グンブロ広告
ビジネスライセンス料 3,000円/月
飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告 1,600円/月
お問い合わせは、 info@gunmawen.net本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。2012年08月29日
八ッ場のミョウガ畑で大奮闘
川原湯地区のあるお宅、(どこまでいったか不明なので、Pさん致します)のミョウガ畑です。
先週、お願いしてこの日の“ミョウガ狩り”とあいなりました。
うす陽のさす木立の中で、あえかな黄色い花をたよりに心ときめかせて、茎をかきわけて、なよなよとして神秘的な、ミョウガを探し出す作業は、心踊るひとときでした。
なお、いわゆるミョウガは、地下茎の先につく「花蕾」(からい)とのことです。花が咲いたのは、商品価値がなくなってしまい、本来は花の開花前の固いものが、珍重されています。
今年は、八ッ場のミョウカは少し遅れているとのことでしたが、ご覧のようにもはや、花ざかり。それでも、ようやく眼がなれてきた終わり頃、根元をよくみると、まだ開花前の硬いのもありました。
そこの段階で、ようやく最初に、この家のおじいちゃんが、見本として採られていたご教示、採られたミョウガを片手にしながら「枝を倒してもいいからね」と言われていた意味が判ったというおろかさでした。実際に作業をされていた時にはまだ、身支度と持参の昼食をたべようとしたりしていて、傍でみていなかったのでした。
その後、今度はQさん宅にて、トマト、トウモロコシなどを分けて戴き、泥だらけりミョウガをあらうために、不動の滝に直行。ここの清水は佳代ら湯地区の飲料水てなります。
その豊富な湧水で、泥を落とすなんてぜいたくきわまりありませんが……
約2時間ほどかけて採らせて戴いたものを、丁寧にこしらえながら洗っていたものでしたから、既に日没。車も3台ほど行きかっただけで、ほとんど車も通りません。
車の中の雑多な片付けごとをしながら、中腰のまま、なんと2時間余。時計は18時53分。頭上に2号橋の照明がほの明るくみえました。
痛む腰とずぶぬれの衣服のまま急いで、頼まれていたカメラの現像をお届けする約束をしたRさん宅へ。「上がって」といつものようにおっしゃってくださいましたけれど、本日はそれどころではなく、家に直行せざるを得ませんでした。
なんと、出がけに湯気で火傷して、ジンジンとした痛みにおそわれていた右手首の火傷の赤味が、清水であらっている間に消えたらしく、走り出した車の中で、あらためて痛みが失せているのに気がついた次第。
屋敷内に清水を引き込んだSさんは、農産物を清水で洗うと、「日持ちも風味もいい」と言ってました。
不動の滝のこの水は、現在、吾妻川に流れこんでますが、もしダムができれば、この一帯は水底になります。
もったいない限りです。
2012年08月28日
25日土曜日の八ッ場です その二・「旅館移転の無情」
今度は、川原湯地区・打越代替地の旅館建設の様子を。
現在、営業中の五軒の旅館中、老舗大手旅館と心ぬくもる家族経営の旅館さん二軒が、新築中です。
いずれも、青写真に描かれていた、配湯搭の設置された「温泉街ゾーン」を避けられての住宅街とその外れへの進出です。
移転一番手の町長さんのいられる区域は、「切土」による工法地区。
信頼できる筋の学者さんの話によれば、「切土」≒「安全」とは必ずししもいいきれないそうですが、「切土」は「盛土」に比べて、より安全とは言われてまいりました。
で、限られたその区域の?奪いあいもあったとかなかったとかの流説あり。
写真右上のノリ面真下を、付替え県道が走っています。
この切土区域の吾妻峡トンネルと川原湯トンネルを結ぶ、付替え県道に面しての広大な敷地に、老舗旅館さんの凝った日本風旅館がたてられるようです。
左手の建物はご自宅。すでに完成間際のようで、この日は外回りの配管工事が行われていました。
右手奥の黒い2階建て建物は倉庫とのことで、少なくとも1年半ほど前に出現し、黒塗りの建物は目をひいたものでした。倉庫前に庭園が築かれるようで、倉庫に続いて植木類も植栽されていましたが、ご覧のようにもうかなり成長し、一つの風景になっていました。
敷地の真ん中のアプローチ道路が走り、写真左手奥のご自宅に続いて、手前部分が旅館のようです。右手の。その隣の白い四角の組み立て建物は県外からの施行業者さんの建設用の建物のようです。
真ん中の2階建建物は、隣接する一般住宅で、この境界には町道が走ります。なお、敷地内の湾曲道路は私道なのかどうかはわかりません。
次は、吾妻渓谷遊歩道入口からの進入路を登ったところにある小公園の真向かい、ノリ面に面した、見晴らしの良い分譲地を求めた旅館さんの造成工事です。もう数年くらい前になりましょうか、このノリ面に土地の皆さんが植木類を植栽していられましたが、ここももうかなり大きく茂ってました。
写真に続く一段下の区画も求められたとかで、このお宅もかなり広い土地です。下の敷地には趣味の工房も建てられるご計画とか。近隣の方の話では、「あそこは景色は抜群だぜ」とのことです。
様々な経緯がありました。
60年もの歳月が流れました。
本来ならば、レトロな雰囲気を残る現在の温泉街がベストと想う者の一人で、13年間、再三、指摘し続けてまいりました。
……でも、究極的には、その土地に住む当時者の方のご意思が最優先せざるを得ないものとも想い、その姿勢へも若干の通路をあけ、通してまいりました。
まして、2番目にご紹介したお宅は、ご先代の頃から、私たち市民運動が、何かにつけてお世話になってきた旅館さんです。宿泊させて戴いてみて、確かに客室はともかく、老朽化した細部を垣間させていただくと、明るい平地に移り住みたいお気持ちはよくわかります。まさに国策によって、耐えがたきを耐え、蛇の生殺しといわれる長い忍苦の日々を行きぬいてこられたのですから。
国の既成事実作りの作戦に乗るようで心もとありませんが、確かにもう、ここまで造成が進めば、引き返せと口にすることは、物理的にも人情としてムリでしょう。
願わくば、多年にわたる翻弄の歳月の果てに、大金を投じて、ここに永住の地を求められて移り住まわれる皆さんの未来永劫のご繁栄とご安泰を、心から切望してやみません。
ために、代替地の安全性をひたすら、祈ります。
それしか、手立てがなくなりました。
あまりに杜撰な検証とやらに怒りにかられ、昨年末の出来レースそのものの「事業評価委員会」の取材後には、東大教授の委員長にむかって「学者は、国は、事故が起きた時、どうにやって責任をとるんですか!!」と詰めよってしまったこともありました。
ために、なけなしの身銭をきって「ダム建設と生活再建は一体と思い込まされていませんか」のチラシ配布を続けてきました。
それでもなお、絶対に地すべりの危険性があるダム湖を造ってはならないと強く思います。
ダム湖畔で、で栄えた温泉地はありません。
もうこれ以上、苦難の道筋をたどらされて戴きたくないのです。
今後も、この一点に収斂して、闘います。
かつて戦争の愚かさ、空しさを叫んだ、いわゆる反戦主義者への評価がひっくりかえったのと同じく、仮に結末は負け戦でも…… いつかある、歴史の転換日を信じます。
環境の世紀の今日、私たちの主張の正義性が、必ず陽の目を見る、未来のその日がもたらされることを信じて……
現在、営業中の五軒の旅館中、老舗大手旅館と心ぬくもる家族経営の旅館さん二軒が、新築中です。
いずれも、青写真に描かれていた、配湯搭の設置された「温泉街ゾーン」を避けられての住宅街とその外れへの進出です。
移転一番手の町長さんのいられる区域は、「切土」による工法地区。
信頼できる筋の学者さんの話によれば、「切土」≒「安全」とは必ずししもいいきれないそうですが、「切土」は「盛土」に比べて、より安全とは言われてまいりました。
で、限られたその区域の?奪いあいもあったとかなかったとかの流説あり。
写真右上のノリ面真下を、付替え県道が走っています。
この切土区域の吾妻峡トンネルと川原湯トンネルを結ぶ、付替え県道に面しての広大な敷地に、老舗旅館さんの凝った日本風旅館がたてられるようです。
左手の建物はご自宅。すでに完成間際のようで、この日は外回りの配管工事が行われていました。
右手奥の黒い2階建て建物は倉庫とのことで、少なくとも1年半ほど前に出現し、黒塗りの建物は目をひいたものでした。倉庫前に庭園が築かれるようで、倉庫に続いて植木類も植栽されていましたが、ご覧のようにもうかなり成長し、一つの風景になっていました。
敷地の真ん中のアプローチ道路が走り、写真左手奥のご自宅に続いて、手前部分が旅館のようです。右手の。その隣の白い四角の組み立て建物は県外からの施行業者さんの建設用の建物のようです。
真ん中の2階建建物は、隣接する一般住宅で、この境界には町道が走ります。なお、敷地内の湾曲道路は私道なのかどうかはわかりません。
次は、吾妻渓谷遊歩道入口からの進入路を登ったところにある小公園の真向かい、ノリ面に面した、見晴らしの良い分譲地を求めた旅館さんの造成工事です。もう数年くらい前になりましょうか、このノリ面に土地の皆さんが植木類を植栽していられましたが、ここももうかなり大きく茂ってました。
写真に続く一段下の区画も求められたとかで、このお宅もかなり広い土地です。下の敷地には趣味の工房も建てられるご計画とか。近隣の方の話では、「あそこは景色は抜群だぜ」とのことです。
様々な経緯がありました。
60年もの歳月が流れました。
本来ならば、レトロな雰囲気を残る現在の温泉街がベストと想う者の一人で、13年間、再三、指摘し続けてまいりました。
……でも、究極的には、その土地に住む当時者の方のご意思が最優先せざるを得ないものとも想い、その姿勢へも若干の通路をあけ、通してまいりました。
まして、2番目にご紹介したお宅は、ご先代の頃から、私たち市民運動が、何かにつけてお世話になってきた旅館さんです。宿泊させて戴いてみて、確かに客室はともかく、老朽化した細部を垣間させていただくと、明るい平地に移り住みたいお気持ちはよくわかります。まさに国策によって、耐えがたきを耐え、蛇の生殺しといわれる長い忍苦の日々を行きぬいてこられたのですから。
国の既成事実作りの作戦に乗るようで心もとありませんが、確かにもう、ここまで造成が進めば、引き返せと口にすることは、物理的にも人情としてムリでしょう。
願わくば、多年にわたる翻弄の歳月の果てに、大金を投じて、ここに永住の地を求められて移り住まわれる皆さんの未来永劫のご繁栄とご安泰を、心から切望してやみません。
ために、代替地の安全性をひたすら、祈ります。
それしか、手立てがなくなりました。
あまりに杜撰な検証とやらに怒りにかられ、昨年末の出来レースそのものの「事業評価委員会」の取材後には、東大教授の委員長にむかって「学者は、国は、事故が起きた時、どうにやって責任をとるんですか!!」と詰めよってしまったこともありました。
ために、なけなしの身銭をきって「ダム建設と生活再建は一体と思い込まされていませんか」のチラシ配布を続けてきました。
それでもなお、絶対に地すべりの危険性があるダム湖を造ってはならないと強く思います。
ダム湖畔で、で栄えた温泉地はありません。
もうこれ以上、苦難の道筋をたどらされて戴きたくないのです。
今後も、この一点に収斂して、闘います。
かつて戦争の愚かさ、空しさを叫んだ、いわゆる反戦主義者への評価がひっくりかえったのと同じく、仮に結末は負け戦でも…… いつかある、歴史の転換日を信じます。
環境の世紀の今日、私たちの主張の正義性が、必ず陽の目を見る、未来のその日がもたらされることを信じて……
2012年08月27日
25日土曜日の八ッ場です その一・「決壊軌跡と同じ一号橋」
まずは、川原湯の打越代替地側から見た1号橋の進捗度を。
奥から、対岸の川原畑にたてられた「P2」。続いて、川原湯温泉入口のアーチ左手の旧「ふるさと」さんの跡地に建つ「P3」。そして、手前が「P4」。
次の写真をご覧ください。
写真中央の流路工は、ご記憶に新しい、昨年の8月7日の豪雨による決壊の起きた、あの打越沢の流路工です。
それにしても、豪雨が流れ下ったと同じその道筋に、まっすぐに延びる1号橋。想えば、記憶に残る、同一軌跡のそら恐ろしさ。
詳しくは、ご参考までに2011年8月8日以降の本欄をご覧ください。
2012年08月24日
暑さの中、10/14(日)の学習会準備に燃えてます
暑いですね。
去る22日夜、8月の定例会を持ちました。
当会の定例会は毎月第3火曜日夜です。
その席で、以下の学習会を立ち上げることが、急遽、まとまってしまいました。
故会は珍しくすばやい対応にて、早速、翌23日は ご講師への依頼や日時のつめ、会場押さえなど、大格闘。そして、昨日24日は、口でいうよりもと、早くもチラシ(下書き)を作成。打ち上げたそれを持って、会場予約などに突進。この暑さの中を、クーラーのない部屋で、全身萌えて、心熱くして飛び回っています。
(というのは、7月当初より、ある現職国会議員さんお二人による現地講演会を考えてきたのでしたが、にわかに色濃くなった衆議院解散ムードに、お盆明けに事務所の秘書さんと相談して、断念した経緯があるのです)。
願わくば、お二人とも無事に再選を果たされて、念願の現地講演会の実現を願ってます。
約2ヶ月間、はやる心を抑えて、きたその反動で、例にあらずの、今回の対応となったのでしょう。……でも、「スーパー堤防問題」はお願いしたまま約2週間も、先の講演会とのからみもあり、そのままという非礼もありました。
みなさん、10/14(日)の午後はあけておいて、是非、ご参加ください。
まだ仮題ですし、下書きですが、要項のみを。カラーチラシをそのまま転載できればよいのですけれど……
大型公共事業 ?逆戻りって変ですね!
問う、消費税値上げ
緊急 学習会
日時:10月14日(日)13時半~16時
場所: 未定
内容: 表題のもと、環境問題を軸にして、
問題提起:青山貞一(東京都市大学名誉教授・環境行政改革ファーラム主催)60分
具体例として
① 「江戸川区のスーパー堤防の実態」 40分
渡邊拓美(「スーパー堤防・街づくりを考える会」運営委員)」
② 「八ッ場ダムをとりまく、現況」 10分 高橋聡 (研究者・本会会員)
※残時間約40分は、質問と小休止にあてる
(写真も添えると「グンブロ」さんの紹介欄の写真コーナーにも載.り、かつてはランクアップにつながりましたので、入れてまいりましたが、現在は「ベスト20」は廃止され関係ないのですが…… でも、あった方がしまりますね)
で、本日の1枚は、全く脈絡ないのですが、なにやら少し涼感があるように感じられますので、8/18の川原湯温泉・王湯前ら鎮座する、松尾芭蕉の句碑を。最も右手のです。
1999年、「川原湯温泉を訪れた文人墨客」の取材ごとで、初めて川原湯に足を踏み入れた際、真っ先に採ったのが、この石仏群でした。でも、あまりにもポピュラーなので、本欄では初めて出します。
芭蕉の代表句が刻まれています。
山路来て 何やら床し 菫草(※碑文のママです)
何らかのゆかりがあって、そこに句碑があると考えるが不通ですが、……でも、この句はみちのくへの旅路の際に生まれたもの。さすがに、当時の私でもいぶかしく感じて調べてみましたら、芭蕉はここには訪れていなかったのでした。
で、実際に訪れた歌人・若山牧水をとりあげ、その時に、『水上紀行』など牧水の紀行文の中ら、かの警告文「この渓の水がの記述」を見つけ出し、記しましたら、編集長が「お手柄」として冊子のトップに拙稿をもっていってくれたのでした。以後、八ッ場問題を記すと、幾ばくかの稿料が得られたので、まさに突進。
そして、これが、『奥の細道』ならぬ、まさにわが『八ッ場への細道』への発端となったのでした。
去る22日夜、8月の定例会を持ちました。
当会の定例会は毎月第3火曜日夜です。
その席で、以下の学習会を立ち上げることが、急遽、まとまってしまいました。
故会は珍しくすばやい対応にて、早速、翌23日は ご講師への依頼や日時のつめ、会場押さえなど、大格闘。そして、昨日24日は、口でいうよりもと、早くもチラシ(下書き)を作成。打ち上げたそれを持って、会場予約などに突進。この暑さの中を、クーラーのない部屋で、全身萌えて、心熱くして飛び回っています。
(というのは、7月当初より、ある現職国会議員さんお二人による現地講演会を考えてきたのでしたが、にわかに色濃くなった衆議院解散ムードに、お盆明けに事務所の秘書さんと相談して、断念した経緯があるのです)。
願わくば、お二人とも無事に再選を果たされて、念願の現地講演会の実現を願ってます。
約2ヶ月間、はやる心を抑えて、きたその反動で、例にあらずの、今回の対応となったのでしょう。……でも、「スーパー堤防問題」はお願いしたまま約2週間も、先の講演会とのからみもあり、そのままという非礼もありました。
みなさん、10/14(日)の午後はあけておいて、是非、ご参加ください。
まだ仮題ですし、下書きですが、要項のみを。カラーチラシをそのまま転載できればよいのですけれど……
大型公共事業 ?逆戻りって変ですね!
問う、消費税値上げ
緊急 学習会
日時:10月14日(日)13時半~16時
場所: 未定
内容: 表題のもと、環境問題を軸にして、
問題提起:青山貞一(東京都市大学名誉教授・環境行政改革ファーラム主催)60分
具体例として
① 「江戸川区のスーパー堤防の実態」 40分
渡邊拓美(「スーパー堤防・街づくりを考える会」運営委員)」
② 「八ッ場ダムをとりまく、現況」 10分 高橋聡 (研究者・本会会員)
※残時間約40分は、質問と小休止にあてる
(写真も添えると「グンブロ」さんの紹介欄の写真コーナーにも載.り、かつてはランクアップにつながりましたので、入れてまいりましたが、現在は「ベスト20」は廃止され関係ないのですが…… でも、あった方がしまりますね)
で、本日の1枚は、全く脈絡ないのですが、なにやら少し涼感があるように感じられますので、8/18の川原湯温泉・王湯前ら鎮座する、松尾芭蕉の句碑を。最も右手のです。
1999年、「川原湯温泉を訪れた文人墨客」の取材ごとで、初めて川原湯に足を踏み入れた際、真っ先に採ったのが、この石仏群でした。でも、あまりにもポピュラーなので、本欄では初めて出します。
芭蕉の代表句が刻まれています。
山路来て 何やら床し 菫草(※碑文のママです)
何らかのゆかりがあって、そこに句碑があると考えるが不通ですが、……でも、この句はみちのくへの旅路の際に生まれたもの。さすがに、当時の私でもいぶかしく感じて調べてみましたら、芭蕉はここには訪れていなかったのでした。
で、実際に訪れた歌人・若山牧水をとりあげ、その時に、『水上紀行』など牧水の紀行文の中ら、かの警告文「この渓の水がの記述」を見つけ出し、記しましたら、編集長が「お手柄」として冊子のトップに拙稿をもっていってくれたのでした。以後、八ッ場問題を記すと、幾ばくかの稿料が得られたので、まさに突進。
そして、これが、『奥の細道』ならぬ、まさにわが『八ッ場への細道』への発端となったのでした。
2012年08月20日
8/18の、上湯原の今の工事風景を
JR線工事の神社方向を。奥の上方に、JR線とその上方に川原湯神社上の川原湯トンネルの坑口がみえますでしょ。
その反対方向、長野原草津口駅方向です。
そして下の写真、山側に向かっての工事風景です。
2012年08月19日
8/18 ここまで進んでました。川原畑からの一号橋
昨日18日の一号橋の写真です。
土曜日でしたので、もちろん工事は休み。
上は川原湯側。下は、対岸の川原畑側からです。
不鮮明なのは、夕刻も夕刻19時7分でしたから、無理からぬことでした。
昨日は写真はことごとく失敗なのでしたが……
16時近く、川原湯温泉上空の空模様はあやしく、雷鳴の音が迫ってました。雨もパラパラと。おりしも王湯の真ん前。で、久しぶりにお湯につかりながら、やり過ごそうとしたのでしたが、これがまったくの的外れに。
浴槽につかり始めても一向に雨がふり出さないのです。で、結局、川原湯付近を雷様はパス。
でも、話し出したら止まらない、どっかの誰かさん。つい牢名主のごとく、「八ッ場ダムの悪弊」の説明ともいうべきおしゃべりに無中に。終了時間18時に20分ほど残して退室ならぬ。退湯。
それから、くだってきての川原畑入りなのでした。
その後、地域の役員さんに偶然、道でお会いして、またひとしきり。
2012年08月16日
樹に八ッ場並みのマーカーありて
八ッ場の地で、伐採される樹には、記しが付けられます。
それは色ペンキによるものであったり、テープが蒔きつけられたりしますが、木立の中に入って、その記しをみつけると、シュンとするものです。
ところが、この春頃、突然、写真のわが家のヒマラヤ杉の根元に赤いマーカーがつけられたのでした。枯れた竹が横に倒れているちょっと上です(左脇の写真は、全体)。
で、八ッ場の「樹木の運命」の現実を知っている身には、心地よいものではなく、「誰が勝手にこんなこと」と怒りがわいたものでした。
もちろん、「どうして」と詰問すると、家人のしわざではありませんでした。ここの場所の耳目もとは山林。祖父母たちが耕して、子供の頃は畑地にしてました。しかし、その後、手入れしないままのここ40年間ほどの間に、すっかり竹やぶに。長年、春のタケノコ採りに奔走、格闘してきたのでした。けれど、人さまにあげるに臆する細い細い真竹が、ようやく人なみの太さになりつつあった先年、伐採。ようやくここまで整地が進んできていたのでした。
確かに、この土地の木々類の伐採の話はでてました。
一程度になった木は伐採しなければならず、後日のことを想って、親族の悩みの一つとなってはいました。
でも、親族中、独りで反対印を掲げてきました。
子供の頃からこの辺りでは珍しく、小学校の庭しかなかったこの木が心密かに誇りだったのでした。
同じくこの土地には、およそ百年は経ていても、一向にギンナンの実がならないイチョウの雄木があります。春さきに白い花粉が舞い、あたり一帯のギンナンに実をつけさせているのです。……役たたすながら、わが身に例えて、何やら親近感があり、かつて、つたない小説の中で、たとえにもちいたものでした。
それだけに伐採はおしいのです。
さすがに詳述はやめますが、お盆近くになって、不意に降ってわいたホッとな土地問題の過程で、赤ペンキを塗った、非常識な“犯人”は、ほぼ確定。
それにしても、ご先祖代々、長年の愛着ある木々を伐採して、なじみのある庭土を二度と踏みしめることのできない、各地のダム建設地の方々の痛みは、いかばかりだったことでしょう。そして、現在進行形の八ッ場の方たちは……
跡形も残らず、一瞬にして失わなければならなかった、原発事故の方にくらべればまだ、とはいえ。
これくらいのことで切なくなってしまうことへの自戒を反芻しつつ、ご先祖の魂が里がえりする、お盆の送り火の日ゆえに、しみじみと思います。
2012年08月11日
2012年08月10日
裁判官3人に対し、忌避申し立て
これは何だかとっさにおわかりになられる方、かなりの八ッ場通。
細い山道をくだってきて、突然、で食わした時には、思わず、巨大な芋虫、否もっと大きな黒大蛇かとギョッとなったものでした。
実は去る7日13時~16時まで、ぴっしり、八ツ場ダム問題裁判の証人陳述がぴっしりとありました。私はいつもブログ用にと写真を撮ります。もちろん、法廷では撮影不可。続く日弁連での説明会では、遠くから撮らせてもらいまして、後ほど主催者の方に御断りも致してあります。
でも、前の席の主催者の皆さんの顔は定かでなく、参加者はいかに後ろ姿とはいえ、やはり出すべきではないと考え、5月に撮ったものの、未だ未使用のこの写真がでてきました。会えて、名称は記しません。
7日の日には、久々に、ついに伝家の宝刀を抜くにいたった弁護士さんたちの叡智と粘りに喝采をおくったものでした。駆け付けてよかったと感じたものでした。
ようするに、御身大事の日和見裁判官に対して、「アンタ達はもう要らないよ」ということなのです。
この国の司法もまた、国とつるんでます。
親愛なる熱血弁護士さんたちが要求した承認尋問が、全員実現すれば、「ダム建設妥当」へのプロセスの「ウソ」が大きくくずれ、民主化へのかじ取りの第一歩につながりうるのにと無念です。
ですから、国側弁護士は「これは、住民訴訟ですよ」と、お決まりの常套文句をまさに、伝家の宝刀、かなりの錆びついた宝刀をふりかざし、裁判官は「それはもうすんだことですから、必要なし」として受けつけ無かったことに対しての反撃でした。
これこそ、住民のための真実、まさしく真実の住民訴訟なはずです。
まずは、新聞記事を。この日朝日新聞前橋支局の記者さんが、ただお一人群馬から駆け付けてくださっていました。 こういった場面こそ、多くのマスコミさんが報道してくれるとと、いかに国というのは、インチキなのか、少しでも伝わるものと考えますが、一社のみで残念でした。
なお、新聞に書いてないことも多々ありますが、これまた、内輪のことですし、不特定多数の方が読まれるブログでは割愛させて戴きます。
【2012年08月08日 朝日新聞群馬版】
http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000581208080001
裁判官3人忌避 原告側申し立て
八ツ場ダム(長野原町)への建設負担金の支出は違法として、群馬など6都県を訴えた住民訴訟で、東京都分の控訴審第2回口頭弁論が7日、東京高裁(大竹たかし裁判長)であった。
原告側は、国土交通省や都の幹部ら追加の証人申請が7人全員却下されたため、「公平な裁判が期待できない」と裁判官3人の忌避を申し立てた。高裁の決定が出るまで訴訟は止まる。
この日は、控訴審初となる証人尋問。原告側が申請した水問題研究家の嶋津暉之さんが利水、拓殖大学の関良基准教授(森林政策学)が治水で、八ツ場ダムの不要論を展開した。
東京都の昨年度の一日最大配水量は480万トンだが、都は2020年度に593万トンとする予測値を3月に公表。嶋津さんは「都合の良いデータを使って予測値を引き上げた」と主張し、「人口や家電普及による水需要の減少があり、八ツ場は不要」と訴えた。
関准教授は、国が八ツ場ダム建設の根拠としてきた利根川水系の基本高水(洪水時の最大流量)について「国交省や日本学術会議は過去の中規模洪水から計算モデルを組み立て、大規模洪水にあてはめた。ダムを造るために流量を高く偽った疑いがある」と述べた。
国土交通省はカスリーン台風(1947年)をもとに、伊勢崎市八斗島で毎秒2万2千トンとしてきたが、一昨年10月に根拠資料が省内にないことが発覚。その後、省は近年の雨量や流量を踏まえた再計算で2万1100トンとし、日本学術会議が妥当と評価している。
都側の代理人は反対尋問で、2人の主張に対して明確な反論をしなかった。
住民訴訟は2004年に前橋など6地裁で提訴。いずれも一審は「行政の裁量の範囲内」と原告の訴えが退けられている。群馬を含む5県の訴訟は、東京高裁で係争中だ。
2012年08月09日
カスリーン台風決壊現場の利根川河畔にたちて
去る4月29日に再発足した「利根川流域市民委員会」に、当日は他のイベントと重なり参加はできませんでしたが、私たちの会も早速、団体加盟致してあります。
そして、去る7/12・22の2回にわたり、同会主催の利根川流域見学会があり、どちらにも参加させてもらいました。
7/12 は本番の22日に備えての下見を兼ね、国交省の出前講座によるイベントでした。集合場所は熊谷駅。
22日は群馬に近い本庄駅に集まり、まずは八斗島(ヤッタジマ)へ。
コースに沿った詳細な説明もしたいのですが、当会は現地が軸ですから、こちらは割愛。
まずは、地群馬の利根川水系ダムの建設根拠として、お決まりの謳い文句のカスリーン台風の決壊現場の写真と、広大な敷地に建つ、「大利根河川防災ステーション」の全景写真をお届けします。12日は最後、22日も後半部の見学場所とっなった施設です。
すぐ周辺には、スーパー堤防がありましたが、スーパー堤防については別項にて。この日、社内で「江戸川区スーパー堤防取消訴訟弁護団」の皆さんが配ってくだされた冊子を読むと、本当に要らないことを実感しました。原発・ダム構造と相似形です。
上の碑の背後の緑は、土手で、さの後ろは利根川で左手から右手に流れています。下の碑文の背後にみえる建物が、「大利根河川防災ステーション」の大施設。
その全体は、次の写真てす。
上記の碑は、右手奥にあります。利根川は写真上方向から流れてきます。
説明してもおわかりになりにくいと思いますので、写真を最後にスーパー堤防の写真も添えます。
上野写真手前の柵のさらに手前には、「首都圏氾濫区域堤防強化対策事業」の一環として部分的にスーパー堤防があり、そのために、右手前方に広がる家も墓地も移転させられたのだそうです。真新しくなっていますでしょ。墓地は少し離れているので、「あの墓地もそうなのですか」と念のため、国交省職員に問うて、確認してあります。
茶色いっ知の処が、堤防幅となるそうです。正面の電車、東武線です。
※おきづきのように、もう一昨日となりましたが、「明日から再開」としましたのに、昨日8日の水曜日は何やかやと錯綜気味のまれにみる1日となってしまいました。
で、ついに日付けの変わった9日の早朝というか、深夜2時近くのとりかかりとなりました。宣言したことをちょっぴり後悔しつつ「ええい、寝ちゃおうか」ともかすめましたが、 ここでなげるのも……と想いなおしての久々の真夜中作業でした。
久々の写真の挿入にかなり手間取り、次にメールへの返信を一通。わが家は3時になると新聞の配達があるんですが、ついにそのバイクの音をきいて、しばらくしてからの就寝とあいなりました
2012年08月07日
明日から再開します
皆さまへ
先月17日以来、約3週間にも及ぶ、空白期間。
実は、「付けハードディスクのデーター削除による修復のため、「ただちにパソコンを使わないでください。より複雑になって、採りださなくなりますよ」と言われ、ゴミ箱に不要な削除済み文書も入れられず、パソコンごと修理業者へ。
で、約半月間、パソコンが使えなかったのでした。
ところが、何事も一筋縄、単純明快には終わらないヒト。
まあ、何やかやとハプニングもありまして……、最終的には外付けハードディスクのみとでの修復作業となりましたけれど、ともかく、ユニークな、「オバさん流 大騒ぎパソコン格闘顛末記」なのでした。
さて、この間に一度は諦めたある会報への文書作成を、手元にパソコンが戻ってきたのだからと思い立ったのは良かったのでしたが、ハタと困惑。
考えたら、この間のすべての資料は、ハードディスクの中。
それでも、めげずに、削除できなくてデスクトップに残った幾つかのデーターを駆使して計4枚仕上げました。けれど、PDFファイルで残ってくれていた資料は、どうにも手の入れようがありませんでした。
発端は、7月15日の夜、作成中のパワーポイントに、歴代大臣の写真を入れようとしたら無いのです。
で、愕然。ここの処、チラシ制作、パワー゜イントを二つ作成。クーラーなしでがんばっていたのはいいのでしたが、2011年7月~12月までの激動の八ッ場ダムの動きをなんと、削除!!! (したらしかったのでした)
寝ても覚めても愕然。子供もいないのに、おそらく子供を亡くすというのは、こんなに寂しく苦しいものだろうなと想うほどの喪失感の中に閉じ込められてました。
これらの写真類は、まるでかけがえのない子供のような存在なのです。
昨年の東奔西走という一連の八ッ場ダムの外道の記録のメモ代わりの写真類だったのでした。これをみれば、行動の一切が読み取れたのでした。
こんなことにならないように、もう一台、はーとーディスクを買っておいたのに、それを保存する時間がなっかたのでした。
リモートサポートさんに問うと「処置なし」。それでも諦め切れられず、メーカーさんも「残念ですか、通常では取り出せません」としたが、関係する専門業者さんを紹介してくだされた。
で、後で後悔するよりもと専門業者に依頼しての修復して貰おうとあいなったのでした。が、説明するも疲れるし、こんなところに書いても読まれる方も「何よ、コレ」と想われる経緯の果てに、日数は着実に経てしまいました。、
そして、梱包業者も手配した、その寸前の、結末の何とも見事な前代未聞の着地点。
それは内緒!1
ああ、わが八ッ場の神様は、ホントウにいるのかもしれないと想わせられた次第です。
とりあえずもう一台のハードディスクに呼びデーターの保存開始。
なんと、199GB、140930個のデーターを新規ハードディスクにコピーするのに要した時間は、3昼夜以上。約75時間もかかりました。夕方の雷雨で停電にならないか、ヒヤヒヤしたものでした。事実、開始の前の晩は、2度にわたる停電があり、親戚の買ったばかりのテレビには落雷あり。私の車はドアからの雨漏りで未だに往生などなどの悪天候でした。
で、パソコン指南役のある機関に、「確かに、私は一度で移動する方法っていいましたけれど、こういう夏場に多量のデーターを写す時には、約200GB写すのに、通常どのくらいかかるものかおわかりになられていらっしゃるお立場から、一言、分割にすることを伝えてくださいましたら…… 」って、「次回のご参考までにお伝えさせて戴きますね」と。
我流のブログに、その内容に凝りませず、クリックしてくだされる皆さま、本当にご迷惑をおかけいたしました。
ともかく、明日からは再開します。
先月17日以来、約3週間にも及ぶ、空白期間。
実は、「付けハードディスクのデーター削除による修復のため、「ただちにパソコンを使わないでください。より複雑になって、採りださなくなりますよ」と言われ、ゴミ箱に不要な削除済み文書も入れられず、パソコンごと修理業者へ。
で、約半月間、パソコンが使えなかったのでした。
ところが、何事も一筋縄、単純明快には終わらないヒト。
まあ、何やかやとハプニングもありまして……、最終的には外付けハードディスクのみとでの修復作業となりましたけれど、ともかく、ユニークな、「オバさん流 大騒ぎパソコン格闘顛末記」なのでした。
さて、この間に一度は諦めたある会報への文書作成を、手元にパソコンが戻ってきたのだからと思い立ったのは良かったのでしたが、ハタと困惑。
考えたら、この間のすべての資料は、ハードディスクの中。
それでも、めげずに、削除できなくてデスクトップに残った幾つかのデーターを駆使して計4枚仕上げました。けれど、PDFファイルで残ってくれていた資料は、どうにも手の入れようがありませんでした。
発端は、7月15日の夜、作成中のパワーポイントに、歴代大臣の写真を入れようとしたら無いのです。
で、愕然。ここの処、チラシ制作、パワー゜イントを二つ作成。クーラーなしでがんばっていたのはいいのでしたが、2011年7月~12月までの激動の八ッ場ダムの動きをなんと、削除!!! (したらしかったのでした)
寝ても覚めても愕然。子供もいないのに、おそらく子供を亡くすというのは、こんなに寂しく苦しいものだろうなと想うほどの喪失感の中に閉じ込められてました。
これらの写真類は、まるでかけがえのない子供のような存在なのです。
昨年の東奔西走という一連の八ッ場ダムの外道の記録のメモ代わりの写真類だったのでした。これをみれば、行動の一切が読み取れたのでした。
こんなことにならないように、もう一台、はーとーディスクを買っておいたのに、それを保存する時間がなっかたのでした。
リモートサポートさんに問うと「処置なし」。それでも諦め切れられず、メーカーさんも「残念ですか、通常では取り出せません」としたが、関係する専門業者さんを紹介してくだされた。
で、後で後悔するよりもと専門業者に依頼しての修復して貰おうとあいなったのでした。が、説明するも疲れるし、こんなところに書いても読まれる方も「何よ、コレ」と想われる経緯の果てに、日数は着実に経てしまいました。、
そして、梱包業者も手配した、その寸前の、結末の何とも見事な前代未聞の着地点。
それは内緒!1
ああ、わが八ッ場の神様は、ホントウにいるのかもしれないと想わせられた次第です。
とりあえずもう一台のハードディスクに呼びデーターの保存開始。
なんと、199GB、140930個のデーターを新規ハードディスクにコピーするのに要した時間は、3昼夜以上。約75時間もかかりました。夕方の雷雨で停電にならないか、ヒヤヒヤしたものでした。事実、開始の前の晩は、2度にわたる停電があり、親戚の買ったばかりのテレビには落雷あり。私の車はドアからの雨漏りで未だに往生などなどの悪天候でした。
で、パソコン指南役のある機関に、「確かに、私は一度で移動する方法っていいましたけれど、こういう夏場に多量のデーターを写す時には、約200GB写すのに、通常どのくらいかかるものかおわかりになられていらっしゃるお立場から、一言、分割にすることを伝えてくださいましたら…… 」って、「次回のご参考までにお伝えさせて戴きますね」と。
我流のブログに、その内容に凝りませず、クリックしてくだされる皆さま、本当にご迷惑をおかけいたしました。
ともかく、明日からは再開します。