グンブロ広告
ビジネスライセンス料 3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告 1,600円/月

2011年01月10日
?提出用:消え行く正月風景
昨日のあいかわらずの冗長な文章を少し収斂させて、ある会報用に送ったものです。
(締切をすぎていたのでしたが、かろうじてセーフかと思いきや、アウト。:掲載は来月号になりました。それまでに写真が見つけ出せるといいのですが……)
もちろん、言いたかったのは末尾。
........................................
八ッ場 癒しの風俗詩
第六回 消え行く正月風景
八ッ場が暮れた。
2010年の帳がフワリと落ちた。
外部からは相変わらず紗幕がかかっていて見えにくかった1カ年であった。が、定かにはつかめないけれど、確実に人が、意思と輪郭を持ってうごめいていた。
とりわけ水没地の方たちの心の綾とその揺れは複雑な襞が横たわっていた。その中で、たがうことなく手渡しされてきた先祖伝来の正月風景もまた年々、確実に消えていった。
「山河を崩し、人を追い立てる」ダム事業にはつきものとはいえ、代替地にシンボル的にまず真っ先に移されたのは、もの言わぬ神社仏閣などの類であった。
伴って先々の日、地域ごとの慣習の数々は自然淘汰にさらされる途上にあるのは否めず、幾つものしきたりが記憶の中に消え去っていくことであろうか。
かくしてまた、真新しい年、2011年の帳がフワリと上がる。
けれど、劇的に変化した新しい家々の今風の部屋の神棚には、もうスルメや荒巻鮭、干し柿やミカンをつるしたお正月様のなつかしい飾り付けを行う場所は無い。 せいぜい門口の門松程度となったようだ。
わずかに旧来通りのお正月様の飾りを律儀に行い今に伝える家は、部分水没のために移転の必要性のない高台の林地区の農業関係者宅の一部や、遅々として進まないため代替地に移転が叶わず、今年も残っている上湯原地区の代替地希望農家くらいになってしまったようだ。
通い始めた10年くらい前には、神棚前の飾りつけはもちろん、まだ五穀豊穣を願う、?俗称「ヌリデンボウ」なる風習が林地区には、わずかながら残っていた。
「ヌリデンボウ」というのは、「ヌルデ」の数ある異名の一つで、幹が軽く柔らかいので「飾り花」など細工物に用いられてきた木のようだ。
山から切ってきて小割りにして、数本を束ねて俵もの風にして、樹皮をむかないのは「ヒエ」にみたて、むいて白くしたのを「コメ」にみたてて、燃え盛る竈の上につるした由。
なぜかというのは、半世紀ほど前まであった、土間にしつらえた竈を清めた風習の名残りらしい。
実はもう7年程前になろうか、これらの消え行く山里の風習に興味をもって写真に収めた一時期があり、絶える寸前の貴重なものとして写真を分けて貰っていた。
しかし、土地の方達は積み上げた生活感の共通認識で、その理由はわかっていたのだろうが、いち早く「脱カマド」の県内都市部の当方には、疑問の糸口もつかめないまま経過。あの惹きつけられた写真は膨大な写真の中に埋没ししまって探し出せず、正式名称はどこかに記したつもりだけれど思い出せなくなった今般、ようやく以下の「風習の起承転結」を知ったお粗末さなのである。
林地区周辺では、かつてはどうやら年ごとに竈を築いたらしく、暮に粘土を採ってきて新たな竈を築く風習があったという。年末の2日間くらい試し使いを行い、元日はこの新しい竈で正月の初煮炊きしたという。その頃の山里の正月料理というのはキンピラ、芋の煮ころがし程度だったとか。
神棚に準ずる五穀豊穣の祈りとともに、たぶん何よりも恐ろしい火災を恐れて、竈の上方に五穀にみたてたヌルデの束をつるして、無病息災を願ったのではないだろうか。
今日、生活様式の変遷により竈は不要。従って、当時のしきたりを行う家が皆無となったのも、至極当然のこととしてうなづける所以だが……
さて、……いかに、村の総意に基づく覚悟の「ダム建設」の選択であったにせよ、徐々に消え去りいくのは、地域のしきたりだけではないだろう。
早晩、それらに付随して崩れ行くのは、村人の絆の確かさではないだろうか。
(締切をすぎていたのでしたが、かろうじてセーフかと思いきや、アウト。:掲載は来月号になりました。それまでに写真が見つけ出せるといいのですが……)
もちろん、言いたかったのは末尾。
........................................
八ッ場 癒しの風俗詩
第六回 消え行く正月風景
八ッ場が暮れた。
2010年の帳がフワリと落ちた。
外部からは相変わらず紗幕がかかっていて見えにくかった1カ年であった。が、定かにはつかめないけれど、確実に人が、意思と輪郭を持ってうごめいていた。
とりわけ水没地の方たちの心の綾とその揺れは複雑な襞が横たわっていた。その中で、たがうことなく手渡しされてきた先祖伝来の正月風景もまた年々、確実に消えていった。
「山河を崩し、人を追い立てる」ダム事業にはつきものとはいえ、代替地にシンボル的にまず真っ先に移されたのは、もの言わぬ神社仏閣などの類であった。
伴って先々の日、地域ごとの慣習の数々は自然淘汰にさらされる途上にあるのは否めず、幾つものしきたりが記憶の中に消え去っていくことであろうか。
かくしてまた、真新しい年、2011年の帳がフワリと上がる。
けれど、劇的に変化した新しい家々の今風の部屋の神棚には、もうスルメや荒巻鮭、干し柿やミカンをつるしたお正月様のなつかしい飾り付けを行う場所は無い。 せいぜい門口の門松程度となったようだ。
わずかに旧来通りのお正月様の飾りを律儀に行い今に伝える家は、部分水没のために移転の必要性のない高台の林地区の農業関係者宅の一部や、遅々として進まないため代替地に移転が叶わず、今年も残っている上湯原地区の代替地希望農家くらいになってしまったようだ。
通い始めた10年くらい前には、神棚前の飾りつけはもちろん、まだ五穀豊穣を願う、?俗称「ヌリデンボウ」なる風習が林地区には、わずかながら残っていた。
「ヌリデンボウ」というのは、「ヌルデ」の数ある異名の一つで、幹が軽く柔らかいので「飾り花」など細工物に用いられてきた木のようだ。
山から切ってきて小割りにして、数本を束ねて俵もの風にして、樹皮をむかないのは「ヒエ」にみたて、むいて白くしたのを「コメ」にみたてて、燃え盛る竈の上につるした由。
なぜかというのは、半世紀ほど前まであった、土間にしつらえた竈を清めた風習の名残りらしい。
実はもう7年程前になろうか、これらの消え行く山里の風習に興味をもって写真に収めた一時期があり、絶える寸前の貴重なものとして写真を分けて貰っていた。
しかし、土地の方達は積み上げた生活感の共通認識で、その理由はわかっていたのだろうが、いち早く「脱カマド」の県内都市部の当方には、疑問の糸口もつかめないまま経過。あの惹きつけられた写真は膨大な写真の中に埋没ししまって探し出せず、正式名称はどこかに記したつもりだけれど思い出せなくなった今般、ようやく以下の「風習の起承転結」を知ったお粗末さなのである。
林地区周辺では、かつてはどうやら年ごとに竈を築いたらしく、暮に粘土を採ってきて新たな竈を築く風習があったという。年末の2日間くらい試し使いを行い、元日はこの新しい竈で正月の初煮炊きしたという。その頃の山里の正月料理というのはキンピラ、芋の煮ころがし程度だったとか。
神棚に準ずる五穀豊穣の祈りとともに、たぶん何よりも恐ろしい火災を恐れて、竈の上方に五穀にみたてたヌルデの束をつるして、無病息災を願ったのではないだろうか。
今日、生活様式の変遷により竈は不要。従って、当時のしきたりを行う家が皆無となったのも、至極当然のこととしてうなづける所以だが……
さて、……いかに、村の総意に基づく覚悟の「ダム建設」の選択であったにせよ、徐々に消え去りいくのは、地域のしきたりだけではないだろう。
早晩、それらに付随して崩れ行くのは、村人の絆の確かさではないだろうか。