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2010年04月11日

セリ摘み、真っ盛り。ワサビもたっぷり頂戴

 家の中のことはほったらかしで、今日も、八ッ場へ出かけた。
 電車でみた八ッ場の景色はかなり変わっていて、急いで写真に収めておかなければならないからである。
 それに、実はお米も底をつきかけていた。
 八ッ場のハンデエ米は、下手なコシヒカリに通じる。
 否、それ以上だ。 
 



  
 昨日、電車で手掛ける際には、いつも分けてもらうCさん宅にも何とか立ち寄って、お米を持てるだけ、ニ㌔でも3㌔でもいいから、分けて貰って帰ろうくらいに考えていた。
 しかし、昨今の百姓仕事などの強行軍がたたってか、足腰が急激に痛くてならなくなっていた。それでも、川原湯~温泉街~上湯原に抜け、向う見ずに歩きだしてしまった。
 道半ばで、ヘトヘト状態でとてもムリ。
 川原湯温泉駅に戻ろうにも戻るのも大変。考えたら、乗り下り自由の青春18キップではないか、目的地に近い方の駅まで、電車に乗れば良かったのだ。通りゆく、下り列車を見ながら、悔いた。
 今回の初動ミスは、栄橋付近で、このお宅に電話して済ませようとしたら、ルス電にもなっていない。迷いつつ、何回か電話を入れつつ歩を進めてしまっている間に、ここまで歩いてしまったこともあった。
 
 国道の夜道は怖い。
 立ち寄れればいいなと思ったDさんの仕事場も、そういえば、本日は土曜日でもあってか、灯りがなかった。普段は何気なく走っていたが、上湯原橋から、ここまでこんなに距離があるとは思わなかった。
 
 そして、ようやく伝えたい朗報やご相談ごともあったEさんの家近くまで、ようやくたどり着いた。
 幸い、おずおずと戸口に立つと、「さっき、仕事が終わって、帰ったばかりだ」とのこと。
 そういえば、このお宅の畑の脇を通ったら、肥料をこねた跡があって、臭かった。庭の車からも肥料の匂いが漂うっている。
 通常は仕事が終わると、車をきれいに洗われるのだけれど、今日は手間取られたのだろう。それともお年をとられて、昔ほどこなせなくなったのだろうか。
 この間、4キロほどの道のりと伺った。このくらいなら、以前の私なら、平気のへいざものであったのに…… 人並みに同じく老化現象だ。
 火の温もりのある処で休ませてもらって、少し痛みが軽くなったので、辞去しようとしたら、「ホラ、あったけえから喰っていきな」とEさんは大振りのお椀に、モチ入りの雑炊を山盛りよそって出して下さった。
 先ほどから、冷凍庫を空けたり閉めたりして、何やらモチを焼きだしのは、どうやら夕餉の雑炊に急いでモチを入れて、急に舞い込んできて、迷惑な私の食事分として、分量を増やしてくださったらしいのだ。
 有り難かった。 いつも、的確ながらも辛辣なことばかり言われるけれど、本当に心の温かく、その人の置かれている状況を読み取るのが巧みな方なのだ。
 でも、私はどういうわけが、のどを通らなかった。
 車中で姉の作った惣菜ものをパクつき、菓子類も食べ、八ッ場で牛乳二本をのみ、その家で頂いたヨーグルトもたいらげたばかりだったからである。それにこの頃、不思議にも食欲があまりわかないのだ。
 結局、昼間、ご高齢の身で重労働をこなし、家事一切もこなされ、最もご負担をかけてはならない、疲れきっているこの方に、駅まで載せてもらうことになってしまった。
 青春18切符の“消化活動”に強引につきあわさせられた姉からも、出がけに注意を受けたばかり。「自分だけで出来もしないことで、身内ならともかく他人様にまで迷惑を欠けるなよ」と。
 
 昨夜、帰宅の道々、気持ちばかりの礼として、何がよいかなと考えた。
 閃いたのは、いつも農作業に追われているEさんに、昼の弁当を持って行くことであった。料理上手なこの方からは、「あんたの作るものはちっとも旨くねぇ」と言われているので、最近は避けて、もっていく時は市販の弁当にしているが、何となく今朝はショウこりなく、ありったけの米を炊いて、感謝をこめて、また作る気持ちになったのだ。
 一緒に畑で、久しぶりに野良弁しようと心弾ませていた。
 もし、いつもいらっしゃるお手伝いの方もいれば、その方に食べてもらうつもりで、何とか二個分、用意できた。
 
  途中、ルス電には入れておいたが、昼の用意をしないうちにと、やんば館でのトイレ休憩もせずにどこにも立ち寄らず一目散にかけつけたが、すでに11時半。
 ところが、いつもの場所にみえない。
 ようやく、お会いできたのは1時間後。
 ただし、昨日の有機肥料を、各農地に配分して撒いた重労働がたたったらしく、本日はダウンらしい。
 昨夜は、その疲れ切った身体で、この我がままおばさんを駅まで載せて下さったのだ。車の中まで、肥料の匂いがプンプンとしていたっけ。
 昼げの仕度を始めていたらしい。
 「サッパリとしたものが食べたくなったんだい」とのこと。心こめて、色どり良く作った、私にしては上出来のカツ丼は昨日、食べたばかりとのことで、ガックリ。が、「じゃあ、良かったら後で食べてくださいな」と、いつか回転すしの中で、最も好きなものとか話していたのを思いだして、急きょ炊いたブリのアラ煮も添えながら、伝えた。いつものことながら、ルス電は用をなさない方なのであった。
 
 王者と呼ばれる動物でも、自分の弱い面は見せたくないもの。
 80歳半ばでも、日頃は健淡ぶりを誇っている、この方の心情を推し量って、昨日は伝えきれなかったあることのみを手短かに伝え、その関係書類をお見せして、早々に退散。この場合は一刻も早く、立ち去ることが礼儀なのだ。
 背後で、「この大根は、味が染みていねぇや」とおっしゃている。でも、この相変わらずの辛口批評をおっしゃるれるなら大丈夫と、内心ほっとしつつ、辞去した。

そんなわけで、独りでの昼げとなった。
 あちこち、場所を思ったが、結局、トイレ休憩もあって、やんば館前の久森水田で食べることにした。
 怖いような急坂を下って、吾妻川を見下ろせる、とっておきの場所に陣取って、私にとっては久しぶりのその弁当にパクついた。一面のクローバーの上に広げたら、思わず、写真に収めておきたくなった。
 一時、幸せ感に充たされる。ついでに、左手でお手製弁当をついばみばみなから、左手にカメラを持って撮ったのがこの写真。背後は久森水田。後ろ手は2号橋。                   
 まさに、陽はウララ。眼下に紺碧色の吾妻川が流れ行く。水量が多い。
 この吾妻川を撮ろうとしたら、「ピッ」と音がする。
 あっと思うが仕方ない。電池切れ。ウ~んと思うが仕方ない。
 
 昨日、立ち寄った際に、「写真、撮らなければならないけれど、歩きじゃどうにもならないから明日も来るつもり」と伝えたFさんが、今朝、電話をくださった。もう終わりだよと言っていた農産物だけれど、他の場所をみたら自然に芽生えていたという。「あるけど、どうするい」と。 自然に出たのなら極めて貴重なのだから、喜んで戴くと伝えてあった。
 その際に「くるんだら、早くきた方がいいよ。天気がくずれりゃ、写真はダメだんべから」と言われていた。でも、なぜか青空が広がっていて、絶好の撮影日和だったのに。(なお、実際、夕方は雨に変わった)
 これじゃ、仕方ない。電池じゃなく専用器による充電式なのだ。今度からは車に入れておこうとひらめく。
 ここの処、いつも出していた写真現像店が移転してしまったので、自分でパソコンに移動しているので、予想外に電池が減ってしまっていたらしい。 
 (後ほど、この家に寄って、「写真撮るどころか、なんと電池切れ」と話すと、またもかという声で、「いつも、そうだいのう」と揶揄された)。 

 食後は、今年初めての田ゼリ摘み。
 さきほど地主のお一人、Gさんには「今年も、採らせてね」と御断りしてきた。Gさんの家のは極上品。
 今年はのんびりとしていたら、成長が早いらしく、大きくていいけれどちょっと盛りを過ぎとしまったようである。
 最近は雑用があり過ぎて、まだだろうなと思っていたら、今年のセリの季節は早く巡りきていた。
 お宅で新聞折り込みされたという、本日の「見学会・学習会」のチラシをみせてもらった。なんと、学習会の会場は上のやんば館であった。私はすっかり駅前の建物だと思い込んでいた。
 出れば、出られる。でも、昨夜来からの情報によれば“なぜか非公開”の由。「でも長野原町にはチラシが配られていて“公開”だよ」と笑ったが、下手な軋轢はもう避けたい。それよりも、私はセリとりに徹しようと心に決めたのだ。
 青空と対峙する。
 ウソブソしいわだかまりが空に吸われていく。
 吾妻川の水の流れも、こんな清々しい空のもとでは、妙にいとおしくなる。

 そのうちに、やはり顔みしりのHさんが、トラクターをもって見えられた。
 顔をあげて目をこらして、数枚下の田んぼに向かって、遠くから「Hさんですよねぇ」と、声かけると、「そうだよ。何してるんだい」とおっしゃる。仕事を始める前にと近寄って、「そこがお宅の田んぼとは知らなかった」と言うと、最近、借りて耕作し始めたそうである。
 訪れ始めた頃は耕作放棄地が多かった。ダムが延期するにつれ、逆に耕作面積が増え、そう言えば、昨年はずいぶん稲田が広がってきていた。この田も、草ぼうぼうだった。
 ほどなく、Hさんが空き田の枯れ草をかき集めて、火を燃やし始めた。
 絵になる。
 これこそ、写真にとりたかったが、肝心の時にいつもダメな不運の、用意が足りないヒトなのである。
 (そして、ある楽しい計画が実現しそうなのである。長くなるので、後述する)

 セリ摘みを切り上げ、さらにそれからアチコチと。
 Iさん宅では、今年も私のために、フキのとうを保存してくださっていた。「冷蔵庫に入れておいたけれど……、今年は少しだよ」と下さったフキは、それでもビール袋にいっばいだった。かつては、フキとワサビを出荷していられたこの家の周辺には、おびただしいフキがあった。が、そのほとんどの土地が工事用にひっかかってしまって、長年、売却に応じなかったお宅である。
 昨日は寄れず、前回はおルスだった。で、フキはやや色が変わり始めていた。でも、柔らかな黄緑色であった。
 
 また、これも後ほど伝えたいが、工事のために犠牲になるワサビ沢のワサビを仕方なく採ったのも、存分にわけて下さった。
 「えぇ、あそこもつぶされるの」と奥さんのJ子さんと並んで、びっしりと見事なワサビが自生する沢を見上げてて、嘆息した。
 厳寒期の2月、その一帯の雪の中のワサビの様子をカメラに収めておいたのが、せめて救いだ。来年は、コンクリートに覆われてしまう大地であった。
 その時、目の前の沢筋から、シカが降りてきた。
 「うちの脇をとおって、下の道に抜けていくからね」とJ子さんは、そうっと語る。
 カメラ、カメラと心はやるが、今日は不可。私たちを察知したのか、シカは手前の道路を折れて行ってしまった。幸か不幸か、悔しさが半減したが……

 もはや、国道のジャンクションと化すことを免れようのない、この豊かな風景を何とか、映像に残しておきたいものだ。  


Posted by やんばちゃん at 23:59Comments(0)八ッ場だより

2010年04月10日

電車で八ッ場へ行ってみました

 
 青春18切符、二日目。
 結局、前夜、接続が不明なので、横浜線で姉の家に泊まった。いつもの高崎線の風景は、さすがに見飽きている。で、遠回りで時間のかかる八高線に久々に乗ることにした。
 9時10分に八王子駅に到着。ところが、高崎に接続している八高線は、すでに5分前に発車してしまっていた。あとは11時台。
 それからが、悲劇であった。結局、ほどなく発車の川越線に乗り、高麗川で1時間半ほど待ち合わせ。もったいないから、大きな荷物をもって、駅前をぶらついたついでに、「高麗神社まで30分」に惹かれて、帰化人の里を歩いてみることにした。が、高麗神社の山門の処で、もし電車に乗り遅れたらの不安感で、引き返さざるを得なかった。まるで、「徒然日記」の内容だと、自戒した。

 まぁ、逐一記すことでもないから、省いて、高崎について、本来ならば、今朝から出かけるつもりでいた、吾妻線に乗ってみることにした。
 八ッ場行きは車のみで、電車には2度しか乗っていない。
 どのように車窓から、わが八ッ場が視界に飛び込んでくるのか、この機会に観てみることに心づもりしていた。駅前に置いた車の中に、いつも、重たいほど何やかやと姉からもらってくる、その荷物類を入れて、身軽になって、再び駅へ。
 2時台の吾妻線「万座・鹿沢口」行きに乗車。終点まで行き、再び、上りに。
 そして、川原湯温泉で下車。
 普段、撮れない高架橋からの風景を撮り、のんびりと降りると、駅前のロータリーをわたって、川原湯温泉の方に向かって行く、一団に見覚えがあった。追いついてみると、やはり東京周辺の方たちであった。
 
 伺うと、明日の11日、学習会があるらしい。
 地元一帯には、無料券付きのチラシを新聞折り込みしてある由。しかし、不思議なことにメールにもそのホームページにも載せていない。
 (教えてくださった方の背後で、「余分なこと言わなくてもいいのよ」とばかりに牽制している人たちの、それらの顔を真正面に見詰めた。何が流れ、どこが指令するのかわからないが、この手の空気は、6年間の「例会出入り禁止」の手紙をもらって以来、幾度となく味わわさせられて来た。今では、かなり慣れてきたが、神経がおかしくならなかったのが不思議なくらいだ)

 さて、この後も珍道中が続いて、いかに徒歩が大変であるか、いやというほど、味わった。結局、上り最終の長野原草津口では、20時29分初の列車で帰宅。

 土地の方、Bさんによれば、昨日、145号線と吾妻峡トンネルの開通式があった由。「じゃあ、今朝の新聞に出ているよね)と言うと、「ああ、出てるよ」と応え、参加者の一員でもあったBさんによれば、「トンネルの中はものすごく寒かった」そうである。

  先の学習会は、帰宅後、メール類を確認しても掲載されていない。で、お邪魔ムシが参加していいのかどうか分らないが、本日は車でないので、用が足りなかったこともあり、明日も現地に行ってみるつもりである。  


Posted by やんばちゃん at 23:59Comments(0)八ッ場だより

2010年04月07日

用地補償費は45億円

 八ッ場に動きがありました。
 今朝、水源連メールに入れたものを、そのまま転載。
..............................
 昨日6日、長野原町のダム関連役員等には、説明会があったそうですが、本日の朝刊に一斉に、用地補償費についての報道がありましたのでお知らせします。
 しかし、現地では不満のようで、昨日説明を聞いたある当時者の方の言うには、「これでは、どこにも足りゃしねぇ。大手の旅館2~3軒分ぐれえで終わっちゃわい」とのことですが…… 
  (同じく見出しのみで恐縮ですが)、末尾に掲げます、昨日6日付で上毛新聞に報道された、閣議決定された「政府答弁書」にも冷ややかな見方をしています。
 けれど、これは前政権の置き土産ですのに。
 まだまだ、解決にはほど遠い感です。

/////////////////////////
① 【2010年4月7日(水) 読売新聞群馬版】
 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20100407-OYT8T00181.htm
八ッ場ダム 用地補償費45億円提示
 国交省事務所「場合により不足も」
② 【2010年4月7日(水) 朝日新聞群馬版】
 http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000581004070001
八ツ場ダムの予定地 今年度補償費45億円
③ 【2010年4月7日(水) 毎日新聞群馬版】
  八ッ場ダム 補償費に計45億円
 
④ 【2010年4月7日(水) 上毛新聞 一面中央】
    用地補償費は45億円
      八ッ場ダム本年度予算

////////////////////
【2010年4月6日(火) 上毛新聞 一面中央左隅】
   「合意形成に時間」 八ッ場ダム未完成理由で 政府が答弁書
 ※要点:完成していない理由
 「地権者などとの間で、ダム建設にかかわる合意形成に時間を要したため」と結論づけめ答弁書を閣議決定した。  


Posted by やんばちゃん at 19:26Comments(0)八ッ場だより

2010年04月06日

川辺川とは、花まで仲よし

 八ッ場の春を代表する花は、5月の連休に盛りを迎える、吾妻渓谷のミツバツツジです。



  さて、いち早く熊本県では、同じ種属と思われる「アマクサミツバツツジ」が開花したそうです。
 【2010年04月06日 熊本日日新聞】 http://kumanichi.com/news/local/main/20100406001.shtml
  希少な「アマクサミツバツツジ」開花 上天草市
 【キャプション】 有明海を見下ろす鋸嶽山頂付近で開花したアマクサミツバツツジ。左上は次郎丸岳=5日午後、上天草市姫戸町(小山真史)
................
 県内だけの固有種で上天草市姫戸町と松島町に生育し、「レッドデータブックくまもと2009」では「絶滅危惧ⅠA類」に分類されているアマクサミツバツツジ(ツツジ科)が、尾根筋でかれんな花を咲かせ始めた。
 鋸嶽[のこぎりだけ](347メートル)や白嶽[しらたけ](373メートル)などの岩場や林に生育。稜線[りょうせん]沿いの遊歩道では、淡いピンクや薄紫色の花が「観海アルプス」として知られる絶景を彩っている。
 白嶽森林公園キャンプ場管理人の橋本英治さん(60)は「開花は例年より少し早め。20日前後が一番の見ごろでは」と話していた。(小山真史)
 ................

  熊本といえば、おなじみの川辺川ダム。
 「東の八ッ場に、西の川辺川」と相称されてきました。
 でも、花まで、類似しているなんて。
 八ッ場周辺の開花期は四月下旬。それまでは、まだ間がありますが、熊本県にならって、わが八ッ場のミツバツツジの開花ももうじきです。渓谷を彩るこの花が咲きだすと、八ッ場の谷間も周辺一帯も、春の躍動感に充ち充ちます。
 熊本のアマクサミツバツツジさん、健やかに咲き続けてくださいね。  


Posted by やんばちゃん at 23:51Comments(0)八ッ場だより

2010年04月05日

それでも、“自然界の春”は動き出している

 人間界の相克にかかわらず、自然は季節に順じて、確実に動き出している。
 本日は極めてストレートに、八ッ場の“自然界の春”」の息吹きにふれたい。
 ダム建設は射程距離内にあった、2003年4月号の郷土誌『上州路』に掲載した11回目の「八ッ場の限りある春」と題する拙文で、以下のように記した。
 ....................
  「じゃおうじ」の名で土地の人に親しまれてきたフキノトウが、まだら模様になった雪の間から頭を出すと、八ッ場の春は動き出す。
 ほどなく落ち葉の中に、アズマイチゲの茶色を帯びたあえかな若草色を見出す。繊細な花だけに今年も無事に咲いたとほっとする。木々の芽吹きに山々が彩られ始める頃には、日々刻々度を増す緑の濃淡も花々に劣らず、見飽きさせない。その緑を基調色とし、山間に見え隠れする山桜のほのかな紅色には、色相の妙に心ときめかされ、春の喜びに全身がつつまれる。圧巻は五月の連休頃、吾妻渓谷沿いに咲くムラサキツツジであろうか。
 しかし、二〇〇三年以降の八ッ場の春は、増幅するいらだちの中にたたずむ、別れの春と呼べよう。
 緑の中に、程良く調和し溶けこんでいる水没予定地の家並み。何とも心安らぐいつもながらの山里の景色である。けれど屋内では、代替地への移転を待ちあぐねる水没民の神経は、焦燥感に満ちているであろう。
 早春のまだ肌寒い日、隣保班として親しく交わってきた隣人や知人たち家族が別れの挨拶に訪れれば、「ああ、あそこん家も出ていくか」とその後は、あわあわとして落ちつかない春の哀しみと相まって、言い知れぬ寂しさが倍加することになろう。
 そして、いっそのこと何もかも精算して、今のうちに十分とはいえないまでも、(一時的には大金の)補償金を手にして町外へ移転しようか、と考え出すのは無理からず、想像に難くない。
 四月下旬過ぎ、春たけなわの八ッ場は、個々の事情に応じた転出模様に揺れることだろう。転出希望組の意志表示もソロソロ定着し、転出の有無は二〇〇三年の一年が山場とされている。
 方向の定まらなかった、半世紀間にも及ぶ蛇の生殺し状態は脱したが、今後は代替地問題をめぐる住民同士の相克が予想され、大局的には、閉塞状況の暗い前途に彩られているように感じてならない。
 「春三月、縊り残され花に舞ふ」(大杉栄)の不気味さが漂い、まさに「行春の青葉の底に生残る」(堺利彦)的に、むせるような緑の中で、焦りつつ息を殺しての成りゆきまかせの状況といったら、いささかオーバーで感傷じみているであろうか。
............................
 すでに、フキノトウは至るところで芽吹いている。
 過日、訪れた時には、すでに夕刻であり、しかもデジタルカメラのカードがもう満杯で、幾度となくつぶしてきたので不可。で、写真をとらなかったのを後悔している。が、新開地のきりたった土砂のなかにも、フキノトウが芽吹いていた。


 
 ここのは黄色みを帯びていて、土中のはウドやモヤシと同じく白くて極めて柔らかいそうな、人間でいえば、乳母日傘育ちの極上品の生まれたばかりの赤ちゃんフキノトウ。それが土色の地面から首をもたげていて、ちょっとした光景なのであった。その赤ちゃんフキノトウの上記の写真(2008年4月24日 撮影)を2009年の年賀状につかったが、この土手というか断崖に林立している光景の方が妙味があったのに…… それにしても、今年は温かいのだろうか。約20日も早かった。
 採り終わってから、ひらめいたが後のまつり、今も残念きわまりない。
 果たして、この造成場所は、来年もこのままの状態でいてくれるだろうか?
  
 そして、『上州路』への連載は、この回をもって打ち切られた。なんと「限り」があったのは、「八ッ場の春」ではなく、わが草稿であった。
 理由は「内容が郷土誌の範囲をこえました」であった。確かに内容はダム建設の細部に及び、体制批判の色合いが濃くなってきていた。いわゆる発禁処分だが、若い日から読み学びこんできた文学の世界では、どうということのないものであった。本当のことをひよらずに書けば、通らざるを得ない筋道である。
 だが、版元の「あさを社」さんには、ご迷惑をおかけし続けていたと思う。ここまでは同社創始者の方の“文学の心”で、お許しくださっていたのであったろう。その後、出版化に際しても、本当に快く全文の入力済みファイルをご提供くださった。
 あらためて、御礼を申し上げたい。
 そして、制約の外れた私は、12章以下を加筆して、一冊にまとめた次第。思う存分に、手探り状態で探り当てた、ゼネコン体質と補償金問題などに言及したのであった。

 さて、目下、私の心を急きたて、「八ッ場へ行きたい」ともどかしくさせているのは、アズマイチゲの存在。
 何とも引きつけられる、可憐な草花である。
 もうすぐ、行くからね!1  


Posted by やんばちゃん at 23:53Comments(0)八ッ場だより

2010年04月04日

春泥が続く、八ッ場の春

 冬がすぎ、春が来た。
 でも、わが八ッ場の春は、春のぬかるみに突入する。
 住民の皆さんの希望通りに、1号橋は出来る。さらに、未契約の方たちにも、補償額に基づく措置が採れるとの決定。
 だか、その先は「どこまで、続くぬかるみぞ」のぬかるみ道なのであることは、目にみえている。

 これらの件については、私はこの間の基本的なスタンスである、「事実を最もよく知っているのは、政治家や識者ではなく、現場の最前線で実際に作業に携わったり、そこで暮らしていられる方々」との考えにもとづく。だから、現地第一主義を貫いてきたつもりである。
 従って、「ダム堤建設は絶対阻止であるが、現地のことは基本線としては、熟知している当事者の住民の皆さんの総意に基づいて決めるべき」との見解から、1号橋については、積極的に口をはさむことも反対行動も起こさなかった。
 補償金についても、持ち前の「不公平は嫌だ」の感覚から、残った方たちにも希望があれば、当然支払うべきであるとは考えてきた。こちらはほんの少し動いたつもりである。

 思えば、市民団体が本気で反対する場面は、2008年5月の「仮排水トンネル」建設時ではなかったか。と、思う。
 しかし、あの時は、「今は時期ではない。まだこの先がある」とか、首をかしげたくなる賢しらぶった論理の「仮排水トンネル工事は本体工事ではない」とかの横にそれた意見にて、あろうことか私は仲間内から足をひっぱられた。
 では、いつが好機だったのか、工事は進めば進むほど阻止はむずかしくなり、ムダな建設費を費やさせるというもの。
 ……恐らく、阻止は出来なかったかも知れない。
 しかし、物事には闘うべき、節目の時がある。 市民運動に対して、現地の方々に指摘されても、弁解の余地のないのは、過去に何度となくあったという、その時点において無策であったということで、「何を、いまさら」と言われてしまう。そして、あの頃、現地の推進派の方からさえも、「闘うという意気込みがみられない。下手な反対ならスルな」との苦言があった。
 
 それこそ、私たちが望んでやまないダム中止の場合には、使い道のない転流工にムダな工事費を費やさせたではないか。
 どこかが発信する妙な噂の包囲網にて干され続け、数多くの悔しさいを嫌というほど味わってはきたが…… この時の、味わわされた屈辱感も忘れられないことの一つだ。
 仕方なく、抗議書提出のために、急きょ、本会「ST0P八ッ場ダム・市民ネット」を立ち上げて、この会名で国交省に抗議書を出した顛末がある。
 むろん、いかなるダム工事にも反対ではある。
 が、数々のムダな工事に比べれば、1号橋は現時点では、水没地の皆さんにとって、同じムダな工事の中では、少し、意味が違ってくるのではと、漠然ながらもよぎった思考過程がある。
 
 もちろん、大阪城落城にいたる経過と同じ轍を踏んで、1号橋を造らせ補償金契約により代替え地に移れば、残るは画龍点睛な存在の「ダム湖建設」への大合唱が、早晩、起きることは想像にたやすくない。
 願うのは、“大阪城落城の悲哀に通じる構図”にならないことを祈るのみである。
 環境の世紀である。
 先日も、春の気配の中で、いまや切なくなるほど切り刻まれてしまった、わが八ッ場の大地にたって哀しかった。
  
 確か近々、現地役員の改選があると聞く。
 僭越なもの言いだが、紆余曲折の数々の苦しい局面を乗り越えてこられた、水没地の皆さんは、それほど愚かではないと考えている。将来を見据え、きちんと自分たちにとって最良の道を選ばれると考える。
 
 この上は、長野原町の皆さんの叡智に充ちた選択を信じるしかない。
 ……それに、今後の前原大臣のお手並みをも。
 部外者は、今しばらく、やはり沈黙を守るしかない。
 
 そして、最もつらいのは、この春泥に似たどっちつかずの日々の中で、今日一日を生ききらなければならない、水没民の当事者の方たちである。  


Posted by やんばちゃん at 23:59Comments(0)八ッ場だより

2010年04月03日

?ここはどこでしょう その④ 黙して語らず

 引き続き、写真にて。
 カメラのSDカードやDVD類から、直接採れると、時期にかなった好画面がたくさんあるのですが、最近は現像は人さまにあげるのだけで、ほとんどしてないので残念です。(どなたか、写真の溶解度の仕方をお教えくださいませんか?)
 さて、今日も、“黙して語らず”の心境で参ります。すると、たまたま、語るに語れず、風雪に耐えている石仏の写真あり。
 



 でも、良く見れば、コレって、仲の良い双体(男神・女神)道祖神。
 語る必要などなく、じっと手をとりあって二人だけの世界にひたってきたわけですよね。
 川原湯温泉から上湯原に抜ける左手の道路傍にあるのと、どちらが良いできでしょうか。やはり、川原湯にある方が、グンと精緻に出来ていますね。江戸時代に設置された長野原町周辺の石仏は、信州高遠の石工職人の手になるものがあるようです。
 なお、双対神で有名なのは、群馬では高崎市に合併した、旧倉渕村の石仏群だと、二十代の頃に参加していた都内の史跡巡りの会で教えてもらったことがありました。現実に何年か前の群馬で開催の国民文化祭の時には石仏コースとして、脚光をあびてました。春です、どうぞお出掛れください。  


Posted by やんばちゃん at 23:56Comments(0)八ッ場だより

2010年04月02日

?ここはどこでしょう その③ アズマイチゲ/カタクリ

 今夕は、ダム問題にも接点のある県内有志の会合があり、参加してきました。
 しかし、あからさまに記すこともできないこともあり、これも中途半端。ではあのことを記そうと思っても、それもまだ時期尚早。ましてや、地元の入り乱れた状況はおもんぱかるもの多々あり。(お蔭さまでと言うか、幸か不幸か結構、本欄も、現地関係者に目を通されているらしいのである)。

 で、こういう時は、逃避に限る。
 もうじき訪れる、“八ッ場の春”の百花繚乱の様の一端を。
 まず、真ん中の白い清楚な花が、アズマイチゲ。土屋文明が愛した花で、夕方は閉じます。
 カタクリはまだつぼみですが……、この二つの花はほぼどうじきですが、八ッ場ではカタクリの方が、一呼吸遅いようです。
  例年、もうじき周辺一帯の木立の中に、これらの花々が、咲き乱れる場所があります。今年は全体に早いとかなので今月10日過ぎくらいでしょうか。私はあるお宅の断崖下の草むらに咲きだすのを、毎年心待ちにしています。
 


       (カタクリがこれでは寂しいので、もう一歩開花した状態のを添えます。満開時の適切なのが見つからないので、またの機会に。右上の白いのはやはりアズマイチゲですが、こちらは朝早くか夕暮れ時だつたようで開花していません。両方の最も適切なのを同時に採るのはむずかしく、プロのカメラマンさんのご苦労がわかります)
  


Posted by やんばちゃん at 23:57Comments(0)八ッ場だより

2010年04月01日

前保守政権を支える、支えた構造

 高崎市の市制110周年の記念行事に参加。
 国会議員から地方議員まで、区長職や各地域のそれぞれの要職者はもちろん、編入合併前の旧群馬郡一帯の新旧役員にも招待状が来た。私のような議員の端くれにもであった。
 約2000名以上収容できる会場、数あるアントニン・レーモンドの作品の中でも、代表的な建造物で知られる、「群馬音楽センター」をうずめるこれらの招待者の圧倒的多数が、前政権の根強い支持者なのである。
 そうでなければ、地域の役員には浮上せず、往々にして招かれてこのような席には並べられないのである。
 つまり、合併前の群馬郡一帯の各自治体の長は、まぎれもなく自民党系保守層。任命される要職者の面々もまた然り。ましてや地域内の役員は、それらの歴代の保守層が白羽の矢をたてるのだから。しごく当然。
 
 だが、悲願の人口30万人となって中核市をめざす、新生たかさき市の首脳陣は、積みあげてきた持ち前の叡智のなせるわざなのか、民主党政権下におもんぱかってか、110周年記念行事の主軸には、未来を担い色のつかない、市内の子供たちを前面に企画していた。題して{Step!次の未来へ」。

 会式前の前庭では、「こども太鼓」「こども茶道」「こども大正琴」と続き、式典本番のオープニングセレモニーでは、まず「こども獅子舞」、創作舞踏劇「高崎大田楽」では、衣冠束帯姿の松浦市長を真ん中に子供たち。高崎市の歩みをスライド中に、舞台そででは「こども琴」の演奏など、時に幼少組の子供さんの愛らしい姿には、惜しみない拍手がそそがれた。浅黄色の絹装束がにあった松浦市長の寿ぎ奏上の役割も、役どころを得ていて、秀逸。「遠き世の1000年の…… いざ共に踊り狂わん」なる雅後語の世界に魅せられた。
 続いて、私たちにはなじみ薄い「高崎市歌」は、舞台上の高崎経済大学付属高校の生徒さんたちとの大合唱であった。唄うもんかと思っていた私のかたくなな心も溶けだしていて、その旋律について行こうとしていた。
 そして、しめくくりの「こども憲章」。10年前の100周年の時に募集した手紙の配達式の主役もこども達だった。全ての凝った趣向の数々に子供たちを前面に出し切った、快い演出だった。
 周囲の前議員さんたちの間からは、「考えたいなぁ、10年も経ちゃ、今にあの子たちが選挙権もつもんなぁ」。何もかも選挙に結び付ける気風の方たちです。
 
 合併には反対を貫き、編入後の高崎市議会での一般質問の際にも、旧高崎市議会保守系の大議員団のヤジにもめげず、
<この先、何年経つかわからないけれど、このような苦言を申し上げている私が、「あぁ、高崎に合併して良かった」と言える時、その時が本当の意味での「新市の醸成がなされ、対等合併」と呼べるのではないか>と言い切った。編入後の1年半の任期中、私はこの大会派のおじさま議員さんたちから最もヤジの飛ぶ、新米のにくたれ女性議員であった。
 ただし、高崎市の持つ、「進取の市民性」には期待して、この日の会場。音楽センター前庭にたつ、寄付金額の大きい順から、名前を刻むことをせず、「昭和36年 時の市民 これを建つ」のみの記念碑の清々しさは、いたく打たれていることも添えた。
 
 そして、この日の記念品は、スッキリと高崎市の絵葉書3枚のみ。
 すかさず、周辺の席からは、「なんだ、こんなケチなもんだけかい」との声がもれたが…… 
 ああ、でも、この方たちが、特有のハバを利かせてやみくもに地方自治を動かしてきた時代は、ほどなく終焉を迎える。当時の引き物の豪華さ、それを良しとした時代は終りを迎えつつある。

 余談的にこの日の珍事を。
 市長・議長あいさつに続いて、壇上に上がったら各界代表は4名。そのトップバッターは福田康夫前総理。
 「さきほどのスギ浦市長さんが祝詞をあげられたのは良かったですね」と松浦市長をスギ浦と間違えてしまったから、場内には失笑とどよめきが、でも前総理はこれもお得意技のポーカーフェイスの「我、関せず」の風情で少しもどうじることなかった。(たぶん、受けているとでも思われていたのかも)。さらに同僚国会議員の紹介時に、昨夏、同じ群馬4区の旧高崎市を中心に死闘の闘いを挑まれた、民主党の新人も三宅雪子議員の「三宅」の出だしで、きちんと三宅とよべず、不鮮明な声で良くききとれなかったが、間違えてしまって、またも爆笑のうず。
 後部座席から 「ダメだいなぁ、福田さんも。二回も間違えちゃ」との声があがった。
 こういうことに最もこだわり、重きをおくのが、この間、存じ上げてきたわが群馬の前保守政権の議員さんたちなのであった。
 
 福田前総理のしめくくりは、「110周年の時は、小渕さんが総理で官邸を離れられず、私が代理でまいりました。で、この日は絶対に忘れられない日となりました。その夜、小渕さんは倒れられて還らぬ人となったからです」と。慌てて「今回はそういうことはありませんから」と言い添えられたが、またも周囲の保守系議員のお一人は「〇〇さんだんべ」と不謹慎語をくりだす。
 福田さんの話に縁のなかった私がこの間、聞いた話の中では、余裕があってそつなく最も上出来な話し方であった。
 スピーチ後、直ちに公務のため壇上を降りる際に、松浦市長と議長との握手の際に、またもハプニング。比較的長身の福田さんに比べ、小柄なお二人の胸元にさしてあった来賓用、こちらは主催者なので白い飾りのリボン花が、お二人とも落ちたらしく、松浦さんは笑いながら拾っていた。
 その間、福田さんは悠然と舞台のそでに消えていかれた。秘書に間ちがいを伝えられていることだろうが、気がつかないということでは“大もの役者”なり。

 続いて、舞台上にズラリとコモ樽が並び、鏡抜きのセレモニー。後でわかったが、酒は入っていなかった。壇上には県会~国会議員、それにお祝いにかけつけた川越市長はじめ、近隣の市長さんたちがズラリとならび、数名で一つのコモ樽を割るポーズ。
 ここで、目をひいたのが、さきほど福田さんにきちんと名前を呼んでもらえなかった三宅雪子衆議院議員。なんと今はやりの、すその部分にはレースが用いられているように見える黒のミニスカート。 
 すかさず、民主党憎しの男性元議員団がならぶ周辺席から、「なんだ、三宅っていうんは、大根足じゃねえか」の声が飛ぶ。「長いスカートはかなければみっともねぇ」などのささやきがもれる。
 隣に並ばれるはずの小渕優子さんは秘書が代理だったので、女性は一人ゆえにことさら目立つ。
 実際、ごく細身の長身の方であったと思っていたが、下半身がやや太目の体形に変わられていて、顔が小さくみえた。スラリとした足も、舞台にたたれると意外に、膝上がめだった。
 そう言えば、小渕優子さんのミニスカート姿は目にしたことがなかった。そうう処にも後援会からの目配りの伝令がとんでいるのかも知れないなと、同時に思った。
 確かにTPOに欠けていた。だが、三宅さんの為に弁護すれば、最新のファッションに身を包むのも感性のひとつ。また、(流行の洋服は買えない私には関係ないことだが)女性の服には流行があって、買いに行ってもその手のものばかりということもあって、探すのに往生することもある。さらに、前の会合とのかねあいもあったろう。地方議員のようにマイカーで移動していれば、何着か積んでおくことは可能だが……
 
 それでなくとも、今日は三宅さんはうとまれるはず。
 圧倒的な自民党系の出席者は、福田前総理。その福田陣営を揺るがした候補であり、八ッ場ダム反対を主張したのだから。中止を表明した前原大臣の現地視察にも同行していた。
 八ッ場ダムについては、「家計を預かる女性の視点からすると、こんな無駄遣いは考えられません」と述べている。
 
 「どうぞ、10年後の自分へのお手紙を」の最後のアナウンスに、「それまで生きていねぇや」。
 確かに、保守王国群馬の下支えに動きまわり、一時代を画したこれら議員団や各界各層の地元役員の皆さんの大半は、消えていく運命にある。
 その治世下で、「男と対等にもの言うオンナ」のレッテルを貼られ続けて息苦しかった、この方たちには好まれないタイプの私にも、10年後の日は、約束されてはいない。

 10年後のその時、八ッ場ダム問題を「愚」と決め付けられる意識が醸成されていることを期す。  


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