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2009年11月03日
車代をさしあげます。昼食のお弁当も用意いたします
今日は、思わず涙してしまった。
八ッ場ダム闘争記録を、読んでいてであった。
反対運動が熾烈をきわめた1967(昭42)年代の町長は、桜井武町長。福田経済研究所の吾妻連合会長であり、議会もまた桜井派が多数派であった。
対峙する反対期成同盟の作戦力を支えたのは、汗と足であり、知恵と情報力であった。いわば素手で果敢に挑んでいた。その原動力は、大事なふるさとの田野を湖底に沈めてなるものかの信念にねざしていた。その覇気が行間に波打つ。
当時、1967(昭42)年の建設省は、地元説明会を長野原町に、2月頃から再三要請するが、実現せずあせっていた。
他方、県議会には①ダム建設「絶対反対」に加え、②「条件付き賛成」による、二つの請願が提出され、継続審議も回を重ねて、混迷を極めていた。
その頃の反対既成同盟の迅速な動きを証明する事実に、町長と県の動きを察知磨るや否や、この年の8月9日~10日間の二日間にわたり、陳情のため、県議会議員全員の自宅を訪問してのけたのである。夏の暑い日に、群馬県内全域を回ったのである。 国会にも、総勢200名もの大量動員で複数回訪れている。
8月19日には県議会に。バス二台に議長・議員17名に会員120名で押しかけ、八ッ場ダム建設反対の請願を行っている。そして、この夏の県議会も、継続審議に。
1968(昭43)年2月28日には、国は八ッ場ダムの調査費を1億2千万と発表した。
運動の記録事項を繰りながら、私が熱いものに突き動かされてしまったのは、1969(昭44)年3月13日に水没地に届いた関東地方建設局八ッ場ダム調査事務所名の、3/16予定の説明会の通知ハガキ、その文面にあった。
ここまで、人間を愚弄し,分断させるのかと。
そのはがきの文面には、あいさつ文に続く、日時や会場明の文化劇場などの必要事項の脇に、以下の添え文があった。、
当日、御出席のかたには車代をさしあげますので、この案内状を御持参下さい。
なお、万一、案内状を紛失されましたかたは、当日、受付にお申し出下さい。
昼食のお弁当も用意いたします。
1960年代の山間部の者にとって、車代という現金収入は魅力であり、仕出し弁当の響きには、少なからずの心ひかれる憧れがあったのは否めない。
むろん、反対期成同盟はボイコットした。
水没民の半数の350人が参加したという。人間という者は不思議なもので、ひとたび線を越してしまえば後はなしくずしに、またひとたび旨い経験をしてしまえば、これまた歯止めかからずなし崩しになっていく。
私は、その後の、反対期成同盟の方たちがたどらさせられた顛末を知っているがゆえに、ことさら切なくなってしまったのだ。
直ちに反対既成同盟は、「会報2号」を発刊し、そこに弁当・車代付き説明会の懐柔策手口に怒りの看破文を掲載。建設大臣など関係機関に抗議の打電をしていた。
このガリ版ずりの会報を担った方を始め、反対運動を担った闘士の方たちは、勝ち誇ったようなダム推進の時代下で、失意のうちに消えて逝かれた。
さらに、こみ上げるむものをこらえながら、次の記録をうちこんだ。
1969(昭44)年3月16日 建設省、10時~12時。説明会を長野原町文化劇場にて開催。反対派はボイコット。桜井町長以下、水没民半数の約350人が参加
〃 3月20日 反対期成同盟、桜井町長の16日の態度に怒り、辞職を求め反対派約250名が町議会に押しかけ、約1時間にわたり抗議。
そして、この後、反対期成同盟は、示威行動を展開する。
例のはっぴ返上事件である。
川原湯・林地区の消防団50人が法被返上を宣言し、一部区長は業務拒否し、反対運動は激化する。
しかし、権力側からはほどなく次の一手が次々と飽くことなくくりだされ、わが反対期成同盟は、次第に勢力を弱めていくのであった。
辛くなって、私は思い切って中断。
久しぶりに畑の草むしりを、夢中で行った。
弱々しいが、それでもスッキリとした青空が広がっていた。
昨日来、八ッ場へ行こうか。行きたいと思いつつ日数をかさねている。
文化の日。八ッ場ダムの地に訪れ出して、丸々、丁度、10カ年となる。
そして、現在、同じ賛否の攻防戦の軌跡が、やはり飽くことなく、水没地では描かれている。
しかし、わが新政権は、前原さんは、間違えても人間の尊厳は、傷つけまい。
金や食べ物で人間を深く冒涜することは、なされまい。
そこが、かつての闘争と今般の闘争との根本的な質の違いに感じられてならない。
八ッ場ダム闘争記録を、読んでいてであった。
反対運動が熾烈をきわめた1967(昭42)年代の町長は、桜井武町長。福田経済研究所の吾妻連合会長であり、議会もまた桜井派が多数派であった。
対峙する反対期成同盟の作戦力を支えたのは、汗と足であり、知恵と情報力であった。いわば素手で果敢に挑んでいた。その原動力は、大事なふるさとの田野を湖底に沈めてなるものかの信念にねざしていた。その覇気が行間に波打つ。
当時、1967(昭42)年の建設省は、地元説明会を長野原町に、2月頃から再三要請するが、実現せずあせっていた。
他方、県議会には①ダム建設「絶対反対」に加え、②「条件付き賛成」による、二つの請願が提出され、継続審議も回を重ねて、混迷を極めていた。
その頃の反対既成同盟の迅速な動きを証明する事実に、町長と県の動きを察知磨るや否や、この年の8月9日~10日間の二日間にわたり、陳情のため、県議会議員全員の自宅を訪問してのけたのである。夏の暑い日に、群馬県内全域を回ったのである。 国会にも、総勢200名もの大量動員で複数回訪れている。
8月19日には県議会に。バス二台に議長・議員17名に会員120名で押しかけ、八ッ場ダム建設反対の請願を行っている。そして、この夏の県議会も、継続審議に。
1968(昭43)年2月28日には、国は八ッ場ダムの調査費を1億2千万と発表した。
運動の記録事項を繰りながら、私が熱いものに突き動かされてしまったのは、1969(昭44)年3月13日に水没地に届いた関東地方建設局八ッ場ダム調査事務所名の、3/16予定の説明会の通知ハガキ、その文面にあった。
ここまで、人間を愚弄し,分断させるのかと。
そのはがきの文面には、あいさつ文に続く、日時や会場明の文化劇場などの必要事項の脇に、以下の添え文があった。、
当日、御出席のかたには車代をさしあげますので、この案内状を御持参下さい。
なお、万一、案内状を紛失されましたかたは、当日、受付にお申し出下さい。
昼食のお弁当も用意いたします。
1960年代の山間部の者にとって、車代という現金収入は魅力であり、仕出し弁当の響きには、少なからずの心ひかれる憧れがあったのは否めない。
むろん、反対期成同盟はボイコットした。
水没民の半数の350人が参加したという。人間という者は不思議なもので、ひとたび線を越してしまえば後はなしくずしに、またひとたび旨い経験をしてしまえば、これまた歯止めかからずなし崩しになっていく。
私は、その後の、反対期成同盟の方たちがたどらさせられた顛末を知っているがゆえに、ことさら切なくなってしまったのだ。
直ちに反対既成同盟は、「会報2号」を発刊し、そこに弁当・車代付き説明会の懐柔策手口に怒りの看破文を掲載。建設大臣など関係機関に抗議の打電をしていた。
このガリ版ずりの会報を担った方を始め、反対運動を担った闘士の方たちは、勝ち誇ったようなダム推進の時代下で、失意のうちに消えて逝かれた。
さらに、こみ上げるむものをこらえながら、次の記録をうちこんだ。
1969(昭44)年3月16日 建設省、10時~12時。説明会を長野原町文化劇場にて開催。反対派はボイコット。桜井町長以下、水没民半数の約350人が参加
〃 3月20日 反対期成同盟、桜井町長の16日の態度に怒り、辞職を求め反対派約250名が町議会に押しかけ、約1時間にわたり抗議。
そして、この後、反対期成同盟は、示威行動を展開する。
例のはっぴ返上事件である。
川原湯・林地区の消防団50人が法被返上を宣言し、一部区長は業務拒否し、反対運動は激化する。
しかし、権力側からはほどなく次の一手が次々と飽くことなくくりだされ、わが反対期成同盟は、次第に勢力を弱めていくのであった。
辛くなって、私は思い切って中断。
久しぶりに畑の草むしりを、夢中で行った。
弱々しいが、それでもスッキリとした青空が広がっていた。
昨日来、八ッ場へ行こうか。行きたいと思いつつ日数をかさねている。
文化の日。八ッ場ダムの地に訪れ出して、丸々、丁度、10カ年となる。
そして、現在、同じ賛否の攻防戦の軌跡が、やはり飽くことなく、水没地では描かれている。
しかし、わが新政権は、前原さんは、間違えても人間の尊厳は、傷つけまい。
金や食べ物で人間を深く冒涜することは、なされまい。
そこが、かつての闘争と今般の闘争との根本的な質の違いに感じられてならない。