2010年01月04日
移転者の皆さんに幸あれ
遅ればせの年賀状の一通が「あてどころありません」と帰ってきた。最近は年賀状のみのご縁だった。もしかしたら電話が通じるかと直ちに電話したが、ダメであった。
お一人で自宅で委託をうけた書籍を仕上げるフリーの編集者だった。一時、知人の仲介で、少しお手伝いさせて貰えるとの話もあったが、当方の事情で実現しないままに立ち消えとなって、そのまま疎遠になった。
新宿御苑に面したマンションだったが、あの辺は開発行為はもうないだろうし、まだ建て替えの時期でもないだろうし、。
出版不況の折柄、行き詰まってしまわれたのだろうか。
そうしたら、どうされているのだろう。 田舎に帰られたのならよいけれど……、確か九州の方とか人づてに聞いていた。折からのホームレスのニュースに、お一人で世の中に執着心のない方だったから……、もしかしてとなどと失礼ながらチラつく。
もうお一人、レイアウト専門の印刷関係の方には、連絡のとりようがなく、今年はその年賀状も出せなかった。
仕事を止める旨の連絡を受けた際に、教えてもらった電話番号のメモ書きをどこかに紛らわせてしまって、探し出せずに年越しをしてしまった。伺った電話番号を、きちんとノートに記しておけば良かったのだが……
私が一時出入りしていた県内の出版社の印刷関係をして下さっていた東京の業者であった。印刷は下請けさんに発注されていたのだが、滞っていて支払えない代金を「内容が良いから」と自分の処のみならず、外注さんへの経費も建て替えてくださるほどの人の良い方で、ついに積りにつもった立て替え金が莫大な金額となり、昨今の不況下、倒産に至ったらしい。
この方の通常感覚では考えられない善意のお蔭で、すでに断末魔をあげていたこの地方誌が続けていられたのである。確かに、並みのジャーナリズムでは掲載不可の社会の暗部をえぐり出す精力的な雑誌ではあった。
何年か前、返済を求めて群馬に見えた時に、私はとうにその出版社を辞めていたのだが、やはり貰えなかったのかとその負債額の大きさに驚きながらも、快く駅からの車の運転をしてさしあげたことがある。
良心的な仕事をなされる方で、感性も鮮やかだった。で、幾つか個人的な印刷もお願いし、お世話になってきた。
「最終的には地裁に申し立てる」といわれるので、いかに経済面にに無知な私でも、さすがに「取ろうと思ったって無理ですよ。払う気持ちなどないと思いますし、お宅た゜けではないんだしたぶん払えないと思いますよ。このまま地裁に直行した方が良いと思われますよ。時間の問題となりますよ」と差し出がましくご忠告したことがあった。
昨年の夏頃、ようやく倒産手続きを終えたというその最後のあいさつの電話中「若い日から、この仕事一筋できたんですよ。それが……。ただね、息子がね、お父さんは何も悪いことはしてこなかったじゃないか。社会が悪いんだよって言ってくれたのが救いです」と声を詰まらせられていた。
活字離れの昨今、出版業界の不況は、好きな分野だけに辛い。
何とかして連絡先の電話番号のメモ類を探し出し、来年の賀状は出したいとものと願っている。
一方、あちこちに負債を残しながら、何度かの倒産の憂き目にあいつつも、記者魂の一念で突っ走ってきたオーナー夫婦は、
「会社には関係ない」と言い切っていた息子さんが買った今風の建売住宅に最高額の年金生活で暮らしている。その年金で私たち出入りのライターへの微々たる報酬も賄われていたわけであった。
今は数多くの方たちへの月々の返済金に当てていられるのだろうか。だが、「年金は生活費ですからね。強制手段はとれないんですよ」と、借金返済の義務はなし的に語っていた奥さんの言葉が蘇る。
このお三人達よりももっと厳しい生活力しかない私でも、こうして全てがいびつながら、今年も漫然と過ごしていられる。
都会での生活と異って、地方では仮に現金がなくとも、有り難いことに周囲が親せきや知人なので何とか活路が開ける可能性がある。
移転した水没地の方たちも集団移転したのなら、まだ地域の築き上げたつながりがあったろうが大半が個人事情で単独に転出している。わずかに中之条町の一角に集中して移転組の方たちのお宅があるらしいが……
とりわけ借地人にて十分な補償金もないまま、新築移転など夢の夢で、都会に紛れ込まざるをえなかった方もいただろう。
ある女性は「いくら、息子の家だって嫌なこともあったよ。最初は友達も出来なくってさ。病気になって入院したんだよ。どこも悪くなくてストレスだって言われたけれど」と語ってくださった。
八ッ場から転出され、それぞれの地に根を張らた方たちの、今後の生活に幸あれと祈る、三ケ日明けである。
お一人で自宅で委託をうけた書籍を仕上げるフリーの編集者だった。一時、知人の仲介で、少しお手伝いさせて貰えるとの話もあったが、当方の事情で実現しないままに立ち消えとなって、そのまま疎遠になった。
新宿御苑に面したマンションだったが、あの辺は開発行為はもうないだろうし、まだ建て替えの時期でもないだろうし、。
出版不況の折柄、行き詰まってしまわれたのだろうか。
そうしたら、どうされているのだろう。 田舎に帰られたのならよいけれど……、確か九州の方とか人づてに聞いていた。折からのホームレスのニュースに、お一人で世の中に執着心のない方だったから……、もしかしてとなどと失礼ながらチラつく。
もうお一人、レイアウト専門の印刷関係の方には、連絡のとりようがなく、今年はその年賀状も出せなかった。
仕事を止める旨の連絡を受けた際に、教えてもらった電話番号のメモ書きをどこかに紛らわせてしまって、探し出せずに年越しをしてしまった。伺った電話番号を、きちんとノートに記しておけば良かったのだが……
私が一時出入りしていた県内の出版社の印刷関係をして下さっていた東京の業者であった。印刷は下請けさんに発注されていたのだが、滞っていて支払えない代金を「内容が良いから」と自分の処のみならず、外注さんへの経費も建て替えてくださるほどの人の良い方で、ついに積りにつもった立て替え金が莫大な金額となり、昨今の不況下、倒産に至ったらしい。
この方の通常感覚では考えられない善意のお蔭で、すでに断末魔をあげていたこの地方誌が続けていられたのである。確かに、並みのジャーナリズムでは掲載不可の社会の暗部をえぐり出す精力的な雑誌ではあった。
何年か前、返済を求めて群馬に見えた時に、私はとうにその出版社を辞めていたのだが、やはり貰えなかったのかとその負債額の大きさに驚きながらも、快く駅からの車の運転をしてさしあげたことがある。
良心的な仕事をなされる方で、感性も鮮やかだった。で、幾つか個人的な印刷もお願いし、お世話になってきた。
「最終的には地裁に申し立てる」といわれるので、いかに経済面にに無知な私でも、さすがに「取ろうと思ったって無理ですよ。払う気持ちなどないと思いますし、お宅た゜けではないんだしたぶん払えないと思いますよ。このまま地裁に直行した方が良いと思われますよ。時間の問題となりますよ」と差し出がましくご忠告したことがあった。
昨年の夏頃、ようやく倒産手続きを終えたというその最後のあいさつの電話中「若い日から、この仕事一筋できたんですよ。それが……。ただね、息子がね、お父さんは何も悪いことはしてこなかったじゃないか。社会が悪いんだよって言ってくれたのが救いです」と声を詰まらせられていた。
活字離れの昨今、出版業界の不況は、好きな分野だけに辛い。
何とかして連絡先の電話番号のメモ類を探し出し、来年の賀状は出したいとものと願っている。
一方、あちこちに負債を残しながら、何度かの倒産の憂き目にあいつつも、記者魂の一念で突っ走ってきたオーナー夫婦は、
「会社には関係ない」と言い切っていた息子さんが買った今風の建売住宅に最高額の年金生活で暮らしている。その年金で私たち出入りのライターへの微々たる報酬も賄われていたわけであった。
今は数多くの方たちへの月々の返済金に当てていられるのだろうか。だが、「年金は生活費ですからね。強制手段はとれないんですよ」と、借金返済の義務はなし的に語っていた奥さんの言葉が蘇る。
このお三人達よりももっと厳しい生活力しかない私でも、こうして全てがいびつながら、今年も漫然と過ごしていられる。
都会での生活と異って、地方では仮に現金がなくとも、有り難いことに周囲が親せきや知人なので何とか活路が開ける可能性がある。
移転した水没地の方たちも集団移転したのなら、まだ地域の築き上げたつながりがあったろうが大半が個人事情で単独に転出している。わずかに中之条町の一角に集中して移転組の方たちのお宅があるらしいが……
とりわけ借地人にて十分な補償金もないまま、新築移転など夢の夢で、都会に紛れ込まざるをえなかった方もいただろう。
ある女性は「いくら、息子の家だって嫌なこともあったよ。最初は友達も出来なくってさ。病気になって入院したんだよ。どこも悪くなくてストレスだって言われたけれど」と語ってくださった。
八ッ場から転出され、それぞれの地に根を張らた方たちの、今後の生活に幸あれと祈る、三ケ日明けである。
Posted by やんばちゃん at 23:53│Comments(0)
│八ッ場に願う