2009年11月22日
八ッ場の命脈を信じ、かつ弾み車とならんことを 「あとがき」六
拙著のあとがきの最後です。
ようやく、長いあとがきに区切りがつきました。
しばらくの間、時間に急かれて、手抜きに近いブログになりました……が、おかげさまで、こちらも区切りがつきました。
八ッ場は、まだまだ混迷の夜明け前状態のようです。
その意味で、「八ッ場の命脈を信じ、かつはずみ車とならんことを 」とこれまた長い題をつけてしまいました。
どうか、弾み車となって、クルクルと動いてくれるといいのですが……
耳元に残っている一節、確か「出雲のお国」の舞台で唄われ語句だったように記憶していますけれど、おぼろです。
淀の川瀬の水車
誰を待つやら、だれを待つやら、クルクルと
このクルクルが欲しい、八ッ場の閉ざされた現実です。
鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)「あとがき」より
/////////////////////////////////////////////
……けれども、月並みなきれい語で、拙筆を置いてはいけないこともある。
「あの人たちは、自分の楽しみで八ッ場に来るんだいね」と、現地のほぼ同世代の女性が放った、建設反対の市民層の一部を評した言葉である。鋭い一撃であった。顔見知りになっての打ち解けた会話の中ではあったが、衝撃であった。「……私もそうなのよ」と添えつつ、こんなに現地の思いと運動が乖離しているのではダメだと打ちのめされた一瞬であった。
加えて、やんば館の最初の幟旗ばたは、水色の地に「楽しく遊びながら、八ッ場ダムのすべてがわかる」と染め抜かれていた。神経を逆なでされた水没者が「楽しく遊びながら」とは何事かと抗議。現在のあずき色の地の「もっと知ってほしい 八ッ場ダムのこと」に変わった経過がある(このプリント代金二七万円との由)。それでもまだ、同館南東に設置された案内板には、「ちょっと寄り道 楽しく新発見」とある。
駅前の「ようこそ、ダムに沈む」には、誰しも意表をつかれても、私も含めた何人の市民活動家たちが、無神経なキャッチフレーズに留意することもなく通り過ぎ、気がついても指摘には及んでいない。何にもまして、制作した国交省側の無神経さは、差別構造に根ざしているともいえる。現地との連帯は、こうした繊細な感情の襞が皮膚感覚で共通項として理解しあえる時、一歩前に出よう。その道のりはまだ遠く、深く自覚するしかない。
……二〇〇一年時のあの頃、私には本当の痛みがわからず、身軽にいつでも逃げることのできる“部外者”の言動を、無意識に行っていたかもしれないと、悔恨が胸元に押し寄せる。
最後に、つたない行路を手探りでとぼとぼと我流に歩んできたにすぎない私に、二〇〇三年一二月一〇日、第七回「女性文化賞」を与え励ましてくださった詩人の高良留美子さんにお礼を申し上げる。
高良さんは想像力の分野において、参議院議員だった母親の高良とみさんと同じく社会変革をめざされ、女性たちの何十歩も前を歩まれる先達として、心ひそかに私淑してきたお一人であった。その方が、高々とかざされる篝火の、その烽火の列に、集い連なれるうれしさはこの上ない喜びである。
ご先祖の縁につながるという県西北部の八ッ場の地にご案内したこともまた、糸車のように廻り出して、刊行の礎となり得たことに思い馳せると、一連の縁をしかと感じてならない。
出版に快く応じてくださった明石書店の石井昭男社長。大変な編集の労をおかけし献身的に尽くして下さった同編集部の朽見太朗さん、二宮裕史さん、萬屋真澄さんをはじめ、この間、お世話になった多くの皆様に(それは、心ならずも対立の構図とならざるを得なかった町・県・国の職員さんも含めて)、襟を正して、お詫びとお礼を申し上げる次第である。……それと、久森のタニシたちにも。
八ッ場の不思議な命脈を信じて、この拙稿が運動のはずみ車として、少しでも動き出し、ダム阻止の何らかの糸口になれることを、ひたすら願う。
その時こそ、きっとどこかであの深々とした遥かな眼差しで私の歩みを見守っていてくださるだろう、補償基準一式をくださった水没地のあの方の、痛みの譜にお応えできることにつながり得るものと信じて……、ひとまず拙筆を閉じたい。皆様、ありがとうございました。
ようやく、長いあとがきに区切りがつきました。
しばらくの間、時間に急かれて、手抜きに近いブログになりました……が、おかげさまで、こちらも区切りがつきました。
八ッ場は、まだまだ混迷の夜明け前状態のようです。
その意味で、「八ッ場の命脈を信じ、かつはずみ車とならんことを 」とこれまた長い題をつけてしまいました。
どうか、弾み車となって、クルクルと動いてくれるといいのですが……
耳元に残っている一節、確か「出雲のお国」の舞台で唄われ語句だったように記憶していますけれど、おぼろです。
淀の川瀬の水車
誰を待つやら、だれを待つやら、クルクルと
このクルクルが欲しい、八ッ場の閉ざされた現実です。
鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)「あとがき」より
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……けれども、月並みなきれい語で、拙筆を置いてはいけないこともある。
「あの人たちは、自分の楽しみで八ッ場に来るんだいね」と、現地のほぼ同世代の女性が放った、建設反対の市民層の一部を評した言葉である。鋭い一撃であった。顔見知りになっての打ち解けた会話の中ではあったが、衝撃であった。「……私もそうなのよ」と添えつつ、こんなに現地の思いと運動が乖離しているのではダメだと打ちのめされた一瞬であった。
加えて、やんば館の最初の幟旗ばたは、水色の地に「楽しく遊びながら、八ッ場ダムのすべてがわかる」と染め抜かれていた。神経を逆なでされた水没者が「楽しく遊びながら」とは何事かと抗議。現在のあずき色の地の「もっと知ってほしい 八ッ場ダムのこと」に変わった経過がある(このプリント代金二七万円との由)。それでもまだ、同館南東に設置された案内板には、「ちょっと寄り道 楽しく新発見」とある。
駅前の「ようこそ、ダムに沈む」には、誰しも意表をつかれても、私も含めた何人の市民活動家たちが、無神経なキャッチフレーズに留意することもなく通り過ぎ、気がついても指摘には及んでいない。何にもまして、制作した国交省側の無神経さは、差別構造に根ざしているともいえる。現地との連帯は、こうした繊細な感情の襞が皮膚感覚で共通項として理解しあえる時、一歩前に出よう。その道のりはまだ遠く、深く自覚するしかない。
……二〇〇一年時のあの頃、私には本当の痛みがわからず、身軽にいつでも逃げることのできる“部外者”の言動を、無意識に行っていたかもしれないと、悔恨が胸元に押し寄せる。
最後に、つたない行路を手探りでとぼとぼと我流に歩んできたにすぎない私に、二〇〇三年一二月一〇日、第七回「女性文化賞」を与え励ましてくださった詩人の高良留美子さんにお礼を申し上げる。
高良さんは想像力の分野において、参議院議員だった母親の高良とみさんと同じく社会変革をめざされ、女性たちの何十歩も前を歩まれる先達として、心ひそかに私淑してきたお一人であった。その方が、高々とかざされる篝火の、その烽火の列に、集い連なれるうれしさはこの上ない喜びである。
ご先祖の縁につながるという県西北部の八ッ場の地にご案内したこともまた、糸車のように廻り出して、刊行の礎となり得たことに思い馳せると、一連の縁をしかと感じてならない。
出版に快く応じてくださった明石書店の石井昭男社長。大変な編集の労をおかけし献身的に尽くして下さった同編集部の朽見太朗さん、二宮裕史さん、萬屋真澄さんをはじめ、この間、お世話になった多くの皆様に(それは、心ならずも対立の構図とならざるを得なかった町・県・国の職員さんも含めて)、襟を正して、お詫びとお礼を申し上げる次第である。……それと、久森のタニシたちにも。
八ッ場の不思議な命脈を信じて、この拙稿が運動のはずみ車として、少しでも動き出し、ダム阻止の何らかの糸口になれることを、ひたすら願う。
その時こそ、きっとどこかであの深々とした遥かな眼差しで私の歩みを見守っていてくださるだろう、補償基準一式をくださった水没地のあの方の、痛みの譜にお応えできることにつながり得るものと信じて……、ひとまず拙筆を閉じたい。皆様、ありがとうございました。
Posted by やんばちゃん at 23:41│Comments(0)
│八ッ場だより