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2011年01月22日
ひとのこの世は長くして、……無常の風はへだてなく
朝日新聞群馬版の転載です。
【2011年01月22日(土) 朝日新聞群馬版】http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000581101220001
八ツ場ダム 住民の絆 湯が温める
【湯かけ祭り実行委員長の樋田さん】
【キャップション】湯かけ祭りの終了後、報道陣の取材に応じる樋田省三さん=長野原町川原湯
.....................................
さて、今夕は、大正3年のお生まれの96歳の女性のお通夜に行ってきました。両親が昔、商売上のことでお世話になった家の奥さんで遠い親せき筋的縁にも連なる方でした。数年前、その息子さんご夫婦と、あるサークルでご一緒させて戴いていて、たまたたま、この家の息子さんだとわかり、「世間て狭いものてですね」となったものでした。
亡くなる直前までお独り暮らしをされていたので、以前、その家のお嫁さんに「お邪魔してもいいかしら」と問うと、「どうぞ、どうぞ」と言われていたのに、目の前の一歩に追われてしまって、とうとう、個人的にお話をうかがうことなく過ぎてしまいました。 母方の実家の集い、主に葬儀ごとばかりでしたけれど、それらの折には、いつもお目にかかってはいたのでしたが、短い会話だけですぎてしまってました。
遺影の華やかを放つ顔を見上げると、おもわずこみあげてくるものがありました。
最後にお目にかかったのは、4年ほど前の一番下の叔母の葬儀だったでしょうか。ですから、もう90歳すぎでしたのに、それはそれは輝いてました。
お会いする度に、年をとられるにつれ、惹きつけられたものでした。生き方に裏打ちされた内面の美が輝きだすということを実感させられた方のお一人でした。
焼香後、趣味の俳句を流麗な筆致でしたためた色紙や掛け軸などが飾られていました。1997年、83歳で句集も発刊されていたのでした。
傍らの写真類などもじっくりと目を通していると、娘さんの同級生で仲の良い友人だという、私とほぼ同年配のご近所の女性の方が寄ってこられて、晩年の様子を伺うことができました。
この世を去る寸前まで、気力しっかりでぼけることもなく、見事に生き切られたようでした。
おもわず、「私たちの前を見事に歩き通された、華のある女性のお一人でしたね」と申し上げると、「本当に、オバちゃんはステキでした」と。
かくありたたいもの。でも、私には今でもこんななりふり構わずだもの、あんなに身ぎれいにはできないなと道々、おもいながら、ありし日の輝きをしのびながら帰ってきました。
そして、こんな私でも、年下の女性たちから、久々に人前に出ていったら、「お元気でした! 〇っこさん。 よかった、〇っこさんが元気だとほっとするんよ」と言われて、めんくらったことがありました。
思うに、このはるか年下の知人は当時、家庭内のことで辛いことにさらされていたんだろうなと想われるのです、そして、こんな私でも、子育てに追われて忙しい日々を送っていたりする年下の彼女たちの、何らかの励ましになるんだろうかと思うと、背筋をみられているという自覚がよみがえり、以来、落ち込んでいても、ことのほか背筋をシャッキリと毅然と胸を張り、余裕の笑顔を作るのですから不思議です。
コチコチタイプで何者かに縛られたように、40代半ばまで「間違えたら、困る」とばかりに、切なくなるほど緊張して自分を律することに腐心してきたものでした。
今も思うと「なせ、あんなに」と、自分で自分がいじらしくなるほどです。
そんな時、その生ごわな超し方を一瞥でわかったのか、ある文化人の方が「間違えてもいいんですよ。気がついたらまたそこまで戻って、まっすぐに進めばいいんです」とさとすように言ってくださったのが、その低い声音とともに思い出されます。
年の割に幼すぎた私に「生きること」を―教えてくだされたあの先生方も皆さん、鬼籍にはいられてもう久しい時が流れました。
確かな足跡を残して、人がこの世を去って逝かれるのは、人の世の常とはいいながら、そこはかとなく寂しいものです。
わが家と同じく浄土宗(知恩院派)らしく、会葬の間中、ご住職が低く唄われていた、「人のこの世は」のご詠歌のもの寂びた韻律が今も口に上ります。
古歌 光明摂取の御和讃
人のこの世はながくして かわらぬ春とおもいしに
無常の風はへだてなく はかなき夢となりにけり
あつき涙のまごころを みたまの前にささげつつ
ありしあの日のおもいでに おもんかげしのぶもかなしけれ
【2011年01月22日(土) 朝日新聞群馬版】http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000581101220001
八ツ場ダム 住民の絆 湯が温める
【湯かけ祭り実行委員長の樋田さん】
【キャップション】湯かけ祭りの終了後、報道陣の取材に応じる樋田省三さん=長野原町川原湯
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さて、今夕は、大正3年のお生まれの96歳の女性のお通夜に行ってきました。両親が昔、商売上のことでお世話になった家の奥さんで遠い親せき筋的縁にも連なる方でした。数年前、その息子さんご夫婦と、あるサークルでご一緒させて戴いていて、たまたたま、この家の息子さんだとわかり、「世間て狭いものてですね」となったものでした。
亡くなる直前までお独り暮らしをされていたので、以前、その家のお嫁さんに「お邪魔してもいいかしら」と問うと、「どうぞ、どうぞ」と言われていたのに、目の前の一歩に追われてしまって、とうとう、個人的にお話をうかがうことなく過ぎてしまいました。 母方の実家の集い、主に葬儀ごとばかりでしたけれど、それらの折には、いつもお目にかかってはいたのでしたが、短い会話だけですぎてしまってました。
遺影の華やかを放つ顔を見上げると、おもわずこみあげてくるものがありました。
最後にお目にかかったのは、4年ほど前の一番下の叔母の葬儀だったでしょうか。ですから、もう90歳すぎでしたのに、それはそれは輝いてました。
お会いする度に、年をとられるにつれ、惹きつけられたものでした。生き方に裏打ちされた内面の美が輝きだすということを実感させられた方のお一人でした。
焼香後、趣味の俳句を流麗な筆致でしたためた色紙や掛け軸などが飾られていました。1997年、83歳で句集も発刊されていたのでした。
傍らの写真類などもじっくりと目を通していると、娘さんの同級生で仲の良い友人だという、私とほぼ同年配のご近所の女性の方が寄ってこられて、晩年の様子を伺うことができました。
この世を去る寸前まで、気力しっかりでぼけることもなく、見事に生き切られたようでした。
おもわず、「私たちの前を見事に歩き通された、華のある女性のお一人でしたね」と申し上げると、「本当に、オバちゃんはステキでした」と。
かくありたたいもの。でも、私には今でもこんななりふり構わずだもの、あんなに身ぎれいにはできないなと道々、おもいながら、ありし日の輝きをしのびながら帰ってきました。
そして、こんな私でも、年下の女性たちから、久々に人前に出ていったら、「お元気でした! 〇っこさん。 よかった、〇っこさんが元気だとほっとするんよ」と言われて、めんくらったことがありました。
思うに、このはるか年下の知人は当時、家庭内のことで辛いことにさらされていたんだろうなと想われるのです、そして、こんな私でも、子育てに追われて忙しい日々を送っていたりする年下の彼女たちの、何らかの励ましになるんだろうかと思うと、背筋をみられているという自覚がよみがえり、以来、落ち込んでいても、ことのほか背筋をシャッキリと毅然と胸を張り、余裕の笑顔を作るのですから不思議です。
コチコチタイプで何者かに縛られたように、40代半ばまで「間違えたら、困る」とばかりに、切なくなるほど緊張して自分を律することに腐心してきたものでした。
今も思うと「なせ、あんなに」と、自分で自分がいじらしくなるほどです。
そんな時、その生ごわな超し方を一瞥でわかったのか、ある文化人の方が「間違えてもいいんですよ。気がついたらまたそこまで戻って、まっすぐに進めばいいんです」とさとすように言ってくださったのが、その低い声音とともに思い出されます。
年の割に幼すぎた私に「生きること」を―教えてくだされたあの先生方も皆さん、鬼籍にはいられてもう久しい時が流れました。
確かな足跡を残して、人がこの世を去って逝かれるのは、人の世の常とはいいながら、そこはかとなく寂しいものです。
わが家と同じく浄土宗(知恩院派)らしく、会葬の間中、ご住職が低く唄われていた、「人のこの世は」のご詠歌のもの寂びた韻律が今も口に上ります。
古歌 光明摂取の御和讃
人のこの世はながくして かわらぬ春とおもいしに
無常の風はへだてなく はかなき夢となりにけり
あつき涙のまごころを みたまの前にささげつつ
ありしあの日のおもいでに おもんかげしのぶもかなしけれ