なこのパンフと朝日新聞の記事コピーなど、いつも持ち歩いていた袋が眼にはいらのです。
 東電側との2回の説明会。区長さんとの同社への出向き、何度かの電話やりとり。そして、地域は愚か、隣町の送電下の住民の皆さんへのチラシ配布など、かなりの資料があったのに……絶対に捨てはせず、あるに決まっているのですけれど……。
 焦燥感につつまれると余計、眼にはいなくなってくるのが通例。時過ぎるとちゃんとあるのにです。
 当時の個人機関紙「みんなの青い空」には記さてなかったけれど、一応確認。一般質問はしてなかったと記憶するけれど、記事録もみようかとさえ思ったほどでした。
 あんなにコピーして配布したのに、せめてもの朝日新聞一面の掲載記事も出てこないのです。 
 (幸いにして、この探しことの過程で、一に記述の写真類と掲載誌も確認できた思わぬメリット)
 
 夕刻になっても、見つからない。
 ますます不安が募った。最後の手は当時、確か1992~3年に朝日新聞一面に、小児ガンへのリスクなどのWH0見解の記事を執筆された記者さん、(?どうやらこの記事が原因で群馬に都落ちさせられて、朝日新聞〇〇支局長さんだった)あの方に伺う道しかないと思い浮かんだのでした。
 古い名刺なので、直ちには探し出せない。でも幸い、苗字は覚えていて、お名前の字面もひょいとでてきたのでした。コレは我ながら快哉もの。
 で、ダメ元でと必要事項を入れてインターネット検索を。あった、しかもなんとご著書も記されていたのでした。
 とりわけ新聞社は個人情報にて教えてくれないものですが、こちらもダメで元々と〇〇支局に電話。こちらの身元と目的をきちんと伝えますと、うれしいことに九州のある支局の連絡先を教えて戴けたのでした。
 
 そして、なんと4年ぶりくらいに連絡がついた次第。
 東電との第1回の説明会直前の小一時間、レクチャーしてくださった時の未だ耳もとに記憶ある声音。群馬を去られる直前、「ついに、東電が電磁波の危険性について認めましたよ。記事をみてください」との朗報をうれしそうに連絡してくださった声音そのものの声が、はるか向こうにあったのでした。
 数値は「あってますよ」と即座に。ホッとしました。「もしかして単位を読み違えてたかもと」と伝えると、何か閃かれたらしく、ちょっとの間をおいて「関西電力では、5000ミりガウス」であったとも言い添えてくださいました。関西電力のことは知りませんでした。

 そういえば、八ッ場にもご案内して、現地の方たちに集まってもらって、語らいの場を設けたこともありましたっけ。そして、程なくの転勤でした。八ッ場のLさんなどはその直後から、何とひそかに朝日新聞も購読し始めていたのでした。後日、「ちっとも記事にならねぇ」とやや怒り口調にての言葉に、「あら、転勤になさったのよ」と伝えたことも思い出しました。
 春三月のこの時期は、ようく年単位にて信頼関係が築けつつある矢先のなじみの、記者魂に燃えた記者さんたちの移動の時期でもあるのです。

  さて、今となっては、もうご著書とともにもうお名前を公表してもさしつかえないでしょう。
 お名前は松本健造さん。
 ご著書は、『告発・電磁波公害』(2007年 緑風出版 1995円)
 http://www.amazon.co.jp/dp/4846107140/ref=nosim/?tag=biglobe06-src-link-22&linkCode=as1

 おかげさまで、松本さんに4年ぶりに連絡がついたことと、八ッ場ダム関連の膨大な写真類が少し整理できたことが最大の収穫でした。
 しかも、2001年6月14日の補償調印式の日の、私的な写真類の前後に続く、小さな写真類のコマも出てきたのでした。ネガの一部もあったのです。もし、これらが使えれば本当に助かります。
 サンデージャーナル誌では、経費一式全て自分持ち。掲載になってようやく2か月後くらい経て、一行×〇〇円の稿料が貰え、それが生活費の全てだったあの頃の厳しい生活。直後の決裂も想定せず、36枚撮りのフィルムに3本分の現像写真一式を収めたままだったのです。ほどなく廃刊になってしまったので、もうどうにもならず、残念でならなかった写真類でした。
 八ッ場取材の過程でもとりわけ、数々の思い入れのあったのが調印式の日なのでした。あの日、ライターとは言いながらも、羞恥心と気おくれをこらえながら、おこがましくも記者クラブ所属の記者さんやプロ写真家たちらに交じって撮ったのでしたから。
 
 さて、これが、昨日のわが仕事実績なり。
 コレだもの、「働けど、働けどなおわが暮らし楽にならざり」ではなく、無理からぬわけ。でも、余震におののきながら、啄木並みに「じっと手をみる」次第です。
 ……啄木と言えば、先日、姪の大学の例の門前での待ち合わせの際、お茶の水から湯島方面に歩いていて、方角を間違えて湯島聖堂から反対方向に歩きかけてしまいました。台東区役所近くにあった、啄木の史跡案内板が目に入りました。
 函館から妻子と母が到着し、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移った啄木は、当時の「東京 朝日新聞」の校正係として働いていたのでした。仕事柄、終電に間に合わずに疲れ切った身体で切り通し道を歩いてきたことが説明されてました。
   


Posted by やんばちゃん at 12:54Comments(0)紹介