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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2011年04月11日

想像力にて執筆された原発小説


 前回の記述の後半部に記した、作家・井上光晴の今日の放射線汚染問題をテーマにした2作品のお知らせです。
 これらは、想像力を駆使した作家・井上光晴による小説ですので、その点はご留意くださいますよう。
 これらの作品に限らず、いつも「作家の想像力けにおいて、時代を事実を先取りされるのがお得意技でした。そして、近年は現実が想像力を追い超すそくどが早くなったと語っていました。 
  ①金属バット事件の隠れた真相を、裁判過程で明らかになる前に小説化していた。
  ②性犯罪の低年齢化  『神咲道生少年の記録』

井上光晴著 原発関連テーマの著作
、『西海原子力発電所』(1986年9月30日 文芸春秋社刊)
 1986年4月26日 「チェルノブイリ原発事故」発生す。
 通例、月末のその頃は文芸誌の締切日。
 当時、井上光晴は「作家の想像力」=「想像力の革命」にて「文学界」に、この『西海原子力発電所』を発表する予定で筆を進めていた。炉心溶融後の放射性物質の汚染によって揺れる市民生活を、西海の海辺の町を舞台に展開するストーリィーであったという。が、「現実が想像力を越えてしまった」として後半部は急きょテーマを変更したと次の『輸送』のあとがきに記している。
 劇中劇に「ブルトニウムの秋」を援用している。
  初出「文学界」1986年7・8月号(5月末・6月末)

、『輸送』1989年2月15日 文芸春秋社刊)
 三部構成になっている。
  初出  輸送          「文学界}1988年3月号
       青い空 黄色い日   〃      〃 7月号
       クレパス         〃      〃10月号
    ※暗い色調の赤い色調に「輸送」の文字が埋没するような、不安を表現した想定は、わが前橋出身のおなじみの司修さんの作品です。……記憶に間違いなければ、司さんの「装丁展」の展示物にもあったような。
   
 「あとがき」によれば、
    ---大略ーーー
 小説『西海原子力発電所』(文芸春秋社刊)の執筆中、チェルノブイリ原発の爆発に直面して、私は急遽テーマを改変したが、今になって思えば、構想した通り、西海原子力発電所の原子炉事故によってこの上もなく汚染されていく町や港の状況を克明に描写すればよかったのである。
 創作>、『輸送』は、その悔恨を踏まえて書いた。核使用済み燃料の輸送にまつわる小説である。核廃棄物の輸送は、今われわれの生存する地点で絶え間なく行われており、キャスク(核廃棄物容器)に万一の事故があれば、間違いなくチェルノブイリを再現することになろう。
     --略ーー
 あえていうが、『輸送』は近未来小説ではなく、SFでもない。この作の主題は文字通り「明日」にかかわる「今日」そのものの現実におかれている。
 ストーリィの行く末に「壊滅の状況」をあえて採らなかったのも、飽くまで「今日」の生活に密着した人間の痛苦と情感を描写したかったのだ。
    ーーー以下、略ーーー
 
 極度の緊張感を強いられるキャスク輸送の運転手は精神に異常をきたし、西海の海は流出した核廃棄物で汚染される。
 圧巻は「青い空 黄色い日」の中で、一時避難が解かれて再び、元通りの生活に戻ろうとした主婦は、子供たちに食べさせる真新しい卵を養鶏農家からわけてもらって心弾ませて帰宅しようとしていた。そして、飼っていた猫の不審な行動を追っていった息子の呼ぶ声に濱辺におりる。そこには浜に打ち上げられた汚染された魚を存分に食べた猫たちがをよろけながら吐いたり苦しんでいる異様な姿であった。
 戦慄をともなうほどの描写力で、この恐ろしい光景が描かれている。
 「なきじゃくる息子の肩を抱き寄せ、彼女は奥歯を噛みしめて全身の震えに抵抗する。--略ーー大人にも信じ難いこの光景を九歳の息子にどう解明することができよう。ーー略ーー波打際は黒ずんだ縁どりに飾られ、そこからはっする腐臭は浜全体に漂っている。彼女は強張る腕を振上げると、卵の入った袋を方角も見定めず放り投げた」。
 
 なぜ、彼女こと、河合妙子は猫の汚染死をみて、買ったばかりの卵を投げたか。
 つまり、「ふあふあのオムレツたべたかねぇ」と冷蔵庫の残りものを使わず、わざわざ新しい卵を求めて農家から分けてもらった、その養鶏主が移転先から1日置きに通って、エサをくれた養鶏所の卵もまた、汚染されていたことに気がついたからであった。しかも、養鶏主は「それにしても、昨夜の晩の雨はあんまりよか気持ちのせんやった」と語っているのであった。雨によって放射線物質はより始末が悪くなるのであるから……
 さりげない会話をつづり、その伏線によってより深い効果を放つ、重層的な手法にみちた作品であった。  


Posted by やんばちゃん at 22:57Comments(0)紹介

2011年04月11日

鶏は啼いとるもんね。まだ

 【毎日新聞より転載】地震と津波によって壊滅状態となった福島県いわき市平薄磯=2011年4月10日午前11時半、本社ヘリから撮影 

.................................
 以下は、ある会報の、どっかの誰かのものです。  

(ここの)鶏は啼いとるもんね。まだ。……
 今般の東日本大震災はまさしく未曾有の出来事となってしまった。原発反対市民運動で指摘し続けてき続けてきたことが、ことごとく現実のものとなってしまって、何とも切ない。未だ余震止まらぬこともまた、未曾有である。
 地震の日、八ッ場ダム関連で都内・霞ケ関にいて交通難民となった。地面は割れ高層ビルは揺れ、群馬勢は怯えきった。上野駅まで歩き、駅のシャッターが閉まるに及び、ただ事ではないことを自覚。ようやく一夜の暖をとらせて貰えた公共施設の大型テレビに映る赤い画像が何なのかつかみかねたが、判明した時には驚愕。誰しも、永久に瞼から消えない恐怖の画像となったであろう。
 地震・津波・原発事故さらに今後、必然的に起きる原発汚染への先々の不安、伴う風評被害など何重苦もの苦難にさらされた被災地の皆さまに、粛然として「どうかめげないで」とお伝えし、ささやか支援しか出来ないことが情けない。

 けれど、世界を震撼とさせた東電・福島第一原発事故は、弁明の「想定外」ではなく「想定内」の起こるべくして起きた、明らかに「人災」と呼べよう。
「最初にダムありき」と同じく国策の美名のもとに「最初に原発ありき」で、前政権党と一体になって強引に推し進めてきたのだから……
 一部の有力者の利益に基づき、練りあげたお得意の「国策」に位置づけていく骨格下、この島国の火山国の周囲に54基もの原発を設置したことが間違いだ。研究者によれば、とりまく太平洋プレートなど4つのプレートにより「静岡地震は必定」と指摘されているのにその静岡にも浜岡原発を造ったのである。
 そんな「人災」と呼べる証拠として、思いつくだけでも、
①東電は、福島原発における「津波時の冷却系の喪失」への対応を2006年4月16日に国会で指摘され、対処を勧告されていたにも関わらず怠ってきた。
②他の安全な自然エネルギーの提唱に耳をかさぬどころか封印(弾圧に近い)。
全てを「安全神話」に収斂させ、(目下、虚実が暴かれている)低コストを謳いあげてきた。これらは前橋出身の故・高木仁三郎さんらが、一身をかけ捨て身で指摘してきた事柄であった。その死はいわば“憤死”と呼べよう。
※(小さな自己体験も加えれば)
①“トイレのないマンション”の原発は、放射性物質の捨て場もなく休むことも出来ない。為に出力調整の揚水発電の必要性が生じた。
 上野村に最大手の揚水発電所「神流川発電所」を建設し、その大規模工事により、上流のアユが死滅した事実を、2000年夏に「神流川からアユが消えたー世界最大級の揚水発電所で」と題して県内誌(「サンデージャーナル」2000年9/3号)に掲載した。早速、東電さんから編集長以下、柏崎原発見学への“ご招待”に預かって、この費用はどこから? 何故にと感じざるを得なかった。
②現在、県北から高崎市西部を横断する「送電線50万ボルト西上武幹線」建設時、電磁波についてWHO見解と東電の安全性数値には約一万倍の乖離があり、議員として地元民への説明責任を求めた時の住民対策特別チームの実態等。
(枚挙に数限りないが……)
 
 ここに21年前の小説がある。
 文学伝習所の師、作家・井上光晴の『輸送』(文芸春秋社刊)には、キャスク(核廃棄物容器)の輸送車暴走後の、汚染した海辺の市民生活が描かれている。1986年4月26日の「チェルノブイリ原発事故」の起きた月末(通例その頃は文芸誌の締切日)、井上さんは「作家の想像力」=「想像力の革命」にて「文学界」への『西海原子力発電所』(1986年9月文芸春秋社刊)を執筆中だったが、「現実が想像力を越えてしまった」として後半部は急きょテーマを変更した由。が、映画にもなった長崎の原爆投下直前までの市民生活を描いた『明日』(集英社1982年刊)を初め、核問題にも固執した作家として、1988年明け「文学界」連載を経て、発刊されたのが『輸送』であった。あとがきには改変への経緯がある。当然、話題作として各書評欄に載った。
 冒頭の副題は、「鶏は毎朝啼きますよね。それが啼かなくなったとです。どの家の鶏も啼きません。たまにはずうずういいよる鶏がおっても声を出し切らんとです」に続く記述で、放射線流出で汚染された生活の底知れぬ不気味さが漂う表現である。
今日この時も、幸い本当に(福島の)鶏はまだ啼いてくれているのだろうか?

 一連の井上作品の威力に惹かれて、事務局的に月末に井上家に電話し通信を仕上げていたので少なからずの記憶があるつもりだった。2冊が一度に探しだせないまま、久々に電話し「先生がお元気だったら……」となまじの記憶で話していたら、程なく混同に気がつかれた奥さんから、念のためにとの電話あり。
 仮に人間の記憶から薄れても、今世紀どころか永遠に人類の愚かさとともに大地に染みつき刻みつけられるのが、今回の人災的原発事故だ。戦争と同じく絶対に風化させてはならない体験を「原体験」と呼ぶと、この作家は説いた。
 さて、核時代下の恐怖が現実のものとなってしまった今日、好まざる道を無理やり歩かさせられている者の一人として、次のことを切望する次第だ。
①どうか、現政権さんよ。国民に全て真実の報道をして戴きたい。
②原発は即刻停止。新国策として自然エネルキーへの転換を。決して電力は不足していないことは実証されつつあるが、仮に不足でも国民は耐えられる、ねばならぬ。これからを生きる子供たちの未来を想えば……       


Posted by やんばちゃん at 08:38Comments(1)紹介