2010年05月09日
コゴミって、ご存じですか
※ 昨日の記述を二分割。本日づけに致しました。


コゴミをご存じない方もいらっしゃるらしいので、写真をご紹介します。
という私も知ったのは、最近。姉も叔母も、よく「コゴミがあった」といってましたが、私は不確かで採れませんでした。山菜採りの名人さん達に、何年か前、新潟県に連れていってもらって得心した次第です。
その後、注意してみればあるある。
天ぷらにするととっても美味しい。茹でてマヨネーズでもOK。
コゴミといえば、毎年、採取するたびに天ぷらを揚げるたびに、反射的に思い出す場面があります。
ある会の発足時からのメンバーとして動いていた最後の五月、゛現地でのコンサートの際に、土地の皆さんのお宅の庭先の産物、フキや花豆、このコゴミなどを譲ってもらったりして、都会の皆さんのお土産用に販売。
残ったコゴミを翌々日の火曜日夕刻の例会日に、天ぷらにして、喜び勇んで持参。それはうれしいニュースがあったからでした。こまめにある地域に足を運んでいる過程で、地域のダム関連役員さんと「飲み会」の約束ができたからでした。で、会員の方々にお知らせして交流をはかろうとしたのです。
現地との間に溝があったら、進展しません。食べながら飲みながらの交流は必要不可欠と飲めないヒトながら、思ってたのが実をむすびかけてたからでした。
すると、妙な空気。
「さぁ、〇〇さんが来たから始めましょう」とスタートからターゲットはどうやら私。ここで、まさに査問委員会並みの詰問にあい、以後はお出入り禁止を言い渡されました。数日後、事務局を通じて会長名による「例会に出席禁止」の文書が届いた次第です。この白い封筒は、ツバをひっかけられんばかりの仕打ちを受けた、わが生涯の屈辱の歴史として、今も保管してあります。
理由は、この間、勝手な行動が多すぎた由。でも、一昨日の販売のことはちゃんとお断りしたはずですし、むしろ歓迎されて、売上代金はいつものように会へも地元の皆さんにも還元したはずですし……
まあ、確かに一点集中主義のオバさんですから、取材も兼ねて八ッ場へ出入りしすぎたのは事実です。
が、逐一、事務局に「今日は八ッ場へ行ってきます」などと断って出入りするのものでもないでしょう。けれど、当時は県外から八ッ場へ出入りする団体にも「会に断って欲しい」と平然と言いきっていた事実があったくらいですから……
御蔭さまでその後、徹底的に干されて、天下の素浪人になった私は前よりも自由に気楽に八ッ場通いに明け暮れできましたが……
まぁ、その後、関係者から「あれは表向きの理由で、ジャマだっのよ、あなたは。動き過ぎるから」との「これが、真相」だとの暴露話も聞かされてます。
コゴミの天ぷらというと、反射的に、拙著の前著『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』の刊行後、半年経ったこの、2005年5月、確か12日の例会日での、「ペラペラとめくったら、悪い本」と、記念碑的なレッテルを貼られた日の屈辱が、鮮やかによみがえる次第です。
そうそう、そう言えば、迂闊にもこの本の出版も会を通してではなく、個人的なものでした。
確かに?ライターが会に出入りするのは、難しい側面もあるでしょうが、まさに自分の足で調べたことですから、それも個人の自由。表現の自由と思います。一つの一つの記述を一方的解釈され、曲解したそれをことさらにあおりたてる人物がいらっしゃったのだそうですけれど…… 単純極まりない私には長いこと構図がよめませんでしたが、この時の体験から“真の首謀者は最もしおらしく寡黙なり”ということでしょうか。
でも、その悪い本をそのまま、新版として出したのが、識者の方たちのお陰で、ちょっぴりだけれど世にでられて、「この、小さな人間にとっては望外のハレの日まで生きていられて良かった! めげずにいて良かった」としみじみ実感。
あっちもこっちもぶつかってイビツなこの愚か者を支えてくださったのは、かつての反対運動、その後、もたらされた転換期。日増しに勢いづく推進の動きの憂き日の中で、屈辱感を嫌というほど、味わった八ッ場の方たちでした。
いつも生意気なことも申し上げますが、腹の底の底から、感謝しているのです。
コゴミをご存じない方もいらっしゃるらしいので、写真をご紹介します。
という私も知ったのは、最近。姉も叔母も、よく「コゴミがあった」といってましたが、私は不確かで採れませんでした。山菜採りの名人さん達に、何年か前、新潟県に連れていってもらって得心した次第です。
その後、注意してみればあるある。
天ぷらにするととっても美味しい。茹でてマヨネーズでもOK。
コゴミといえば、毎年、採取するたびに天ぷらを揚げるたびに、反射的に思い出す場面があります。
ある会の発足時からのメンバーとして動いていた最後の五月、゛現地でのコンサートの際に、土地の皆さんのお宅の庭先の産物、フキや花豆、このコゴミなどを譲ってもらったりして、都会の皆さんのお土産用に販売。
残ったコゴミを翌々日の火曜日夕刻の例会日に、天ぷらにして、喜び勇んで持参。それはうれしいニュースがあったからでした。こまめにある地域に足を運んでいる過程で、地域のダム関連役員さんと「飲み会」の約束ができたからでした。で、会員の方々にお知らせして交流をはかろうとしたのです。
現地との間に溝があったら、進展しません。食べながら飲みながらの交流は必要不可欠と飲めないヒトながら、思ってたのが実をむすびかけてたからでした。
すると、妙な空気。
「さぁ、〇〇さんが来たから始めましょう」とスタートからターゲットはどうやら私。ここで、まさに査問委員会並みの詰問にあい、以後はお出入り禁止を言い渡されました。数日後、事務局を通じて会長名による「例会に出席禁止」の文書が届いた次第です。この白い封筒は、ツバをひっかけられんばかりの仕打ちを受けた、わが生涯の屈辱の歴史として、今も保管してあります。
理由は、この間、勝手な行動が多すぎた由。でも、一昨日の販売のことはちゃんとお断りしたはずですし、むしろ歓迎されて、売上代金はいつものように会へも地元の皆さんにも還元したはずですし……
まあ、確かに一点集中主義のオバさんですから、取材も兼ねて八ッ場へ出入りしすぎたのは事実です。
が、逐一、事務局に「今日は八ッ場へ行ってきます」などと断って出入りするのものでもないでしょう。けれど、当時は県外から八ッ場へ出入りする団体にも「会に断って欲しい」と平然と言いきっていた事実があったくらいですから……
御蔭さまでその後、徹底的に干されて、天下の素浪人になった私は前よりも自由に気楽に八ッ場通いに明け暮れできましたが……
まぁ、その後、関係者から「あれは表向きの理由で、ジャマだっのよ、あなたは。動き過ぎるから」との「これが、真相」だとの暴露話も聞かされてます。
コゴミの天ぷらというと、反射的に、拙著の前著『八ッ場ダムー足で歩いた現地ルポ』の刊行後、半年経ったこの、2005年5月、確か12日の例会日での、「ペラペラとめくったら、悪い本」と、記念碑的なレッテルを貼られた日の屈辱が、鮮やかによみがえる次第です。
そうそう、そう言えば、迂闊にもこの本の出版も会を通してではなく、個人的なものでした。
確かに?ライターが会に出入りするのは、難しい側面もあるでしょうが、まさに自分の足で調べたことですから、それも個人の自由。表現の自由と思います。一つの一つの記述を一方的解釈され、曲解したそれをことさらにあおりたてる人物がいらっしゃったのだそうですけれど…… 単純極まりない私には長いこと構図がよめませんでしたが、この時の体験から“真の首謀者は最もしおらしく寡黙なり”ということでしょうか。
でも、その悪い本をそのまま、新版として出したのが、識者の方たちのお陰で、ちょっぴりだけれど世にでられて、「この、小さな人間にとっては望外のハレの日まで生きていられて良かった! めげずにいて良かった」としみじみ実感。
あっちもこっちもぶつかってイビツなこの愚か者を支えてくださったのは、かつての反対運動、その後、もたらされた転換期。日増しに勢いづく推進の動きの憂き日の中で、屈辱感を嫌というほど、味わった八ッ場の方たちでした。
いつも生意気なことも申し上げますが、腹の底の底から、感謝しているのです。
Posted by やんばちゃん at 10:28│Comments(0)
│八ッ場だより