2009年11月28日
土の哀しみ
明日のフリーマーケットの準備で、昨日来、久々に敷地内のあれこれを物色。
まず、むかごを採取。
むかごを 採るために春先から、小さな山芋も大事にしてきた。何年も自生してきたものはやはり、粒が大きい。
次にアピオスを掘った。
これは霜が降って、つるが枯れるまでは収穫が出来ない。今年は、もう何回も霜がおりているから安心だ。思ったよりたくさん、採れた。年々増えてくれるがうれしい。
そして、今日はさらに、真っ赤なクコの実が眼を射る。
摘み取る。すると、今度は緑さやかなクコのに眼が行く。試しに柔らかそうなのを摘み取ってみた。たぶん、大丈夫……だろう、商品価値ありと踏む。
おりしも昼時。心配だから最も硬い部分の葉を一つかみ洗って、炊きあがったご飯にまぶした。秋のクコ飯だ。おそるおそる試食。食べられる、すこしも硬くない。食べながら、レシピ用のインターネットを観て、保存した。葉は春と秋に食せるという。なるほどと得心。
となると、午後一番、張り切って、柔らかな黄緑色のを選んで、ショウギに山盛りいっぱい摘んだ。
クコの木は亡き父親が血圧に良いいからと植えたものだ。そして、程なくその血圧で死んだ。丁度、今の私の年だった。親の年を超える今年は、不思議なざわつきがあった。何年もうっちゃらかしてきたけれど、今年、始めて実を採取してみた次第だ。
夕暮れ、昨日、堀ったアピオスを小袋に詰めた。ギンナンも袋詰めしなければならないけれど、まだ、乾燥があまくて匂う。ギンナンの皮むきは重労働だった。夜まで、また戸外におく。
それにしてもだ、私には去年と同じものを採取できる幸せがある。来年のために、アピオスの小さな種は選りわけて、来年は、また土に戻せる。何の疑いもなしに、来年の収穫が信じられる。
雑草ひとつにも思い入れと愛着がある。
だが、八ッ場の皆さんは、常に「あと何年か、あと何年だろうか」と迷いつつ、自分の敷地に田畑にたちすくませられるを得なかった不安な日々を辿らさせられてきたのだ。この土くれを何年耕させられるだうかと。どうせ沈むんだからと思っても、土への愛着は、習い覚えた習性で、無駄と思っても心をこめて肥料をくれただろう。
作業をしながら何度も、八ッ場の方たちが辿らさせられた苦衷のヒダに思いを馳せた。ようやく、その心配から解放されたのに、一度方向づけられると、今度は、なかなか思い直すのは容易ではないらしい。
でも、土地が水底に沈まなかった喜びは、計り知れないものであることに早晩、気がついてくださることだろう。
事実、庭の土も畑の土くれも、小躍りして大地の脈動を奏でてくれているはず。
通例は八ッ場にちなむ品物を扱わさせてもらってきた。
昨年の今頃は、八ッ場の原木しいたけやリンゴ、それにハンデェ米を扱ったものだ。
時には、特製のコンニャクを作ってもらったものだった。
でも、今回は昨今の忙殺状態による準備不足もあって珍しく、林の竹炭以外は何もない。
一人で行った先日も六合村奥地で手間どって、夜になってしまった上に、時間的に取りに行けそうもなかったので、あえて、頼まなかったのだ。こんなことは初めて。で、しきりに屋敷打ちの今の時期に何とか売れそうなものを物色している次第だ。
そうだそれに、川辺川からの川ノリがある。極上品なのだけれど、この場所では売れなくて、まだあるのだ。陽ざしにあわせたので、色合いがだいぶあせてきてしまった。忘れないうちに物置きに行き、冷蔵庫の中にしまってあるのを少し用意した。
時間が迫る。間に合わないだらけだ。
少し、整理しないと、すべてが中途半端になってしまう。明日の販売リストを作ってみる。クコなどはレシピを添えなければならない。むかごも酒粕も昨年のがある。
薄闇の中、南天の実つきの枝を15本ほど切った。正月には早いけれど、もしかしたら売れるかもしれないひらめく。そして、小走りに走って、荒れ地の畑に咲きだした菜の花をきりとった。組ませて売るか、否、別々にした方が良い。
そうそう、10月には都合が悪くて、出店できなかったので、もう花は盛りを過ぎたが、吉祥草も何鉢か持っていこう。「良いことがあると咲く。植えて置くと吉事が゜訪れる」という、縁起花だ。9月~10月のレパートリーの一つだ。白と紅の蘭に似た、快い花の色合いがまだ少し残っているのを、6鉢選びだした。
釣銭。マジック、包装類などを先に整え、車に積み込む。
かぼちゃもたくさん積みこんだ。初夏、食べたクリカボチャの種を二枚の畑に撒くというより散らかしたら、花が咲いて実がごろごろとなって、それがまた味がよくて、クリカボチャとまではいかないまでも、結構うまいのだ。
今夜の袋詰めのための袋や結束機などを忘れずに実家から借りて、運び込む。
一日戸外で動いたから、手はツメの先まで泥。冷え切ってしまった。まずは風呂に入り一呼吸しなければ限界だ。
さて、もはや、23時を回った。
これからクコの葉の袋詰めがある。
何よりも、主力商品の酒粕も袋詰めをしなければならない。これは無添加のこだわりの純米酒の新ものの酒粕で、実家から分けてもらって、昨年から暮れの一時、私の販売の主力となった。味が違うと喜ばれている。
この分だと、多分、明日の朝も遅刻で、しんがりだろう。月に一度の、露天商のオバさんは、元手無料のあるもので賄う。それゆえに大変であるが、売れなくとも痛手は少ない。
なおかつ、ここでは明日の生活設計を疑いもなくたてられるという、安心という名の幸せがある。ゆるぎなく大地のはぐくみとともに生きられる無上の営めがある。
まず、むかごを採取。
むかごを 採るために春先から、小さな山芋も大事にしてきた。何年も自生してきたものはやはり、粒が大きい。
次にアピオスを掘った。
これは霜が降って、つるが枯れるまでは収穫が出来ない。今年は、もう何回も霜がおりているから安心だ。思ったよりたくさん、採れた。年々増えてくれるがうれしい。
そして、今日はさらに、真っ赤なクコの実が眼を射る。
摘み取る。すると、今度は緑さやかなクコのに眼が行く。試しに柔らかそうなのを摘み取ってみた。たぶん、大丈夫……だろう、商品価値ありと踏む。
おりしも昼時。心配だから最も硬い部分の葉を一つかみ洗って、炊きあがったご飯にまぶした。秋のクコ飯だ。おそるおそる試食。食べられる、すこしも硬くない。食べながら、レシピ用のインターネットを観て、保存した。葉は春と秋に食せるという。なるほどと得心。
となると、午後一番、張り切って、柔らかな黄緑色のを選んで、ショウギに山盛りいっぱい摘んだ。
クコの木は亡き父親が血圧に良いいからと植えたものだ。そして、程なくその血圧で死んだ。丁度、今の私の年だった。親の年を超える今年は、不思議なざわつきがあった。何年もうっちゃらかしてきたけれど、今年、始めて実を採取してみた次第だ。
夕暮れ、昨日、堀ったアピオスを小袋に詰めた。ギンナンも袋詰めしなければならないけれど、まだ、乾燥があまくて匂う。ギンナンの皮むきは重労働だった。夜まで、また戸外におく。
それにしてもだ、私には去年と同じものを採取できる幸せがある。来年のために、アピオスの小さな種は選りわけて、来年は、また土に戻せる。何の疑いもなしに、来年の収穫が信じられる。
雑草ひとつにも思い入れと愛着がある。
だが、八ッ場の皆さんは、常に「あと何年か、あと何年だろうか」と迷いつつ、自分の敷地に田畑にたちすくませられるを得なかった不安な日々を辿らさせられてきたのだ。この土くれを何年耕させられるだうかと。どうせ沈むんだからと思っても、土への愛着は、習い覚えた習性で、無駄と思っても心をこめて肥料をくれただろう。
作業をしながら何度も、八ッ場の方たちが辿らさせられた苦衷のヒダに思いを馳せた。ようやく、その心配から解放されたのに、一度方向づけられると、今度は、なかなか思い直すのは容易ではないらしい。
でも、土地が水底に沈まなかった喜びは、計り知れないものであることに早晩、気がついてくださることだろう。
事実、庭の土も畑の土くれも、小躍りして大地の脈動を奏でてくれているはず。
通例は八ッ場にちなむ品物を扱わさせてもらってきた。
昨年の今頃は、八ッ場の原木しいたけやリンゴ、それにハンデェ米を扱ったものだ。
時には、特製のコンニャクを作ってもらったものだった。
でも、今回は昨今の忙殺状態による準備不足もあって珍しく、林の竹炭以外は何もない。
一人で行った先日も六合村奥地で手間どって、夜になってしまった上に、時間的に取りに行けそうもなかったので、あえて、頼まなかったのだ。こんなことは初めて。で、しきりに屋敷打ちの今の時期に何とか売れそうなものを物色している次第だ。
そうだそれに、川辺川からの川ノリがある。極上品なのだけれど、この場所では売れなくて、まだあるのだ。陽ざしにあわせたので、色合いがだいぶあせてきてしまった。忘れないうちに物置きに行き、冷蔵庫の中にしまってあるのを少し用意した。
時間が迫る。間に合わないだらけだ。
少し、整理しないと、すべてが中途半端になってしまう。明日の販売リストを作ってみる。クコなどはレシピを添えなければならない。むかごも酒粕も昨年のがある。
薄闇の中、南天の実つきの枝を15本ほど切った。正月には早いけれど、もしかしたら売れるかもしれないひらめく。そして、小走りに走って、荒れ地の畑に咲きだした菜の花をきりとった。組ませて売るか、否、別々にした方が良い。
そうそう、10月には都合が悪くて、出店できなかったので、もう花は盛りを過ぎたが、吉祥草も何鉢か持っていこう。「良いことがあると咲く。植えて置くと吉事が゜訪れる」という、縁起花だ。9月~10月のレパートリーの一つだ。白と紅の蘭に似た、快い花の色合いがまだ少し残っているのを、6鉢選びだした。
釣銭。マジック、包装類などを先に整え、車に積み込む。
かぼちゃもたくさん積みこんだ。初夏、食べたクリカボチャの種を二枚の畑に撒くというより散らかしたら、花が咲いて実がごろごろとなって、それがまた味がよくて、クリカボチャとまではいかないまでも、結構うまいのだ。
今夜の袋詰めのための袋や結束機などを忘れずに実家から借りて、運び込む。
一日戸外で動いたから、手はツメの先まで泥。冷え切ってしまった。まずは風呂に入り一呼吸しなければ限界だ。
さて、もはや、23時を回った。
これからクコの葉の袋詰めがある。
何よりも、主力商品の酒粕も袋詰めをしなければならない。これは無添加のこだわりの純米酒の新ものの酒粕で、実家から分けてもらって、昨年から暮れの一時、私の販売の主力となった。味が違うと喜ばれている。
この分だと、多分、明日の朝も遅刻で、しんがりだろう。月に一度の、露天商のオバさんは、元手無料のあるもので賄う。それゆえに大変であるが、売れなくとも痛手は少ない。
なおかつ、ここでは明日の生活設計を疑いもなくたてられるという、安心という名の幸せがある。ゆるぎなく大地のはぐくみとともに生きられる無上の営めがある。
Posted by やんばちゃん at 23:06│Comments(0)
│八ッ場に願う