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2009年11月30日

本日、『八ッ場ダムー計画に振り回された57年』発刊!

 本日11月30日、拙著『八ッ場ダムー計画に振り回された57年』が、明石書店から突貫工事的なスピードで刊行されました。

 奥づけは、実際に店頭に並ぶ、12/10になっています。
 表紙カバーにカラー写真をちりばめてくれました。
 32ページ増えて、320ページです。が、定価は変わらずの「2300円+税」です。
 内訳は「新版への序」と題したまえがきが5ページ。
 以前の拙著になかった、年表と地図も添えました。
 巻末に「相克の歴史をひみとくーー谷間を彩る闇の花」と題した、19ページにも及ぶ、57年間分の比較的詳述年表があります。校正段階で「多すぎる。削除を」と言われ、大急ぎで大伐採したのですが……。それでも、通読するのにはよいのですけれど、かえってポイントがつかめないほどの分量になってしまったことは、反省点です。
 何かのお役にたてて頂ければ、幸いです。
 五年間の動きの詳述は、全般には出来かねましたが、時間的制約の中で、追記として「助成金の行方」「東電減電問題の最新情報」、「ほたるに関して(ご質問に答えて)」などを加えました。

 30日は出来上がる日でしたので、明石書店に行きまして、スタッフの皆さんにお礼を申し上げました。
 帰途、夕刻と言うより夜に都内で開かれた、八ッ場ダム関係のお若い皆さんの会にお邪魔して、楽しい時間をすごさせていただきました。 ムリかなと思った最終の湘南新宿ラインに渋谷から乗れて、順調に帰れましたが、乗り継ぎの町時間がかなりあり、必然的に帰宅は深夜に。
 ですので、本ブログの日付けは、実は11/30ではなく、12/1に突入。しかもかなり経過してしていたのですが、刊行の日付にこだわっての心ならずもの日付け改変です(いつぞや、本ブログで「日付けがかわっちゃって」と記しましたら、「方法あり」とのご示唆を頂きましたので)。
 その上、睡魔に見舞われて、どうにも文章にならずウトウト状態。今朝、12/1に補っている始末。
 (インチキなしを書くといいながら、インチキごとで申し訳ありません)。 でも、やっぱり、この良き日は「インチキ」なる語は消去です。
 
 なお、この間。駄文の羅列で、本当は写真も掲載したいのですが、昨今は写真の掲載方法を忘れてしまったのです。たった一度でも何とかできたのですから、じっくり時間を取って摩耗した記憶力を喚起しなければ……。何事も練習曲線ですよね。その意味でも、つたないながら本ブログを休まないよう、必死にしがみついている次第なのです。
 
 そんなわけで、どうぞ、皆様、願わくばお求め願いたいですが、ご紹介や図書館等などにリクエストなど、よろしくお願いいたします。
  


Posted by やんばちゃん at 23:59Comments(4)八ッ場だより

2009年11月29日

アピオスのふるさと、八ッ場

 考えてみたら、本日の我流の販売品の一つ、アピオスの球根は八ッ場から貰ってきたものでした。
 「インディアンのスタミナの源」と呼ばれるほど栄養価が高く、日本では「ほど芋」とも呼ばれている、わが家のアピオスは、八ッ場がふるさとなのでした。
 頻繁に訪れるようになった花好きなKさん宅では、駐車場などのあちこちに夏、変わった花が咲いてました。いんげんのようにつる状に咲き、支柱が必要な花で、周りの植木類や花に撒きついて咲いていた花でした。
 ある時の帰りがけ、Kさんがスコップをもってきて、「花も咲いて実も食べられるから、持っていきない」と掘ってくださったものでした。「悪いから」と遠慮する私に、確か「な~にいいよ、いいよ。どうせ」というようなことをおっしゃられたように7~8年も前の記憶を手繰り寄せています。移転問題に苦悩していたKさんは、この頃から少しづつ、現地では格段の広さを持つ屋敷内の花々の行く末を思っていられたのでしょうか。
 新しい道路となる道下に新築移転したKさん宅の庭には、先祖伝来の植木類やさまざまな花が移植されています。けれど、どの花も、私のまぶたに焼きついている、移転前のあの勢いも華やぎもまだ感じられないのです。
 概して、長野原町の農家の皆さんは、新種の作物や花をいち早く植えられています。農協を通して求められるようです。
 
 Kさん宅は水没しない部分水没の高台だったのですが、付替え道路の延長にあるため、移転を余儀なくされ、国交省と長年争ってきました。が、ついに昨年、移転。
 うらやましくなるほどの野草や数多くの花々が咲き乱れていた前庭はすっかり掘り起こされ、駐車場も早晩、大規模工事にさらされようとしているのです。
 しかし、まだ契約済みになっていない土地もあるらしく、目下、Kさんは「断りもなしに、勝手に人の土地を計画に入れて」と立腹。争っています。
 拙著『八ッ場ダムーー足で歩いた現地ルポ』にも掲載したように、同種のことで怒ったSさんも、抗議書を持参しています。
 さらに、最近、コメント欄にお便りくださった群馬県人さんも、この公共事業の身勝手さに立腹されています。ブログを拝見して、群馬県の損失補てんに関しての説明書を初めてみました。本当に「ほのぼの幸せ。未来はバラ色」的なイラスト。見せてもらった八ッ場のものと同じで、「いいことしてます」式のおごりに、私も腹だたしいものを覚えました。
 お上が絶対的な権力をもっていた、時代の遺物です。
 (補償問題について明るい方やご意見のある方、どうぞごコメント蘭にお寄せくださいませんか)

 頂いた何粒かを大事に庭の低目の木々の間に埋め、数年経ちました。来る年ごとの拡がりから見て、順長に増えていてくれるようでした。
 さらに、四年ほど前、わが村に突然起きた電磁波問題のため、測定器を設置させたという福島県のある地域をお訪ねしたことがありました。その際、ご縁あってご尽力された方とお目にかかれました。突然の来訪にもかかわらず、案内してくださった上に、辞去する際に、やはりこのアピオスの球根をおみやげに下さったのでした。
 で、早速こちらのアピオスも、八ッ場からのアピオスの近くに植え、残りの何粒かを近くの畑地に、大事に植え付けました。こちらはヒト目につきますので、通りすがりの方たちが「珍しいねぇ」とめでてくれたものでした。
 
 わが家のアピオスのルーツを考えましたら、アフリカの大地に雄々しく育ッた原種が、ダム問題の長野原町と電磁波問題に揺れた福島県棚倉町で育まれたそれぞれが混在化、年々再々増えて、今回の収穫物となってくれたのでした。  


Posted by やんばちゃん at 22:03Comments(2)八ッ場だより

2009年11月28日

土の哀しみ

 明日のフリーマーケットの準備で、昨日来、久々に敷地内のあれこれを物色。
 まず、むかごを採取。
 むかごを 採るために春先から、小さな山芋も大事にしてきた。何年も自生してきたものはやはり、粒が大きい。
 次にアピオスを掘った。
 これは霜が降って、つるが枯れるまでは収穫が出来ない。今年は、もう何回も霜がおりているから安心だ。思ったよりたくさん、採れた。年々増えてくれるがうれしい。
 そして、今日はさらに、真っ赤なクコの実が眼を射る。
 摘み取る。すると、今度は緑さやかなクコのに眼が行く。試しに柔らかそうなのを摘み取ってみた。たぶん、大丈夫……だろう、商品価値ありと踏む。
 おりしも昼時。心配だから最も硬い部分の葉を一つかみ洗って、炊きあがったご飯にまぶした。秋のクコ飯だ。おそるおそる試食。食べられる、すこしも硬くない。食べながら、レシピ用のインターネットを観て、保存した。葉は春と秋に食せるという。なるほどと得心。
 となると、午後一番、張り切って、柔らかな黄緑色のを選んで、ショウギに山盛りいっぱい摘んだ。
 クコの木は亡き父親が血圧に良いいからと植えたものだ。そして、程なくその血圧で死んだ。丁度、今の私の年だった。親の年を超える今年は、不思議なざわつきがあった。何年もうっちゃらかしてきたけれど、今年、始めて実を採取してみた次第だ。
 夕暮れ、昨日、堀ったアピオスを小袋に詰めた。ギンナンも袋詰めしなければならないけれど、まだ、乾燥があまくて匂う。ギンナンの皮むきは重労働だった。夜まで、また戸外におく。

 それにしてもだ、私には去年と同じものを採取できる幸せがある。来年のために、アピオスの小さな種は選りわけて、来年は、また土に戻せる。何の疑いもなしに、来年の収穫が信じられる。
 雑草ひとつにも思い入れと愛着がある。
 だが、八ッ場の皆さんは、常に「あと何年か、あと何年だろうか」と迷いつつ、自分の敷地に田畑にたちすくませられるを得なかった不安な日々を辿らさせられてきたのだ。この土くれを何年耕させられるだうかと。どうせ沈むんだからと思っても、土への愛着は、習い覚えた習性で、無駄と思っても心をこめて肥料をくれただろう。
 作業をしながら何度も、八ッ場の方たちが辿らさせられた苦衷のヒダに思いを馳せた。ようやく、その心配から解放されたのに、一度方向づけられると、今度は、なかなか思い直すのは容易ではないらしい。
 でも、土地が水底に沈まなかった喜びは、計り知れないものであることに早晩、気がついてくださることだろう。
 事実、庭の土も畑の土くれも、小躍りして大地の脈動を奏でてくれているはず。

 通例は八ッ場にちなむ品物を扱わさせてもらってきた。
 昨年の今頃は、八ッ場の原木しいたけやリンゴ、それにハンデェ米を扱ったものだ。
 時には、特製のコンニャクを作ってもらったものだった。
 でも、今回は昨今の忙殺状態による準備不足もあって珍しく、林の竹炭以外は何もない。
 一人で行った先日も六合村奥地で手間どって、夜になってしまった上に、時間的に取りに行けそうもなかったので、あえて、頼まなかったのだ。こんなことは初めて。で、しきりに屋敷打ちの今の時期に何とか売れそうなものを物色している次第だ。
 そうだそれに、川辺川からの川ノリがある。極上品なのだけれど、この場所では売れなくて、まだあるのだ。陽ざしにあわせたので、色合いがだいぶあせてきてしまった。忘れないうちに物置きに行き、冷蔵庫の中にしまってあるのを少し用意した。
  
 時間が迫る。間に合わないだらけだ。
 少し、整理しないと、すべてが中途半端になってしまう。明日の販売リストを作ってみる。クコなどはレシピを添えなければならない。むかごも酒粕も昨年のがある。
  
 薄闇の中、南天の実つきの枝を15本ほど切った。正月には早いけれど、もしかしたら売れるかもしれないひらめく。そして、小走りに走って、荒れ地の畑に咲きだした菜の花をきりとった。組ませて売るか、否、別々にした方が良い。
 そうそう、10月には都合が悪くて、出店できなかったので、もう花は盛りを過ぎたが、吉祥草も何鉢か持っていこう。「良いことがあると咲く。植えて置くと吉事が゜訪れる」という、縁起花だ。9月~10月のレパートリーの一つだ。白と紅の蘭に似た、快い花の色合いがまだ少し残っているのを、6鉢選びだした。
 
 釣銭。マジック、包装類などを先に整え、車に積み込む。
 かぼちゃもたくさん積みこんだ。初夏、食べたクリカボチャの種を二枚の畑に撒くというより散らかしたら、花が咲いて実がごろごろとなって、それがまた味がよくて、クリカボチャとまではいかないまでも、結構うまいのだ。
 今夜の袋詰めのための袋や結束機などを忘れずに実家から借りて、運び込む。
 一日戸外で動いたから、手はツメの先まで泥。冷え切ってしまった。まずは風呂に入り一呼吸しなければ限界だ。

  さて、もはや、23時を回った。
  これからクコの葉の袋詰めがある。
  何よりも、主力商品の酒粕も袋詰めをしなければならない。これは無添加のこだわりの純米酒の新ものの酒粕で、実家から分けてもらって、昨年から暮れの一時、私の販売の主力となった。味が違うと喜ばれている。
  この分だと、多分、明日の朝も遅刻で、しんがりだろう。月に一度の、露天商のオバさんは、元手無料のあるもので賄う。それゆえに大変であるが、売れなくとも痛手は少ない。
 なおかつ、ここでは明日の生活設計を疑いもなくたてられるという、安心という名の幸せがある。ゆるぎなく大地のはぐくみとともに生きられる無上の営めがある。

  
   


Posted by やんばちゃん at 23:06Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月27日

八ッ場の実態は伝えるに難しすぎる

 吾妻川の上流域には、先の湯の湖だけでなく、まだ幾つかの安全性を危惧させる要因が横たわっている。
 それは追うごとに足を踏み込むたびに思うことだが、水没地の置かれている人間模様の様相に似ていると現地にたたす゜む都度、のど元につきあげてくる思いである。

 現在までに、数多くの「八ッ場報道・ルポ」が記されてきた。
 しかし、それは記者がディレクターが、そしてライターが水没地内を走り回って、たまたま遭遇出来得た人物が、その時に語った言葉を、書き手側の裁量で切り取る。、熟成させ、さらに肉付けさせて、自分が着地したいストーリィに、人物を言葉をちりばめて仕上げるだけである。
 それは部分であって、真実の立像ではない。
 一個の人間は複雑である。
  ただし、読み手はそれらの前提がわかっていても、メディアが伝える側面をそれがそのキャラクターとして脳裏にしみこまされてしまう。
 
 「ここに住んでいねぇモンにわかるか!」の叱咤の声は、事実だ。
 一日や二日、「取材に行ってきました」とほら吹いても、八ッ場の現実はとらえきれない。
 しかし、「締切」と書くことが大前提だから、聞いたことは全てとなり、局部的に取材したことを網羅する。
 そして、同じ長野原といっても、水没地と非水没地ではことなり、水没五地区といえども、全水没地と部分水没では大いに感情のヒダが異なる。
 まして、長野原町以外の者のいうことは、全体を構築するうえでの俯瞰する目線としての参考例としては必要だが、サラリと流れ出てしまうものがある。
 また、取り上げる人物が、平素、その周辺でどのような評価を受けているのかまで忖度したら、筆は進まない。知らずとも、吐かれた言葉を辿って行けば、おのづと判るもので、それがわからなかったら、モノを書く、想像する資格ないといっても過言ではない。一つの手法として、それを伝えて重層化するということはある。
  
 マスコミに取り上げられるということは、多くの場合が、「選ばれたヒト」的な意識の高揚感があり、往々にして、もてはやされる。現地には、書いてもらいたくてウズウズ状態の方も、現実にいられる。
 さて、ある村のある方の言葉に(あの人のことは村のモンは知っているからいいよ。だけど、しらねぇヒトは本気にするし、下手すりゃ、どっかがやらせているとしかみねぇんで弱るんさの」と。

 同じく、その末端に連なり、「飯のタネ」ほどにもならず、しようとも思わずに必死に歩いてきた者の一人として、「八ッ場の姿」を伝えることの難しさをこえて、氾濫する取材モノを前にして、困惑やむなしさを覚える。
 
 最も冴えて優秀なるキャラクターは黙して語らず、じーと事の推移を見詰めていられて、凝縮された言葉をひと言、鋭く繰り出さしてくださるのではないだろうか。
 そういう方に、お目にかりたいものだと念じつつ、この間、ヒトの行かない野道、小道、そして畦道を好んで歩いてきた。
 
 私が、想像するそんな人物とは、案外、建て替え利かぬ暗い建物のジメジメした台所で煮炊きにおわれながら、食器類を黙々と洗っている、そんな嫁の立場の女性たち。または、建設現場で、手ぬぐいをほおっかぶり(今は帽子の時代だ)、ならぬ帽子を目深にかむり、じっと仲間うちの世間話に聞き耳をたてている方たちなのではないだろうかと、まだ不幸にしてお会いできぬ方たちの顔のさだまらない立像をえがく。
 神様よ、そろそろそんな方たちにも、お目にかからせてくださらないだろうか。
 
 何よりも優先するのは《書いても良い》とのお許しを頂けるか、この一点にかかる。
 私は、ご本人に、一応の御断りをする。できれば、草稿をお見せする。しかし、そうすると、ほとんどがダメになるが、人権上、出来かねることである。書かれる方は、生身の人間である。
 あるライターが電話をかけてきて、「上司の意見を聴きたい」といったそうだ、「留守」と伝えると、その方に問われた。役目がら「判りません」と答えたというある方は、他人に「出ている」といわれ、見たら「わからないと答えた」と記されていたという。立場上、困惑され、立腹していた。派生して、一時、マスコミ嫌いになられ、さらに、影に存在すると思いこまれている、市民運動嫌いの度を強められたことがある。
 
 概して、「余りにホントのこと」もまた書けない。
 飛びつきたくなるセリフもあるにはあった。しかし、書けばその方が困る。となれば記せなくなってしまう。そこまでの権利は一介のライターにないからだ。
 さらに書かせてくださるメディアは限られている。機会があれば懸命に書く。何事も練習曲線だから、熟達し巧みになれる。
 
 ある意味では、わが八ッ場は、マスコミの格好の餌食となってしまった。
 そして、この私もまた、その一員には相違ならず、現地の方の指摘、「八ッ場でメシを喰っているやつら。……〇〇ちゃん、おメエも厳密にいえば、そうだからな」の言葉を、深く深く、自分の胸に突き刺し、自戒する一夜である。
 しかしだ、あえて、自己弁護的に反論が許されるのなら、“巨額のメシ代を稼ぎだした、それこそヤツラの実態”をあぶり出すための、本質的な“ペンの力”というものは、いかなる時代にもある。たかが「ペン(=カメラ)、されどペン」なのだ。
 そのために、筆先を磨き続けたい。

   


Posted by やんばちゃん at 23:57Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月26日

?クマさんにも会えなかった、孤独な一人旅

幸いにして、クマさんにはお目にかからずにすみ、無事帰還。
今朝、なにやかやとやはり出発が遅かったので、すでに店の開店時間に。で、少し怖かったから、途中で鈴を買いました。でも小さいのしかなくて、役立たずでしたけれど……、こんなものでも持っているというのは、支えになるもんですね。

香草中和工場は予想通りの場所にありました。
林の中にポツンではなく、修理工場のような建物の後ろ手の川に面してたっていました。通りに面していたこの建物にはユンポがズラリ。
建物下に谷沢川が流れているのが、木立越しにみえました。周囲を一巡したら、沢に降りる階段の工事が始まったばかりのようでした。が、作業員の方たちは昼休みで出かけたらしく、脱ぎ捨てた作業着や工具類が散乱していました。
 着いたのが昼頃。一通り周辺を確認して、車中で昼食をゆっくりとりながらの行動でしたから30分頃だったでしょうか。
 たぶん、程なく帰ってみえるだろうなと考え、阻止されたらおしまいだからと急いで、非常用はしごをおりました。脇に、しかし、老朽化にともなう工事でしたから、鉄の部分は朽ちており、木材の部分は腐っていたりで、帰って危険。で、設置された階段わきの茂みを下りました。(後ほど伺うと、現在は、点検の職員も使っていないとのことでした)
 
 急斜面なのに捕まるのはクマザサばかり。
 クマザサは、真っ直ぐ引っ張っている時にはよいのだけれど、すぐ折れるのが怖かったものでした。たまに風雪に耐えた木があると、これにつかまってようやく川面まで5メートルくらいの地点に。ここからが大変で、結局、滑り下りました。
 角度は35度くらいでしょうか。

 川面に横断するようにパイプ状の綱が張られていて、落ち口は一カ所。湯川の器具とは異なってました。設置された階段の真下には、太いパイプが二本通されていて、川に滔々と注ぎ込んでました。
透明の水に石灰が混じると泥色に変化。
川床には白い石灰が堆積していて、異様な光景でした。

 帰途の方が大変で、汗びっしょり。
 職人さんたちとあってもと思い、見まわして上流のなるい傾斜を、クマザサにつかまりながら、これは直線でしたから、折れるのは少なく助かりましたけれど。
 この間、たった一時間なのに久々に汗をかきました。
 首に巻きつけていた脱いだジャンパーを落としたことに気がつかず、やっと上ったもう少しだなと一息ついた斜面で、大木に背をかけてほっとしていたら、無いのに気がつき、そこにリュックをおいて、また下って探したのものです。が、容易にみつからず、いわゆるタヌキに化かされているのかなと一瞬思ったくらいです。結局、川岸かに2メートルくらいの処に落ちていたのです。
 ところが、今度は先ほどの大木がみつからず、瞬時、往生。記憶と言うのは役にたたず、山菜とりの方たちが山の中で迷うというのはさもあらんとの経験をしました。
 ほどなく、金具をたたく音がして、職人さんたちが午後の仕事を再開したようでした。時計をみたら、13時半。結構ゆっくりの昼やすみだったようです。
 車にもどり、一息ついて時刻を確かめると45分。

 さらに一回り、職人さんたちとも話を、道伝いに行くと、立ち入り禁止の立札。個人の所有地のようでした。
 そしてねありましたよ。香草温泉の文字も、
 
 帰りは先日、同行の皆さんを思い込みの投入場所にご案内してしまった際に通った、広い道路にかかる橋近くで、折しも散歩していた土地の男性にお目にかかって、端の上から、六合村の大パノラマを俯瞰しながら、大沢川の位置を伺いました。かなりな距離の上に、道路は交通止めですので、行ける手段がありませんでした。 なお、この間の蛇の丸焼き滋状の糞は、やはりクマのものでした。量的には意外に少ないんだなと変な関心です。
 
 品木ダム管理所に回り、いくつかの質問を行い、平日なので、久々に場内を見学しようと思いましたら、この日は定休日とのこと。 木曜日以外の午後4時まで可とのこと。
  さらに湯の湖に出て、五時近くになってから薄闇の中で、六合村の川筋の汚染度をみながら、ヒト山越えた山奥の頂上にある白根開善学校の構内をグルリと見てきました。もう授業は終わりらしく、寮にいらした指導者らしく、とても感じの良い女性の方に、敷地内に入らせて戴いた、お断りをひと言、述べさせていただきました。ご存じのように、中高一貫校で生徒数は80名戸のことでした。 周囲は一面の白樺林。下方の小倉集落に至るまで、目にしなかったので伺えば、元吉校長が、ここに建設された当時からの自然林のようでした。建学の精神を記しました門の空気と見事にマッチしたたたずまいでした。
 
 先日22日、湯の湖付近で落葉集めをしていたご夫婦に出会って、いろいろと湯の湖周辺のことを教えて頂いたたものでしたが、その落葉集めのことを思い出し、帰路の山道に降り積もった落葉を、持っていたビニール袋に私も詰めてきました。?詰め放題、しかも無料の落葉です。 
 
 帰途は同じ道は戻るのが嫌いなヒトですので、尻焼き温泉方面に下りました。しかし、辺りは真っ暗。本日も温泉に入らなかったことを思い出し、川原湯は5時で終了なので、もしかして入れたらと、尻焼き。花敷温泉方面に下ったのにかかわらず、工事中で夜間は交通止めでう回路へとの無情な標識。
 考えたら、今月は忙殺スケジュールの中、8日・22日・26日と八ッ場方面に行ったのに、三回とも川原湯温泉に入れなかった次第です。
  
 仕方なく、温泉卵をゆでながら、一人ポツンと足湯。ことさら温く感じられました。
 それから、相もかわらずの地元情報検討業務に専念。夜間でもお邪魔できるお宅に二軒ほどはしごして帰宅。

 午前中、往きにお目にかかった方の開口一番の言葉。
「な~に、ダムはまたできるようになるんだと」とおつしゃったのです。本日の署名提出と合わせて、八ッば現地ではそのような空気が流れているのでしょうか。気がかりです。
  


Posted by やんばちゃん at 23:58Comments(0)紹介

2009年11月25日

クマさんよ、出ないでよ!

 草津温泉の山間部には危険な場所もあります。
 その一つが、「万代鉱」。
 「バンダイコウ」と読むそうで、この万代鉱一帯は、立ち入り禁止区域(入るには許可が入ります)。それは硫化水素が出ている場合もあるからだそうです。
 実は、向う見ずなオバさんの単独行を心配して、ある方が(※22日にご一緒した方のお一人でもあります。皆さん、お忙しい方たちなので、またご一緒にとは切り出せrずにとは言いだせずにおります)、気がかりなのが万代鉱だと、メールにて教えてくださいました。本欄にて、お礼を申し上げます。
 この万代鉱も湯川に注ぎ込むものと思われますが、その品木ダムの石灰投入口に立ちますと、やや左手山なみの中復あたりから、真っ白な湯気がモウモウとあがっているのが視界に入ります。これがたぶん(今回は慎重にたぶん、と言っておきます)、万代鉱と思われます。
  白根山方向の国道沿いに油煙がたっているのは西の河原にそそぐもので、その先のホテルのそばの道を左折し、小一時間歩いた場所に、万代鉱の源泉はあるとのことです。

 本当は本日、行くつもりだったのですが、朝のうちの雨に出そびれてしまって、のばしたのです。
 でも、さすがに県北西部の冬の様子は未経験。怖くなったので、役場に電話して、香草付近のことを伺いました。
 ちなみに、冬の期間~5月の連休シーズンまで、長野県境と白根・草津高原ルートは全面交通止めになるのです。それだけに待ちに待った5月の初日、両脇数メートルの“雪の回廊”を走る爽快感は、たまらないものがあります。私も長野原町の方に乗せてもらって、一度だけ走ったことがありますが、青空に映える雪の白さとさわやかさは抜群。
雪の回廊とは、本当に絶妙なネーミングに感じられませんか。

 「香草という地名の辺りに行きたいのですが、万代鉱のように硫化水素が漂うような場所はないですよね」と問うと、香草近辺には、万代鉱のような区域はないけれど、なんとクマの出没地として、判例が役場には寄せられているとのことではありませんか。最初に対応してくださった女性の方は、自分はその辺りは行ったことないので、もっと詳しい者に代わります言って、代わってくださった男性職員も、「そこはクマの出没地として、今年も見たという情報が寄せられていますよ」という。その前に私はうっかり独りで行く旨をポロリと口にしていたらしく、「独りで行くのは危険ですよ」とも言われた。
 でも、この男性も町外れのその辺りには、訪れたことがないらしく、22日に訪れた谷沢川沿いの情景を伝えて、あの建物は何だったのかと問うても、「行ったことないから、わからない」とのこと。
 ともかく、スズなどは用意していけとのこと。クマよけ鈴は持っていないのだけれど……、買ものに行くほどのこともないでしょうと溜まりにたまっている雑用に追われ、時間的ゆとりもないまま、ついに夜となってしまった。ラジオなど音の出るものを持っていく心づもりでいますけれど……。
 それにしても谷沢川沿いの細道にあった幾つかの糞。「何だろうね。犬にしては細いし。ここまで散歩には来ないだろうしね」などと除けながら、タヌキかなと思っていたけれど、「もしかして、クマ」と言いあったけれど、本当にもしかしてだったのかも。
 タヌキは一定の場所で行い、貯めて置く習性だそうですけれど、クマというのは道端にヘビの丸焼き状態の糞をするものでしょうか。ご存じの方、お教えくださいませんか。

 ともかく、昨日、品木ダム管理所に場所の確認などを聞いた限りでは、工場の建物内部には立ち入り禁止とのこと。 で、「あのう近寄るとブザーなどなる仕掛けですか」と問うと、職員の方は「それは、ありませんけれど、寂しい処ですよ」と笑いながら言ってくださったけれど、クマのことは言って何もおっしゃていなかった。
 願わくば、石灰を運び入れる契約会社の職員さんの訪れる時間に、タイミングよく合えばいいなと思っている。  
 
 この年甲斐もなく無鉄砲なオバさんは、クマさん、あなたとののおつきあいの方法は、トンと存じませぬので、どうか、そちらで避けてくださいなと祈るしかありませんので……。
  


Posted by やんばちゃん at 22:17Comments(2)八ッ場に願う

2009年11月24日

香草中和工場、並びに常布の滝・香草温泉

 
 湯の湖にそそぎこむ川筋には湯川・谷沢川・大沢川の三系統があります。
 現在、谷沢川・大沢川の中和を行っている、香草(カクサ)中和工場について、集中して追っています。
 この香草は、二つの中和工場の中で、湯川筋の品木ダム管理所のように、一般公開されている中和工場と異なり、あまり知られておらず、その場所を御存じの方も少ないのではないでしょうか。
  実はかくいう私も、去る22日の日、充分な下調べもなしに勇んで出かけた上に、なまじな知識と思い込みで、香草中和工場と勘違いしていた山奥に、同行の方たちをご案内してしまったのでした。しかも、徒歩で行った、その場所が思っていたより山奥だったので、帰途もかなり時間を食ってしまいました。考えたら、規模が違いすぎてましたのに。
 で、ほどなく日没に近く、四輪駆動の車を持ち出して運転した下さった方は、夕刻に前橋に会議があるため、帰途につく時間もすきようとしていました。で、この日は断念した次第です。
 帰宅後、皆さんにご迷惑をおかけしたことを心苦しく感じながら、迂闊にも持ってはいても読みもしなかったパンフ類を丁寧に熟読。子供の頃から、いつもことが終わってから予習をするヒトのようです。
 
 さて、ご参考までに、
http://www.jogmec.go.jp/mric_web/prevention/technical/h181205_06okayama/okayama06.pdf
http://www.ktr.mlit.go.jp/sinaki/dam/H21zigyou.pdf

 香草中和工場の先の奥地には、草津・常布の滝(日本の滝100選)があります。
 しかもそのまた近くには、「香草温泉」なるものがあるとのこと。
 七年前の初夏、私は健脚ぞろいの仲間と一緒に、この常布の滝には訪れたことあります。が、温泉ありとは初耳。温泉と言っても「滝下の湯と言う野湯」ということで、何もない川の中の砂利を自分で掘って入るらしく、この道の先輩たちのご満悦の入浴シーンもブログなどにはあります。しかし、かなりの先達といえども、容易には探し出せずあきらめなければならない、秘湯とも記されています。
 ちなみに私たちはその七年前、滝を見下ろす展望台で「これ以上は、危険」と踏んで退却。滝下の川原にはおりませんでしたが、ともかく川床におりなければならなかったものと想像しています。

 ともかく、実地調査に行って参ります。
 孤軍奮闘のおばさんの独り探索です。どなたがご一緒に行ってくださる方、いらっしゃいませんか?
   


Posted by やんばちゃん at 23:22Comments(0)紹介

2009年11月23日

湯の湖 、上流域の心躍るミニトリップ

 22日実施した、品木中和工場→湯の湖→上流探索報告です。
 まずは、初めての方もいたので、草津町の温泉街はずれの湯川筋に設置された品木ダム水質管理所の中和工場周辺を見学。前回の8日の日に同じく、日曜日なので中に入れません。
 次に、湯の湖へ。
 この道は湯の湖への最短コース。夏には歩いて通りました。
 脱水工場の正面側にも足をのばしました、数年前からベルトコンベアーがとり外されています。
 最も変わったのは、つい最近完成したらしい、浚渫船「草津」の定位置だった場所の岸壁を埋め立てて建物が建てられたことです。さる8日の日の案内役として行った時に面喰ったのでしたが、草津は湖の右手に新しい道路と船着き場を造って移動していました。
 ここで、道を少々戻り、汚泥の乾燥場を二カ所持見て、三か所目の湖右手の高台へ。幸い休日だったので三か所とも中まで入りました。
 さらに大沢川沿いにくだり、縦断して谷沢川筋に行こうと思いましたら、交通止め。大沢川の土色の黄土色の水は、水は透明なものと思い込んでいる眼には、衝撃的でした。防災ダムの絶壁から滔々と流れ落ちる水。橋下に観測所がありました。土地の方にお聞きすると、一時はこのあたりで石灰水を流し込んでいたようでしたが、現在は中止されているとのことでした。

 仕方なく、谷沢川行きは最後にして、道なりに群馬鉄山へ。
 ここは群馬鉄山の持主の日本鋼管の私有地で、現在は「奥草津休暇村」となっていて、宿泊施設などが整っています。
 門をはいりかなり走ってから入場料210円を払います。採掘は1944(昭和19)年~1965(昭和40)年まで行われていた由。ここの鉄鉱石を運搬するために、突貫工事で進められたのが、現在の吾妻線であり、現在は廃止された大子線です。
 管理事務所の前の道の小道を行きますと、その尽きた川筋の両岸が手掘の跡地「穴地獄」。生ぬるく湯気のたちこめた川の中には、ここにしかないという、ク゜リーンのチャツボミコケがびっしりと川面を覆っていて、おもわず、「ワァー」と歓声がもれる景観でした。パンフレットや写真で見るのとは大違いの感動ものでした。
 源流は草津白根山から流れているとのことですが、足湯くらいはと思いもしましたが、それもぬるくてダメでした。ちなみに温度は25、6度くらいとのこと。
 PH2.8位の強酸性の中に生息するコケなのでした。そのつやつやとしたコケが、赤や黄色の鉱石の断崖に映えて、一見に値する景観です。
 
 最後に、湯の湖から草津市内にもどり、谷沢川上流の小道を観測所周辺を探索して帰途につきました。山間の木立を縫って走る谷沢川の流れを、落ちつくした木立越しに上から俯瞰するとまるで、黄土色の大蛇がのたくっているようでした。
 大沢川と谷沢川は湯川の色よりも濃い目の黄土色に感じられました。湯川も石灰の投入時は白濁していましたが、湯の湖にそそぎこむ時には、同じく泥色なのです。そして、湯の湖の真ん中付近は、おなじみのエメラルドグリーン。
  湖面は、ツートンカラーの色合いに彩られています。
  
 ある意味で、雪に閉ざされる前の絶好の機会だったかも知れませんでした。
 肝心の香草中和工場へは時間的に後日に。
  
(六合村パンフレットより)
 群馬鉄山は草津温泉の北に隣接するようです。旧群馬鉄山の跡地、かって露天掘りをした窪地には幻想的な「穴地獄」の風景が広がる。ビロードの絨毯を敷きつめたように、湧き出る鉱泉の流れの中に美しいチャツボミコケが自生する。強酸性泉の飛沫を浴びながら生育するという珍しい苔で、
日本では草津・阿蘇山に自生する貴重な植物である。

    


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2009年11月22日

八ッ場の命脈を信じ、かつ弾み車とならんことを 「あとがき」六

 拙著のあとがきの最後です。
 ようやく、長いあとがきに区切りがつきました。
 しばらくの間、時間に急かれて、手抜きに近いブログになりました……が、おかげさまで、こちらも区切りがつきました。
 八ッ場は、まだまだ混迷の夜明け前状態のようです。
 その意味で、「八ッ場の命脈を信じ、かつはずみ車とならんことを 」とこれまた長い題をつけてしまいました。
  どうか、弾み車となって、クルクルと動いてくれるといいのですが……
  耳元に残っている一節、確か「出雲のお国」の舞台で唄われ語句だったように記憶していますけれど、おぼろです。
     淀の川瀬の水車
     誰を待つやら、だれを待つやら、クルクルと
  このクルクルが欲しい、八ッ場の閉ざされた現実です。


 鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)「あとがき」より
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 ……けれども、月並みなきれい語で、拙筆を置いてはいけないこともある。
 「あの人たちは、自分の楽しみで八ッ場に来るんだいね」と、現地のほぼ同世代の女性が放った、建設反対の市民層の一部を評した言葉である。鋭い一撃であった。顔見知りになっての打ち解けた会話の中ではあったが、衝撃であった。「……私もそうなのよ」と添えつつ、こんなに現地の思いと運動が乖離しているのではダメだと打ちのめされた一瞬であった。
 加えて、やんば館の最初の幟旗ばたは、水色の地に「楽しく遊びながら、八ッ場ダムのすべてがわかる」と染め抜かれていた。神経を逆なでされた水没者が「楽しく遊びながら」とは何事かと抗議。現在のあずき色の地の「もっと知ってほしい 八ッ場ダムのこと」に変わった経過がある(このプリント代金二七万円との由)。それでもまだ、同館南東に設置された案内板には、「ちょっと寄り道 楽しく新発見」とある。
 駅前の「ようこそ、ダムに沈む」には、誰しも意表をつかれても、私も含めた何人の市民活動家たちが、無神経なキャッチフレーズに留意することもなく通り過ぎ、気がついても指摘には及んでいない。何にもまして、制作した国交省側の無神経さは、差別構造に根ざしているともいえる。現地との連帯は、こうした繊細な感情の襞が皮膚感覚で共通項として理解しあえる時、一歩前に出よう。その道のりはまだ遠く、深く自覚するしかない。
 ……二〇〇一年時のあの頃、私には本当の痛みがわからず、身軽にいつでも逃げることのできる“部外者”の言動を、無意識に行っていたかもしれないと、悔恨が胸元に押し寄せる。

 最後に、つたない行路を手探りでとぼとぼと我流に歩んできたにすぎない私に、二〇〇三年一二月一〇日、第七回「女性文化賞」を与え励ましてくださった詩人の高良留美子さんにお礼を申し上げる。
 高良さんは想像力の分野において、参議院議員だった母親の高良とみさんと同じく社会変革をめざされ、女性たちの何十歩も前を歩まれる先達として、心ひそかに私淑してきたお一人であった。その方が、高々とかざされる篝火の、その烽火の列に、集い連なれるうれしさはこの上ない喜びである。
 ご先祖の縁につながるという県西北部の八ッ場の地にご案内したこともまた、糸車のように廻り出して、刊行の礎となり得たことに思い馳せると、一連の縁をしかと感じてならない。
 出版に快く応じてくださった明石書店の石井昭男社長。大変な編集の労をおかけし献身的に尽くして下さった同編集部の朽見太朗さん、二宮裕史さん、萬屋真澄さんをはじめ、この間、お世話になった多くの皆様に(それは、心ならずも対立の構図とならざるを得なかった町・県・国の職員さんも含めて)、襟を正して、お詫びとお礼を申し上げる次第である。……それと、久森のタニシたちにも。
 八ッ場の不思議な命脈を信じて、この拙稿が運動のはずみ車として、少しでも動き出し、ダム阻止の何らかの糸口になれることを、ひたすら願う。
 その時こそ、きっとどこかであの深々とした遥かな眼差しで私の歩みを見守っていてくださるだろう、補償基準一式をくださった水没地のあの方の、痛みの譜にお応えできることにつながり得るものと信じて……、ひとまず拙筆を閉じたい。皆様、ありがとうございました。
  


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2009年11月21日

まだ閉じない、長い「あとがき」転載五

  なおも、拙著の「あとがき」からの転載です。


鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(200412月刊)「あとがき」より 
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 ダム計画というものは、暴れ川と同じように、時の流れと事情によって、変幻自在に流路変更するものと知悉した次第である。小さく産んで大きく育てるのだそうだが、もはや経済の疲弊が許さないだろう。小さな経費で地域や住民に大きな喜びを与えるのが、治世の基本だ。
 実生活では金銭に縁がなくそれゆえにか、税金のムダ遣いが気がかりなヒトである。行間から税のムダ遣いが漂わないものかとの思いもあって、今回はお感じのように可能な限り経費を記した次第であるが……。
 この間、見聞きした不可解な事実を「やんばのおかしな物語」として文中に挿入してみた(一一四頁、一二五頁参照)。
 これらは氷山の一角にすぎない。おかしいことをその都度おかしいといい切ってピリオドを打たない限り、ますますおかしくなる。どうでもよい瑣末なことではないかと、自重しひるみもしたが、こうした細部の積み重ねが、いつかは大きな事実をも瓦解させる要因の一つとなり得るであろうことを信じた。看破する素手の武器は、市民の側の丹念な記録しかないと思えるのだ。だから私は、この先も心して記録を採り続ける所存だ。  
 そして、このおかしな物語は、今後もたくさん出てくるだろう。
 また過去五〇年間を遡上すれば、数限りなく露呈する。
 水没地の方々は、それらの飲みこみ難い矛盾や悔しさ・憤りをないまぜにして、無理やり編まされた網目のような日々の行きつ戻りつのおぼつかない日常を生きてこられた。半世紀間という取り戻すことのできない歳月であったことを、再度記して、叫びにも似た稚拙な筆を置く。                          ※でも、まだしつこく続くんです
  


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2009年11月20日

春まで待てない! 湯の湖周辺の探索会

思いつきでまとまり、差し迫った日程の、とっておきのご案内です。
なんと、本日20日ひらめいて、急きょ、22日実施にまとまった大忙しの日程なのですけれど、ご都合付く方はそれこそ、大急ぎでご連絡ください。
 奥山に入るので多い方が賑やかで、クマも逃げるでしょう。

目下、ダム関係者の間で?脚光をあびている、 品木ダム・湯の湖探索への大急ぎのミニ・トリップの日程です。
実は、今月8日にも市民団体の方たちの案内を兼ねて、丁寧に回ったのですが、今回はもっと奥地の香草中和工場まで足をのばし、さらに時間があったら大沢川の流れもたどる。で、時間があってもなくても周辺の群馬鉄山跡地など、六合村にしぼっての探索会です。

 期日  11月22日 JR吾妻線 ・長野原草津口駅 10時頃
                    ( 高崎市イオン北側駐車場  8時半 )
 費用   特になし    ※昼食は個人持ち
 問い合わせ   027 373 5672            
           spq272s9@rondo.ocn.ne.jp
    ※ タオル一本御持参を。 温泉施設がいっぱいなので汗を流します。

 なぜ、急ぐかと言いますと、ほどなく雪に閉ざされてしまうからです。
 先日、行きました際、湯の湖右手側の高台に立ちますと、二つの川筋の河口が見張らせました。
 さらに右手には群馬鉄山があります。私はあるご高齢の群馬鉄山の研究者が案内してくれる時、いつも都合がつかなかったのです。「群馬鉄山にも行きたいね」となりました処,、参加されていて場所が分かるという一行の男性から、「春になったら案内」してもらえることになったのです。
 ところが、急にあいた22日。
 「よし今なら、まだ雪は大丈夫。行けるぞ」とひらめき 「品木ダムを観たい」と言っていた方に連絡すると、「ぜひ行きたい」とのこと。「じやあ、行こうか」となった次第。 幸い、8日に参加してくださった、群馬鉄山への道順を知っている方も同行願えることに。
 
 県境の山奥の風情にあふれたとっても良いコースです。
 私は白根山のコマクサの7月初旬、毎夏行われる草津町での二日間にわたるウオーキング大会の、ふつつかな司会役として参加するため、下見の時に六合村のもうひとつの中和工場・香草工場の谷沢川付近~湯の湖にいたる道は、部分的に歩いてきました。が、川筋をさかのぼり踏破することはしていなかったので、いつかとは考えていましたが、なかなか折がなくて……。来春までは待てないし、だから無茶でもやってしまう考えです。

 2000年1月、地元紙「サンデー・ジャーナル」に掲載し、拙著『「八ッ場ダムー足で記した現地ルポ』にも転載した「吾妻川の水質」の流れを追ったルポ「あなた、この水飲めますか?」は、たぶん、吾妻川一帯の川筋を追い、ひどい悪水の流れをまとめたものの最初ではなかったかと思います。編集長は大喜びで巻頭に掲げてくれ、写真もたくさん使ってくれたものでした。
 とりわけPH2→PH5程度に中和する過程、「品木ダム・湯の湖」の処は念入りに記したつもりです。

 この十年間、私もそうでしたが、 誰しも、「ヒ素まじりのこの悪水め!!」と一時は怒りにかられ夢中になるのですが、現在も飲まされているわけですし、追い詰めていくと整合性がなくなってしまう、不思議な“水ストーリー”なのです。
 ただし、ヒ素があることは事実なのですから、風評被害だなんだとおもねたことを言わないで、トコトン方策を探すべきではないかと、昨年三月の研究会発足の呼び掛けには、いささかの迷いもなしに応えています。
 
 2001年一月末に現地視察にみえた、公共事業チェック議員団の皆さん、当時の代表は中村敦夫さんでしたが、その御一行だった、農学博士の肩書きをお持ちだった議員さんは「ヒ素の分析をすべきだ」とのご示唆をくださいました。で、あちこち聞いてみたのですが、その頃、新治村で行っていた荏原製作所などが実施していた、その分析費用は莫大で、とても市民運動がもちあがる金額ではありませんでした。
 いま、再び持ち上がったこのヒ素問題が、よりよい方向へ位置づけられますように、祈っています。
   


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2009年11月19日

東電への迂回する水ストーリィ 「あとがき」転載四

 またも、拙著の「あとがき」からの転載です。

 現在、吾妻川水系の東京電力の水力発電所は一五あります。
 吾妻川の水のほとんどは、貝瀬や長野原地点で取水口から、導水管をとおって、松谷発電所にそそがれています。
 
 国交省は二〇〇八年九月一二日の第三回基本計画の変更により、八ッ場ダムの完成年度をさらに五年間延長して二〇一五年にするとともに、はっきりしてこなかった発電計画の追加を正式発表しました。
 なお、国が発電も行うことになれば、東電の持つ水利権に対して、国は莫大な補償金(減電補償)を支払う義務が発生するのです。この「減電補償」問題は一七年間にも及んで協議されてきた経過があります。
 ために以下の、二〇〇四年時における国交省への質問の際に、答弁をテープ起こししたにもかかわらず、意味不明であいまいな発言も止むをえなかったものかとも思われますが……、本当に意味不明な応えでした。最後に「まだ、計画変更があるんですか?」と疑問符を投げつけてますが、本当に第三回目の変更が、冒頭にしるしましたように、昨年九月行われたのでした。
 
 さて、五年後の二〇〇九年五月二七日付上毛新聞一面トップ記事、「発電量確保へ前進 導水路建設を協議」の見出しで、新たな導水路計画が打ちだされました。苦肉の策的な措置なのですが、ダム中止後はどう決着がつけられるのでしょうか。
 
鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)「あとがき」より
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 建設費には、東電に迂回する水量も含まれていた 
 さらにもう一つ、流れ続ける水のように追い続けてきた問題に、水利権の行方がある。
 第17章の「あなた、この水飲めますか」を記した一九九九年末頃、地元の方から「吾妻川の水は、ほとんど東電に使われている」ということを伺って以来、ずっと頭にあった。
 ただし、土地の者なら取水口がどこにあり、隧道はどこを通って鍛冶屋沢貯水池まで流れるのかくらい、一般常識として知っていることが、部外者にはその糸口にたどりつくのに長い時間を要するものである。「今は吾妻川の水が多いから」の言葉の背景一つでも、目の前の急務に追われている身には、聞き逃してしまう。
 普段は渡れるくらいの吾妻川の水量が、流されそうなほど大量になる変化に接して初めて不思議に感じることである。それとても長野原町に常駐しているわけではないから、前後の脈絡が不明で、上流で昨日、雷雨でもあったのであろうかとくらいにしか、平素は受け止めずに見過ごしてしまう。
 だが、私にもようやく己の目測で白砂川、吾妻川の川筋の細部が視野に収まった。この間さりげなく集めた関係機関からの証言の断片を武器にして、周辺を固めておいてから、国土交通省八ッ場ダム工事事務所に確認した。
 「総貯水量一億七五〇万トンに東電に迂回する水は含まれているのですか」と詰めた。「お上のいうことに、まさか嘘はありませんでしょね」と、「最後の一句」的な気概を持っていい放ったつもりである。そして、当初の「含まれてません」から「含まれています」いう回答を得た。
 目下、東京電力(株)と群馬県企業局が、吾妻川とダム計画地点上流で取水する水利使用料について、納入窓口である県土木整備局河川課河川管理グループに発電流水占用料の公開を求めている。
 以下は、八ッ場ダム工事事務所とのやりとり。
 「今ですね、東電の方とはまだしっかり決めごとができていないところがあるんですよ。これから調整しなければならないことがありまして」
――では、国交省はこんな基本的な貯水量とかを決める時に全然考慮していなかったと解釈していいんですか?
 「そういうことではなく、元々発電計画は今のところないと。うちの方の考えだとしたら、東電さんにはここの取水はしてもらわないつもりでいますからということから、本川に引ける分はそのまま入りますよという、考えのもとですね。要は目的云々といっていても、洪水調節があって、今度需用費の改正の中で流水の正常機能の維持が増えて、あと都市用水。で、発電はというのは今の事業計画だとない。その発電がのっかってきていないなかで、東電さんには今あるものの、減電補償をしなければならないんです」
――では、将来ダムができたとしても、発電はなしと考えていいんですか?
 「今現在はなし。ダムの目的にない。ただ、まだそこは今後、協議しなければならない。今現在はまだ決まっていない。相手が発電計画を持っていたら、協議しなければならない。相手が東電になるか県企業局になるか、それを含めて全然分かりません」
――将来、変更もあるやも知れないということですか?
 「そうなった場合は、基本計画の変更がありますよ」
――まだ、この後も計画変更があるんですか?
  


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2009年11月16日

墨塗り情報公開 「あとがき」転載三

 
鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)「あとがき」より
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 宙に浮いた補償基準書にはいつも背後から、背中を押されるような焦燥感につつかれていた。……参考図書でもないかと、ダム関連の出版社に問いあわせると皆無との由。しかも、「結局は個人の金のことに帰着する」問題ゆえにか、市民運動もタブー的に触れず、ほとんど運動の表舞台に出ず、多額の補償金は共感を呼ばないことも知った。
 逡巡した果てに結局、公にすることにした。念のため、関東・中部・九州地方整備局管轄のいくつかのダムの「ダム損失補償基準」の情報公開を正式にとってみた。当たり前のことながらいずれも非開示、価格はご丁寧にも墨塗り。
 「不開示とした部分とその理由」の欄には、
 「土地の取得単価及び補償単価は、他の情報と照合することにより、個別の補償額を推測され関係人の権利利益等を害するおそれがある。又、国の機関が行う事務又は事業に関する情報であって、公にすることにより当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれのある情報なので、法第五条第一号、第二号及び第六号に該当するため、これらの情報が記録されている部分を不開示とした」とほぼ同一の文言で、最後は開封する気にもなれなかった。
  


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2009年11月13日

反対運動の闘士達にお会いできて 「あとがき」転載二

  引き続き、拙著「あとがき」の転載を。

鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)「あとがき」より
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 「現地はそうっとしておき、立ち入らない」というのがその頃の運動の鉄則に近かった。が、これまでの稚拙な市民運動体験から「現地とつながらない運動はあり得ない」という思いがあった。
 その頃準備段階にあった「国交省に約束を守らせる会」の創立時のメンバーの方々は、「公表したってどうってこともねえよ」と快活にいい切って下さった。この言葉を杖に、八ッ場の心優しい風土にいざなわれるように、組織からも仕事からもほされてしまった素浪人の私は空白の一時期、頻繁に訪れることになり、今に続くご厄介をかけている。
 思うに“私への仕事づくり”の配慮と推察できる農作業の手伝い。各種のイベントで “にわか露天商”として日銭を稼ぐ際の農産物を廉価に分けてくださるなど、本当に心温まるご厚情の数々。物品を販売するなら、少しでも八ッ場にちなんだ品物をとの気持ちからだったが、むしろご面倒をおかけしたと痛感している。
 メンバーの皆さんは至らぬ私を叱責しつつも、存分な人間の響きを持っておつきあいくださっている。
 この場を借りて、心からの感謝を申し上げたい。
  
     「国交省に約束を守らせる会」成立に至る経緯
 実はこの前年の春の頃、薄いガリ刷りの記録集を手にし、それがうれしい交流の糸口になっていた。
 そこには、反対運動の盛んだった昭和四二年一二月一五日、雪の降りしきる中、雲林寺で開かれたムシロ旗を掲げての「八ッ場ダム総決起集会」の様子が記されていた。行間から噴出する怒りや熱のある論調は、どなたも鋭く的を得た発言で、今に新しく感動ものであった。
 この方たちはまだご存命だろうか、お目にかかりたいなと思いつつ時すぎたが、編集責任者のS・Mさんたち当時は若手だった数人がお元気だと教えて貰えた時には、小躍りしたものである。調印式の数ヵ月前と記憶する。直ちに電話をかけ、日時を決めるやいなや、珍しく素早く動いたのを記憶している。お訪ねしたある方は「来るんが遅すぎたい。せめて三年前だったらな、まだ何とかなった……んに~」と嘆息された。かつての闘士たちもダム推進の方向が定まり、諦めの中で所在なくたたずんでいられた時期であった。
 久しく情報分断されていた水没地内に、こまめに全国の動きを伝える一方、お会いしたAさんの話をBさん、Cさんにつなぎ、またAさんにとつないだ。
 およそ二年間の準備を経て、二〇〇二年三月、四期一六年の無投票となる町長選に異議を唱え、会員のKさんが出馬。絵ビラに代表のSさんが仮称として「国交省に約束を守らせる会」と用いた名称が正式名となった。水没地の空気はまだ硬いものがあったが、二〇〇一年六月の補償基準調印式の後、次々と破られていく約束ごとに不満がくすぶり、横の連携は急務だった。名称が建設を容認しているとの批判もあるが、あくまでも現地再建に関する、地権者の要求を貫くことでまとまった会であり、会員間の考えには、当然ながら温度差はある。
 同会は月一回程度の会合を重ね、二年後の今夏、五月に提示された下流の吾妻町の補償基準が、水没地よりも高いことを知ったことを契機に、一月余にも及ぶ、協議を重ね、この間の理不尽な国土交通省の一連の対応に声を上げた。
 水没地内への新聞折込による情報発信は、現在までに三回出された。№4の準備中である。内容はあくまでも現地再建に関する、水没当事者としての要求事項のみ。記すまでもないが、行動の根底には、自分達の補償額の多い少ないではなく、国のインチキに対しての止み難い怒りからであろう。そんな狭い了見の方たちではないことはよく知っている。
 思えば、諦観の中でやむなく崩れた住民運動が、良かれ悪しかれ再び動き出すまでには、五年弱の歳月が流れていた。
  


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2009年11月11日

今度は「あとがき」転載

 今晩も、拙著よりの転載をお許しを。
 まえがきが終了しので、今度は「あとがき」を。

鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)「あとがき」より
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 八ツ場の里は、訪れるたびに褐色の度を増していく。
 先日まであった家々が新たに取り壊され、一軒一軒と転居。生活の匂いの消えた空間が日々広がっている。赫く染められた川岸の色と同じく、ものみな褐色の風景の中に足を踏み入れるたびに、切なくてならない。
 でも、まだこの里に人間の響きあいと温みがある。

 三年前、そんな一筋の血の通いあいにも似た体験をした。補償交渉調印式が行われた二〇〇一年六月一四日、取材に訪れ、その帰途のことであった。
 「それじゃ、ゴミ箱の中に放りこんでおくから、黙って持って行けや」と沈黙の後、取材会場の片隅でお会いしたその方はポツリといった。半ば半信半疑で約束の時間に指定された場所を訪れ、容器の蓋を開けた。すると汚らしいビニール袋に包まれた補償基準の書類一式が本当にあった。「取扱注意」と明記され、右上に通し番号が記されていた。宅地の等級価格を筆頭に庭木や移転新築の際の上棟式の費用など、子細に記されていた。
 コピーであるらしいのは、無骨なホチキス止めで窺い知れた。どういう方だったのか今に至るまで分からない。あえて詮索もしない。ただ、深々とした眼差しと、ひずみに耐えに耐えてきた来し方を思わせる、そんな雰囲気の持ち主であった。
 あたかも、映像でしか知らない非合法下の受け渡し場面を髣髴とさせる、この劇的な方法で、私は水没世帯にしか渡されない大事な基準書をはからずも手にしたのであった。

 劇的ドラマは今に至るまで、続く。
 ついに迎えてしまった現実に打ちひしがれ、その夜、親交のあった人々に慰謝の電話をした。話しているうちに声が詰まってしまった。ある方に昼間の一件も何気なく伝えると、補償額の内容を記事化すると早合点されたらしい。このことに端を発し、まさにテンテン手毬の手毬糸のごとく、私の手をそれてとめどなく、妙な方向に展開することになり行き、ここに至る軌跡がある。
 当時私は、地元出版社の「ライター募集」の広告記事をこの二年前に紹介され、一行いくらのわずかな稿料でつましい生計を立てていた。出入りしたばかりの頃、編集長が八ッ場ダム阻止をめざす会の設立と役員構成を準備していた。きっかけは新聞記者時代の部下で、長野原町担当だったTさんの定年後のライフワーク構想と聞く。発足後、会社の一室がその事務所となり、事務局員まで手配。
 当然の成り行きでほどなく会員となり、ダム関連の取材をこなすうちに、急速にのめりこんで確かに有り余るほどの熱と覇気があった。が、全容はまだ朧ろな状態。価値も分からず、直接伝えてくれれば、感情に即さないことをする気などさらさらなかった。調印式などナンノソノの言動の裏に、部外者には窺い知れない水没当事者の複雑な痛みが折りたたまれていたのだろう。その襞に思い至らなかったことを反省し、お詫びをいいたい心境である。
 派生して、運動関係者が会社に直談判。「書かせない」と約束したそうで、もちろん私も納得。ところがここでもあっさりピリオドが打たれず、不確実な断片を編集長が執筆するに及び、結局はねじれにねじれた妙な表現の自由をめぐって、三六枚撮りを三本も撮った調印式の記事化はむろん、すでに入稿済みの原稿まで日の目を見ず、憤然と職を辞すまでに転化した。
 この社で味わった確執と経済的な極限は、もはや立ち上がるバネをも失いかけさせていた。自分では分からず気がつかない己の非はさておき、思い出すと年甲斐もなく涙がこみ上げてくる一瞬である。
 当時の言葉の断片やそれぞれの立場や心理を追うと、ムックリと起ち上がって一篇のストーリーが構築できるくらいだ。が、物語が如実に動き出すことを、自らの手で固く制御するしかない。
 八ッ場ダム五〇年の歴程が様々にもつれ、もつれた糸口を探すこともほぐすことも、不可能に近いことが、この鎖末な私事をもってしても想像できる。    (続く)    


Posted by やんばちゃん at 22:34Comments(0)八ッ場だより

2009年11月09日

ブログ不調の原因、わかりました。

 皆様へ

 過日、「プログの画面に文字が出ない」旨を記しましたが、原因がわかりました。
 拙著のまえがきを転載する際、付与されていたルビなどの記号が残っていたからでした。原稿の文章を「引用や転載などに便利だから」と、出版元から送信してもらっていたのを、コピーして用いていたのでしたが、その時に、このブログを太文字にしたりするなどとおなじようなレイアウトの機能の記号が残っていたからなのでした。
 気がついて、もしかしたらまだ残っているかもしれないと、丹念に見て行ったらあったのです。で、それを削除したら正常に作動しました。
 それまでは、とりわけ11/1付のそのブログは、私には見られず、管理画面でようやく確かめられるという有様なのでした。
 本当に機械はお利口なんですね。機種の違う遺物には、絶対拒否なのですから。

 皆さん、お騒がせいたしました。
 本当にメカにに弱いおばさんは弱りもの。

 たまには、スッキリとご報告のみで失礼します。  


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2009年11月08日

脱ダム下、八ッ場よ命を持て!  拙著転載・まえがき(最終) 

 本日も、かってながら、拙著のまえがきの最終を転載させていただきます。
 なお、これは5年前まで(2004年10月頃まで)の事実です。


鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)より
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   変容する水の作用を直視して 

 地上三二階、屋上まで含むと一六一メートルの新庁舎は、三方を東側から赤城・榛名・妙義の上毛三山に囲まれた平地の只中に際立ち、遠目からも分かる県内一のノッポビルである。建設当初、巨額の建設費への批判かわしか、職員の対応も良く「うちの階からの展望はいいんですよ。お寄り下さい」のサービス語まで発せられたものである。今や訪問客も多く、ランドマーク的な存在として定着しつつある。

 目はおのずと、県内西北部の吾妻川沿いの八ッ場ダム建設予定地に向く。
 渋川市から斜め北西部に目を向ける。探す目安として、まず利根川上流の中央より左手の、雪をかむった平らな山の連なり、頂上が平らな珍しい地形の山が白砂山である。わが八ッ場はその手前、やや右下にある。
 「群馬の川筋で残るのは県西北部の吾妻川のみとなりました。ですので」――と利根川上流部の“空白域”の洪水調節とやらの国土交通省の説明文句である。ダム建設ラッシュ時、水利権獲得のため、群馬の川筋はことごとくツバがつけられている。県内でただ一つ残された未開発の吾妻川。それ故になんとしても手つかずのままに残したい熱い思い入れが、護りたい側にはある。
 展望台直下に視点を移す。
 県庁北側眼下に広がる前橋公園沿いには、利根川本流に平行して流れる桜並木沿いの疎水がある。ここの川面の色は青一色にしか見えない利根川本流に比べ、濃目の抹茶色なのである。思わず、強酸性の吾妻川のPH2の水が、石灰によって中和された、湯の湖(吾妻郡六合村)の湖面の色を思い出させられてならない。同じ、利根川の水であるのに、なぜ脇を流れる疎水の色があのように変容してしまうのだろうか。水面は濁っていると直視できないものである。
 前橋公園の桜は勢いよく流れ去る疎水のため、水面に瞬時にも影をとどめないが、高崎城址のお濠端では土手の桜がよどんだ堀の水に映え、どこまでも桜の樹幹が水底深く果てなく広がり行く。
 そして夜半、ライトアップされ水面の濁りがひどければひどいほど、水面下に逆さまに映る地上の桜の輪郭は、くっきりと際立ち、凄絶かつ妖艶なのである。春宵のほほの照りにも似た昂ぶりから、思わず水中に飛びこみたくなるほど魅せられてならず、来る春ごとのつややかな紅色の吸引力となる。
 ……私にはこの“水の変容”が来る年も来る年も分からずに、今日に至っている。八ッ場ダム問題に触れて以来、ますますその混迷の度は強まってならない。
 変容というか変質の最たるものが、ダム建設ではないだろうか。
 
 吾妻川はPH2の毒水に近い。
 が、両側の山々から伝い流れる沢水は、純な水である。
 その清冽な水の流れはどこに葬り去られようとしているのだろうか。先々の日、せき止められた湖底でもがく、水たちの苦衷の波紋に思いがいく。
 不思議にも、八ッ場には命がある
 この日、感慨を持って展望台を後にした。
 もうじき、脱ダムの夜明けの風が吹く、と信じて……。長野県と長野原町を隔てるものはない。“吹かぬなら吹かしてみよう”の気概を心に持とうと。
 いみじくも、階下の二六階テラスには、県内の山を際立たせたジオラマができている(山々の高さのみ三倍に強調)。
 三方を山々の連なりに囲まれた、群馬県のありようが一望でき、しかも上から俯"瞰ができるというのは、山の裏側をも直視でき、全体図の中でより真実に迫れる利点がある。有田焼の釜場に特注し、焼度一〇〇〇度の高熱で焼いてあるそうで、土足で踏みつけることもできた。滑りやすいジオラマの上に意識的に立ち、建設地点を心してギュッと踏みつけ、身体を反転し、首都のある東南の方向に目を向ける。人の手によって作られた陶土なら、きっと打てば響く人温みが足底から伝わるはずと。
 八ッ場には、不思議にも命があるではないか。もうダメかと思うと、思わぬ方向転換があった。そうした蛇行上の闘争過程に縁取られてきた。
 若山牧水をはじめ、ここには文学における想像力、その蓄積にも似た命脈が連綿と宿っている。
 県内で生まれ育ったので、一九六〇年代後半たびたび報道された「八ッ場」の字面は新聞などで見知っていた。時過ぎ、一九九九年一一月初旬、川原湯を訪れた文人の取材で初めて訪れ、対岸の川原畑、とりわけ三つ堂のひなびた景観に衝撃的に魅了された。このお堂も早晩、沈む運命にさらされていると知ったことに、ダム問題には全くの無知ながら、私の八ッ場通いの端は発する。
 〝今はむかし〟の心なつかしい郷愁の地に足しげく通い、水没者の方々の人間味に触れ、そしてなじむたびに見聞きした矛盾の数々に突き動かされて、ほどなく疾走状態になった。
 原動力はこの日取材した牧水の八三年前の警告文――八ッ場ダムの話が持ちこまれた、およそ三〇年も前の文章なのであった。作家の心眼、培われた想像力としか思えない。五年前のその日、偶然にして探り当てたこの記述に、運命的な出会いを覚えてならなかった。
 ――「八ッ場には命がある」と単純直情的に信じた。半世紀もかろうじて持ちこたえられてきた背後には、眼に見えぬ祖霊たち、浮遊し時にはあらぶれざるを得ない、嘆きの産土の神々に守り抜かれているのではないかと、常にあらずの思いに打たれたものである。
 同時に、文学の不滅性と若い日に習い覚えた“想像力の革命”の語を想起。掌中にそっと温め、握りしめた。三つ堂の前の草の径は、旧信濃街道のなごり道である。その昔、幾多の旅人が往来した類い希れな歴史的空間を、昔日の息吹のままとどめ置き守り抜けないものかとの思いに駆られて、ますます前のめりの構えになったのは、むしろ必然的成り行きであった。
 少しでもダムという水の変質を、分析解明したくてならなくなった。
 濁った水底を凝視し、ダムの二文字と向きあい、稚拙ながらも人間の響きを持つように咀嚼・解体する方法を習い覚えようと、ひたすら足を使って、丸五ヵ年経つ。
 八ッ場の哀しくも野趣あふれ、心温める野辺に、時に怒りで言葉を周到に折りたたんでしまったのか、くぐもった口調の水没民のお宅の戸口にたたずむ。とある日は、恐る恐る出入り禁止の工事現場にひそかに踏みこむ。そしてためらいつつ意を決して国土交通省に電話。必要に迫られ閲覧室ならびに関係機関にと通うことになった。
 以下は、五感をフルに駆使して、水没地内の草道のみならず畦道にまで踏みこみ、追われいく人々の吐息にも似た思いを直接聞くに及び、耳朶を打つその一つひとつの疑問を、憤然としてつぶさに検証。怖いものしらずの手探りで、ダムにまつわる非人間性や不合理をたどたどしく学んだ、五年間のつたない記録である。

 ※ なお、第一部第11章まではルポの列記にて、地元郷土誌に連載したものです。
 水質や負担金など概要は、二〇〇〇年時に記した巻末の17章、18章を先にお読み頂くほうが、お分かりになりやすいかと存じます。最新の動きは各章の注をご参照下さい。また、ランダムな流れと重複箇所についてはお許しください。
  


Posted by やんばちゃん at 23:04Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月07日

利根川氾濫の歴史的過程を追う  拙著転載・まえがき(四)

 本日も『八ッ場ダムーー足で歩いた現地ルポ』のまえがき、その続きを。
 長すぎるまえがきの中で、この部分と末尾の群馬県庁のあたりは、ダム問題を逸脱して、何やら「前橋城ものがたり」的で、五年前の校正の時も、短く短く必要事項のみにと、腐心したものでした。もしくは全部伐採しようかなともかなり悩んだ個所です。
 けれど、利根川のことは、浅間山噴火との兼ね合いもありました。その導入部としてやはり乗せておこうと。
 書き下ろしでない場合の刊行にはつきものですが、当時、過去五年間発表してきた拙作の中から、全体のトーンに調和させ、重複させぬよう、どれをセレクトすべきか迷ったものでした。
 今回の転載にも、ここはパスしようかなとさへちらつき、逡巡気味なのですが……、
 

鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)より///////////////////////////////////////////////
  
前橋城と吾妻川の“危険な関係”度 

 この群馬県庁は利根川べりの旧庁舎脇、かつての前橋城本丸跡に一九九九(平成一一)年、新築完成した。水源県の名にちなんでか不思議にも、戦国の世から妙に水との因縁相克に彩られてきた。
 戦国時代の終息期頃までは、当時の技術にして簡単に橋がかけられる川幅であったらしいことが古文書の記述から憶測できる。が、江戸初期頃よりたびたび大きな洪水に見舞われ、川幅が押し広げられてしまって、その終わり頃に、現在のような広さになったとされている。
 “関東の華”とうたわれてきた厩橋は永禄三(一五六〇)年、長尾景虎(上杉謙信)が関東の拠点としたことに幕をあける。その後めまぐるしく城主は変転交代し、関が原の戦い後、天下制覇の徳川家康によって、譜代の酒井重忠に与えられ、ようやく安定。この時に家康から“関東の華”なる要所を表す名称が発せられたと今に伝えられる。
 酒井氏三代目・忠清は下馬将軍として名高く、九代にわたり一四八年間統治した後、姫路へ転封した。跡に入った松平氏の治世には、たびたびの氾濫にて侵食され、往生することになった。
 およそ一六五〇年代の頃(まだ酒井氏の治世の時)、流れを変えるために流路変更工事をしたところ、意に反して本丸北の高浜曲輪が直撃され、それ以降は城の崩壊を防ぐ手段がなくなったと前橋市史は伝える。
 利根川が最初に厩城に突き当たる場所(県庁のやや上流)には「お虎が渕」もある。伝承「お虎伝説」は、酒井の殿様に仕えた女性の怨念にまつわる話で、無実のお虎の恨みで毎年大洪水が起こり、城の西の端が欠落。ついには本丸まで流されてしまったと伝えている。
 たび重なる水害に加え、一七六七(明和四)年に起きた大火を機に同年、松平朝矩が見切りをつけて、川越に移城すると、厩城は取り壊され廃城となった。一八六〇年代に入り、財をなした生糸商人たちが再び築城。一八六七(慶応三)年、松平直克を呼び戻して城下町として活気を呈するまでは、前橋城下は寂れ果てていた。

      天明三年、浅間山の噴火 
 吾妻川との今に続く因果関係を追えば、一七八三(天明三)年、浅間山大噴火による浅間泥流は吾妻川を下り、渋川市の合流点で利根川伝いに流れた。浅間山は八ッ場ダム建設予定地上流にある。長野原町作成の二〇〇三年版「浅間山火山防災マップ」によれば、わずか二〇キロメートルしか離れておらず、今なお活火山なのである。土石流に巻きこまれた人々が銚子や江戸まで流された史実さえある。
 さらに約二万四〇〇〇年前の大噴火にさかのぼれば、前橋市内の岩神神社境内にある周囲六〇メートル、地表の高さ九メートル余、地下数メートルの深さの巨大な「岩神の飛石」もまた、泥流とともに押し流された地質と同じだと研究者は指摘している。この時の洪水により、川底が高くなって台地が形成されたのが前橋市周辺の地形とされている。
 
 災害の源は、いずれも吾妻川上流に起因する。
 浅間山はまたいつ何時大噴火が起きるか分からず、再び同じ軌跡を描くか、可能性は未知数といえども、常に間一髪の危険性にさらされている、今この時もである(現実に二〇〇四年九月一日噴火)。
 八ッ場ダム建設予定地一帯は浅間泥流に覆いつくされた、極めてもろい地質の全国有数の地すべり地帯なのである。地すべりの原因は水が浸透することにある。一帯の地質は大量の水を吸うと粘土状になり流れ出す特質のある、火山灰が主成分の安山岩質に覆われつくしているのである。
 県内でも下久保ダムにある譲原活断層とならぶ、二大活断層が走り、西上州から北側にかけて、この二つがミックスした災害がもたらされないとも限らず、その危険性は研究者によって指摘され続けている。現実に奈良県の大滝ダムの例がある。
 しかも、半世紀かかっても完成できず、ここまで長引いてきたのには建設できないそれなりの吾妻川の〝危ない水事情〟もまた歴然とある。
 上流の硫黄鉱山や温泉地からの強酸性の水、その中和に伴う石灰水や北軽井沢の農薬など混入した安全性の確立していない水質に加え、肝心の降雨量も少ない。狭隘な谷間は自然の洪水調節を果たし、ダムの必要性はどこにもないことが明白なのである(第17章「あなた、この水飲めますか」参照)。
 にもかかわらず新築に際して、またしても群馬県庁は厩城本丸跡地に建てられたのである。
 
 水没地での地元民同士のある夜の会合の席で、「なんで、あんな危ない利根川沿いに新しく県庁を建てたのだろうか」といぶかしがる長野原町住民がいた。この人は毎日、配達の仕事で行き来するJR線にも注目。戦中のあの突貫工事の最中なのに地盤のもろい箇所を見事に避けて、線路を高台に完成させた当時の技師の炯眼に瞠目しているとも語り添えた。出席者たちが異口同音に「本当だ」と相づちを打ち、「そういえば」と語り出した夜語りによれば、川原湯温泉駅は当初、現在の位置より北側の川原畑地域にある通称、聖天山付近の旧道に設置予定だった。が、地すべりがひどくて工事ができず、計画変更したそうである。吾妻線は群馬鉄山の鉄鉱石搬出のため、強制連行の朝鮮人労働者等を酷使し、二年後の一九四五年一月に完成。
 時経て、強引に国道一四五号線の付替工事を始めたが、やはり地すべりのために諦めたのか、本年二月頃は、山肌に測量用の赤白のバーが何本かうっちゃられたままになっていた。が、最近またパワーショベル五台が山肌にへばりつき、猛烈な勢いで切り崩している。
 
 このように先々の危険性は視野に入れず、何がなんでも「建設」の二文字に向かってひた走ってきた。それが、八ッ場ダム建設の軌跡である。
 繰り返すが、一六五〇年代に行われた流路変更工事が利根川氾濫の遠因であった。そして、今後も同じ轍を踏まないという確証はない。 (続く)  


Posted by やんばちゃん at 22:53Comments(0)八ッ場に願う

2009年11月06日

政権変われば評価も変わり 活劇調なり国会論戦

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 【2009年11月6日(金) 上毛新聞一面上段】http://www.jomo-news.co.jp/news/a/06/news02.htm
八ッ場問題 「地元要望受け提示」
  生活再建で馬渕副大臣 意見交換を要請

 馬渕副大臣は5日の記者会見で、中止後の地元住民の生活再建案について「国が提示するより、地域の要望をしっかり承り、調整した上で提示するのが望ましい」との考えをしめしました。
 ほんの少し、指標が示された思いがいたします。私は、まず住民の意向を聴くというのは、良いことと単純に受け止めて、新しい政府の上意下達でない姿勢を示すものと受け止めています。
 それに、先に提示すれば、反発は目に見えていて、新たな火種となりましょうし、地元で要望をまとめてもらった方が、そこからスタートすればよいのですから、軋轢も少なく、賢明な方法に思えます。
 何よりも、私たちが待ち望んでいる、意見交換会への一歩となりますよね。

  けれど、立場が違うと、上毛紙面の記述の「馬渕氏の発言で現時点で国交省が独自案を示す考えのないことが明らかになった」という見解も成り立つのですね。
 
 ただし、地元の意向をまとめるのは誰か、そこが焦眉の課題です。
 昨日、「どうなっていますか」とある筋に伺ったのでしたが、「今、打開策を考えている。もう少し待ってみてください」的な示唆をいただきました。今朝の報道をみて、これもその一つかなとひそかに合点。

  いま、活劇スタイルの国会論戦  
   
 目下、国会論戦沸騰中。
 新時代に向かって、この国の新しい規範が成立する過程でのやりしりは、活劇スタイル。下手などドキュメンタリーより面白い。
 ところで、本日の参議院予算委員会で八ッ場ダムを取り上げた、あの脇雅史議員(自民党改革クラブ)。情報によれば、元国交省河川部長との由。
 所用で聴きながらでかけたのですが、到着しても車をおりられず、息をのんで攻防を聴き入ってしまいました。
 繰り出す質問の裏には「(総選挙にまけて)悔しい、はないちもんめ」的に、底意地の悪い切り出し方でしたね。思い切り「勝ってうれしい、はないちもんめ」と勝ち誇った大声で高々と足あげて、返してあげればと感じたくらいです。
 けれど、民主党側はこらえてこらえて誠意をもって応えているのが、良く判りました。
 
 覆された朝は必ず、もたらされるものと 
        
 そして、最後に時間がなくなる直前に、裁判闘争での治水利水の部分の判決を持ち出してきたのです。
 最後にパッと、ダム反対側には、不利なことを出し、反論させることなくピリオド打ってしまうやり口に感じられて、なんともあと味が悪かったです。
 群馬県議会でも、とどめを刺したといわんばかりに、わざと「裁判では」と持ち出してきたものでした。まるで、親の金で金目の物を買った金持ち坊っちゃんが、勝ち誇っていわゆる見せびらかす時のような浅はかな手法にしか感じられません。
 確かに、敗訴にはまちが゜いありません。
 (こういう手口に使われるから、当初、裁判ということにはあまり乗り気ではなかったけれど、ヤル以上、群馬県民の一人として私的な立場考慮は抜きにしてかけ走るのは当たり前)
 ただし、これは前政権の判断であり、それに追従した司法の判断でしかない。
 早晩、真実のデーターに基づく新たな見解は出る。戦後の180度かわった思想が広まったように、覆された朝は必ず、もたらされる。
  
 (前にも記したが)、私はさる6/30の前橋地裁の閉廷直後、原告席から立ちあがったとたん、法廷の奥に消えていく松丸裁判長に対し、無意識のうちに、その背筋に指をさし、「今に見てらっしゃい。世の中が変わったら、アンタなんか、笑いもんだからね」とい放ったものでした。
 ほんとに、「今にみてらっしゃい」と言い切れる日の到来がもたらされることを夢見ています。


 皆さんも、下記の参議院インターネット中継をいかがですか。
 帰宅後、以前、聞いてお気に入りにいれてあるところをクリック。私にもたどり着けました。映像でみますと、リアルで、雰囲気もつぶさにわかります。時間にせかれているのに止めるに止められず興味つきません。
   http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php
 舛添要一さんの関連質問として二番手の質問者で、午前の部の最後です。
 午後が、川口順子。ついで、西田昌司、いずれも「自民党改革クラブ」。
 この西田という議員は鳩山・小沢の政治資金問題を追い続けている、論旨は本当に理路整然としていますが、怜悧なアジテーター? 
  後方の数名の?支援者らしき人たちに向かって「国民の皆さん! 」、右手に並ぶ政権党の議員団のヤジには、ことさらに「皆さん、恥ずかしくないんですか、ヤジをとばしている時じゃないでしょ! 放映されてますよ。国民の皆さんが観てますよ」とくりだすのでした。
  選挙戦前の7/4の参議院決算委員会質疑。6/29その他でも行っています。
 http://www.youtube.com/watch?v=Pkg7icMAcUU&NR=1
 
  


Posted by やんばちゃん at 23:30Comments(0)イベント/予定

2009年11月05日

前原さん、やっぱりお会いできません

 
 またも、「ダム中止」の前提条件が崩れない限り、今回も大臣さん、あなたにはあいません。
「私たちはあえないんです」と、かたくなに心を閉ざした八ッ場ダム関係者の皆さんたち。
 先月30日に3度目の打診があったようです。
“いつまで続くか、ぬかるみぞ”ですね。
 御参考までに、県内版報道記事を。
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 【2009年11月5日(木) 朝日新聞群馬版】
 http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000580911050001
  地元と意見交換会 前原国交相が打診 

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 【2009年11月5日(木) 上毛新聞一面上段】
 http://www.jomo-news.co.jp/news/a/05/news02.htm
  八ツ場問題で前原国交相が住民側に会談要請
   八ッ場問題 知事、年内実現目指す
..........................................
  ところで、今度の日曜日8日は、八ッ場の案内を頼まれています。
 今回の方たちは、紅葉よりも品木ダムが最優先のご所望ですので、その点は心配ないのですが、吾妻渓谷の紅葉は、もうたぶん、盛りにすぎたように感じられました。
 昨日4日の段階で、すでに色あせ、葉の落ちた枝も目立ってましたから。車を降りて渓谷まで足をのばせなかったので、谷底は判りませんが、国道沿いや大蓬莱山の景色には、10月中の照り輝く紅葉ではなかったです。
 途中の榛名山中は、数日前の初雪がうっすらと残っていて、湖面を見下ろせる高見の難所の道路は陽ざしの高い昼すぎなのに、少し凍てていて、もし、午前中だったら危なかったなとヒヤリ。
 まだまだ大丈夫と思っていたのでスノータイヤも履かずにいるんですけれど、もう、この山道を通るのは今日を限りにしないとムリだなと思いました。吾妻郡の中でも、榛名湖周辺が最も気温の低い場所に感じられます。
 で、八ッ場の紅葉はまだ大丈夫だろうなと、少し期待もあったのでしたが、真紅の色はもはや、国道沿いからは見出せませんでした。

    八日の日曜日、八ッ場で、野良弁食べてます 
 さて、昼食。
 これは枝葉末節なことがらですけれど、川原などでの炊飯とか。
 野外料理のお得意な方が、メンバーの中にいらっしゃる由で良かったです。子供のころから、、農繁期の炊きあがった釜や煮えたぎる鍋を田まで運び、そこで家族や親せき中で食べた昼食やお茶休み。なんともなつかしいものがよみがえってきてならず、野良弁や野原での食事が大好きな私は、とっても楽しみ。
 
 主催者の方から、キャンプ的雰囲気でとのご相談をうけて、当初はいつものように、あるお宅の脇の空地をおかりして、お弁当を使わさせて貰えないかなと心づもりしていたのです。
 もしくはもしまた、わがままが利いていただけるのなら、長野原産の採れたて新米ご飯に,、実だくさんの汁ものを作ってもらえないかな? と。不可なら、みんな野外料理がお好きな方たちらしいから、私たちが炊事場に入らせてもらって作らせてもらえないかななどとも。これだけでも良いし、何か温泉卵や青物などを2、3品、用意すれば、それで充分と心づもりしていました。
 
 しかし、さすがに険悪な空気漂う時期が時期だけに、これまでのようなご迷惑をかけられないなと心中、悩んでいました。
 実はある時、(?私の顔、あるかなしかの顔をたててくれたんだそうですが)、季節の採れたてのものをいっぱい出してくださって盛りだくさんの歓迎をしてくださったのです。心に残る昼食会として、今でも参加者の皆さんから喜ばれています。
 またある時の、畑地にゴザを拡げての野良弁スタイル形式に、私とそのお宅に頼まれたお手伝いの女性が汁もの、漬物などを次々と運んで、汁のおかわりに動きまわる姿に、農家で育ったという都会の年配の男性は、昔の母親の姿が重なるとおっしゃられ、感動の涙とともにとっても喜んでくだされたものでした。次にお目にかかった際にも、こちらは忘れているのに、「母親を思い出してとか」で…… ちょつと困惑の呈?
 それで、厚かましくもおそるおそる切り出したら、この日は所用があられてご都合悪いらしく、アッサリとおジャンに。

 そこで、主催者の方にご相談すると、野外料理一式道具は整っていて、とりわけその持主さんはお得意とかで安堵しました。久々の野良弁と相成りました。
 残るは場所。夏ではないから涼しさはいいのだけれど、ワサビが自生しているお気に入りの清流のほとりがあったのです。が、そこは今は無残にも工事中。
 でも、それじゃ、なんとも平板で無難で平板な場所だけれど、例の二号橋の眼下のやんば館前、久森水田あたりかなと思っています。この周囲の山々はまだ紅葉の色が残ってました。
 ずっと以前、夏時の青々とした水田をバックにコンサートをしたらよいだろうなとひらめいたものでした。野良着姿で土地の皆さんも気軽に参加できるような。そんな手作りの会をと。

 もしも、皆さんの中で、日曜日に八ッ場にお見えになられて、国道下の水田で盛り上がっている一団がありましたら、私たちですので、お声をかけてくださいな。みんな心やさしい方たちですから、汁もののいっぱいぐらい差し上げられると思います……?
 
 そうそう、参加者の皆さんにとっても良いオリジナルのおみやげになるからと、温泉卵用の卵を用意なされたらと一言添えるように伝えておいた、温泉たまごオバさんです。
 でも、川原湯神社下の温泉たまごが作れる場所、最近はいつも賑わっていますね。ちなみに草津温泉では作らせる処なし。

 前原さんを勝手に呼んじゃって、野外でフリートークしようか! 
 長野原町には、自然界と一緒になれて楽しめる得難い空間がいっぱいあるんです。
 こんな計画だって、今後の新しい町づくりの一環になりませんかしら? 
 都会人にとって、“水と空気と癒しの空間”、それを彩る採れたて野菜などが最大のご馳走なのですから。
 夢の夢ですけれど、前原大臣囲んで、誰でも出られる野外フリートークの会なんて、どうでしょうか。
 もう三回も県や町に打診しているんだし、前原さんが長野原に訪れるのは、自由なんだし……。膠着状態を脱するには、何か事を起こさないとダメでは?
 でも、そんなに単純明快かつ自由に考えさせないのが、また“政治”なんですよね。政治って人を幸せにするためにあるのに、哀しくて煩わしいこと限りなし。人の心を窮屈により窮屈に、縛り続ける作用しかはたさないんでしょうか。   


Posted by やんばちゃん at 21:12Comments(0)八ッ場だより