2010年06月01日

戦後派文学の作家、お二人のサイン

 
 数日前に記した、いかなる時も少しのプレもない知人、〇〇子さんのことから、私はある詩が思い出されてならなかった。
 が、ここの処の寸暇の余裕もない日々の中で、その詩集を、本棚から出して、ひも解くことも出来なかった。
 かつて、20代のどんじりの年にだったろうか、子供の頃からのひそかな夢ではあったが、うっちゃり捨ててしまった「文学」のぶの字に再び駆け寄った、15カ年間の歳月がある。
 そして、うれしいことに戦後文学の騎手ともいうべき、質の高い仕事をなされた作家の方たちの謦咳に接することのできたのは、小さな人間にとっては、望外の幸せであった。
 忙しなかった5月が去り、6月に突入した朝の一時、ようやく、これまた久しいこと開けたことのなかった、それらがびっしりつまった、本棚をあけた。
  
 でもその〇〇子さんのきっぱりとした姿勢に通じるその詩は、どの詩集に入っていたか、思潮社の例の詩集シリーズを手にする前に、『木の花嫁』という分厚い箱入りの割と豪華な詩集を出した。
 しかし、そこには所収されていないように思えた。これはもっと晩年になられてからの集大成だったよなと浮かび、箱に収めかけて、そのなつかしい筆致の署名を見た。ここにある本は、ほとんど署名本なのだ。
 その作家は、詩集だけで三段階の詩集を出されていた。
 最も豪華なのは限定百部の一冊が確か五万円のもの。通し番号があって、それを三冊ももっている。あの頃は、本だけは買い込んだ。またねそんな資力のあったほんの一時だった。
 師事したこの作家の本の量はおびただしい。
 しかも、新刊がでると都度、二割引きで30~50冊、纏めて購入。それを全国の仲間に送ってやっていた。今、考えれば、なんと愚かしい時間の浪費をしていたのかと思える。まあ、今ではできようもない贅沢な時間の使い道であった。

 若い頃の詩だから、初期の詩集だよなとして、思潮社発行の現代詩文庫のシリーズ59を抜き出した。これも2冊はあった。こちらは保存用。もう一冊あるはずなのだが……
 記憶に残る、「同士Mよ」や「八女のオルグ」などの単語をたよりにくっていったが、求める相通じる精神性の漂う詩はどこにもなかった。
 それにどう、考えたって、今を生きる〇〇子さんの世代と戦後のその時代の空気や生きる姿勢がマッチのしようがないのだ。 
 でも、この中の一つを写して、みようかと思い立ち、薄い想定の最もなじみのある思潮社の詩集を開けた。
 内扉には、
 86年11月28日、井上光晴。
 そりゃそうだ、井上さんの詩集だもの。でも、その脇にもうお一人の名。あの「野間 宏」さんの名。
 時は文学賞の選考会の席。
 同席させてもらった際に、何冊めかの冊子を買い求め持参し、お二人に署名をお願いしたのだ。人のやらない突飛なことをしでかす人間なのだ。 
 そりゃ井上さんはお若いから、勢いよく書いてくださっても大丈夫だった。それにサインごとが大好きな方だった、野間さんはもう、手がご不自由だったらしいのだ。そんな事情も知らずの傍若無人に加えた無知とはいえ、失礼な依頼をしてしまったものだった。
 しかも、井上さんにとって、野間さんは埴谷雄高さんと並んで、その師的存在の方なのだった。
 それを自分の詩集の脇に、お願いしたのだから、井上さんご自身もちょっぴり困惑なされていたかもしれない。野間さんがもしメンツにこだわる狭い識見の方だったら、立腹なされたに相違ない。
 そばにいた関係者もまたきっと、ハラハラなさっていたかもしれない。

 その日から、すでに25年近くもの歳月が流れた。
 お二人とも相前後して、鬼籍に入られた。野間さんの確か5月のご葬儀の日、私たちの場所から仰ぎみられた高台で、空を見上げて、必死で涙をこらえるように天空を見上げていられたわが師・作家・井上光晴さんの姿と顔。それは写真でみていた若き日の、詩人・井上光晴の意気軒昂とした清々しい横顔だった。
 その井上さんのご命日は、先月30日だった。
 それさえも定かでなくなり、死後刊行されて、巻末の晩年20年弱の年譜は、ご遺族から頼まれ、私が必死で作り上げた、絶筆集『病む猫ムシ』(1992年10月 集英社刊)の年譜をくってみるというお粗末さなのである。
 時折り、当時の仲間たちで、「お墓参りに行かなきゃね」とは言いあっても、毎年毎年そのままになってしまう。
 井上夫人はおっしゃる。「いいんですよ、遠くて、家族だってなかなか行けないんですから」。確かに遠い。瀬戸内寂聴さんが住職を務められている、山形県の天台寺である。
 
 今だったら、野間さんに「サインしてくださいますか」などとたぶん、申し出られない。
 でも、無知と若さと熱に浮かれてやってしまった行為だ。井上さんは病床から、私が図書館に寄贈した全十五巻の書籍にサインをして下さった。そして、自分でもサインということにも魅力を覚えなくなった。あってもなくても著書は、著書。こんな一冊しか書けない私でも、サインをと言われる。慌てて「ものすごく字が下手なんです。それにサインなんかあると処分される時困りますよ」と必死で逃げる。後にも先にも、仕方なく記したのは一冊だけである。
 なにもかもご承知の上で、ご署名くださったに相違ない、戦後文学のお二人の大作家・野間宏さんと井上光晴さん。
 当時のお二人の年齢に近づいて、その思いのご業績の一端にも及ぶべくもないが、直接、幾つかの言葉に接してきた者の一人として、この国の人間の明日のために、己の小さな守備範囲で、少しでも動かなければならない。
 田植えどころのノンキなことに浮かれているべきではないが、それもまた八ッ場の未来につながるものと信じたい。

  お二人のご冥福を祈って、止まない。
  今日から6月。まもなく突入の梅雨空には死者たちが浮かびくる。

 ※【実は、27・28は超多忙でして、記そうと思いつつも時間なし。一段落した、6/1に記した感慨です】


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Posted by やんばちゃん at 20:41│Comments(0)八ッ場に願う
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