2010年08月24日

殉義の星と輝かんーその二

 ※ミス記述訂正
  あろうことか、「ああ、玉杯に花うけて」の成立年を、「昭和12年一高寮歌」と、前回とともに記述してしまっていたのでした。
  正しくは「1902(明治35)年、第12回記念祭東寮寮歌」なのです。
  2016年11月11日朝、「星」がテーマの今年の文化祭への詩作品の提出に「殉義の星と輝かん」として記していて、インターネットを開いたら、真っ先に本欄が出てきたので、単語のコピーとして、前回分の2010年8月23日の記述中を単語のコピーとして部分的にコピー。
  ぎょっとしました。
  なんと、「昭和12年一高寮歌」。
  昭和はおかしすぎる。明治時代にきまっているじゃ、ありませんか。たぶん、「第12回」の「12」を混同してしまったのではないでしょうか? 生なかな知識が曝露したようです。
  誤記をしたまま、気がつかずなんと6年3カ月。
 歌詞の「船出せしより、12年」をもじれば、「誤記したままで、6年3カ月」でした。 
        ---2016年11月12日夜 ようやく、訂正
   ※ですが、管理画面を6年間戻るのは手間がかかります。この朝は、パネル展示のために、役員さんに詩を届けることが先決。そして、「奔流」への最終校正も抱えて、そちらが先決。訂正できたのは、翌日夜。


 昨日、末尾に補足した「解放歌」と1902(明治35)年、第12回記念祭東寮寮歌の「ああ、玉杯に花うけて」の歌詞の一部、またもの本日分に置き換えます。
 理由は、毎回ものブログにしては長すぎる駄文なのですが、それにしても長すぎるからです。自分が読み手の場合を想定しても、独りよがりの駄文がこれだけ続くと、ウンザリ。読む気持ちがおきませんものね。実は、記しながらも二回に分けようかなと何度か思い立っていた次第なのでした。
 
  「殉義の星と輝かん」なる歌詞は、「解放歌」の五番ではなく、終章の七番でした。
    ああ友愛の熱き血を 結ぶわれらが団結の
     カはやがて憂いなき 全人類の祝福と
     飾る未来の建設に 殉義の星と輝やかん


 ちなみに一高寮歌のは五番まででした。「魑魅魍魎」という中学生にしては難解な漢語を覚えたのはこの歌詞でのことでした。
    行途を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある
    破邪の剣を抜き持ちて 舳に立ちて我呼べば
    魑魅魍魎も影ひそめ  金波銀波の海静か

 どちらも「昭和12年一高寮歌、例の「ああ、玉杯に花うけて、緑酒に月の影宿し」で始まるメロディで唄えます。
 この中で最も好きなのは、4番の歌詞、「星霜」と言う漢語をお得意語としてきた歳月がありました。
    花咲き花はうつろいて 露おき露のひるがごと
    星霜移り人は去り  舵とる舟師(かこ)は変るとも
    我のる船は常(とこし)えに 理想の自治に進むなり

 
 ところが、もう一つ、同じメロディーで歌える歌を発見。
 実は、この歌詞だけは30年も前の30代からひょんなことから知っていて、まだ記憶力があったから、ほぼ全歌詞をそらんじていられて、時折り唄ったり、その頃のサークル活動の場で、音痴で唄えないながらも、「たぶん、みんなが知らないだろうから」と心臓強く歌っていたものでした。
 でも、メロディはまったくのデタラメだった次第です。

 これも革命歌。題は「ああ、革命は近づけり」で始まる「革命の歌」。
 最近、評判よく読まれている上に瀬戸内寂聴さんの作品群のなかでも秀逸ということで、文庫本化されている、小説『美は乱調にあり』(1966年に発表)の中で、大杉栄と伊藤野枝たちが、神保町界隈をこの唄を高吟しながら歩いている場面があったと思います。
 そして、以後つづくこれら一連の社会主義者の伝記もの執筆にあたり、資料一式を提供したのは、群馬県伊勢崎市出身の大島孝三郎さん。
 そうです。大島さんは新宿伊勢丹近くで「共学文庫」なる、金子文子を軸としたアナーキースト系の自由の砦を開いていた方。というより昭和42年の一般参賀の群衆の中で起こした「皇居発煙筒事件」の首謀者といった方が、通りが良いかも知れません。但し、実際に勝手に発煙筒をたいたのは、大島さんの処に出入りしていた若者。大島さんの話では「自分はまだ早いと止めた」とおっしゃっていました。
 「天皇制」の疑義をめぐるこの裁判には、当時の戦後場作家のやはり、砦的存在であった、埴谷雄高(かの『死霊』の著者)さんが証人陳述にたっています。
 執筆にあたり、瀬戸内さんはこの埴谷さんを通して資料をお願いしたのではなかったでしょうか。すると、突然、汚いリュックにいっぱい資料を詰め込んで、来訪した大島さんに困惑したとのことを、どこかに書いていられました。大島さんからも瀬戸内さんの処にも資料としてお持ちした旨を聴いてます。

 作詞は同じく群馬県太田市に生まれた築比地仲助。歌い手は添田唖蝉坊(その息子は知道)。
 30代半ば過ぎ、愚かしくも初めて知った「天皇制」なる言葉に、関係図書を読み漁っていた私は、ある県内の集会で大島さんに遭遇。またしても、愚かしくも「天皇制ってわからないんです」的な言葉を発したと思いだす。すると、やはり突然、、宅急便で送られてきたのは、資材をなげうって復刊した共学文庫刊行の書籍の数々。大杉栄・編集/荒畑寒村・編集の全5分冊の「近代思想」などがびっしりと入ってました。なお、未だにツン読ですけれど……
 流行語になった「なにが彼女をそうさせたか」の類似していたためか、金子文子獄中手記「なにが私をかうさせたか』は夢中で読んだものでした。
 瀬戸内さんの書籍の中にもこの金子文子を主人公にした『余白の春』という、心打つ作品があります。瀬戸内さんの膨大な作品群のなかでも、この周辺のものは40代のみなぎった力量ゆえに見事です。
 その頃、京都・寂庵で偶然、お目にかかれた折に、「最も『余白の春』が好きです」とお伝えしたことを、今、記しながら、その時の表情などとともに鮮やかにおもいだされます。

 たった9坪ながら、伊勢丹近くという好条件だった共学文庫をお訪ねした折に、この革命歌が記された1枚のコピーをくださいました(どこかにあるのですが、探し出すのはもはや不可)。ほどなく、ここを売却。巣鴨に広い敷地と建坪の家を購入されたのでした。まだ、バブルの弾ける前のことで、かなりの資産をお持ちなのでした。
 その後、どこかで添田知道の歌ったソノシートを聴いたことがあるのですが、音感力に乏しいためか、独特の節回しだったためか、勝手な節でうたっていたので、それがなじみのあった「昭和12年の一高寮歌」のメロディとは思い至らなかったお粗末さでした。
 で、我流のメロディで、落ち込んだ時や理不尽な仕打ちにあった時に、自分を鼓舞する歌として勝手に歌ってきていたのでしたが、不思議にも高揚してくるのでした。
 元は10番まであったのを、添田唖蝉坊が7番までに圧縮したとかで、合わない部分がある由。でも私がもらった歌詞はたぶん、元のままだと思います。
 今なら、ちゃんと? うたえるのですけれど?

 久々に思い出した大島さんも、“変人”扱いされるにふさわしいわが身はつつましい質素な生活をなさっていました。ちなみに群馬に見えた時、すでに80代半ばではなかったかと思いますが、洗いざらしのシワクチャの木綿の服の腰ひもはなんと、荒縄なのでした。それに時代ものの白い木綿のリュック、足元はゴム草履で、足元は汚れていました。
 伊勢崎のご家族にはうとまれながら、そんな生活をお送られながらも、書籍刊行や各種運動へのカンパには惜しみなかったようでした。
 今頃、大島さんもまた、“殉義の星”のお一人として、夜空のどこかで輝き続けていられるものと思います。

 この周辺のことはまだまだあり、記憶の蘇るうちに書いておかないとの思いもありますが、またも長編ブログになりかねませんので……
 なお、大島さんが生まれた伊勢崎市周辺には、このような精神力を培う、運動の土壌があったのでした。
 1931年9月6日には、かの『蟹工船』の作者・小林多喜二が中野重治らととともに、現在は伊勢崎市になっていますが、旧茂呂村の、「全日本無産者芸術連盟(ナップ)」の会員であった菊池家を訪れ、文芸講演会を開催していたのでした。
 そして、講演会前の茶話会が「無届け集会」として検挙されるに及び、周辺の住民約500人(※毎日新聞記事のママ)が怒って押しかけ、釈放させたという事件があったのでした。当時のここには、解放歌の一番の「自由のために闘わん」、「革命の歌」の「わが脈々の熱血はあくまで自由を要求す」の自由を希求する心意気が生きて動いていたのでした。
  http://mainichi.jp/area/gunma/news/20100819ddlk10040124000c.html
 そこで、今月21日から始まっている「第3回伊勢崎・多喜二祭」中、最終日の来月5日(日)のイベントのお知らせを。
   9月5日(日)  午前11時~ 菊池家などの見学会
             午後 2地~ 講演会 伊勢崎市・文化会館
   ※連絡先  070 5458 7225
  
 ※「ああ、革命はちかづけりの歌」と勝手に名付けてきた「革命の歌」の歌詞は、後ほど。
 
 ※なお、ご参考までに、昨日の室原知幸の著作一覧の一部を。
 『下筌(しもうけ)ダム~蜂之巣城騒動日記』,1960,,室原知幸,学風社
 『公共事業と基本的人権』,下筌・松原ダム問題研究会編、帝国地方行政学会,1972
 『公共事業と人間の尊重』,関西大学下筌・松原ダム総合学術調査団、ぎょうせい,1984


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Posted by やんばちゃん at 23:56│Comments(2)八ッ場だより
この記事へのコメント

お世話になります。伊勢崎多喜二祭のことを出していただき、ありがとうございます。
Posted by takijidakkan at 2010年09月03日 16:18

takijidakkan 様
「多喜二奪還」と読ませて戴いてよろしいでしょうか。
はからずも、電光石火のうれしいご縁に感謝し、お近づきになれましたことは、まさに今に生きる、小林多喜二の文学の力かと存じます。
 本当に民衆の力で、「奪還」したのでしたね。 
 当日のご盛会をお祈りいたしております。
Posted by やんばちゃん at 2010年09月04日 08:57
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