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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2011年01月09日

消え行く、お正月飾り

 八ッ場が暮れた。
 2010年の帳がふわりと落ちた。
 その中は見えなかった。
 見えないけれども、確実に人がうごめいてた。

 ま新しい年、2011年の帳が、またふわりと上がる。
 けれど、ま新しい家々の今風の部屋には、もうスルメや荒巻鮭、干し柿やみかんをつるしたお正月様の飾り付けを行う場所はない。せいぜい門口に松にしめ縄の門松程度となったようだ。
 わずかにそんな旧来通りのお正月様の飾りを行う家は、部分水没地のために移転の必要性のない高台にある林地区の農業関係者宅の一部と、遅々として進まない代替地造成のため、移転が叶わず、いまも現地に住む上湯原地区の農家ぐらいになってしまったようだ。

 通い始めた頃には、神棚の前に見事に幾つかの縁起ものの品々が、ズラリとつりさげられた飾り付けは、殆どのお宅にあった。
 まだ五穀豊穣を願う、林地区の風習として伝わっている風習には、「ヌルデンボウ」という木を山から切ってきて板にして、数本を束ねて丸太状にして、樹皮をむかないのは「ヒエ」にみたて、むいて白い木にしたのを「コメ」にみたてて、燃え盛る竈の上につるす風習があったという。
 さらに40年ほど前の当時は、暮れに山から粘土を採ってきて、近隣の手伝いも入れて新たな竈を築く風習があったという。
 30日・31日と試し使いを行い、元日はこの新しい竈で、正月初の煮炊きをしたという。当時の山里の正月料理というのはキンピラ、芋の煮ころがし程度だったとか。
 その上に、この「ヒエ棒とかアワ棒」の束をつるしたという。
 今では生活様式の変遷により、竈は不要となり、当時の風習を伝える人もいなくなったので飾る家は皆無となったという。
 
 実は、今回、ようやく下記に記した経緯を経て、竈がいらなくなって自然消滅した風習であったことが分かった次第である。
 もう7、8年くらい前になるだろうか。親しく打ち解けさせて戴け始めていた現地の皆さんのお宅の年間行事を、カメラにおさめ初めた一時期があった。
 とりわけ、各種年間行事を豪華に飾りつけるのがお好きだったBさん宅で、写真を採らせてもらっていた。
 すると、「あれを撮っておくといいよ。はぁ、俺ん家には、ネェんだけれどさ、待ってな。まだ、飾っている家があるから」とおっしゃった。そして「後で写真を撮らせてもらっておくよ」と添えてくださった。なにやら、貴重な風習らしい。
 で、「直接、伺ってもいいかしら」と尋ねると、不可だった。
 当時も今も、当方“危険人物”なり。Bさんも立場が困るらしい。
 後日、渡された写真がある。うすぐらい家の中。なにやら煤で汚れた家の中らしい背景に、綱が張られ、そこに見慣れぬ木の束がつるされていた。
 写真は膨大な写真の中に埋没。正式な名前はどこかに記したつもりだけれど、もはや、探し出せない。

 そしてスタートの遅かった今年の新年、ようやくそれらの風習の数々を思い出した。
 以下に備忘録的に記した経緯を経て、もはや生活環境が著しく異なって、台所はガスや電化の時代になり、竈がある家も、火を燃やす家も皆無に近いのだから、このしきたりが消えてしまうのはあたり前のこととわかった。
 ちなみに無信心な当方でも、さすがに暮れに注文採りにくる正月のお札の中で、慣例を断つことの弱さとおつきあいもあって「竈さま」と「厠さま」だけは求める。
 地域の方たちにとって、五穀豊穣への祈りとともに、いかに火が神聖であり、火事への恐怖心があったかをしみじみ実感した。
 それにして、竈の上につるしても簡単には燃えないらしい木を使って考えだした、この地方の村の方たちの創意工夫については驚いた。
 
 ダムはこれらの風習を一変させてしまった。
 ただし、おなじみのダムゼネコンに膨大な経費を払っての、文化財の聞き取り調査を行ったことと、結果をまとめた大部の豪華本の資料集刊行は、評価に値することであろうか。

   【前述の飾りつけの意義を知るに至る、いきさつ】 
 Bさんに正月になって何度目かの電話。
 本日は、急に思いだした正月の飾り付けについて問う。
 「お宅、お正月飾り、今年もなされました」と問うと、「あぁ。飾ったよ」とのもの憂さそうな声音がかえってきた。でも、ほっとした。
 重ねて「それ、いつまであります」と問う。面倒くさそうに、「正月の中ばくれぇまでおいとくべぇ」。「それじゃ、その内に写真、撮らせてもらいに伺っていいですか」と頼んだ。 でも、子供の頃のわが家の飾り付けを思い出しても、そんなには置かないはず……
 名前が正式に判らないので、説明を要したが、例の薪風のものをつるす飾りつけについて Bさんの記憶を蘇らせてもらって名前を聴く。すると、「そういうあったけれど、何だったっけな。覚えていねぇよ」の返答。そして、「あの人は、はぉ、いねえよ」とおっしゃ。ものすごく縁起をかつぐご性格なので、正月早々、「亡くなられたの。それとも引っ越されたの」と問い返すことはしなかった。 移転しなされたお宅に加えて、ほどなく亡くなられたとか聞いている方らしいのだが……。 
 
 次に同じくしきたりを重んじるCさん宅に電話。考えたら、年明け最初の電話だったので、年賀状は早々に戴き、遅ればせの返礼はしたけれど、新年のあいさつをまず申し上げてから、伺った。
 「移転してから、飾り付ける部屋もないから、門松をたてただけで行わない」とおっしゃる。
 そうなると、持ち前の探究心というより、好奇心がムクムクと。
 で、ものしりのDさん宅に新年のご挨拶を兼ねて、電話。忙しい方だったが、幸いいらして助かった。
 このお宅でも簡単に飾り付けと門松はたてたそうであった。が、すでに撤去。「七草までに片ずけるものだんべに」とおっしゃる。で、Bさん宅のことを思い出し、「月半ばまでじゃにないですよね」とあえて聴いてみた。「そんな時期までおいておくもんか」と笑われ、「小正月にはまた、まゆ玉をつくって飾るべえ」と教えてくださった。ここのお宅もかつては、大養蚕農家であった。
 例の記憶の薪風のものがつるされていた風習については、「はぉ、あんなのはする上はなかんべゃ」とのこと。
 でも、さすがに土地の生え抜きの方、「ぬるでんぼう」とかの木を山から切ってくきて、アワやコメにみたててつるすことまではわかった。
 「アワ棒」とか「ヒエ棒」とかの記憶もよみがえられた。でも、ここで打ち止め。

 さらにもう一度、Bさん家に伺ったばかりの単語を駆使して、思いだされたかどうか電話。
 もう子供さんたちも帰られたらしく、その接待の疲れがでたのか、さらに物憂い声音ながら、怒り気味に鋭く「アンタさ、何回電話してくるん」とおっしゃられた。
 でも、慣れっこだからめげずに伺う。
 やはり判らない由。事のついでに「おのね。飾り付けは七草あたりまでらしいのよ」と余分ごとを添えてしまった。「そうかい、じゃあ、明日あたり片づけべえ」とのたまう。しまった! 「じゃあさ、明日お邪魔するまで待っていただけます」とたたみこむ。「いいよ、来なくたって。写真を撮っておいてやるから」と拒否されてしまった。
 それに明日は、朝早くは行けないだろう。
 それにしてもだ、地域の旧家として、えびす講や初うまの行事まで、諸事万端つつがなくととのえにられてきたBさんが、正月の飾り付けの撤去の期日を忘れられると言うのは切ない。体力と記憶力の減退にくわえ、動くのが大義らしいのだ。

 中途半端では落ち着かない。
 で、夜の9時すぎ、最も若手のEさん宅に電話してしまった。かけてから、仕事柄、早寝の方だったことを思い出したが、快く対応してくださった。
 お蔭さまでようやくここで、前述の概要の大半と竈の上に祀ることが判明。
 そして、かつて50年くらい前までは、この地方では年末には新たな竈を築いたこともわかった。
 ようやく、写真にあった飾り付けの起床転結が成立。
 時間的にもう、これ以上の電話は出来ない。
 未だ正式名称は不明だが、後日、図書館等で長野原町のダム関連事業で作成された資料などで調べるか、長野原町のものしり古老の方に伺うしか手立てがない。

 無知な当方、Bさんのご厚意に報いることなく、時過ぎてしまった。
 恐らくBさんのことゆえ、写真代などの謝礼もご自分で使ってくださっていたろう。そして、お名前も知らないその方の晩年の渾身の飾りつけに対しても、礼をつくすこともなく時すぎてしまったのだ。
 八ッ馬の皆さんにお手数ゃご厄介をかけながら、集めるには集めても、ためたままになっている資料の整理が急がれるのだが……
   


Posted by やんばちゃん at 23:12Comments(0)八ッ場だより