2009年09月12日
(二)お返事にかえて、経過を
前述したように、ご質問の真意を読み違え、的はずれになっていることを憂えつつ、
「地元の反対運動を黙殺」=「今頃になって」の解釈にての、個人的な経緯をお応えに代えさせて戴きます。
お応えというより、むしろ言い訳ともとられなくないであろうし、そんなこと聞きたくもないとのご批判をも覚悟の上で、私の運動の経過を記させていただく次第なのです。よろしく、おつきあいくださいな。
私が初めて、八ッ場現地を訪れたのは10年前の1999年11月3日と記憶しております。
川原湯温泉を訪れた文人墨客の取材でした。
終了して、見上げた対岸の三つ堂のおく深い景観に瞬時にして魅了されてしまいました。思わずまだあった河原畑地域の小道というか、野道に足を踏み入れてしまいました。
そして、「ダムって何なの?」の疑問に突き動かされ、ダムのダの字も覚束なかった中年おばさんの今に続く、八ッ場通いが始まったのわけです。
当時は現地の反対運動の旗は降ろされ、火は表面上は消えかかってました。
始まったばかりの画期的な情報公開が、現在ほど開かれておらず、ダムの全容は部外者には殆どわからず、手探り状態でした。
たた゜、ひたすら、八ッ場の底光りする自然界の癒しに惹かされて、お邪魔させて戴き、見聞の領域を広げさせて参りました。
幸いにして、当時出入りしていた県内誌が、大型公共事業のムダをつく観点からの「ダムもの」を書くと掲載してくれたので、夢中で学びました。
加えて、編集長が「旧・八ッ場ダムを考える会」の発起人の一人として設立準備会に奔走。その事務所的な部屋がそこにあり、吾妻郡出身の女性が短期間ながら事務局として働いていたこともあり、事務所のお手伝いも兼ねて、発足時からの会員となりました(※水問題の市民運動の砦、「水源開発問題全国連絡会=水源連」の存在は、まだ残念なことに知りえず、遠い存在でした。現在は団体加入しています)。
うれしいことに、終世、ダム反対を貫かれた豊田嘉雄さんもまだお元気で、「遅かったよぅ」と嘆息されながらも積年の積もった思いを語ってくださいました。
さらに、現地のし烈な運動を語る象徴とされている、1967年12月の総決起集会。
その当時の若手メンバーの方々が、まだご存命だとの情報に小躍りしつつ、大喜びでお訪ねすると、時すでに遅く、明らかに推進の側に回った方もいましたが、反対運動の余燼をくすぶらせつつも、時代の変遷の中で余儀なくたたずまれていらっしっゃたのでした。
その際、異口同音に吐かれ、聞かされた言葉。
――あんた、来るんが遅すぎたい。もうちょっと早けりゃ、どうにかなったかもしれねぇけれどなぁ。はぁなあ、どうにもならねぇやいーーー
……ですが私は、なぜか、子供心に父親が繰り返していたので染み付いてしまった感の、例の2・26事件時のセリフを自己アレンジしてしまって、「今からでも遅くない」式のヒトなのです。諦めて、過ぎ去らせ黙認してしまえば、次の時点ではもっと遅くなってしまう。だから、気がついた時にガンバルしかないものと。
こちらは、その年齢に合わない若いくて青臭い一途な思いに燃えてしまってました。が、今にして思えば、現地の皆さんの困惑は意にも介さなかったのかもしれませんでした。本当にご迷惑をかけ続けてきた、困ったおばさんです。
その矢先、程なくやってきた、忘れもしない2001年6月14日の「保償基準調印式」。
哀しいことにその時まで、「補償基準」の意味も正確には判らないほどの幼さでした。愚かさでした。
調印式の取材からの帰り道、部外者の身にもことの重大さがひしひしと伝わりきて、想定される先々の工程と大きな節目に、その夜、消沈しながら関係者たちに電話した際には、思わず涙声になってしまってました。翌朝、新聞の「事実上のダム着工」の決定的な文字に打ちのめされたことが、今でも浮かび上がります。
それでも、スカーレット・オハラ並みに、絶望の底でも、まだ「明日」があると思ってました(もちろん、類似点はこの気性の荒さのこの一点のみだけですが)。
「まだ、完成したわけじゃない。明日がある」と言いきかせつつも、節目節目の苦しかった時には、悔いたものでした。
「あの頃、今みたいにダムのことが分かっていたら」「まだ地目認定の段階だったら。せめて、補償基準前なら」と、悔いても仕方ない、後の祭りのことを。
そして時に身勝手にも、全国活動の一端に触れて視野が広まった時に、ちょっぴり、己の無恥・非力を脇において、次のようなことがよぎりもしましたよ。
全国の市民運動iはダム工程に精通している先駆者たちもいられたのだから、八ッ場のことだってご存じなかったはずもなかったろうにとも……、なぜ、もっと以前、地元に反対運動の余熱があった時に、援軍にかけ走ってくださらなかっかとも。
(……で、もしかしたら、ここがご質問の隠された設問なのかとも、推察してもみますが……)
でも、考えてみれば現に、かほど怠ったわけではないのに私もまた、この10年間もの歳月に、脱ダムの動きや理念を現地につなぎ、現地の状況を社会に拡げることの他には、出来なかったわけなのですから……。
恥じて、愕然としています、
誰も誰もが、仕事として日々着々とことを成し遂げられる公務員に対して、生活の資たる仕事をこなしつつそれぞれの持ち場のダム闘争を支えることで手一杯だったことでしょう。
市民運動の限界ともよべましょうか。
ほんのしばしとはいえ、身勝手な責任転嫁はまさしく暴論になるかもしれませんね。
次に、当然、「生半可なことなら、迷惑だから、最初からやるな!」というお叱りの声が聞こえてまいります。
捨身になって、職をなげうってでも、邁進すべきでしょう。命を懸けるくらいの覚悟がなければ、趣味で市民運動やボランティアはすべきではありません。
未完ながら、中断
先ほど、何時間かかかって夢中で打ち上げましたこの拙文を、完成間際にうっかりミスにて消去してしまったのです。
気を取り直して、昼食もそこそこに打ちなおしを始めてから、すでに数時間。なんと夕方の6時になりました。
もう手が痛くて……限界です。
中断します。ご寛容のほどを。
「地元の反対運動を黙殺」=「今頃になって」の解釈にての、個人的な経緯をお応えに代えさせて戴きます。
お応えというより、むしろ言い訳ともとられなくないであろうし、そんなこと聞きたくもないとのご批判をも覚悟の上で、私の運動の経過を記させていただく次第なのです。よろしく、おつきあいくださいな。
私が初めて、八ッ場現地を訪れたのは10年前の1999年11月3日と記憶しております。
川原湯温泉を訪れた文人墨客の取材でした。
終了して、見上げた対岸の三つ堂のおく深い景観に瞬時にして魅了されてしまいました。思わずまだあった河原畑地域の小道というか、野道に足を踏み入れてしまいました。
そして、「ダムって何なの?」の疑問に突き動かされ、ダムのダの字も覚束なかった中年おばさんの今に続く、八ッ場通いが始まったのわけです。
当時は現地の反対運動の旗は降ろされ、火は表面上は消えかかってました。
始まったばかりの画期的な情報公開が、現在ほど開かれておらず、ダムの全容は部外者には殆どわからず、手探り状態でした。
たた゜、ひたすら、八ッ場の底光りする自然界の癒しに惹かされて、お邪魔させて戴き、見聞の領域を広げさせて参りました。
幸いにして、当時出入りしていた県内誌が、大型公共事業のムダをつく観点からの「ダムもの」を書くと掲載してくれたので、夢中で学びました。
加えて、編集長が「旧・八ッ場ダムを考える会」の発起人の一人として設立準備会に奔走。その事務所的な部屋がそこにあり、吾妻郡出身の女性が短期間ながら事務局として働いていたこともあり、事務所のお手伝いも兼ねて、発足時からの会員となりました(※水問題の市民運動の砦、「水源開発問題全国連絡会=水源連」の存在は、まだ残念なことに知りえず、遠い存在でした。現在は団体加入しています)。
うれしいことに、終世、ダム反対を貫かれた豊田嘉雄さんもまだお元気で、「遅かったよぅ」と嘆息されながらも積年の積もった思いを語ってくださいました。
さらに、現地のし烈な運動を語る象徴とされている、1967年12月の総決起集会。
その当時の若手メンバーの方々が、まだご存命だとの情報に小躍りしつつ、大喜びでお訪ねすると、時すでに遅く、明らかに推進の側に回った方もいましたが、反対運動の余燼をくすぶらせつつも、時代の変遷の中で余儀なくたたずまれていらっしっゃたのでした。
その際、異口同音に吐かれ、聞かされた言葉。
――あんた、来るんが遅すぎたい。もうちょっと早けりゃ、どうにかなったかもしれねぇけれどなぁ。はぁなあ、どうにもならねぇやいーーー
……ですが私は、なぜか、子供心に父親が繰り返していたので染み付いてしまった感の、例の2・26事件時のセリフを自己アレンジしてしまって、「今からでも遅くない」式のヒトなのです。諦めて、過ぎ去らせ黙認してしまえば、次の時点ではもっと遅くなってしまう。だから、気がついた時にガンバルしかないものと。
こちらは、その年齢に合わない若いくて青臭い一途な思いに燃えてしまってました。が、今にして思えば、現地の皆さんの困惑は意にも介さなかったのかもしれませんでした。本当にご迷惑をかけ続けてきた、困ったおばさんです。
その矢先、程なくやってきた、忘れもしない2001年6月14日の「保償基準調印式」。
哀しいことにその時まで、「補償基準」の意味も正確には判らないほどの幼さでした。愚かさでした。
調印式の取材からの帰り道、部外者の身にもことの重大さがひしひしと伝わりきて、想定される先々の工程と大きな節目に、その夜、消沈しながら関係者たちに電話した際には、思わず涙声になってしまってました。翌朝、新聞の「事実上のダム着工」の決定的な文字に打ちのめされたことが、今でも浮かび上がります。
それでも、スカーレット・オハラ並みに、絶望の底でも、まだ「明日」があると思ってました(もちろん、類似点はこの気性の荒さのこの一点のみだけですが)。
「まだ、完成したわけじゃない。明日がある」と言いきかせつつも、節目節目の苦しかった時には、悔いたものでした。
「あの頃、今みたいにダムのことが分かっていたら」「まだ地目認定の段階だったら。せめて、補償基準前なら」と、悔いても仕方ない、後の祭りのことを。
そして時に身勝手にも、全国活動の一端に触れて視野が広まった時に、ちょっぴり、己の無恥・非力を脇において、次のようなことがよぎりもしましたよ。
全国の市民運動iはダム工程に精通している先駆者たちもいられたのだから、八ッ場のことだってご存じなかったはずもなかったろうにとも……、なぜ、もっと以前、地元に反対運動の余熱があった時に、援軍にかけ走ってくださらなかっかとも。
(……で、もしかしたら、ここがご質問の隠された設問なのかとも、推察してもみますが……)
でも、考えてみれば現に、かほど怠ったわけではないのに私もまた、この10年間もの歳月に、脱ダムの動きや理念を現地につなぎ、現地の状況を社会に拡げることの他には、出来なかったわけなのですから……。
恥じて、愕然としています、
誰も誰もが、仕事として日々着々とことを成し遂げられる公務員に対して、生活の資たる仕事をこなしつつそれぞれの持ち場のダム闘争を支えることで手一杯だったことでしょう。
市民運動の限界ともよべましょうか。
ほんのしばしとはいえ、身勝手な責任転嫁はまさしく暴論になるかもしれませんね。
次に、当然、「生半可なことなら、迷惑だから、最初からやるな!」というお叱りの声が聞こえてまいります。
捨身になって、職をなげうってでも、邁進すべきでしょう。命を懸けるくらいの覚悟がなければ、趣味で市民運動やボランティアはすべきではありません。
未完ながら、中断
先ほど、何時間かかかって夢中で打ち上げましたこの拙文を、完成間際にうっかりミスにて消去してしまったのです。
気を取り直して、昼食もそこそこに打ちなおしを始めてから、すでに数時間。なんと夕方の6時になりました。
もう手が痛くて……限界です。
中断します。ご寛容のほどを。
Posted by やんばちゃん at 17:25│Comments(0)
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