2009年11月07日

利根川氾濫の歴史的過程を追う  拙著転載・まえがき(四)

 本日も『八ッ場ダムーー足で歩いた現地ルポ』のまえがき、その続きを。
 長すぎるまえがきの中で、この部分と末尾の群馬県庁のあたりは、ダム問題を逸脱して、何やら「前橋城ものがたり」的で、五年前の校正の時も、短く短く必要事項のみにと、腐心したものでした。もしくは全部伐採しようかなともかなり悩んだ個所です。
 けれど、利根川のことは、浅間山噴火との兼ね合いもありました。その導入部としてやはり乗せておこうと。
 書き下ろしでない場合の刊行にはつきものですが、当時、過去五年間発表してきた拙作の中から、全体のトーンに調和させ、重複させぬよう、どれをセレクトすべきか迷ったものでした。
 今回の転載にも、ここはパスしようかなとさへちらつき、逡巡気味なのですが……、
 

鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)より///////////////////////////////////////////////
  
前橋城と吾妻川の“危険な関係”度 

 この群馬県庁は利根川べりの旧庁舎脇、かつての前橋城本丸跡に一九九九(平成一一)年、新築完成した。水源県の名にちなんでか不思議にも、戦国の世から妙に水との因縁相克に彩られてきた。
 戦国時代の終息期頃までは、当時の技術にして簡単に橋がかけられる川幅であったらしいことが古文書の記述から憶測できる。が、江戸初期頃よりたびたび大きな洪水に見舞われ、川幅が押し広げられてしまって、その終わり頃に、現在のような広さになったとされている。
 “関東の華”とうたわれてきた厩橋は永禄三(一五六〇)年、長尾景虎(上杉謙信)が関東の拠点としたことに幕をあける。その後めまぐるしく城主は変転交代し、関が原の戦い後、天下制覇の徳川家康によって、譜代の酒井重忠に与えられ、ようやく安定。この時に家康から“関東の華”なる要所を表す名称が発せられたと今に伝えられる。
 酒井氏三代目・忠清は下馬将軍として名高く、九代にわたり一四八年間統治した後、姫路へ転封した。跡に入った松平氏の治世には、たびたびの氾濫にて侵食され、往生することになった。
 およそ一六五〇年代の頃(まだ酒井氏の治世の時)、流れを変えるために流路変更工事をしたところ、意に反して本丸北の高浜曲輪が直撃され、それ以降は城の崩壊を防ぐ手段がなくなったと前橋市史は伝える。
 利根川が最初に厩城に突き当たる場所(県庁のやや上流)には「お虎が渕」もある。伝承「お虎伝説」は、酒井の殿様に仕えた女性の怨念にまつわる話で、無実のお虎の恨みで毎年大洪水が起こり、城の西の端が欠落。ついには本丸まで流されてしまったと伝えている。
 たび重なる水害に加え、一七六七(明和四)年に起きた大火を機に同年、松平朝矩が見切りをつけて、川越に移城すると、厩城は取り壊され廃城となった。一八六〇年代に入り、財をなした生糸商人たちが再び築城。一八六七(慶応三)年、松平直克を呼び戻して城下町として活気を呈するまでは、前橋城下は寂れ果てていた。

      天明三年、浅間山の噴火 
 吾妻川との今に続く因果関係を追えば、一七八三(天明三)年、浅間山大噴火による浅間泥流は吾妻川を下り、渋川市の合流点で利根川伝いに流れた。浅間山は八ッ場ダム建設予定地上流にある。長野原町作成の二〇〇三年版「浅間山火山防災マップ」によれば、わずか二〇キロメートルしか離れておらず、今なお活火山なのである。土石流に巻きこまれた人々が銚子や江戸まで流された史実さえある。
 さらに約二万四〇〇〇年前の大噴火にさかのぼれば、前橋市内の岩神神社境内にある周囲六〇メートル、地表の高さ九メートル余、地下数メートルの深さの巨大な「岩神の飛石」もまた、泥流とともに押し流された地質と同じだと研究者は指摘している。この時の洪水により、川底が高くなって台地が形成されたのが前橋市周辺の地形とされている。
 
 災害の源は、いずれも吾妻川上流に起因する。
 浅間山はまたいつ何時大噴火が起きるか分からず、再び同じ軌跡を描くか、可能性は未知数といえども、常に間一髪の危険性にさらされている、今この時もである(現実に二〇〇四年九月一日噴火)。
 八ッ場ダム建設予定地一帯は浅間泥流に覆いつくされた、極めてもろい地質の全国有数の地すべり地帯なのである。地すべりの原因は水が浸透することにある。一帯の地質は大量の水を吸うと粘土状になり流れ出す特質のある、火山灰が主成分の安山岩質に覆われつくしているのである。
 県内でも下久保ダムにある譲原活断層とならぶ、二大活断層が走り、西上州から北側にかけて、この二つがミックスした災害がもたらされないとも限らず、その危険性は研究者によって指摘され続けている。現実に奈良県の大滝ダムの例がある。
 しかも、半世紀かかっても完成できず、ここまで長引いてきたのには建設できないそれなりの吾妻川の〝危ない水事情〟もまた歴然とある。
 上流の硫黄鉱山や温泉地からの強酸性の水、その中和に伴う石灰水や北軽井沢の農薬など混入した安全性の確立していない水質に加え、肝心の降雨量も少ない。狭隘な谷間は自然の洪水調節を果たし、ダムの必要性はどこにもないことが明白なのである(第17章「あなた、この水飲めますか」参照)。
 にもかかわらず新築に際して、またしても群馬県庁は厩城本丸跡地に建てられたのである。
 
 水没地での地元民同士のある夜の会合の席で、「なんで、あんな危ない利根川沿いに新しく県庁を建てたのだろうか」といぶかしがる長野原町住民がいた。この人は毎日、配達の仕事で行き来するJR線にも注目。戦中のあの突貫工事の最中なのに地盤のもろい箇所を見事に避けて、線路を高台に完成させた当時の技師の炯眼に瞠目しているとも語り添えた。出席者たちが異口同音に「本当だ」と相づちを打ち、「そういえば」と語り出した夜語りによれば、川原湯温泉駅は当初、現在の位置より北側の川原畑地域にある通称、聖天山付近の旧道に設置予定だった。が、地すべりがひどくて工事ができず、計画変更したそうである。吾妻線は群馬鉄山の鉄鉱石搬出のため、強制連行の朝鮮人労働者等を酷使し、二年後の一九四五年一月に完成。
 時経て、強引に国道一四五号線の付替工事を始めたが、やはり地すべりのために諦めたのか、本年二月頃は、山肌に測量用の赤白のバーが何本かうっちゃられたままになっていた。が、最近またパワーショベル五台が山肌にへばりつき、猛烈な勢いで切り崩している。
 
 このように先々の危険性は視野に入れず、何がなんでも「建設」の二文字に向かってひた走ってきた。それが、八ッ場ダム建設の軌跡である。
 繰り返すが、一六五〇年代に行われた流路変更工事が利根川氾濫の遠因であった。そして、今後も同じ轍を踏まないという確証はない。 (続く)


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Posted by やんばちゃん at 22:53│Comments(0)八ッ場に願う
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