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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2009年11月08日

脱ダム下、八ッ場よ命を持て!  拙著転載・まえがき(最終) 

 本日も、かってながら、拙著のまえがきの最終を転載させていただきます。
 なお、これは5年前まで(2004年10月頃まで)の事実です。


鈴木郁子著 『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』(2004年12月刊)より
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   変容する水の作用を直視して 

 地上三二階、屋上まで含むと一六一メートルの新庁舎は、三方を東側から赤城・榛名・妙義の上毛三山に囲まれた平地の只中に際立ち、遠目からも分かる県内一のノッポビルである。建設当初、巨額の建設費への批判かわしか、職員の対応も良く「うちの階からの展望はいいんですよ。お寄り下さい」のサービス語まで発せられたものである。今や訪問客も多く、ランドマーク的な存在として定着しつつある。

 目はおのずと、県内西北部の吾妻川沿いの八ッ場ダム建設予定地に向く。
 渋川市から斜め北西部に目を向ける。探す目安として、まず利根川上流の中央より左手の、雪をかむった平らな山の連なり、頂上が平らな珍しい地形の山が白砂山である。わが八ッ場はその手前、やや右下にある。
 「群馬の川筋で残るのは県西北部の吾妻川のみとなりました。ですので」――と利根川上流部の“空白域”の洪水調節とやらの国土交通省の説明文句である。ダム建設ラッシュ時、水利権獲得のため、群馬の川筋はことごとくツバがつけられている。県内でただ一つ残された未開発の吾妻川。それ故になんとしても手つかずのままに残したい熱い思い入れが、護りたい側にはある。
 展望台直下に視点を移す。
 県庁北側眼下に広がる前橋公園沿いには、利根川本流に平行して流れる桜並木沿いの疎水がある。ここの川面の色は青一色にしか見えない利根川本流に比べ、濃目の抹茶色なのである。思わず、強酸性の吾妻川のPH2の水が、石灰によって中和された、湯の湖(吾妻郡六合村)の湖面の色を思い出させられてならない。同じ、利根川の水であるのに、なぜ脇を流れる疎水の色があのように変容してしまうのだろうか。水面は濁っていると直視できないものである。
 前橋公園の桜は勢いよく流れ去る疎水のため、水面に瞬時にも影をとどめないが、高崎城址のお濠端では土手の桜がよどんだ堀の水に映え、どこまでも桜の樹幹が水底深く果てなく広がり行く。
 そして夜半、ライトアップされ水面の濁りがひどければひどいほど、水面下に逆さまに映る地上の桜の輪郭は、くっきりと際立ち、凄絶かつ妖艶なのである。春宵のほほの照りにも似た昂ぶりから、思わず水中に飛びこみたくなるほど魅せられてならず、来る春ごとのつややかな紅色の吸引力となる。
 ……私にはこの“水の変容”が来る年も来る年も分からずに、今日に至っている。八ッ場ダム問題に触れて以来、ますますその混迷の度は強まってならない。
 変容というか変質の最たるものが、ダム建設ではないだろうか。
 
 吾妻川はPH2の毒水に近い。
 が、両側の山々から伝い流れる沢水は、純な水である。
 その清冽な水の流れはどこに葬り去られようとしているのだろうか。先々の日、せき止められた湖底でもがく、水たちの苦衷の波紋に思いがいく。
 不思議にも、八ッ場には命がある
 この日、感慨を持って展望台を後にした。
 もうじき、脱ダムの夜明けの風が吹く、と信じて……。長野県と長野原町を隔てるものはない。“吹かぬなら吹かしてみよう”の気概を心に持とうと。
 いみじくも、階下の二六階テラスには、県内の山を際立たせたジオラマができている(山々の高さのみ三倍に強調)。
 三方を山々の連なりに囲まれた、群馬県のありようが一望でき、しかも上から俯"瞰ができるというのは、山の裏側をも直視でき、全体図の中でより真実に迫れる利点がある。有田焼の釜場に特注し、焼度一〇〇〇度の高熱で焼いてあるそうで、土足で踏みつけることもできた。滑りやすいジオラマの上に意識的に立ち、建設地点を心してギュッと踏みつけ、身体を反転し、首都のある東南の方向に目を向ける。人の手によって作られた陶土なら、きっと打てば響く人温みが足底から伝わるはずと。
 八ッ場には、不思議にも命があるではないか。もうダメかと思うと、思わぬ方向転換があった。そうした蛇行上の闘争過程に縁取られてきた。
 若山牧水をはじめ、ここには文学における想像力、その蓄積にも似た命脈が連綿と宿っている。
 県内で生まれ育ったので、一九六〇年代後半たびたび報道された「八ッ場」の字面は新聞などで見知っていた。時過ぎ、一九九九年一一月初旬、川原湯を訪れた文人の取材で初めて訪れ、対岸の川原畑、とりわけ三つ堂のひなびた景観に衝撃的に魅了された。このお堂も早晩、沈む運命にさらされていると知ったことに、ダム問題には全くの無知ながら、私の八ッ場通いの端は発する。
 〝今はむかし〟の心なつかしい郷愁の地に足しげく通い、水没者の方々の人間味に触れ、そしてなじむたびに見聞きした矛盾の数々に突き動かされて、ほどなく疾走状態になった。
 原動力はこの日取材した牧水の八三年前の警告文――八ッ場ダムの話が持ちこまれた、およそ三〇年も前の文章なのであった。作家の心眼、培われた想像力としか思えない。五年前のその日、偶然にして探り当てたこの記述に、運命的な出会いを覚えてならなかった。
 ――「八ッ場には命がある」と単純直情的に信じた。半世紀もかろうじて持ちこたえられてきた背後には、眼に見えぬ祖霊たち、浮遊し時にはあらぶれざるを得ない、嘆きの産土の神々に守り抜かれているのではないかと、常にあらずの思いに打たれたものである。
 同時に、文学の不滅性と若い日に習い覚えた“想像力の革命”の語を想起。掌中にそっと温め、握りしめた。三つ堂の前の草の径は、旧信濃街道のなごり道である。その昔、幾多の旅人が往来した類い希れな歴史的空間を、昔日の息吹のままとどめ置き守り抜けないものかとの思いに駆られて、ますます前のめりの構えになったのは、むしろ必然的成り行きであった。
 少しでもダムという水の変質を、分析解明したくてならなくなった。
 濁った水底を凝視し、ダムの二文字と向きあい、稚拙ながらも人間の響きを持つように咀嚼・解体する方法を習い覚えようと、ひたすら足を使って、丸五ヵ年経つ。
 八ッ場の哀しくも野趣あふれ、心温める野辺に、時に怒りで言葉を周到に折りたたんでしまったのか、くぐもった口調の水没民のお宅の戸口にたたずむ。とある日は、恐る恐る出入り禁止の工事現場にひそかに踏みこむ。そしてためらいつつ意を決して国土交通省に電話。必要に迫られ閲覧室ならびに関係機関にと通うことになった。
 以下は、五感をフルに駆使して、水没地内の草道のみならず畦道にまで踏みこみ、追われいく人々の吐息にも似た思いを直接聞くに及び、耳朶を打つその一つひとつの疑問を、憤然としてつぶさに検証。怖いものしらずの手探りで、ダムにまつわる非人間性や不合理をたどたどしく学んだ、五年間のつたない記録である。

 ※ なお、第一部第11章まではルポの列記にて、地元郷土誌に連載したものです。
 水質や負担金など概要は、二〇〇〇年時に記した巻末の17章、18章を先にお読み頂くほうが、お分かりになりやすいかと存じます。最新の動きは各章の注をご参照下さい。また、ランダムな流れと重複箇所についてはお許しください。
  


Posted by やんばちゃん at 23:04Comments(0)八ッ場に願う