2011年03月16日
福島原発の推移アラカルト
3/15 その二
※念のため記します。昨日「3/15 その二」で記しました4号機の火災の時間について、本日16日付け上毛新聞2面の「原発ドキュメント」の表中では、「9:40頃ごろ 4号機の原子炉建屋4階で出火」とあります。が、下記に転載しました東電のプレス向け報道では、以下のように、午前5時45 分頃となっています」
福島第一原子力発電所4号機における火災の発生について
平成23 年3月16 日 東京電力株式会社 福島第一原子力発電所
本日午前5時45 分頃、4号機の中央制御室にバッテリーを運んでいた当社社員が、中央制御室から戻る際に、原子炉建屋北西部付近から炎が上がっていることを確認しました。ただちに消防署、地元自治体へ通報するとともに、関係各所へ連絡し、消火活動に努めております。
この間の時間的推移は、東電の発表は大元ですので、以下を参照してください。
プレスリリース/ホームページ掲載情報
http://www.tepco.co.jp/nu/f1-np/press_f1/2010/2010-j.html
※各行のプレス欄をクリックしますと、PDFファイルで、報道向け文書が読めます。
それにしても、テレビの画面で、むき出しになった4号機の赤茶けた残骸をみますと恐ろしくなりますね。
先ほど、福島市の昔、お世話になった方に久々に電話してみました。幸い、一回で通じました。私の前に電話があったらしい、やはり関東の方が何度、電話しても通じなかったと言っていたとか。びっくりしたのは健忘症の進んだ昨今にしては、空でかけられたのでした。つまり、指の動きが覚えていた。というより、それだけ電話したお宅だったわけです。
福島でも内陸部の方だったので、大丈夫とは思ってましたが、家の中のものが落ちてメチャメチャになった程度で済んだそうでした。 原発の影響も阿武隈山脈がある上に、かなり離れているとのことでほっとしました。
語るには、福島原発はこの間もかなり問題性があったとのことでした。
現在の佐藤雄平知事(前知事・佐藤栄佐久氏の辞任後の、2006年11月12日投開票の福島県知事選挙に、民主党、社民党の推薦を受け出馬、当選)は、事故後の再開を拒否したことがあったそうでした。
すると、自民党関連者と地元民が大勢で県庁に陳情に押しかけた由。重なる大勢の住民の陳情訪問に、ついに転換を余儀なくされた、苦い経過があったと語ってました。
従って、事故がある度、所長が変わる都度、福島県庁に東電所長が謝罪や表敬訪問に訪れているとのことでした。
その事実を資料の引用にてご紹介します。なんと、問題の多い「プルサーマル計画」であり、この間のデーター改ざんもあったのでした。
2001年(平成13年)2月26日:佐藤栄佐久福島県知事(当時)が3号機プルサーマル計画について、当面許可しない旨を表明。
2010年(平成22年)2月16日:福島県知事は2月定例県議会で、東京電力が福島県に申し入れていた福島第1原発3号機でのプルサーマル計画実施について、条件付で受け入れることを表明した。同知事は、昨年から県エネルギー政策検討会を再開して検討してきたこと、核燃料サイクル推進という国の方針、玄海原発でのプルサーマル発電の開始などに言及、受け入れる考えを述べた。]
なんと、問題の多い「プルサーマル計画」だったのです。
ここでも八ッ場ダムの現実とかさなってなりません。
八ッ場でも地元の皆さんの本音は、ダム堤建設よりも、自分たちの生活再建が先なのに、どっかの党関係者や政治家たちか、「ダム堤建設≒生活再建」。つまりダムが完成しなければ生活再建はあり得ない。建設と一体のものなのである。という論理が前面に押し出され、水没地に流布しているのです。そうした青写真は前政権が描いたものであり、シナリオ通りにしようとしているのです。
福島県知事も、最も重要な主役である、地元民≒地元の意思という大義名分の前に折れざるを得なかったのでしょう。
八ッ場ダムの場合は、自民党の強い地盤のため、地元も有力者も県も一枚岩なのですからどうにもなりません。
【遠隔の概略】 ※1号機は既に51年目でかなり老朽化。米国では運転認可は最大40年(最長20年までの更新)
1960年(昭和35年)11月29日:福島県、東京電力に対し、敷地提供の旨表明
1967年(昭和42年)9月18日:2号機の原子炉設置許可申請を提出する。
9月29日:1号機を着工する。
1979年(昭和54年)10月24日:6号機の営業運転を開始する。
2002年(平成14年)8月29日:東京電力、原子力安全・保安院が原子力発電所における点検・補修作業の不適切な取り扱いについて公表。
10月25日:東京電力が1号機の原子炉格納容器漏洩率試験における不正に関する報告書を経済産業省に提出。1号機の1年間の運転停止処分を受ける。
2006年(平成18年)12月5日:1号機における復水器海水出入口温度測定データの改ざんについて報告
【福島原発の主な事故】
1976年4月2日
構内で火災が発生したが外部には公表されなかった。しかし田原総一朗に宛てた内部告発により事故の発生が明らかになり、告発の一ヶ月後東京電力は事故の発生を認めた。
1978年11月2日 3号機事故
日本初の臨界事故とされる。この事故が公表されたのは事故発生から29年後の2007年3月22日になってからであった。
1990年9月9日 3号機事故
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。INESレベル2。
1998年2月22日 4号機
定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の25分の1(1ノッチ約15cm)抜けた。
これらの初歩的資料を繰っただけでも、いかに福島原発の管理体制はいい加減であったかと思われます。
でも、今は最前線の職員さんたちは、「社命≒命をかけて」、被曝の危険と背中合わせの補修作業に必死でとりくんでいてくださっていられるのですから、職員さんの無事と成功をひたすら、祈りたい思いです。ご家族のご心痛はいかばかりのことでしょうか。
※念のため記します。昨日「3/15 その二」で記しました4号機の火災の時間について、本日16日付け上毛新聞2面の「原発ドキュメント」の表中では、「9:40頃ごろ 4号機の原子炉建屋4階で出火」とあります。が、下記に転載しました東電のプレス向け報道では、以下のように、午前5時45 分頃となっています」
福島第一原子力発電所4号機における火災の発生について
平成23 年3月16 日 東京電力株式会社 福島第一原子力発電所
本日午前5時45 分頃、4号機の中央制御室にバッテリーを運んでいた当社社員が、中央制御室から戻る際に、原子炉建屋北西部付近から炎が上がっていることを確認しました。ただちに消防署、地元自治体へ通報するとともに、関係各所へ連絡し、消火活動に努めております。
この間の時間的推移は、東電の発表は大元ですので、以下を参照してください。
プレスリリース/ホームページ掲載情報
http://www.tepco.co.jp/nu/f1-np/press_f1/2010/2010-j.html
※各行のプレス欄をクリックしますと、PDFファイルで、報道向け文書が読めます。
それにしても、テレビの画面で、むき出しになった4号機の赤茶けた残骸をみますと恐ろしくなりますね。
先ほど、福島市の昔、お世話になった方に久々に電話してみました。幸い、一回で通じました。私の前に電話があったらしい、やはり関東の方が何度、電話しても通じなかったと言っていたとか。びっくりしたのは健忘症の進んだ昨今にしては、空でかけられたのでした。つまり、指の動きが覚えていた。というより、それだけ電話したお宅だったわけです。
福島でも内陸部の方だったので、大丈夫とは思ってましたが、家の中のものが落ちてメチャメチャになった程度で済んだそうでした。 原発の影響も阿武隈山脈がある上に、かなり離れているとのことでほっとしました。
語るには、福島原発はこの間もかなり問題性があったとのことでした。
現在の佐藤雄平知事(前知事・佐藤栄佐久氏の辞任後の、2006年11月12日投開票の福島県知事選挙に、民主党、社民党の推薦を受け出馬、当選)は、事故後の再開を拒否したことがあったそうでした。
すると、自民党関連者と地元民が大勢で県庁に陳情に押しかけた由。重なる大勢の住民の陳情訪問に、ついに転換を余儀なくされた、苦い経過があったと語ってました。
従って、事故がある度、所長が変わる都度、福島県庁に東電所長が謝罪や表敬訪問に訪れているとのことでした。
その事実を資料の引用にてご紹介します。なんと、問題の多い「プルサーマル計画」であり、この間のデーター改ざんもあったのでした。
2001年(平成13年)2月26日:佐藤栄佐久福島県知事(当時)が3号機プルサーマル計画について、当面許可しない旨を表明。
2010年(平成22年)2月16日:福島県知事は2月定例県議会で、東京電力が福島県に申し入れていた福島第1原発3号機でのプルサーマル計画実施について、条件付で受け入れることを表明した。同知事は、昨年から県エネルギー政策検討会を再開して検討してきたこと、核燃料サイクル推進という国の方針、玄海原発でのプルサーマル発電の開始などに言及、受け入れる考えを述べた。]
なんと、問題の多い「プルサーマル計画」だったのです。
ここでも八ッ場ダムの現実とかさなってなりません。
八ッ場でも地元の皆さんの本音は、ダム堤建設よりも、自分たちの生活再建が先なのに、どっかの党関係者や政治家たちか、「ダム堤建設≒生活再建」。つまりダムが完成しなければ生活再建はあり得ない。建設と一体のものなのである。という論理が前面に押し出され、水没地に流布しているのです。そうした青写真は前政権が描いたものであり、シナリオ通りにしようとしているのです。
福島県知事も、最も重要な主役である、地元民≒地元の意思という大義名分の前に折れざるを得なかったのでしょう。
八ッ場ダムの場合は、自民党の強い地盤のため、地元も有力者も県も一枚岩なのですからどうにもなりません。
【遠隔の概略】 ※1号機は既に51年目でかなり老朽化。米国では運転認可は最大40年(最長20年までの更新)
1960年(昭和35年)11月29日:福島県、東京電力に対し、敷地提供の旨表明
1967年(昭和42年)9月18日:2号機の原子炉設置許可申請を提出する。
9月29日:1号機を着工する。
1979年(昭和54年)10月24日:6号機の営業運転を開始する。
2002年(平成14年)8月29日:東京電力、原子力安全・保安院が原子力発電所における点検・補修作業の不適切な取り扱いについて公表。
10月25日:東京電力が1号機の原子炉格納容器漏洩率試験における不正に関する報告書を経済産業省に提出。1号機の1年間の運転停止処分を受ける。
2006年(平成18年)12月5日:1号機における復水器海水出入口温度測定データの改ざんについて報告
【福島原発の主な事故】
1976年4月2日
構内で火災が発生したが外部には公表されなかった。しかし田原総一朗に宛てた内部告発により事故の発生が明らかになり、告発の一ヶ月後東京電力は事故の発生を認めた。
1978年11月2日 3号機事故
日本初の臨界事故とされる。この事故が公表されたのは事故発生から29年後の2007年3月22日になってからであった。
1990年9月9日 3号機事故
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。INESレベル2。
1998年2月22日 4号機
定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の25分の1(1ノッチ約15cm)抜けた。
これらの初歩的資料を繰っただけでも、いかに福島原発の管理体制はいい加減であったかと思われます。
でも、今は最前線の職員さんたちは、「社命≒命をかけて」、被曝の危険と背中合わせの補修作業に必死でとりくんでいてくださっていられるのですから、職員さんの無事と成功をひたすら、祈りたい思いです。ご家族のご心痛はいかばかりのことでしょうか。
Posted by やんばちゃん at 20:00│Comments(0)
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